第九話




「テオさん、俺も連れて行ってくれ」

今にも出発しようとしていたテオの前に立ちはだかり、クロウは挑むようにその顔を見上げた。手には猟銃、腰にはシュバルツァー家に代々伝わっているらしい剣を下げたテオは黙ってクロウを見下ろした。周りでは大人たちがそれぞれ慌ただしく渓谷へ入る準備をしている。昼過ぎに降り出してきた雪は、厚い雲の向こうで順調に夕方へと進んでいるであろう空から勢いを増して降り続けている。もしかしたらこれから吹雪く事になるかもしれない。通常であれば渓谷だけでなく、家の外に出ずにじっとしているようにと通達されてもおかしくない天気であったが、魔獣に襲われて帰らない人間がいるのであれば例外だ。早急に捜索隊が組まれ、さっそく渓谷へ向かおうとする大人の集団に、クロウは自ら志願していた。

「クロウ、気持ちは分かるが今回は危険すぎる。危険な魔物の類がここまで郷の近くに現れる事など今まで無い、異常事態だ。あの子たちを襲った魔獣がどういうものなのかも分からず、逃げた他の者がどこまで奥に入り込んでいるかも検討がつかない。挙句の果てにこの天気だ、子供にはとても、」
「その子供が一人まだ帰ってきてないんすよ!」

カッと怒鳴ったクロウの声に、一瞬その場にいた全員が静まり返る。渓谷に入って戻ってきていないのは、モリッツやギズモ老人含めた数人の大人と、そしてリィンだけだ。少し前から変な予感を感じ取っていたリィンはどうやら渓谷に入る前に武器を持ち込んでいたらしく、そのために子供たちの中から一人残ったらしい。リィンの朝の鍛錬をよく目にしているクロウはその辺の魔物相手に後れを取るような技量ではない事を知っているが、それでもその紅の瞳から強硬な意思が抜ける事は無かった。

「頼みます。……本当なら、俺も一緒についてってやるはずだったんだ。それを俺の我儘で、あいつだけ行かせちまった。俺にはあいつを、リィンを助けにいかなきゃならない責任がある。だからテオさん、どうか……!」

必死に頭を下げるクロウの姿を見つめて、テオは考え込んでいる。やがて一度だけぽんと、その頭に大きな手を乗せられた。急いで顔を上げると、厳しい表情を少しだけ和らげたテオの瞳と出会った。

「決して無茶はしないと約束出来るな?」
「……!ああ、もちろんです!」
「ならば一緒に来てくれクロウ、最近ずっと君はリィンと共にいたのだから、あの子の行動範囲などが良く分かるだろう」

喜びにぱっと笑顔をみせたクロウの目の前に、静かに何かが差し出される。反射的に受け取ったクロウは信じられない思いでまじまじとそれを見つめ、訳が分からずテオを振り仰いだ。

「て、テオさん?」
「護身用だ、いざという時に使いなさい。君の腕前なら安心して任せられる」

にこりと微笑んでみせたテオは、すぐに他の者へ支持を出すために背を向けてしまった。ぽかんと立ち尽くしたクロウはもう一度己の手元を見下ろす。そこでは、一丁の拳銃が鈍い光を放っていた。元々はテオの護身用だろう。今朝の猟銃の訓練でクロウの腕前を信頼してくれているのだ。
信頼。

『君の腕前なら安心して任せられる』

「……安心、ね」

ぽつりと呟き、クロウは渡された拳銃を脇に落ちてしまわないように差した。その瞳は若干暗い。
と、そこでくいと右手を引かれ、慌てて隣を振り返った。目に涙をいっぱいにためたエリゼが、それでも泣かないよう必死に耐えてこちらを見上げていた。クロウは気を取り直すように首を振ってから視線を合わせてやる。

「どうした?」
「クロウにいさま、リィンにいさまをたすけにいくんですか?」
「おう。ま、嬢ちゃんはここでおとなしく待ってな。リィンの事は……」

俺に任せろ、とはどうしても言えなくて、クロウは一瞬だけ詰まってから言葉を続ける。

「……テオさんたちに任せときな。あとついて来たりすんじゃねーぞ?」
「はい。……あの、リィンにいさまをどうか、たすけてください」

クロウの指を握り続けるエリゼの手は震えていた。酷く怯えた様子の少女に苦笑したクロウは、なるべく優しく頭を撫でてやる。おそらくリィンほどの安心は与えてやれないだろうが、それでも今はそのリィンがいないのだから我慢してもらうしかない。

「んな怖がんなくたって大丈夫だって。お前の兄貴はそう簡単に魔獣にやられるほど弱くないだろ?」
「そう、ですけど、でも、ちがうんです」
「ん?」

瞬きをした拍子に、エリゼの瞳からぼろりと雫が一粒零れる。エリゼは怯えていた。しかしそれは、魔獣に兄がやられるのではないかという恐怖とは少し違うものだと、クロウはようやく気が付いた。ではエリゼは、一体何に対してこんなにも怯えているのか。兄であるリィンの事を心から慕っているこの妹は、一体何に。

「こわいんです」

寒さではない震えに苛まれた声で、エリゼは紡ぐ。

「あのときのように……にいさまが、また、変わってしまうのではないかと」

それはまるで吐息のような小さな声だった。しかし目の前に屈んでいたクロウの耳には確かに届いた。「あの時のように」「また」「変わってしまう」とは、どういう意味か。それはここまで恐れるべきものなのか。考える暇も、問い質す暇も無く、テオから名を呼ばれる。

「そろそろ出発するぞクロウ」
「あ、はい!」

慌てて立ち上がる。ようやく手を離して縋るようにエリゼが見つめてくる。駆け出す前にクロウは、一言残してやることで精一杯だった。

「……、大丈夫だ」

一体、何に対しての「大丈夫」だったのか。エリゼの瞳を見返す事は出来ず、結局そのままテオの元へ向かった。背中に突き刺さる視線には、必死に気づかない振りをした。





降りしきる雪のおかげで若干視界の悪い中、数人の大人と共にクロウは渓谷を進んでいた。先頭のテオは誰よりも確かな足取りで、あちこちに視線を向けながら登っていく。足元にはバドがしっかりとついてきていて、鼻をひくひく動かして頼もしい姿を見せてくれている。以前もクロウ達を救ってくれた大事な捜索の要だ。この季節の雪山の恐ろしさは地元民であれば誰もが分かっているはずだから、そこまで奥へ入っている訳はないだろう。きっとすぐに見つかる。クロウはバドが何かを見つけて吠えながら駆け出すのを今か今かと待ち続けた。
やがて想像通りに大きな声で吠えたバドが走り出したのは、想像以上に渓谷を登っていった先であった。途中明らかにここで襲われたのだろうと思われる木々が散らかった一帯を見つけ、踏み荒らされたその場から続く複数の足跡を辿ってきた所だった。人間の足跡の他にはっきりと残る獣のような足跡が魔獣のものだろう。ラックたちの証言ではまったく当たりのつけられなかった魔獣の姿を、テオは四足歩行の狼に似たタイプであると予想をつけていた。
かくして辿り着いた渓谷の森の中には、確かに数匹の真っ黒な狼に似た魔獣が切り伏せられた状態で倒れていた。脇で足に怪我を負って座り込んでいたのはモリッツだ。

「モリッツ!無事か!」
「ああ、男爵様……!すまねえです、おらがもっとしっかりとしていりゃあ、ここまで来てもらうことには……」
「それはいい。残りの者はどうした、魔獣は全て撃退したのか」

テオを含めた数人がモリッツに駆け寄り手を貸してやる。モリッツが返事をする前に近くの茂みが揺れ、奥からギズモ老人を支えたユミル民がやってきた。こちらの声を聴いて慌ててやってきたのだろう。

「テオ様、みんな!来てくれたのか……!こちらの魔獣は全て倒すことが出来ました、安心を……」
「まだじゃ!モリッツ、リィン坊ちゃんはどうした、まだ戻ってきておらんのか!」

怪我は無く、おそらく体力的に辛いのだろうギズモがふらつきながらも蒼白な顔であたりを見回す。倒れた魔獣を見つめていたクロウの心臓がその言葉にドクリと音を立てた。テオも顔を強張らせて先を促す。

「リィンがどうした」
「すみませんテオ様、魔獣の数が思った以上に多く、数手に分かれて分断して倒そうという話になったのですが、リィン坊ちゃんが止める間もなく一人で多くを引き付けて奥へと向かってしまったのです……!」
「何という事を……!一体どっちへ!」
「あちらの方でした」

ギズモが腕を上げて指差す方向は、確かに渓谷の奥へ続く方角だ。このまま真っ直ぐ行けば頂上へ辿り着けるだろうが、すなわち郷と全くの反対方向だ。追い込まれていると言っても過言ではない。その事に息を吐いたテオが、何かを言う前に。
一人、停滞していた一同の中から弾丸のようにクロウが飛び出していた。

「クロウ!待ちなさい!」

背後からテオに鋭い声を投げかけられるが、クロウの足は少しも鈍らなかった。足元を見れば確かに大人のものではない小さな人間の足跡が、魔獣のものに紛れて奥へ続いているのが確認できる。それを追いかけてクロウはひたすら走った。幸い後ろからは誰もついて来ないようだ。クロウの走る速さ故か、あの場で怪我人を放り出して追いかけて来れない大人の事情によるものか。何にせよ、クロウにとっては好都合だった。
好都合?何のために?
そんなもの、決まっている。だってクロウはこれから、リィンを。


「あの子を、どうするつもりなのかしら?ねえクロウ」


脇目も振らずに走っていたはずのクロウの耳にその時、まるで耳元で囁かれたかのようなはっきりとした女の声が届いた。思わず足を止める。気付けばさらに量を増やした雪が、少し強く吹き始めた風と共にクロウへと次々に叩きつけられていた。すでに吹雪と呼べるほどの天気になってしまっているかもしれない。辺りも確実に薄暗くなり始めていて、もう少しで夜が訪れる時間帯なのは明白だ。そんな視界の悪い渓谷の中、脇に鎮座する大きな岩の上。どういう事か雪に遮られる事無く、その全身を何の障害も無くこちらの瞳に映させる長い髪の少女の姿があった。吹雪が彼女を避けているかのようだ。また魔術か何か使ってやがるのか、とクロウが何のためらいも無く素直にそう考えたのは、こちらを見下ろしてにこりと微笑む妖艶な少女の正体を知っていたからだ。

「随分と久しぶりじゃねえか、魔女殿」
「あら、魔女殿だなんて随分と他人行事ね」
「てっきり俺の居場所なんて見失っているものと思ってたぜ、ヴィータ」
「うふふ、本当に心配していたのよ?あなたが仇だと言っていた男に捕まってしまうんだもの」

ヴィータ、とクロウが呼んだ少女は、右の目元にある泣き黒子をちょんと動かして優雅に微笑んでみせる。年齢不詳であるがおそらく、クロウより5か6ほど年上に当たるだろう、年齢が見た目通りであれば。彼女の事を簡単に説明するとすれば……クロウの「協力者」だ。故郷を飛び出して一人旅をするクロウに、彼女は己の事を「魔女」だと説明して接触してきた。クロウの復讐を手伝ってやると、そう言って近づいてきたどう見ても怪しいヴィータを、かつてクロウは受け入れたのだった。それからヴィータはこうして、たまに神出鬼没に現れては軽く話をして立ち去る事を繰り返している。
魔女、という存在がどういったものなのか、クロウはまだ詳しくは知らない。彼女が所属しているという巨大な組織の事も、最終的な彼女の思惑も、まだ知らないままだ。いずれ説明する時が来ると話したヴィータから、たった一つだけ、クロウが受け取ったものがあった。
それは、「武器」だった。何も持たずに故郷を飛び出したクロウにとって、ヴィータが与えた凶悪なその武器は魅力的であった。何より一人も味方がいない状態で、胡散臭いとはいえ実際に不可思議な力を目の前で使ってみせる「魔女」は、あの強大すぎる男を相手にする際非常に役に立つだろう。復讐を遂げるためなら悪魔にでも魂を売ってやろうと思っていたクロウにとって、差し出された魔女の手を握る事は造作も無かったのだ。

「ふうん。約束通り、ちゃんと練習してくれてるみたいね」

いつの間にか岩の上から降り立ちクロウの目の前までやってきていたヴィータは、身をかがめてこちらをしげしげと観察している。服の上からでも筋肉の付き方などを確認しているのだろうか。普通は不可能だが、この魔女には出来てしまえるような気がする。年齢差により少しだけ上から注がれる視線に、色々不満に思って一歩下がりながら、クロウはふいと顔を背けた。

「まあ、な。アレを受け取る時に約束しちまったし……えーと、何だったか」
「約束してくれたのに忘れてしまったの?」

やれやれ、と大変わざとらしく肩をすくめてみせたヴィータは、クロウの記憶通りの笑みを浮かべて、あの時の言葉を一字一句間違える事無くスラスラと言ってみせた。

『あなたが強くなるのを手伝ってあげる。だから将来私のナイトになって?』
「ああ、それだ。意味分かんねえけどな」
「ふふっ、いずれ説明してあげる。今はただ強くなる事を考えてくれていればいいの。あなたのためにも、私のためにも、ね」

意味ありげなウインクをされて、募る不満に顔をしかめる。手を貸してくれるのはありがたいが、こうも秘密にされるとさすがに穏やかではいられない。何より子供扱いされている事をひしひしと感じてしまうのだ。

「……それで、何でこのタイミングでわざわざ来るんだよ。俺は急いでんだって」

クロウは少々イライラしながら足元の雪を蹴り上げる。クロウがこのユミルの地にやってきてからヴィータがこうして姿を見せたのはこれが初めてだ。先ほど見失ったかと思ったと冗談で口にしたが、居場所が分からなくなった、なんて幼稚なミスをこの魔女が犯すはずはないと思っている。きっと今まで密かにこちらの様子を窺っていて、あえて今こうして目の前に現れたのだ。心中穏やかでない状態のクロウが急いでいる今、このタイミングで。嫌がらせとしか思えない。

「そうかしら。私としてはここしかないって時だったと思うのだけれど」

小首を傾げてそう言ったヴィータは、ふとクロウから視線を外した。手を後ろに組み、まるで世間話をするかのような気軽さで、歌うように言葉を紡ぐ。

「ねえクロウ、あなたは正夢って見た事ある?」
「……はあ?」
「夢で見た出来事が、現実でも起こってしまう事よ」
「いやそりゃ知ってるが……あいにく見た事は無いな」

今すぐ切り上げたいどうでもいい話題であったが、きっと最後まで付き合わないと逃がしてもらえないだろうなと思ってとりあえずクロウは適当に返答してやる事にする。ヴィータは何がおかしいのか、楽しそうにくすくすと笑った。

「それじゃあ、正夢が本当にあるかもしれないって、信じている?」
「……見た事ないものを簡単に信じられるような素直な頭はしてなくてな」
「そう。……私はね、あるかもしれないと思っているの。例えそれが、まだ体験する事の出来ない未来の出来事だったとしても」
「へえ」

気のない相槌を打つクロウを、ヴィータが振り返る。向けられた瞳に思いもかけない強い光を見出して、気付けば思わずたじろいでいた。不可思議な力によるものではない、純粋にヴィータの気持ちが込められた強い視線だった。こちらへ心情を悟らせまいと普段から煙に巻くような言動をする彼女にしては、こんな感情のこもった視線を向けてくる事はとても珍しい事だと思う。

「クロウ。私ね、あなたの事これでも結構気に入っているのよ。だから、」
「だ、だから?」
「…………」
「は?何だって?」

ヴィータは確かに言葉を声に出したはずなのに、それがクロウに届くことは無かった。強くなってきた風の音のせいだったのかもしれないし……ヴィータに聞かせる意思がなかったのかもしれない。どちらにしても言い直すつもりは無いらしく、ただにこりと微笑まれた。とても魔女らしい何かを含んだ笑みであった。

「それで。あなたはこれからどうするの?」

クロウは呆れた。人を無理矢理引き止めて長々と話し込んだ後にそれを聞くのか、と。そんな表情を隠しもせずにこれ見よがしに溜息を吐いてやった。

「んなの決まってんだろ、この先にいるあいつを……」
「始末するの?仇の息子で、異端の力を持つ危険因子でしかない、あの子を」
「………」

随分とはっきりズバズバ言ってのけたヴィータに沈黙する。しかしすぐに気になる個所に思い当たって、クロウは尋ねていた。

「……異端の、力?」
「あなたも薄々気づいていたのでしょう?この先に待つ、黒くて強い力の事」

細くて白い指が差したのは、今まさに向かっていた方向、クロウが辿ってきた足跡が続く先であった。クロウは口を閉ざすことでヴィータの問いかけに肯定する。おそらくそう離れていない、渓谷の最奥そのあたりに、初めて感じる凶暴な力がある。いや、初めてではない、一瞬だけクロウはこの渦巻く獣のような力に触れたことがあった。気のせいかと思うほどの一瞬の出来事だったが、あの時の事はよく覚えている。陽だまりのようなあったかな少年から、あんな凶悪な気配が漏れ出た事にそれほど衝撃を受けたのだ。
つまりこの、今から身が竦みそうな力の奔流は、この先に待っているはずの黒髪頭から発せられているもので間違いは、ない。

「……あいつは、リィンは一体、何なんだよ」
「さあ。例え魔女でも分からない事はたくさんあるの」

本当に分からないのか誤魔化しているだけなのか、ヴィータは肩を竦ませただけで答えない。クロウは正面に向き直った。挑むようにこれから向かう先を睨み上げ、脇にぶら下がっている拳銃の表面をそっと撫でる。
変わってしまうことが怖い、と、エリゼが言っていた。この事なのだろうか。エリゼは兄のこの力を知っていたのだろう。あの時のように、と口にしていたから、そうして変わった兄の姿をその目で見たことがあるのだろうか。その上で、あんなに全身で慕っていたのだろうか。大したものだと思う。それならばリィンがあそこまでエリゼに過保護になるのも仕方がないだろう。クロウはリィンと触れ合ってきた日々を思い出す。きっとリィン自身も、この力を恐れていた。拾われ子だから、だけではないあの自己犠牲精神もあるいは、このためか。
この先にリィンがいる。このまま真っ直ぐ向かえば、リィンの全てを見る事になる。リィンの全てを知ったうえで、この手は。クロウは。

「あなたはあの子をどうするの?」

得体の知れない力。魔獣。他に誰もいない、二人きりの状態。絶好の、チャンス。事故を装う事も、このまま吹雪に紛れて郷を逃げ出す事も、簡単に出来てしまう機会。ここしか無いだろう。復讐を遂げるなら。
あの男との勝負に、勝つのなら。

「あなたは何のために、ここまで駆けてきたの?」

全てを失くし、今日まで生きてきた意味は。

「……そんなの、決まってんだろ」

クロウは駆け出した。ヴィータは止めることなくその背中を見送る。凍るような風が雪と共に吹きすさむ中、夜を駆ける銀色はすぐに見えなくなる。それでも何かが見えているように、ヴィータは一点を見据え続けた。

「……魔物の凶暴化も、様々な因果がこの地で交差した結果、でしょうね」

ぽつりと落ちた独り言を聞く者は誰もいない。彼女と、空から舞い降りてきた彼女の使い魔以外は。

「魔女も万能ではないの。未来なんて視える訳がない。でも、それでも、かつて夢で見た断片を、この選択で覆せるのならば……」

ピィ、と甲高い声で鳴いた青色に輝く鳥が、風など一つも吹いていないかのように優雅に肩に留まる。片手でその頭を優しく撫でたヴィータのもう片方の手には、いつの間にか身長よりも長い杖が握られていた。己の使い魔に微笑んだヴィータは、もう一度、彼女の小さな騎士が消えていった方向へ目を向ける。

「クロウ」

その瞳に親愛の情を乗せたまま、ヴィータは先ほど届けなかった言葉をもう一度、吹雪の中へと溶かした。

「あなたのためにどうか、間違えないで」





クロウは黙々と雪道を進んだ。あまり人の立ち入らない渓谷の奥地、降りしきる雪のせいで歩みはどうしても遅くなるが、それでもただひたすら、真っ直ぐ前を見据えて無心で足を動かし続けた。その手にはしっかりと銃が握りしめられている。扱いは心得ていた。かつて祖父に習った通りに安全装置を外し、前方へ狙いを定めて引き金を引けば、ほぼ一瞬で狙った物体へ撃ち込めるだろう。命中力には自信がある。今日、手ごたえを感じたばかりだ。
行く手からは絶え間なく威圧感が降り注いでくる。まるでこれ以上来るなと泣き叫んでいるかのような、荒れ狂う気配。クロウの足は止まらない。前方から押し留めてくる力も、行くなと後ろへ引っ張り続ける微かな己の幻影も、全てを振り切ってクロウは前だけを見て進み続ける。
もう後戻りは、出来ないのだ。

「……ここ、か!」

やがて、ひたすら上へと続いていた道の目の前が開けた。少しだけ切れた息を整えるように吐き出し、気合を入れるように吸って、クロウは一度立ち止まった足を動かし、渓谷道の終点へと踏み入った。周りを岩壁に囲まれた平たい場所、一番奥には流れ落ちるまま豪快に凍りついた滝と、その手前に奇妙な文様が刻まれた意味ありげな石碑が立ち並んでいる。あとは脇にアイゼンガルド連峰へと続く荒れた道が伸びているだけの、とても静かな場所だった。聞こえるのは山脈から吹雪いてくる風の音だけ。平常ならば夜の帳が訪れた今の時間帯でも神秘的な場所に映ったであろうそこは、散乱する魔獣の死骸のせいで今は別な印象を持たせてしまう。
倒れて動かない魔獣たちは目算で4,5匹ほどだろうか。すでに雪に埋もれている分があるならばもっといたのかもしれない。そのどれもが容赦なく切り刻まれ、息絶えていた。動くものは何もない。ただ一人、中心に立つ赤く塗れた人影以外は。
こちらに背を向けている小さな背中は、クロウが想像していた色とはどれも違っていた。例えば、魔獣のものであろうあのどす黒い赤の液体に、所々だけでなく頭から全身染まっていたりとか。この邪悪と表現しても良い力に似合う漆黒の色とか。少なくとももっと、別な色が待っていると思っていたのに。
はあ、と息を吐く。途端に目の前を横切る白い靄に、広場の中心に立ち尽くす人影が紛れ、再び現れる。周りの冷たい雪に今にも溶けて消えてしまいそうな、しかし吹雪の中でもしっかりと視界の中に存在し続けるその頭は、
白。
何色にも染まらない、純白。

「……リィン……」

呆然と名を呟けば、ピクリと反応した肩がゆっくりと振り返る。その瞳は、天候にも、感情にも、何にも阻まれることは無く、ただ真っ直ぐクロウへ届き、貫いた。
縫いとめられた。足が。心臓が。この命ごと。
覚えのある感覚。そうだ、初めて会った時も確か、似たような思いに囚われた。優しく強い、不安定な美しい薄紫の瞳。しかし今はあの時よりももっと、はっきりと、確かに。
囚われる。
生きた、焔の色。瞳の中に、命の中に煌めく炎が、クロウを見る。
力無く持ったままの、野獣の血に濡れた太刀もそのままに。呆然としながらも確かに、リィンは。
雪の中でなおも輝く白銀の髪と、穢れのない煌々と燃える緋の瞳へと変貌したリィンは、クロウを見た。
赤と、赤の視線が、正面から合わさる。片方がゆっくりと、見開かれる。

「………、クロウ」

ぽつりと、名を呼ばれたクロウは。その声を耳にして、言いようのない高揚が胸の内で燃え上がるのを実感する。いいやきっと、この高鳴りはもっと前から。冷たい雪の中で、それでもじわりと手の平に浮かんできた汗を握りしめて、ようやくその手から銃が取り落されていた事に気付く。それほどまでの衝撃が、クロウから思考の何もかもを奪い去っていた。
本来ならばその光景は、何よりも恐ろしかったはずだ。姿を変えた仇の子供、血みどろの異常な光景、今までの決意。そのどれもが、クロウに引き金を引かせる十分な理由になり得た。こちらに気付かれる前に、腕を持ち上げて照準を合わせることだってできた。そうしようと思っていたはずだった。
でも、出来なかった。
リィンの姿を認識したクロウが、その頭に思い浮かべた言葉は、たった一つのものだけであった。


「きれいだ」


今までの事も、背景も、葛藤も、何もかもを真っ新に消し飛ばした頭が導き出した言葉。至極単純な感情。
ただ、目の前の少年が、綺麗だと。
クロウはそれだけを、思った。

「リィン」

一歩踏み出せば、リィンはびくりと我に返った。その姿がすうっと音も無く、見慣れた黒髪と薄紫の瞳に戻る。その変わりようさえ美しかった。いつもの色も、見慣れない苛烈な色も、全てがリィンなのだと躊躇いも無く理解できる。そんな、己の心を。
クロウは受け入れていた。

「リィン」
「……っ!」

また一歩、赤く濡れた雪を踏みしめて近づけば、息を飲んだリィンが刀を取り落とす。積もる雪の上に埋もれるように落ちたそれにも構わず、震えた体は踵を返してどこかへ逃げようとした。しかし残念ながらとっさに向いた方向が逃げ場のない岩肌のみ広がる袋小路であったため、慌てて足を止めて別方向へ逃げを打つ。そうしてもたもたしている所を、クロウは難なく捕まえることが出来た。
足早に近づいて、腕を取り、ビクついた体を引っ張ってこちらへ向かせる。ひどく怯えた薄紫が、涙を湛えてクロウを写した。

「は、はなしてっ」

震えた声の要求に、首を横に振って答える。絶望した表情で、リィンは必死に掴まれた腕を逃れるために引っ張った。

「やだ、クロウ、お願いだからはなして……」
「嫌だ」
「っなんで!どうしておれに近づくんだよ、見ただろ、今の……!」
「ああ、見たな」
「おれは、ああいう力を持ってたんだ!姿が変わって、自分でも良く分からない力が内側から溢れてきて、凶暴になって、何もかも壊してしまうんだ……そういう力を持ってるんだ!危険なんだ!一度きりじゃない、今回は、二度目なんだぞ……!」

力任せに引っ張る腕を、それでもクロウは離さない。なるべく傷つかないように握りしめて、恐慌状態のリィンから決して視線を逸らさなかった。一向に退かないクロウの様子に、リィンは訳が分からないと言いたげに首を振る。その瞳から涙が散った。

「なんでだよ、離してよ、クロウ……!このままじゃ、おれ、おれ……!」
「このままじゃ、何だよ?」

じっと、ただ視線を注ぎながらクロウが問えば、リィンはしゃくりを上げて口を噤んだ。躊躇うようにうろつく視線。互いの真っ白な息が何度か吐き出された後、ようやく唇を震わせて、吐息のような声を出す。

「クロウを……傷付けてしまう……!」

その声は恐怖に濡れていた。ぽろ、と雪の結晶のような涙を流して、リィンはクロウを見つめた。

「いやだ……クロウを傷つけたくない……怖いんだ……おれの力がクロウを傷つけてしまうんじゃないかって、思ったら、怖くて仕方ないんだ……!」
「リィン……」
「お願いだよ、クロウ、手をはなして……!傷付けたくなんて、ない、いやだ……おれは、おれは……!」
「リィン……!」

「ば……ばけもの、だからっ……!!」

悲鳴のようなその言葉を聞いた瞬間、クロウは動いていた。逃げを打ち続ける腕を、さらに強い力で引っ張り込む。ぐらりとこちらへ倒れ込んでくる体を、そのままありったけの力で抱きしめていた。腕の中の柔らかい体がぎくりと動きを止めて固まるのがありありと分かる。逃げようとして身動きもとれないように、背中と後頭部に回した腕の力をより強めて自分よりも小さな体を包み込む。しばらくリィンは呆然と、されるがままだった。

「……く、クロウ、はなして」
「嫌だ」

懲りずに呟かれる同じ言葉を、即答して叩き落す。リィンの声は掠れて震えてよく聞こえなかったが、限りなく近い今の状態の耳元で囁かれれば聞き漏らす事は無かった。

「だめだ、このままじゃクロウが、汚れちゃう」

ぎゅっと、己を抱き締めるクロウの腕の裾を掴むリィン。その体は全身とまでは言わないが、魔獣の血に汚れてしまっている。しかし「汚れる」とはきっと、この服の汚れの事だけを言っているのではないのだろう。腕を外してほしいのかそれとも縋り付いているのか、分からないリィンの手を振り払う事無く、クロウはしっかりと抱き締め直す。

「汚れねえよ」
「だって、おれ、汚いよ、汚れるよ……」
「汚いもんか。きれいだ」
「……っ?!」

息を飲む音。くせのある黒髪を優しく撫でてやってから、少しだけ力を抜いた。ゆっくりとクロウの肩口から離されこちらを向いた瞳は、何を言っているのか理解できないと語っている。そんなリィンの顔に、クロウは微笑みかけた。

「これが、お前の持つ秘密の全てって訳だな。これでお前の事、全部知れた」
「あ……」
「っはは、自分でも不思議だけどな。今まで見てきたお前も、さっき見た変わった色したお前も、今のお前も……全部ひっくるめて、お前なんだって、リィンなんだって素直に思えるわ」
「っ、え」
「多分、単純なことだ。お前の事を全部知ることが出来て嬉しいっつー、単純な喜び。よく分からない力とか姿とかは関係ねえよ」
「な、んで、」

はくはくと、上手い事言葉が紡げないリィンの様子におかしくなって笑いながら、クロウは頭に回していた手をそっと目の前の頬に伸ばす。親指で拭ってやったのは、飛び散って付着していた魔獣の血。綺麗にとれて元のふくふくとした頬に戻った事に満足しながら、コツ、と。少し下にある額に己の額を合わせた。視界いっぱいに広がる綺麗な大きい薄紫が、さらに見開かれる。
最近ずっと毎日続けている、二人だけの習慣。もちろん今朝も、今と同じように額と額を合わせて、笑い合った。始めたばかりの頃のむず痒さも、慣れた頃から感じるこの胸の内の温もりも、全ては相手がリィンだからだ。リィンだったからこうして毎日続けることを許したし、望んだ。望んでいた。そこには黒い感情や思惑は一切無く、リィンと過ごしたユミルでの時間だけが己にそれを許したし、望ませもしたのだ。それだけだ。
クロウは今、改めて思い知っていた。あの男に会って、散々悩んで、物騒な決意を固めてみせた今までの時間は、きっとすべて無駄だったのだと。だってこの胸の内は頭より先に、とっくの昔に答えを出していたのだ。

「何でって、そんなの決まってんだろ」

額を合わせ、目を合わせたまま。互いの吐息が触れ合う距離でクロウは、心を占めるその想いのままの言葉を、腕の中の温もりに向けた。

「リィンの事が好きだから」
「……、え、?」

限界まで開かれていると思っていた薄紫が、さらに大きくなる。その拍子に零れ落ちた雫を、唇を近づけてそっと掬い上げた。

「真面目で、働き者で、世話焼きで、いい奴で。どこか危なっかしかったり、意外と頑固だったり、たまに生意気なこともあるけど何だかんだ可愛い、俺の弟分兼親友。本当は泣き虫で寂しがり屋の癖にそれを全部我慢しちまうところとか、思い詰めたら一人で突っ走っちまうところとか……こんなもん抱え込んで一人で黙り込んでた、どうしようもないところとか、全部。全部がリィンだ。俺が見てきたリィン・シュバルツァーの全部だ」
「……クロウ……」
「その全部を見てきた俺が、それでもお前の事を好きなんだぜ?もっと自信持てよ」

にっと微笑めば、ぼろりとリィンの瞳からまたしても涙がこぼれる。今度は吸い取る暇も無いほど、次々と。

「……大丈夫だ。汚くなんてないし、怖くもない。リィンはリィンだ。俺の好きなリィンだ。だから、大丈夫だ」

ぼろぼろと零れ落ちる結晶を受け止めるように、クロウはその頭を己の肩に押し付けた。しゃくりあげるその背中を軽くぽん、ぽんと叩いてやれば、ただ服の端を掴んでいただけだったリィンの腕が、ゆっくりと、クロウの背中へ回される。震える指は躊躇するように伸ばされたのに、ぎゅっと抱き締めてきた力は思いの外強いもので。

「……っう、ううっ……!」

歯を食いしばってなおも耐えようとする往生際の悪い頭を、さらに己へと押し付けて。クロウが抱き締め続ければ、ようやく震える唇から声が漏れだす。
一回声を出してしまえば後はもう、止まらなかった。

「うっああ……うわあああああん!」

クロウにしがみつき、涙と声を抑える事無く出し続け、リィンは泣いた。悲しみではない、心からの安堵によって。腕の中のぬくもりが、自分の元から去る事は無いのだと。今まで通り隣に立ち、笑い、共に生きていても良いのだと分かったから。あれほどまで恐れていた喪失を味合わなくても良いのだと、ようやく理解出来たから。クロウに、嫌われる事が無かったから。

「ったく、本当に泣き虫なやつだな」

泣き続けるリィンに笑おうとしたクロウは、そこで自分が今笑えない事に気付いた。頬を、雪ではない冷たい何かが滑り落ちる。両手は生憎リィンを支える事に使っているので触って確かめることは出来ないが、次々と伝い落ちるその濡れた感触に否応なしに思い知らされる。

「っはは、嘘、だろ……」

呆然と呟く合間にも、先ほどのリィンと同じようにしゃくり上げる喉。何とか抑えようとしても止まらない。頬を流れて落ちる水は雫となって、どんどん量が増えていく。クロウは泣いていた。リィンにつられるように、いや、その胸の中に湧き上がるとある感情によって、抑えきれずに涙を流していた。

「……っ!くそっ……!」

抱き締める腕にいっそう力を込めて、クロウはそこにあった黒髪に頬を押し付けた。悲しいのか、嬉しいのか、最早自分でも良く分からない。ただ一つの事実が、クロウの紅の瞳から涙を流させていた。

ギリアス・オズボーンとの、勝負に負けた。

クロウは確信している。自分はこれから先、未来永劫、リィンをその手で自ら傷付ける事は出来ないだろうと。それほどまでの存在になってしまっている。あれほど誓っていた殺してしまう決意を、その姿を見ただけでクロウの中から消し飛ばしてしまったリィン。今ここに抱き締めているぬくもり。空っぽだったこの手に掴んでしまった、何よりも大事な光。もう二度と、この心はそれを失う事が出来ないだろう。失う道を選ばないだろう。ユミルにやってきて、リィンと出会ってから今までの、数えてしまえば僅かな時間。そんな僅かな時間で、これほどまでに大事な存在となってしまった。愛おしい存在に、なってしまった。
クロウはもう二度と、リィンを傷つける事が出来ない。

それは、すなわち。あの男との賭けに、負けた事と同じだ。

クロウは今、あの男に負けたのだ。

「っああ……あああっ……!」

大事な人を、故郷を失ってから、今までクロウを支えてきた何かが、音を立てて崩れていく。空虚なそれが全て粉々になって、真っ新に消えてしまった心の奥底。そこから生まれる何かが、号哭となって涙と共に溢れて止まらない。

「あああああああっ……!!」

冷たい雪山に、響き渡る二人分の泣き声。頬を濡らすものが雪なのか己の涙なのか、それとも相手の涙なのかさえももう分からない。固く抱き締め合ってわんわん泣きながら、こんなに泣いたのはいつぶりぐらいだろうとクロウは遠いどこかでぼんやりと考える。
幼い頃はよく、子供らしく泣いていたような気もするけれど。祖父を失った時ですら、ここまで声を上げる事は無かった。
この情動を、預ける人もいなかったから。

(ああ、)

止めども無く溢れる涙をこらえる事無く、クロウはより一層腕の中の温度を抱き締める。

(俺は、もう、)

全てを失った空虚に、復讐する事だけを詰め込んでいた心。その黒い憎しみさえも消えた、そこは。

(空っぽではなかった)

いつの間にか、ここには。

(リィンがいる)


これほどまでの、ひかりが。



(リィンが、いたんだ)






















この間とまったくの逆になったな。そうやって笑みを浮かべながらクロウが述べれば、申し訳なさそうな、それでいてどこか不満そうな視線がベッドの上から返される。

「別に、大きな怪我をした訳でも熱がある訳でもないのに」
「消耗して疲れてんのは本当なんだから、大人しく寝とけって。テオさんたちにあれだけ心配かけた罰だろ」
「ううっ……心配かけたのはクロウも同じなのにー……」

毛布を口元まで引き上げて、リィンは恨めしそうに傍らの椅子に座るクロウを見てくる。それでも大人しくベッドに横たわっているのはクロウの言葉通り疲れているのもあるし、心配をかけてしまった事を自覚もしているからだろう。
あの、静かな温泉郷ユミルで突如巻き起こった魔獣騒ぎから一日が経った。数人の怪我人は出たものの皆軽いもので、渓谷で襲ってきた魔獣も一匹残らず倒すことが出来て郷には安堵が広がっていた。しばらく警戒は怠れないが、ここ最近あたりを覆っていた嫌な気配はあれきり鳴りを潜めていて、少なくともしばらくは何も起こることは無いだろうとクロウは考えている。どうしてあれだけの嫌な気が立ち込め、魔獣が活発化したのかだけは、いまだに分からないままだったが。

「あーあ、あの時ヴィータの奴に軽く聞いとくんだったな……」
「ん?誰?」
「ああいや、俺の知り合いに神出鬼没で不思議な女がいてな、そいつに今回の異変の心当たりを聞いときゃよかったなーって思ってよ」
「神出鬼没で、不思議……?ど、どんな人なんだ、その人」
「そーだな、今度姿を現した時にでも紹介してやるよ」

脳内でどんな想像図が思い描かれているのか、おっかなびっくりなリィンの表情にクロウが笑う。おそらく昨日までのクロウだったら、今のは適当に誤魔化してヴィータの存在をリィンへ伝える事も無かっただろう。昨日までと、今日からの違い。それを肌で感じながら、クロウは不思議と心地よい気分であった。
渓谷の奥地。吹雪の中で、二人声を上げて泣いたあの時から。クロウの心は明確に変わっていた。変わった、と言っても本質的には何も変わらないのだろう。ただ、この目の前の存在に惹かれていた自分の気持ちに、嘘をつく事をやめただけだ。そうすれば嘘をつく必要などどこにも無かったし、するすると偽りない言葉も出てくる。郷の皆には思いっきり心配と迷惑をかけてしまったが、あの騒動は自分たちに必要だったのだろうとクロウは素直に思えていた。あの後、追いかけてきてくれたテオや帰ってからユミルの皆にこっぴどく叱られてしまったのだが。
特にリィンに対してがすごかった。魔獣を引き付ける大人たちの中に子供の身で一人だけ残り、一番多く引きつれて渓谷の奥へ消え、血だらけになって帰ってきたのだから皆の心配もひとしおだったのだろう。かわるがわるに無茶はするなと叱られ抱きしめられ頭を撫でられ、まさにもみくちゃにされていたのを思い出す。エリゼはしばらく泣き止まなかったし、あのいつも穏やかなルシアまで涙を零してリィンを抱き締め放さなかったので、あの場の混乱は夜だというのにしばし収まりを見せなかったのだった。心底困り果てたリィンの声まで頭の中に蘇ってきて、クロウは己の頭を押さえた。

「クロウ、まだ頭が痛むのか?」

その仕草に目ざとく気付いたリィンが少し心配そうに見つめてくる。何を案じているのか瞬時に理解したクロウは、ぱたぱたと手を振ってみせた。

「違う違う、昨日の騒動を思い出してただけだ。まあ、テオさんの拳骨はかなり効いたけどな……」
「うん……おれも、あれだけ痛いのは初めてだった……」

しみじみと、感じ入るように目を閉じるリィン。思い出す。揃ってぼろぼろに泣いてたあの場所に、まず飛び込んできたのは全身雪まみれにしながらも走り寄ってきたバドで。そのすぐ後ろをテオが追いかけ、こちらを見つけてくれた。何故か声をあげて泣いている姿にテオは何も問うことも無く、しばらく温かくて大きな体で二人まとめて抱きしめてくれた後、落ち着いた頃を見計らって、ゴン、ゴンと。それぞれ単独行動を取ってどれだけ心配をしたと思ってるんだ、というお叱りの言葉と共に拳骨を貰ったのである。ああ昔じいちゃんにも同じように拳骨貰った事が良くあったなあと懐かしがる暇もないほどの痛みであった。しかしその痛みこそが、リィンとクロウを心から心配してくれたテオの痛みでもある事を、同時に思い知っていた。それを思えば、いくらでも耐えられる痛みであった。
その後は先に思い出していたあの大混乱を経て、一晩経って今の状態である。大きな怪我もないし健康な状態です、と司祭に太鼓判を貰ってはいたが、大事を取ってリィンは今日一日ベッドの中の住人を余儀なくされているのだった。

「……エリゼ、元気になったかな」
「あー……今日はまだ、無理かもな。明日お前が元気な姿見せれば大丈夫だろ」
「そうだといいけど……」

リィンが眉を下げてドアを見つめる。休んでいる兄様の邪魔をしてはいけない、でも様子が気になるから、と、エリゼは本日頻繁にあのドアから心配顔を覗かせている。きっと幼心にリィンが今回もあの「力」を使った事を察しているのだろう。大変健気なその様子が、リィンも気になって仕方が無いようだった。ちなみにクロウは看病と普通に同室者という事で、こうしてずっとリィンの話し相手を務めている所だ。

「しっかし、お前もどうせなら一発熱でも出しちまえばよかったのに」
「えっ?!何で!」
「そうすりゃ看病のし甲斐もあっただろうなーと思ってな。こう、一晩中手をぎゅーっと握って汗まみれにしてやったり、おかゆなんかを「はい、あーん」とか語尾にハート飛ばして食わせてやったり、思う存分出来ただろうってのによ!あー惜しい惜しい」

クロウとしては以前自分がされた恥ずかしい事を、リィンにもお返しして恥ずかしがらせてやろうという魂胆の発言であった。しかしはたとリィンの瞳を見つめてみれば、確かに少々恥ずかしそうに顔を赤らめてはいたが、どちらかといえばその表情は……「確かに惜しかったな」という羨ましがるような赤い顔で。

「……そ、そんな看病、いらないからっ」
「いや、いい。心無い言葉は言わなくていい。はあ……素直になってくれるのは良いけどここまで態度に出されると、からかうどころじゃねえよったく」
「どどどっどういう意味だよ!」
「次お前が寝込んだ時は同じことしてやるから覚悟しとけって事だよ!」

ヤケクソ気味に腕を伸ばして、跳ねた黒髪をぐしゃぐしゃと撫でてやる。素直にリィンへの好意を認める事が出来るようになったクロウと同じように、リィンの中でもクロウへの心境の変化があったらしい。あれからリィンはクロウに対して、やたらと素直な欲求に従う行動をとるようになっていた。今までも良い子なだけではないリィンの素の表情をクロウには見せてくれるようになってはいたが、それがあからさまになったというか。特にクロウへの好意が見える行動ばかりが表に出てくるようになったというか。
嫌な訳では無い、むしろ嬉しいのだが、正直まだ戸惑う事の方が多い。クロウとてようやくリィンに対しての己の気持ちのスタートラインに立ったばかりなのだ。リィンの全身からほぼ無意識に発せられるそれを、受け止めきるにはまだまだ余裕が無い。受け止めても、まったく同じものを返すことが出来ない事もまたもどかしかった。

だって、リィンが今の段階で理解しているクロウへの「好意」と、クロウが抱いているリィンへの「好意」は……おそらく、似ているようで全く違う、別なものだから。

「……、そうだ」

ぽんと、クロウは思い出していた。仄かに芽吹いたこの淡い気持ちを抱いていくには、クロウにはまだリィンに話していなかったことがある。椅子の上で姿勢を正して、不思議そうにこちらへ向けられる薄紫の瞳をひたと見つめた。

「リィン、ドン引きするかもしれないが、俺はまだお前に言ってなかった事がある」
「え、なに?」

きょとんとベッドの上から見上げてくる無垢な瞳に、もしかしたら拒絶されるかもしれないという覚悟も固めて、それを口にする。

「俺、お前の事、最初からわりと好ましく思ってたんだけどな。同時に、殺してやろうとも思ってたんだ」


……それが、あまりにも突拍子のない発言だったからか。
パチ、と、リィンは瞬きをしてみせただけだった。

「直接、お前が何かしたからって訳じゃねえ。完全に俺の私怨だ。お前はただ、俺が挑んだゲームに勝手に巻き込まれただけだ。それでも俺は、お前の事を殺さなきゃって思ってた時があった」
「……。それは、」

ただ淡々と、かつての事実を述べるクロウに、リィンは。たった一つだけ尋ねかけた。

「クロウが、故郷を出た事と関係があるんだな?」

見返してくる薄紫は、ただ静かにクロウを映す。裏切る事は出来ないそのまっすぐな視線に、しっかり頷き返した。

「復讐、だな。故郷が変わってしまった事と、じいさんが死んじまったきっかけになった事への。俺の意地だった。お前をどうにかすればそれが果たせると思ってたんだ。結局は出来なかった訳だけどな」
「……そっか」

リィンは目を閉じた。深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出しながら、小さく確かに呟く。

「そうだったんだ」

その呟きは、じんわり心に沁みこむような柔らかさに満ちていた。絶望でも、悲しみでもない。心からの納得と、安堵の声だった。そうか、何となくばれていたのかと、この時クロウは気付いた。

「それじゃあもう、おれの事殺そうとは思ってないのか?」
「ああ、綺麗さっぱり物騒な気持ちは消えた。もう二度とそういう考えは起こさないだろ。むしろ昔の俺が変な気を起こさないよう今の俺がぶった切りに行ってやりたいところだ」
「あはは、何だそれ」
「本気だっての」

そう、本気だった。何かを間違ってこのくすくす笑うあたたかな存在を消してしまう事になっていたらと、今考えるだけでも恐ろしい。ずっと前から、あるいは初めて顔を合わせたあの瞬間から、実質自分が負けていた事にも気づかずに。この手にはもう何もないと勘違いしたまま、間違いを起こしていたら。きっとその時こそ、クロウの世界は終わっていたに違いない。ただただ堕ちるところまで堕ちて、二度と戻っては来られなかった。
その暗闇の穴の底にはおそらく、一筋の光さえないだろう。

「じゃあこれで、おれもクロウの事を全部知れたことになるのかな」

ごろん、と体ごとクロウに向き直ったリィンが笑う。今自分に向けられていた明確な殺意を明かされたばかりだというのに、なんでもない事のように全てを受け止めて、笑いかけてくる。自分が今ようやく出来るようになった事をいとも簡単に目の前で成し遂げられて、クロウは笑うしかなかった。こいつには多分一生敵う事がないだろうな、と悟った瞬間だった。
そんな心情はおくびにも出さず、クロウはあえておどけてリィンの頬を突いた。

「さーて、どうだかな?このクロウ兄様の秘密を全部知るにゃリィン君にはちと早いかもなー」
「えーっ何だよそれ、ずるい!おれにだってクロウが知らない事たくさんあるぞ、多分」
「多分って何だよ、多分って。お前は隠してても顔や態度に出るからなあ。つーかすでにお前の知らないお前の秘密、俺知ってるし」
「な、なにそれ?!」
「んー教えるにはまだ早いな。お前がもっと大きくなって、ちゃんとテオさんたちからの愛情を受け取れるようになってから、だな」
「ううっ訳が分からないし、今露骨に子ども扱いされた気がする……!」
「拗ねるな拗ねるな。それまでちゃーんと見守っといてやっから、焦んなって」

悔しそうに呻く頭を宥めるようにぽんぽん叩く。なおも不満そうに上半身を起き上がらせたリィンが、じっとクロウを見つめた。

「……ずっと、見ていてくれるのか?」

懇願するようなその響きにくすりと笑って。クロウはいつものようにその額に、己の額を重ねた。

「ああ、ずっとだ」
「本当に?約束出来るか?」
「おおするする。つーか俺の一世一代の勝負を負けさせたのはお前だかんな、嫌だって言われても離れねーし」
「何の事か分からないけど、おれだってクロウと離れる気はないからな。本当にずーっと一緒にいてもらうから、覚悟しろよクロウ」
「その言葉、そっくりそのまま返すぜリィン」

一度だけ、挑むように見つめ合い。次の瞬間、クロウもリィンも笑い声をあげていた。
何てことは無い。どちらも互いに互いを離す気は無いのだから、勝負にもなりはしない。賭ける事も出来ないその売り言葉に買い言葉は、言わば未来への誓いのようなものだ。

クロウはリィンの手を取って、リィンはクロウの手を取って。
互いに手に入れる事が出来た、何にも代えがたい唯一の、光。
幾多にも交差する無数の運命の中から、目の前で閃いたその光を掴み、抱き締める事が出来た二人は。

共に生きる、光ある未来への軌跡の中で。


きっともう二度と、その手を離すことは無い。




せんのひかり






15/01/19



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