第八話



凍りつくほどの冷気だけが支配する森の中、しんと静まり返っていた木々の間に、一発の銃声が響いた。しばらくの間をあけてまた一発、さらに同じぐらいの時間差でもう一発。計三発の銃声は澄んだ空気に高く遠く響いて消える。それは猟銃が発砲された音であったが、仕留められた獲物の断末魔が同時に響く事はとうとうなかった。代わりに聞こえていたのは、木の幹を深く抉る鈍い音。

「……はあ」

集中するために止めていた白い息を吐き出して、クロウは構えていた猟銃を降ろした。その溜息は落胆、ではなく、安堵と喜びに満ちている。離れた後ろの方で固唾を飲んで見守っていたリィンが、雪を蹴散らして駆け寄ってきた。

「クロウすごい!全部命中してたぞ!こんな距離で三発外さずに当てるなんて、すごいなっ!」

頬を紅潮させて、まるで自分が成功したかのような喜びようを見せるリィンにクロウは笑った。興奮のあまりその場でぴょんぴょん跳ねるくせっ毛頭をぐしゃぐしゃと撫でてやれば、えへへとはにかんでようやく落ち着いた。そのすぐ後ろから、満足そうなテオも歩み寄ってくる。

「ふむ、その歳で大した腕だ。これは今更、私が教えるまでもなかったか」
「いやあ、まだまだっすよ。猟銃とか初めて触ったし、今回のは所詮止まった的ですから」

クロウはちらりと、先ほど自分が狙いを定めて撃ち込んだ方向を眺めた。距離はおよそ20アージュほど先。テオお手製の紙でできた的が、それぞれ三つ別な木の幹に張り付けられている。弾丸は全て的のほぼ真ん中を貫いていた。クロウの成果だった。
銃の撃ち方を習った事がある。そうやってクロウがリィンに話していた所に通りすがったテオが、では猟銃も扱えるのかと尋ねてきたのが昨日の事。無いと言えば狩り好きのテオに翌日早速連れられて、人気のない森の中で練習させてもらっている所だった。元々器用で銃を習いたての頃から命中力を褒められていたが、ジュライを出てから手にする機会が無くブランクがあるだろうと思っていた。どうやら無用の心配だったようだ。

「確か、お祖父さんに習ったんだっけ」
「おう。護身用にってじいさんがいくつか導力銃を持ってたんだ。ジュライを出る時置いてきちまったけど」

そう、置いてきた。自分だけで決めた自分勝手な戦いに、祖父との思い出が詰まったものを持っていきたく無かったためだ。そうして多くのものを変わりゆく故郷に置いて、もとい捨ててきた。あの頃の事を少しだけ思い出して、すぐに思考の海から戻ってくる。

「だからまあ、狩り自体はしたことねえな。魔物相手になら何回かあるけど」
「いいな……おれは何度か父さんに教えてもらっているんだけど、なかなか上達しなくて……」

喜びもつかの間、クロウとの実力の差を思い知ったためかリィンがしゅんと俯いてしまう。微笑んだテオが励ますようにその肩に手を乗せた。

「リィン、人には向き不向きというものがある。それにお前だって筋は悪くないんだ、落ち込むことは無い。お前が望むならいくらでも練習に付き合うから、その時はこの父を頼ると良い」
「父さん……」
「ふふ、春が待ち遠しくなるな。時期が来たらお前たちを連れて一狩り出たいものだ」

その時が楽しみだと心から笑うテオは、的を交換するべく歩き出す。

「さて、それではもう一練習した後に郷へ戻るとしよう。二人とも、それでいいか」
「はいっ!」
「へーい」

おれも頑張ろうと気合を入れるリィンの背中を叩いて、あんまり気張るなよーと声を掛けてやってから、クロウは空を見上げる。今は薄い雲が空を覆っているだけだが、これから夜にかけて吹雪くかもしれないと朝挨拶をした司祭が言っていた。クロウはまだ、こうした厳しい冬に晒されるユミルしか知らない。一体この地は、春にはどんな姿を見せてくれるのだろうか。雪が解け全ての動植物が淡く色づくあたたかな季節に、自分もまたその景色の中にいるのだろうと思うと何とも不思議な心地がした。
ただそれを、悪くないとも思った。





「………」
「父さん?どうしたんですか」

一通り練習を終え、来た道をそのまま辿る森の中の帰り道。ふと辺りを見回して警戒を露わにするテオにリィンが心配そうに声を掛けた。一番前を歩いていたテオは振り返り、こちらを安心させるように微笑んでみせる。

「ああ、すまない。私の杞憂だろう。早く戻らねば、ルシアもエリゼも心配するな」

そう言って前を向いてしまったテオは具体的な事は話してくれなかった。しかしリィンも、しんがりを歩いていたクロウも先ほどの険しい顔をしたテオと似たような表情を浮かべて後に続く。おそらく、全員が微かに感じ取っているのだろう。言葉にする事が出来ない、薄暗い不安を。先日から何かと魔物に襲われている二人は、特に感じていた。
ユミルの周辺で、何かが起こりつつある。根拠は無いが、確かにそう感じる。誰も何もいないはずの凍りついた森が、ざわざわと嫌な音で軋んでいる……そんな気配。気のせいだろうと思うと同時に、気のせいではないと心のどこかで誰かが囁いている気がする。
そんな言い知れぬ暗い気持ちに苛まれながらも、三人は無事ユミルの広場へ戻って来る事が出来た。冷たい森の中から見知った景色の中に入ると、どうしても安堵してしまう。今日は特に目に見える範囲に人が多く集まっていた。中心付近で何やらわいわい話し合いをしているようだ。近づいてみれば、あのただ湧き出ているのを溜めているだけの温泉を取り囲んでいるようだった。

「皆で一体何をしているんだ」
「おおこれはテオ様、ちょうどよかった」

テオが尋ねれば、一同を代表してギズモ老人が説明してくれた。

「少し前にモリッツが掘り当てたこの温泉、整備してみてはどうだろうと話が出ておりまして」
「確かにしばらく放置してしまっていたな。しかしこの広場の中央にまた温泉用の建物を建てるのは難しいという話になっていたはずだが」
「ええ。ですがうちのラックが面白い話を持ってきましてな……ああ、発端は確か坊ちゃんたちでしたか。のうラック」
「うん!ね、前にリィンとクロウが言ってたよね。この温泉、足だけ浸かれるようにしたらいいのにって」

ラックの言葉にざっと全員の目が向けられて、リィンもクロウも慌てた。確かに以前言った。クロウがユミルに来たばかりの頃の話だ。何故今頃その話が出ているのかとクロウが首を傾げれば、リィンがこっそり耳打ちしてくる。

「この間、前にクロウとそういう話をしていた事を思い出して、ラックに話したんだ……」
「ははあ、なるほどな」

それが意外と大事になっていたらしい。話を聞いたテオもまんざらでもなさそうに頷く。

「足だけ温泉へ……いうなれば足湯、か。良いアイディアだ。湯治客も外で手軽に温泉に浸る事が出来て喜ぶだろう。さっそく……」
「テオ様!」

その時、焦りを含んだ鋭い声がテオを呼んだ。急いだ様子で駆けてくるのは、凰翼館の支配人だった。勤務時間中だというのに支配人自らテオを呼びに来るというのが珍しく、その場にいた全員が驚いて彼を迎えた。表情を引き締めたテオが歩み寄る。

「どうした」
「実はつい先ほど届いた知らせなのですが……!」

支配人が人目を憚るように声を落として、早口でテオへ耳打ちする。残念ながら内容を聞き取る事は出来なかったが、少なくとも良い知らせでは無かったようだ。見る見るうちにテオの表情がこわばっていく。話を聞き終わった後、とっさにその目が向いたのは。

「……?父さ、」
「リィン、クロウ、急ぎの用事が出来た、早く屋敷へ戻るぞ。皆すまない、この温泉の事は任せて良いか」
「ええ、ええ。許可を頂ければこちらで整備しておきます」
「頼む。さあ二人とも、行くぞ」

テオが大股で歩き始めたので、急いで後を追った。用事というのが何なのか気にはなったが、とても尋ねられる雰囲気ではない。並んで早足で歩きながら不安な表情を覗かせるリィンの頭を、クロウは一度だけ撫でてやる。その心境は穏やかでは無かった。
今確かにテオは、最初にリィンを見つめたのだ。





屋敷に戻ったテオは、手早く後片付けを済ませてすぐにまた外へと出て行った。その間に大体の事情をルシアへ説明したらしく、彼女の表情もどこか緊張したもので。それでも柔らかな笑みを浮かべて、玄関先でこちらに伝わった不安を取り除こうとしてくれる。

「あなたたちは何も心配いりませんからね。お父様は少し留守にしますけど、用事が済めばすぐに戻りますから」
「その用事って一体何なんすか?」

少々不躾かと思ったが、どうしても気になってクロウは尋ねていた。同じように気にするリィンが隣でこくこく頷く。言葉を詰まらせたルシアは僅かな沈黙の後、結局は教えてくれた。

「凰翼館に今、とても偉い方がいらしてるんですよ。すぐにお帰りになるそうだから、ご挨拶とお見送りに行っているだけです。邪魔になるといけないからあまり近づかないように。分かりましたか?」
「はい……」

よしよしとリィンを撫でるルシアを眺めながら、クロウは考えた。名前は言わなかったが、偉い人という言葉にきっと嘘は無いのだろう。れっきとした皇帝ゆかりの宿なのだから、それなりに偉い人間が来るのは珍しい事ではないはずだ。それなのにこの慌ただしさと、テオのあの強張った顔。今もなお、どこか念を押すようにリィンへと言い聞かせるルシア。何故だか、心がざわつく。ギリギリと嫌な音を立てて、予感が警告してくる。何かがあると。

「クロウ?どうしたんだ」

ようやく少しは安心したらしいリィンが見つめてくる。シュバルツァー夫妻の様子を見ていると、何となくこの子供に関係してくる事のような気がするが……考えていても仕方がない。気を取り直すように溜息を吐いたクロウは、首を横に振って誤魔化した。

「なんでもねーよ。それより暖炉んとこ行こうぜ、寒い」
「あ、うん。ずっと雪の中で立ってたから冷えちゃったな」
「リィンにいさま!クロウにいさま!おかえりなさい!」

ちょうど良いタイミングでエリゼも飛び出してきた。猟銃の練習にはさすがに連れていけなかったので、一人お留守番をしていた分とても良い笑顔で部屋から駆けてくる。それじゃあ皆で温まろうかーと和んでいた時、外から何だかがやがやと賑やかな声が聞こえてきた。
数人がどうやら、屋敷の前を移動している。

「?何だろう」
「あー、もしかしてテオさん命名足湯作ろうってしてたやつらが、さっそく動いてるんじゃねえの」
「そっか、それはあるかもしれないな……みんな張り切ってたし」

偉い人が来ているという話は内密に伝わっているようだから、他のユミルの民が知らなくても仕方がない。いつも通りの日常を過ごす彼らの様子が気になった。それは自分たちが一応足湯の発案者だからというだけでなく、今日ずっと感じている変な予感への不安によるところが大きい。リィンをちらと見れば、似た事を考えていそうな表情をしていた。

「……様子だけ見に行くか?」
「うん。渓谷のすぐそこで材料を切り出すぐらいだったら、大丈夫だとは思うけど……」

不安な顔を見合わせて、窺うようにちらとルシアを見る。少しだけ迷ったルシアは困った顔をしながらも頷いてくれた。

「仕方ありませんね、凰翼館にはあまり近づかないようにしなければいけませんよ」
「了解っす!」
「ありがとう母さん!」
「にいさまたち、でかけるんですか?こんどはわたしもつれてってください!」
「それじゃあエリゼは、おれから離れるんじゃないぞ」
「はい!」

リィンがエリゼの手を取って、暖を取る事も忘れてさっそく外へと繰り出す。思った通り先ほど広場の真ん中で話し合っていた面子が渓谷入口に集まっていて、これからの作業について話し合っているようだった。エリゼがこけない様に優しく引っ張って先導するリィン。その後ろをついていきながらクロウはふと、凰翼館へ視線を向けた。慌ただしく駆けていくメイドが二名見える。お偉いさんの相手に忙しいのか。
二人の会話が、冷たい微かな風に乗って途切れ途切れに届いた。

「急いで……もうす……帰るって……」
「……いわ……帝……宰相……っと……」
「っ?!」

今。
確かに聞こえた。会話している内容はほとんど聞き取れなかったが、確かに。それだけはっきりと聞こえた。たまたまなのか、運命なのか、己の執念によるものか。
宰相。
この帝国でそう呼ばれる人物は、たった一人しかいない。

「クロウ?」

足を止めたクロウに気付いたリィンがエリゼと共に振り返ってくる。クロウはまるで錆びかけたロボットのようにぎこちなく首を動かし、リィンを見た。怪訝そうな顔が、どんどんと困惑に彩られていく。今の自分はどんな表情をしているのか。取り繕う事も忘れて、無感情な声を上げた。

「リィン、お前はエリゼ嬢ちゃんと一緒に先に行っとけ。俺はちょっと、用事が出来た」
「用事?それって一体……あっクロウ?!」

静止の声も聞かずに、気づけば駆けだしていた。向かうはもちろん凰翼館だ。あれだけ近づくなと言い含められていたリィンは追ってこないだろう。それでいい。リィンは、来ない方が良い。シュバルツァー夫妻があれだけ言い聞かせていた理由が分かった。そうだ、リィンにだけは会わせてはならないだろう。だってあの子供は、知らないのだから。己と、かの男の関係を、何も。
広場を全速力で通り抜ければ、凰翼館の前に数名の人影が見えた。こちらに背を向けて立っている男はテオだ。入り口には見送る体勢の支配人とメイドが控えていて、間に何名か見知らぬ人影がいた。……いいや。護衛らしき軍人たちは確かに見た事も無い顔だったが、中心にいる男だけは知っている。忘れるはずが無い。
この男のためだけに、この地で生き延びていたと言って良い。忘れる事の出来ない、憎い男の顔。故郷の、祖父の仇。

「……ギリアス・オズボーン……!」

ギリ、と。食いしばった歯の隙間から零れ落ちた男の名前が、相手に聞こえているはずはない。それでも一瞬だけ。周りの人間と談笑する男の目が、クロウを見た気がした。すぐに逸らされてしまったので、気のせいだったのかもしれないが。そうとは思えない確かな衝撃がクロウの心に残った。
そんなに走ってもいないのに上がってしまった荒い息を飲み込んで立ち尽くしていると、大人たちの会話が聞こえてくる。

「……事前に知らせを貰っていれば、もっとしっかりとしたもてなしも出来たのですが」
「必要ない。先ほども言ったように所要で顔を出しただけだ。しばらくこの地域で動く事になる、また近いうちに立ち寄る事にはなるやもしれんな」
「その時こそは、一報入れて欲しいものですな」
「ふっ、考えておこうか」

言葉だけ聞けば意外と和やかな会話。しかし周囲には無視できない緊張が漂っている。その証拠に、奥に控えているメイドたちなんかはガチガチに固まっているようだった。表情は見えないがテオの背中も心なしか、いつもより張りつめているような印象を受ける。その中で悠然と笑みを浮かべているのはオズボーンぐらいなものだ。
お供の者を引き連れて、言葉通りどこかへ立ち去ろうとしているオズボーン。その途中で、彼は足を止めた。後をついて歩こうとしたテオへ振り返り、おもむろに尋ねる。

「ところで……「アレ」はどうしている?」

今まで快活に話していたはずのオズボーンの声がその時は、どこかひそめられたもののように聞こえた。まるで後ろめたい事を話しているかのようだ。今までの態度を見れば、それは異常とも思えた。
「アレ」。それだけ聞くと本人以外はさっぱり分からない言葉だったが、向けられたテオは少しの沈黙の後、淀みなく答えた。

「もちろん、健やかに育ってくれています。……あなたが心配するようなことは、何もありません」
「そうか」

返された返事は一見そっけない。途端に興味を失ってしまったような声色だった。それ以上何も尋ねる事無くオズボーンはテオから視線を逸らしてしまう。テオも何も言わなかった。横で聞いていた軍人や、支配人やメイドたちだけがこっそりと顔を見合わせて首を傾げている。
その、当人たち以外には意味不明なやり取りを、傍から聞いていたクロウは理解してしまった。オズボーンが指した「アレ」とは一体、何の事だったのか。何故テオにだけは分かったのか。もしかしたらクロウの事情を知る者は、「アレ」が指した人物がクロウの事だろうかと思うかもしれない。クロウをシュバルツァー家に預けたのはオズボーンだ。しかし、そうではない事をクロウは知っていた。
オズボーンと、シュバルツァー夫妻と、クロウだけが知っている事実。オズボーンが今、誰を気にかけたのか。あの鉄血宰相が声を潜めてまで心を配っているのは、一体どんな人物なのか。クロウの脳裏に、一人分の笑顔が思い浮かぶ。
己を孤独から掬い上げた、あの、薄紫の瞳を。

「ではな」
「ええ、お気をつけて」

オズボーンがこちらへ歩いてくる。さくさくと、真っ白な雪を踏みしめてやってくる。クロウは俯いたまま、脇に避けた。真っ直ぐ前を向いたまま、その横をオズボーンが歩き去る。
その一瞬。


「どうやら賭けは、私の勝ちのようだな?」


「……っ!!」

クロウだけに聞こえるように掛けられたその言葉を理解し損ねて数秒後、カッとなって振り返ってもそこには、ただ遠ざかるだけの男の背中しか見えなかった。真っ直ぐ伸びた背中が、ケーブルカーの方向へ歩み去っていく。それをクロウは、止めることも出来ずにただ見送った。
どれほどそのまま立ち尽くしていただろうか。背後から肩を叩かれて、ようやくクロウは自分が血がにじむほど拳を握りしめていた事に気付いた。ゆるゆると力を抜いて顔を持ち上げれば、気遣うように眉をひそめてこちらを見下ろすテオの顔と出会う。テオの瞳に微かに映る自分の顔がとても滑稽なものに見えて、急に笑いたくなった。

「テオさん……」
「クロウ。彼の事は何も気にすることは無い。君と彼の間にどんな言葉が交わされているのか私は知らないが……少なくとも今の君はシュバルツァー家の、私たちの家族だ。それを、忘れないでくれ」

優しく肩を叩いた手が、今度は頭を撫でてくれる。とても温かく大きな手。その言葉にも、手の平の温もりにも、クロウを思いやる優しい温度しか感じ取ることが出来なかった。詳細は分からなくとも、テオは心からクロウの事を案じてくれている。本来ならば赤の他人でしかない押し付けられた子供の事を、こんなにも。とてもありがたい事だと思った。普段のクロウであれば。

「……ありがとう、ございます」

何とか礼を述べたクロウはテオの手から逃れるように一歩後ろへ引いた。宙に浮いた手が戸惑うように揺れる。その事に謝る余裕も無かった。テオの目が見られない。また一歩下がる。

「クロウ」

名を呼ばれる。返事をすることも出来なくて、雪の積もったままの地面を見つめながらクロウは一気にまくしたてた。

「すみませんテオさん、俺ちょっと一人で頭冷やしてきます。必ず戻りますのでそれまではどうか、探さないでやってください!」
「クロウ!」

引き留めるための声に背を向け、一気に駆け出す。これ以上この場にいたら、どんな言葉を発してしまうか分からなかった。胸の内にはどろどろと暗くて醜い思いが次々と溢れ出て渦巻いている。こんな気持ちは久しぶりに味わった。忘れていた。忘れてしまっていた。これから生きていく中で決して消える事は無いだろうと思っていたこの感情を、あろうことかクロウは今の今まで忘れてしまっていたのだ。その事に、気づいてしまった。
それは、己を内側から全て燃やし尽くす黒い炎。今まで持っていたものを全て捨てて成し遂げようと決意した、復讐。憎しみであった。
原因は、分かっている。この、今にも胸の内から溢れ出てきそうなどす黒い感情を思い出させた原因と、まったく同じだ。脳内に瞬時に思い浮かぶあの笑顔が、クロウからこの憎しみを奪い取り、そして今、思い出させた。
全力で走る口から忙しなく白い息が漏れる。なりふり構わず走っているせいか、雪に足を取られて何度も転びかける。しかしそれでもクロウは走る事を止めなかった。今走る事を止めてしまえば、何か恐ろしいものに追い付かれてしまう気さえした。とにかく前だけを見て、郷の外れへと走り続ける。追うものはいないと分かっていても。
クロウは知っていた。逃れたかったのは背後に迫る何かでは無く、己の頭に浮かび続けるたった一人の存在からだと。

「……リィン……!」

息継ぎの合間に漏れた声は、まるで助けを求めるように掠れていた。





目の前に白い何かがちらつく。ぼんやりと俯いていた視線を上げたクロウは、それが空から降り注ぐ雪の欠片であることに遅れて気が付いた。いつ頃からかは分からないが、どうやらいつの間にか雪が降り始めていたらしい。頭を動かした途端にぱらぱらと冷たい破片が零れ落ちてきたので、降り出してから結構な時間が経っているようだ。まったく気付かなかった。
眠ってはいない、目を開けたままじっと蹲り続けていただけだ。それでも降り出した雪の存在に気付かなかったとは、どれほどまで己の内側に閉じこもっていたのだろうか。はっと自嘲するように吐き出した息は、少し前に駆けていた頃より白く濁っているように思える。気温が下がっているのか。あれからどれだけの時間が経ったかさえも分からない。
クロウは今郷の外れの森の中にいた。奥まで入り込んではいない。少し歩けばすぐそこにユミルへの道がある、しかし外からは見えないような木の根元に、クロウは隠れるように小さく縮こまっていた。幸い誰も傍に立ち寄る事は無く、今までただただ思考の海に漬かり込んでいられた。一人で、考え込んでいられた。
しかしそれでもクロウの思考は未だ迷宮を彷徨ったままだ。ずっと一つの事柄ばかりを考えているのに、結論は一切出てこない。これから自分は、どうするのか。どうすべきなのか。……どうしたいのか。

『どうやら賭けは、私の勝ちのようだな?』

先ほど聞いた声を思い出せば、身の内に燻る炎は簡単に燃え上がる。やはりあの男を許すことは出来ない。故郷と大事な家族を奪われた憎しみもあるが、何よりあの男との勝負に負けたくは無かった。憎き祖父の仇、ギリアス・オズボーンと交わしたたった一つの勝負。あの時はこの勝負に乗るしかない状況にあったが、それでも受けたのはクロウだ。言い訳をする気も無いし、未だに負ける気も無い。祖父に育てられ、鍛え上げられた勝負師としての魂が負けてたまるかと叫んでいた。
元々、この地でこれからも安穏と暮らしていくつもりはない。ユミルはよそ者の自分もすぐに受け入れてくれた温かな地であるが、そんな場所が暗い道を歩んでいく覚悟を持つ自分に相応しい土地であるとは決して思わない。最初から、いずれは出ていくつもりであった。そういう意味では、勝負をやり遂げる事に何の未練も無い訳だ。未練があるとすれば、その対象だけ。
あの男が辺境の地に立ち寄ってまで、様子を窺う唯一の人間。ギリアス・オズボーンの弱点。この勝負に勝つために必要不可欠な存在。その命を使えば、まだまだ子供のクロウでも奴に傷をつけることが出来るだろう。あの男が仕掛けてきた勝負とは、つまりそういう事だ。クロウが手を出せない事を確信しているような憎々しい笑みだった。つまり手を出すことが出来れば、クロウの勝ちなのだ。
手を出すことが、出来れば。

「……くそっ……!」

抱えていた膝に、己の拳を叩きつける。痛みを感じなかったのは次々と溢れてくる怒りのせいか、雪の中でかじかんだ手足のせいか。指先が震えている。これは多分、寒さのせいではない。
そうやって薄暗い思考に陥るたびに、脳内をちらつく光がある。先ほど必死で逃げてきた幻影は、消える事なくクロウを責め立ててくる。いいや責めてくるのはその光ではない。光の反対側に伸びるクロウの影が嘲笑い、指を差してこちらを責めるのだ。

何が勝負だ。何が仇だ。お前はすでに負けているじゃないか。

「っうるせえ!負けてなんかねえよ!」

思わず、耳を塞ぐ。そんな事をしても、内側から響いてくる嫌な笑いは消えてくれない。いつまでもクロウを嗤い続ける。またしても雪がほのかに積もり始めた頭を振り乱しても、さらにぎゅっと身を縮こまらせても、クロウを逃がしてはくれない。

負けているじゃないか。お前はもうアレに手を出せない。

「そんな事はねえっ……!」

嘘をつけ。もう、アレを直接害する事など、考えも出来ないくせに。

「そんな事はねえって言ってるだろ!」

じゃあ、出来るのか?

「出来るに決まってる!」

カッと顔を上げたクロウの瞳は赤黒く燃え上がっていた。細かく震えるほど拳を握りしめたまま、血の滲むような声を絞り上げる。

「あの男に……たった一人の肉親を奪われるこの苦しみを、味あわせてやる……!」

クロウは知っていた。
その決心は、即ち。
あの男と血が繋がる子供、リィン・シュバルツァーを己の手にかける事と同義である事を。


途端に消える脳内の声。クロウはゆらりと立ち上がる。具体的にどうするかは決めていないが、今日はこれが限界だろう。テオに必ず戻ると告げてきた。あまり遅いと探されてしまう。郷へ戻らなければ。
ゆっくり、ゆっくりと機会を窺えばいい。この決意を胸に、これ以上決して踏み込みすぎないように。ちゃんと、いずれ切り捨てる存在なのだと己に言い聞かせて、接していけばいい。そうすればきっと、いつか本懐を遂げられる。目的を果たすことが出来る。復讐を、やり遂げられる。
リィンを、「使う」ことが出来るだろう。

今まで忘れていた、魂を焦がすような黒い感情を胸に抱いたままクロウは笑う。これでいい。今までぬるま湯に浸かりきっていた日常は、仮初のものだった。もう見失わない。何のために自分は故郷を離れたのか。何のためにこの地で生き延びているのか。忘れない。あの時全てを捨てて選び取ったものは、この復讐心以外の何ものでもないのだから。
徐々に落ちてくる量を増やしてきた雪の中、ほの暗い考えを表に出してはならないとすぐに笑みを引っ込め、クロウは郷へと足を向ける。このまま何食わぬ顔で戻り、今まで通りの態度で過ごすだけだ。きっと容易い。隠し通す自信もある。きっと、上手くやれる。
そう、思っていた時だった。
ドクリ、と。かつて味わった事のないような悪寒が背筋を這い上がった。

「……っ?!な、んだ?」

辺りを見回すが先ほどまでと特に変わりは無い。静まり返った森の中で、しんしんと降り続ける雪が視界を次々と掠めていくだけだ。それでもクロウの胸の内には、じわじわと何かが浸食してきていた。大きく跳ね始めた心臓は止まらない。思考が理解するよりも先に、体と魂が「それ」を感じ取っているようだった。

嫌な予感がする。
それも、今まで感じた事が無い、とてつもなく嫌な予感が。

「ちっ……!」

舌打ちしたクロウは駆け出した。ここまで逃げてきた時よりは慎重な足取りで、それでも最大限に急いでユミルの広場へと向かう。まだこの予感が何に対しての嫌なものなのかは分からない。それでもクロウはどこか予想していた。根拠の全くない唯の勘であったが、それが外れている気は困った事にほぼ無い。キリキリと胸の内側が痛んで思えるのは、苛まれる予感によるものか、その予感に足を急がせる己自身によるものか。
だって、もし予想が当たっているとしたら……こうして急いでいる自分が、何よりも滑稽だったから。

「……っ!テオさん!」
「!クロウ、無事だったか」

郷に入り、雪が降りしきる中庭を駆け抜けた先に大勢のユミルの人々が集まっていた。その中からテオの姿を見つけて傍に走る。振り返ったテオはほっとしたようにクロウを出迎え、何か言いかけてすぐに口を噤んだ。おそらく先ほど逃げたクロウの様子を心配して何か尋ねようとしてくれたのだろう。しかしそれよりもまずは優先すべきことがあったのだ。クロウもテオが向ける視線を追う。わざわざ追わなくても、それらはすぐに目についた。不安そうに集まる人々の中心で、泣き声を上げる子供たち二人の姿。最早見慣れた顔だ。それぞれ母親に支えられて必死に言葉を紡ごうとしている。その雪まみれになった子供たちの一人はラックだった。

「ほっ本当だよ、今まで見た事ない魔獣でっおじいちゃんがお前たちは先に逃げなさいって言って、それでっうわあああん!」

嗚咽を漏らしながら何とか話すその内容は脈絡がない。しかしクロウは今までの経緯も合わせて予想を立てた。ラックはあの足湯作りのメンバーの中にいた。おそらくクロウが去ったあの後、材料の木材を切りに渓谷へと入ったはずだ。そこで魔獣に襲われて、子供たちだけが逃がされたのだろう。ラックと、もう一人、ルシアの腕の中で涙を流すエリゼだけが。

「かあさまっとうさまったすけてください!にいさまが、リィンにいさまが!」

この場に姿が見えない、エリゼの口から出てきたその名前に、クロウは誰にも見えないように奇妙に口元をゆがめた。
ああやっぱり、滑稽で仕方がない。予想が確定された今でも、不安で潰されそうなこの心臓が。



15/01/17



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