第七話
その日は、連日降り続けた雪が珍しく止んで、頭上の太陽が我が物顔で空を占拠する気持ちの良い晴れた天気だった。ユミルの郷はほぼ全てが真っ白に染まりきり、日の光を反射してどこもかしこも眩しいほどだ。そんな白銀の景色の中を、どこか慌てたように走る赤い子供用コートがあった。真新しい雪の上にぎゅっぎゅっと足跡をつけながら、きょろきょろと周囲を注意深く見まわして駆けているのはリィンだった。鼻の頭を真っ赤にしながら、それに構う事無く白い息を吐き出して何かを、誰かを探している。
「あれ、リィンおはよう。どうしたの?」
たまたまそこに通りすがって声を掛けたのは、スコップを手に持ったラックだった。きっと家の手伝いで雪かきをする所だったのだろう。いつもなら挨拶を交わしたあとに軽く話をするところなのだが、今の急いでいるリィンにはそんな余裕が無かった。
「ラック!クロウを見なかったか?」
「クロウ?いや、見ていないけど」
「そっか、ありがとう。じゃあまた!」
外にいないとなると、やっぱりあそこかな、などとブツブツ呟きながら走り去るリィンの背中をラックは手を振って見送った。ちょうどその時ラックの後ろに、同じように雪かきをするためにスコップを持った祖父のギズモがやってきて、微笑ましそうに小さな背中を見つめる。
「ほっほ、坊ちゃんは今日も元気だのう。今日もまた追いかけっこかの」
「うん、そうみたい。リィンとクロウは本当に仲良しだなあ」
キリリとした寒さの中でも大変温かな瞳が、たった一人を探して郷中を奔走する姿に優しく注がれる。こうやって毎日ユミルの皆から柔らかく見守られている事を、リィンはまだ知らない。
リィンはなるべく気配を絶ち、そっとドアを開けた。内側に開いた木製のドアの隙間から、見慣れた宿酒場の様子を覗き見る。今日の木霊亭にはまだ常連である木こりのモリッツは来ていないようだ。代わりに別な一人のお客が、こちらに背を向けてカウンターに腰掛けている。対面する主人のジェラルドは、少々呆れた顔をしながらもたった一人の客の会話に付き合っている所らしい。足をぶらぶらと機嫌良さそうに揺らしている銀髪は、どうやら何かの雑誌を覗き込んでいるようだが。
「なあ、やっぱり次に来るのはシャドーボルトかね。俺的にはワイルドスラッシュが大穴だと思うんだけど、おっさんどう思う?」
「さあな、競馬には興味ない。どうせ実際に賭けも出来ねえのに予想する意味あるのか、クロウ」
「分かってねえなあ、そりゃ確かに実際に賭けるのが一番だけどよ、こうやってダラダラと予想するだけの時間もまた趣がある訳よ」
「そもそもお前さん、まだ賭け事のできる歳じゃないだろ」
「……そりゃ言わない約束だぜ」
がくりと肩を落としている背中を見て溜息をついたリィンは、わざと音を立ててドアを開け放ち、声を張り上げた。
「クロウ!見つけたぞ!」
「ほら、いつものお迎えだぞ」
「マジかよ、早いなー」
リィンがつかつかと歩み寄る間に、テーブルの上に投げ出していた雑誌をばたんと閉じて振り返ってくる緋の目はまったく悪びれていない。カウンターに片肘をついてにやりと笑ったクロウは、呑気に片手を上げてみせた。
「よおリィン、お迎えご苦労さん」
当然のように呼ばれる名前に、にやつかないよう必死に耐えながら、いかにも「文句があります」といった表情を慌てて作るリィン。大人用の高い椅子に座ったその顔を、傍まで歩み寄ってぐいっと見上げる。
「本当だよ!いつの間にかいなくなってるんだから……もしかして、ジェラルドさんにまたこっそり競馬雑誌を読ませてもらってたのか?」
「さーて、何の事だか」
ピューピューわざとらしい口笛を吹いているクロウも誤魔化し切るつもりは無いのだろう。どうやらクロウは故郷で彼のお祖父さんからギャンブルの手ほどきを受けていたらしく、賭け事全般が基本的に好きなんだと、先日話してくれたばかりだった。今までそういうそぶりは見せなかったじゃないかと問えば、その時のクロウはとても気まずそうに視線を逸らしていた。ああ今まではこちらに気を遣っていたんだと、その様子を見ればリィンにもすぐに分かった。
賭け事はよく分からない。そもそも子供はやってはいけない事になっている。それでもリィンがクロウを強く止められないのは、そういうやり取りがあったからだ。シュバルツァー家の居候という事で、色んな事を自分の中だけに押し込めていたクロウ。そんな彼の一端を最近、少しずつ見せてくれている事が、リィンにとってはとても嬉しい出来事だった。だからこれ見よがしに溜息を吐いて、仕方が無いように腕組みをしてみせる事しか出来ない。
リィンからの小言が飛んでくる気配でも感じ取ったのか、先手必勝とばかりにクロウの方から話を進めてきた。
「それで?何か用があって探しに来たんだろ?」
「あ、うん。今から雪かきをするんだ。出来ればクロウにも手伝ってもらいたいと思って」
「何だそういう事なら早く言えって。ジェラルドのおっさん、これありがとな。また最新号よろしく!」
「はあ……まあ、気が向いたらまた<<千鳥>>にでも頼んでおこう」
雑誌を受け取って呆れた様子のジェラルドが、こんな強面の顔をしながら子供にもとても優しい男である事は周知の事実だ。こうしてクロウをこの木霊亭に迎えに来るのは今日が初めてではないが、たまに自作のスイーツをごちそうになる事もある。
きっとジェラルドさんはクロウのためにあの雑誌の最新号を今度買うんだろうなあと思いながら、リィンは椅子から飛び降りて隣に並んだクロウを見上げる。
「行く前にクロウ、ちょっと待って」
「ん?何だよ」
「今日はまだあれ、やってないから」
「あー、そういやそうか。ったく、毎日しなくたって大丈夫だっつーのに、心配性だなお前も」
困ったように笑うクロウは、しかし拒む事無く少しだけ身をかがめた。対するリィンは逆に少しだけ背を伸ばし、両手を差し出してクロウの頭を挟み込み、そのまま二人の額をくっつけ合う。じっと、触れ合う場所の熱を感じ取って黙り込むこと数秒。満足したようにリィンは身を離した。
「うん、熱とか無いみたいだ。大丈夫」
「お前もな」
ぴんと軽くリィンの額を弾いたクロウがにっと笑う。顔色も良く見た目的にも健康体であるのは間違いなかったが、それでもリィンはこうして実際に触れ合って確かめなければ気が済まなかったのだ。この行為はもう、二人の間の習慣になろうとしていた。
クロウが川に落ちて寝込んだ日から数日後、大分調子を取り戻してベッドから抜け出せるようになったその日から、リィンはこうしてクロウの熱を計るようになった。熱が高い眠ったままの額に触れた時とは違う正常な体温に、心からホッとしたのを今でも覚えている。その時手に入れた安心を感じ取りたくて、気づけば毎朝クロウの体調を気にしていたのだった。
そういえば最初にこうやって熱を計ったのは、初めてクロウに出会った日の夜だった。一ヶ月以上も前の事なのか、一ヶ月しかまだ経っていないのか、最早リィンには判断が出来ない。二回目にこうして額を合わせた時、複雑そうな顔で笑いながら言われたクロウの言葉を同時に思い出す。
『いや、熱計んのはいいんだけどよ、お前の計り方、それしかねえの?』
あの時、何か問題でもあるのかと首を傾げながら尋ねたが、何でもねえとかなんとか誤魔化されて結局は満足のいく答えを貰っていない。クロウは何が言いたかったんだろうと、リィンは今でも不思議に思っている。リィンが熱っぽい時なんか、ルシアがいつもこうして計ってくれているのに。
考え込みそうになったところに、肩を叩かれて我に返った。クロウが出口へと歩き出していた。
「んじゃ、行こうぜ」
「うん。ジェラルドさん、失礼しました」
「おっさんまたなー」
「おう、頑張ってこい」
無愛想に激励してくれたジェラルドが、二人連れだって店から外へ出て行った後、深い深い溜息を零していた声を、幸いリィンは聞いていなかった。
「ったくあいつら、相変わらず仲の良い事だ……仲が良すぎる気もするがな……」
雪かきは雪国にとって必須の作業だが、これが結構の重労働だ。大量に雪が降った日の翌日なんかはユミルの民総出で取りかかる事となる。今日もまたそんな雪かき日和で、リィンもクロウも大人たちに混じって懸命に雪かきを手伝った。こんなに大量の雪を運ぶのは初めてだと、クロウはスコップ片手にひーひー言いながらもすぐにコツを覚えていたようだった。いつも思うが、とても器用だ。
「……よし!ここもこれぐらいでいいかな。ご苦労さまクロウ」
「っはー、ようやく終わりか!覚悟はしてたがやっぱ大変だなあ雪国ってのは」
持っていたスコップをざくっと地面に突き立て、クロウが大きく伸びをする。二人が最後に手掛けていたのはユミルの出入り口、ふもとの町へ行き来できる唯一の道付近だった。この道を見ているとどうしても数日前の出来事を思い出してしまいそうになる。ぶるぶると首を振って気を取り直したリィンは、疲れたーとスコップに寄りかかるクロウに笑いかけた。
「それじゃあ、帰って休もうか。父さんたちも粗方終わらせて休憩しているみたいだし」
「んだなー……お?」
その時クロウの視線がぴたりとどこかを見て止まる。道のはずれ、木々の生えていない緩やかな雪の斜面だった。雪かきの道具を集めてクロウの隣に立ったリィンは首を傾げてその視線の先を追う。
「どうしたんだ?何かあった?」
「何もないから見てたんだよ。ほらあそこ、障害物が何もなくて綺麗に開けた場所があんじゃん?」
「え?……ああ、あそこか」
ぽんと手を叩く。リィンにとっては見慣れた斜面だった。郷からほど近い絶好の開けた場所は、ユミルの子供たちにとっては格好の遊び場だ。もちろんクロウが見つめる場所も例外ではない。
「ここ、ラックと一緒によく滑り降りたりしてる場所なんだ。今日はまた綺麗に雪が積もってるな」
「ほーやっぱりか。何か滑り降りる道具でもあんのか?」
「えっと、確かあそこにソリをしまってたはず……もしかしてクロウ、滑りたいのか?」
尋ねれば、楽しそうな笑顔が返される。さっきまでずいぶんと疲れていた様子だったのにタフなものだ。そんな期待の顔に答えられない訳が無くて、リィンは傍にあった郷の倉庫からソリを引っ張り出す事にする。くっつけば二人乗る事が出来る子供サイズのものだった。雪かき道具はとりあえずその辺に置いて、ソリをひとつだけ持って自然が作った天然スキー場の天辺に並んで立つ。
「でもクロウ、滑った事あるのか?」
「いや、ねえよ。とりあえず一回一緒に滑って教えてくれよ」
ソリを流れで受け取ったクロウが地面に置く。その上によいしょと腰を下ろしてから、リィンをちょいちょいと手招いた。
「ほら、ここに」
「うん分かった」
素直に頷いて導かれるままリィンが落ち着いた場所は、ソリの後ろ側に座っていたクロウの前方だった。あれ、と思う間もなく背後から両腕が伸びてきて、半ば抱え込まれる形のままソリが前進し始める。
「よっしゃ、行くぜ!」
「え?!あ、ちょっと待ってクロ……うわあっ!」
あっという間だった。かくんと一気に傾いたソリは二人分の体重を乗せて、分厚い雪の上を綺麗に駆け下りた。元々そこまで斜面が急な場所では無く、距離も短かったためゴールはものの数秒で訪れる。ドキドキする暇も無かった。すぐに平たい場所で動きを止めたソリの上、ぽかんと少しだけ呆けるリィンの後ろ側からは、それでも楽しそうな笑い声が届く。
「おおー!なかなかいい感じじゃねーか、もっと長くても良かったな!まっ初めてにしては上出来か!」
ソリに座ったまま満足そうに頭や肩をぽんぽん叩いてくるクロウを、リィンは振り返った。
「……クロウ」
「ん?」
「ちょっと聞きたいんだけど……これ、逆じゃないか?」
これ、と指すのはリィンとクロウの両方。先ほどクロウはリィンに、教えてくれと言っていた。だとすれば普通、教える側が後ろに回らないだろうか。実際今の滑りは完全にクロウが主導していて、リィンは何もやっていない。結果的に教える必要はなかった訳だが、なんだか納得がいかないリィンなのだった。
ぱちぱちと赤い目を瞬きさせたクロウは、言われて初めて気づいたと言いたげな顔をしている。
「あー、確かにそうかもな。何か自然とお前を前にやってたわ。でもまあ、この方がしっくり来ねえ?」
「で、でも!おれが教えるところだったのに!これじゃ意味ないじゃないかっ!」
「分かった分かった、それじゃ逆でやってみようぜ」
ソリを引っ張って斜面を登り、再びスタート地点に立つ。今度はちゃんとクロウが前に、リィンが後ろへ乗り込んだ。よしっと意気込んで前へと伸ばした手は、急に動き出したソリによってとっさにクロウの胴へギュッとしがみついていた。
あれ?
「よーし行くぞ!しっかり掴まっとけよー」
「へ?あ、れ?クロウ、何かこれも違、うーっ?!」
言葉の途中で視界が傾き、問答無用で斜面を滑り降りる。やっぱりすぐに辿り着くゴール。楽しいけど少しもの足りねーなーと呑気に呟いている銀色の後頭部に、リィンはギギギと視線をやった。
「……クロウ」
「あー?」
「やっぱりこれもちょっと違う気がするんだけど……」
今のリィンはクロウに背後から抱き着いているだけに過ぎない。とてもソリを操る体勢では無かった。振り返ったクロウは少しの間考えて、静かにリィンへ宣言する。
「リィン、多分お前が望んでいる体勢になるのは、俺とお前じゃ無理だわ」
「う、ううっ……!」
薄々分かってた事を目の前につき付けられ、思わずクロウの背中に突っ伏した。子供の歳での2歳差は大きい。リィンだって平均的な10歳の男児として見れば別に特別小さい訳ではないのだが、年上のクロウの身長にはどうしても敵わないのだ。
身体だけでは無い。クロウは内面でさえも自分より大分先に行ってしまっている、とリィンは歯噛みする。ぽんぽんと、落ち込む頭を優しく撫でられるたびにそう思う。
「ほら、いつまでしょげてんだよ。今度は一人で滑ってみるからもう一回登ろうぜ」
「……うん」
しぶしぶソリから降りて、再び斜面の頂上へ。間髪入れずに一人で飛び乗ったクロウは、二人で滑った時とまったく変わらない安定感で雪の上を滑る。相変わらず飲み込みが早い。初めて滑るなんて嘘なんじゃないかと思うほどだ。
こうしてクロウの大変器用な様を見ていると、時々リィンの心には得体の知れない焦りが生まれる事がある。置いていかれてしまうのではないかという根拠のない不安が訪れる事がある。突然ユミルへやってきて、あっという間にシュバルツァー家にも郷にも馴染んでしまったクロウだから、同じく突然どこかへ自らいなくなってしまうのではないかと、たまに考えてしまうのだ。
そして、それは嫌だと瞬時に思えるほどには、リィンの内側にクロウが大きく住み着いてしまっている。
「おーい、なにぼさっと突っ立ってんだよ。次はお前の番だぞ」
「……へっ?」
「へっ、じゃねーよ。こういうのは順番だろ、順番」
クロウが滑る姿を見送ったままじっと立っていたリィンの目の前に、いつの間にか雪の中で輝く緋の瞳が迫っていた。こちらを覗き込んでくる赤色に、羨望と安心と共に何故だか胸が高鳴るようになったのはいつからだっただろうか。直前まで考えていたのがこの目の前の人物だった事もあり、妙にドギマギしてしまったリィンはクロウの手によって何の抵抗もなくソリに乗せられていた。
「……え?」
「おら、いってこーい!」
「ちょっちょっと待、わああー!」
一人でソリに乗せられた背中を思いっきり押され、悲鳴だけを残してリィンは一人斜面を滑り落ちた。いくら坂が緩やかでも、いくら滑り慣れていても、心構えが全く出来ていない時のスキーとはこうもびっくりするものだったのか。この雪深い郷で生きてきて5年と少し、リィンが初めて知った事実であった。
「おー、さすがユミルっ子は綺麗に滑り降りるな」
「く、クロウっ!いきなり背中を押すなよ!」
「俺はさんざん声掛けただろー。何かぼーっとしてたお前が悪い!悔しかったらここまで来てみろー」
やーい、とあからさまな挑発をするクロウに、むっとしたリィンはソリを引き摺ったまま、一気に雪の坂を駆け上がった。
「うを!早っ!お前雪の上走るの早えな!」
「当たり前だっクロウの何倍も雪の中で走ってきたんだからな!待てー!」
「ぶっは!冷てえ!こら、雪投げるの禁止だ禁止ー!」
「問答無用ー!」
それからしばらく、唐突に始まったリィン対クロウの小規模な雪合戦は飽く事なく続いた。いつの間にかそれが再びソリでのスキー対決になっていたり、どちらが大きく作れるかどうかの雪だるま対決になっていたり、内容はころころ変わったが二人で雪まみれになって遊び倒したのは間違いない。寒さも疲れも忘れて、揃って鼻の頭や頬を真っ赤にしながら郷の外れで笑い合った。どうして対決が始まったのかなんて、些細な事過ぎてすぐに忘れていた。
「なあなあ、これ、こう乗ったらもっとスリリングなんじゃねーの」
ふいにクロウが、ソリの上に立ってバランスを取り始めた。普通座って乗るものであるが、両手を広げて上手に立ち続けている。しかしリィンは首を横に振った。
「駄目だよ、危ないだろ。立って乗るなら、それ専用のスノーボードにしなきゃ」
「何だ、専用のがあるのか?」
「うん、バランスを取るのが難しいからまだ駄目だって言われて、おれも乗ったことは無いけど……あっ」
「お?」
ずるり、と。二人の目の前でクロウが乗ったソリが動く。変な力の入ったソリが前方に動いてしまい、平らな場所じゃなかったためにさらにずるずると動いてしまう。おっとっととクロウが呟いている間に慌ててソリが向かう先を見てみれば、今まで使っていた斜面よりも大分傾いた坂が、しかも太い幹がいくつも立ち並ぶ森の中へと続いていた。あんな中を滑り降りるのは危険すぎる。ハッと気づいた時にはすでにソリが結構なスピードで滑り始める寸前の場面だった。
「クロウ……!」
クロウが危ない。その時リィンの脳裏に、二つの選択肢が同時に現れた。一瞬の迷いの後、選び取った答えをとっさに大声でクロウへと伝えていた。
「クロウ!後ろへ倒れて!」
「なにっ?!」
突然叫ばれたその言葉に、驚愕の声をあげながらもクロウは従った。背中から雪の上に着地した後、乗る者のいなくなったソリは重力に逆らうことなく急な斜面をつうっと滑り落ち、下の方で頑丈な太い木の幹にぶつかってひっくり返った。すぐに体を起こして尻もちをついた状態のクロウと、そこに駆け寄ったリィンは二人で並んでそれを見ていた。クロウの口からぴゅうっと軽い口笛が漏れる。
「危なかったなー、バランスとるのに夢中でうっかりあのまま滑り落ちる所だったぜ。リィン、助かった」
「う、ううん、今のはとっさだったから……以前父さんに、ああいう時は後ろに倒れこんだら下手に滑り落ちることは無いって教わってたんだ」
「なるほどな、それじゃテオさんにも感謝だ」
お揃いの安堵の溜息を吐き出す。クロウに怪我が無くてよかったと笑顔で顔を向ければ、リィン以上のにまにま顔がこちらを見上げていた。何故かとても嬉しそうなクロウは、立ち上がって体についた雪を手で払う間もその笑みを崩さない。今の流れで、何がクロウをこんなに喜ばせたのだろうか。リィンにはさっぱり分からなかった。
「クロウ?」
「いやー、こうやって些細な事でも目の前でその変わり様を見られるのは、体張った甲斐があったなーと感慨にふけってただけでな」
「ん、んー?」
クロウの言っている意味が分からなくて首をかしげる。うんうん悩んでいると、その額をとんと、冷たい指先がつついた。
「さっきのお前だよ、リィン。俺に向かって指示出してくれただろ?」
「う、うん。でもそれでどうしてクロウが嬉しそうなんだ?」
「そりゃなあ。だってお前、今までだったらそんな言葉よりまず、体が動いてただろ絶対」
「……えっ」
丸く目を見開くリィン。聞かされた答えが予想外過ぎて反応できない。ぽかんと時が止まってしまったリィンの様子を、おかしそうに笑いながらなおもクロウは続ける。
「賭けてもいいけどな、このままじゃクロウが危ない〜とか何とか焦って、後先考えずにソリの前に飛び出して自分の体で止めようとか何とか無茶で馬鹿な事してたと思うぜ。そうだなー、夕飯のデザート三日分でどうよ!」
「か、賭けないから!それに、そんな危ない事、」
「絶対しなかったって、言い切れるか?」
クロウにひたと見つめられ、リィンは言葉を飲み込んだ。強い視線に晒されて、そっと俯く。反論など、出来るはずが無かった。まさにあの瞬間、頭の中に浮かんだ選択肢の内の選ばなかったもう一つが、クロウが指摘した通りの内容だったのだ。
クロウの言う事はきっと寸分違わない。周りを顧みず、ただひたすら己の体のみを使う事を考えていたリィンだったら、選択肢が浮かぶことさえなく駆け出していただろう。クロウを乗せたソリがこれ以上前に進まないように、体を張って止めに掛かっていただろう。そうすれば例えリィンがソリに押されて怪我をしたり転がり落ちたりしていても、クロウが助かるなら何でも無い事だ。そんな思いは今もなおリィンの中に残っている。
では何故、今までだったら迷うことなく選んでいた道を選ばなかったのか。リィンはハッと顔を上げた。嬉しそうに、慈しむように細められた紅の目が、まるで褒め称えるかのように輝いていた。
「なあリィン、どうして俺がこんなに嬉しいのか、分かるか?」
「えっ……?」
「もちろん、お前が無茶をしなくなって無駄に怪我をする事も無くなった事とか、俺が体張ったおかげで変わったのかなーっていう事に対してとか、色々あるけどな。それを全部ひっくるめて……お前が俺の事、信じてくれたからだよ」
リィンはクロウに後ろへ倒れろと言った。それは、こう言えばクロウはリィンの言う通りに動いてくれると、信じていたためだ。リィンがクロウを信じ、クロウがリィンを信じている事、そのものを信じていなければ、この誰でも助けたがる頑固な頭はもう一つの選択肢を増やすことは無かっただろう。そうやってリィンが信頼を寄せてくれている事が嬉しいのだと、クロウは笑っている。
「……そっか」
すとんと、リィンの中に何かが降りてくる。疑問は全て晴れ、心が軽くなる。己の中の何かが変わった事に気付き、認め、それを喜ぶことが出来る。気付けばリィンも微笑んでいた。
「今までのおれは、クロウの事を信じてなかったんだな」
「信じてなかったっつーか、見えてなかったってのが正しいかね。なーんて、偉そうな事言えたもんじゃねえんだけどな、俺も」
「そんな事ない。クロウが教えてくれなきゃおれ、自分で絶対に気付けなかったから。ありがとうクロウ」
「礼を言われる事でもねーよ。ま、この調子で変な癖を治していけたらいいな」
「うん!」
わしわしと頭を撫でられて、嬉しくなって元気良く頷く。嬉しいのは、こうして褒められたからだけではない。つまりクロウと同じだ。クロウはリィンの言葉に疑う事無く従ってくれた。リィンの言葉を信じてくれた。それが何よりも、嬉しかったのだ。
にこにことはにかんでいたリィンは、だからかクロウの落とされた呟きを、聞き逃してしまった。
「ホント、どの口が信じてくれて嬉しいなんて、言うんだろうな……」
「……えっ?」
「何でもねえよ。あー、さすがにそろそろ疲れてきたわ。話し込んで冷えても来たし、一回帰ろうぜ」
ざくざくと雪を掻き分けて下に落ちているソリを取りに行くクロウの背中を、リィンは少しの間だけぽかんと見つめた。言葉は上手く聞き取れなかったが今、クロウの声が少しだけ、いつもより低く抑え込んで聞こえた気がした。無事にソリを掴んで戻ってくる笑顔には、先ほど聞こえたような気がした声から窺い知れた暗い予感は一切見てとれない。気のせい、だったのだろうか。リィンの元へと戻ってきたクロウは、何でもない顔で首を傾げる。
「どした?」
「……ううん、何でもない」
結局リィンは、何も言わずにクロウの後に続く事を選んだ。諦めた訳ではない。見て見ぬふりをした訳でもない。
リィンはただ、今まで通り待つことを選択しただけだ。
(いつか全部を、話す日が来るのかな)
自分も、クロウも。己の全てを隠すことなく曝け出す日がいつか、くるのだろうか。
いつか。
「ううっ寒いな、早いとこ温まりたいぜ」
「あっそうだ、帰る前にカミラおばさんの所寄って行こうか。この間新しいホットドリンクを仕入れたから子供料金で飲ませてあげるって言ってくれたんだ」
「あー、例の何でも仕入れるおばさんか。まあ有難いけど子供料金って」
「50ミラだって。クロウも持ってるだろ?」
我が家に帰る途中、そうやって尋ねればクロウは大変複雑そうな顔で黙り込んだ。クロウも確かリィンと同じように、テオとルシアからお小遣いを貰っていたはずだ。ただしクロウはずっと必要ないからいいですと抵抗していて、最後にはテオに半ば無理矢理握らされていた気がする。リィンも同じように申し訳なく思って返却しようとした過去があったが、我が子にお小遣いを返されるほど親として悲しい事は無いと説得されて今では素直に受け取っている。クロウはまだまだ葛藤中のようで、そういえば渡されたお小遣いを使っている場面を見た事は今まで無かった。
「確かに安いけど……俺はパス。お前だけ買ってみろよ」
「えっ、そんなの悪いよ。クロウが買わないならおれも買わない。そうだ、何ならおれがクロウに奢るよ」
「お前な……」
それじゃ意味ないだろと呆れた視線を寄越すクロウに、リィンは一歩も譲らない瞳で受けた。
「おれがクロウと一緒に飲みたいからいいんだ。おれのお金なんだから、どう使おうがクロウにどうこう言われる筋合いはない」
「言うようになったじゃねーかこいつ。でもな、さすがにただ奢られるってのも俺の性分じゃ……」
そこでクロウは、ぴたりと足を止めていた。数歩先に行ってしまったリィンが振り返れば、クロウは地面を見つめていた。雪かきが終わった何もない場所を、まるで遠い何かを思い出すように凝視している。リィンがどうしたのか声を掛ける前に、クロウの静かな声が届いた。
「……リィン。それなら賭けをしようぜ」
「賭け?」
「ちょっとお前の50ミラコイン、貸してみろよ」
足元に持っていた諸々の荷物を置いたクロウから差し出された掌に、疑問を浮かべながらもリィンは一枚の50ミラコインを手渡す。クロウはそれを、己の指の上に乗せた。
「今からちょっとした手品を見せてやるよ。種を明かしたらお前の勝ち、素直に奢られてやる」
「わ、分かった」
手品。目の前で見るのはこれが初めてだ。きりっと表情を引き締めたリィンに笑ったクロウは、ピンと、コインを宙へはじいた。浮かび上がった50ミラコインはそのまま綺麗に元あった場所へ落ちてくる。リィンはコインの軌跡を目で追った。回転しながらクロウの手元に戻ってきたコインは……素早い動きで交差されたクロウの両手の、どちらかに消える。
「!」
「さあリィン、コインはどちらに入っていると思う?」
リィンはクロウの両手を凝視した。動体視力は鍛えている最中で少し自信は無かったが、悩みに悩んでそっと左手を指す。
「こ、こっち」
「ふふん……ハズレだ」
「ええー!」
ぱっと開かれた左手には確かに何もない。悔しくて拳を握りしめたリィンははたと思い出す。最初にクロウが言っていた言葉。確か、手品だと。
「え、もしかして、」
「察しが良いな。じゃーん」
そのまま続けて開かれた右手にも、やはり何もない。目を丸くしたリィンは、クロウの右手と左手を交互に見比べて驚いた。
「え、えええ!ほ、本当に無い!どうしてだ?!確かに落ちてくるまで50ミラコインはあったのに!どこに、どこに消えたんだ?まったく分からな……」
「……ブッ!」
わたわたと首を巡らせながら必死に考えている途中で、クロウが耐え切れないといったタイミングで吹き出した。腹を抱えて肩を震わせて爆笑する姿に、リィンが顔を赤らめながら詰め寄る。
「な、なんだよ!仕方ないじゃないか、手品を見たのは初めてだったんだから!」
「いや、それにしたって滅茶苦茶いい反応で驚いてくれちゃってもう、お前ほんっと素直すぎ!」
「う、ううーっ」
笑いすぎで涙が出たのか、目の端を拭うクロウ。頬を膨らませるリィンだったが、今一瞬。クロウが顔を上げてリィンを見つめたその一瞬、いつもと違うクロウがそこにいた気がした。リィンを見つめた緋の瞳がどこか、懐かしむような。僅かな悲痛と沢山の郷愁に満ちた、何かを思い出すような瞳の色をしていたような。そんな、気が。
「さて、この賭けは俺の勝ちだな!遠慮なく戦利品を貰ってやるぜー」
「え?あっ」
足元に置いた荷物を再び手に持ったクロウがちらりと見せたのは、どこに隠し持っていたのか確かにさっきの50ミラコインで。結局クロウは勝っても負けてもリィンのためにあの50ミラを使うつもりでいた事に、ようやく気付いた。敵わないなあと笑ってから、雑貨屋へと歩きはじめた背中を慌てて追いかける。
(……さっきの目の意味も、いつか教えてくれるのかな)
漠然と考える。クロウがもし今もなお隠している何かをリィンに教えてくれる日が来れば、リィンも話さなければならないだろう。この身に眠る、秘められた得体のしれない力の事を。まだ自分自身もどう向き合えばいいのか分からないほどの、恐ろしい秘密の事を。歩きながらリィンは自然と、己の胸に手を当てていた。
リィンの秘密を知った時、クロウはどういう反応をするだろうか。自身でさえ恐れているこれを見た時、クロウは。
(まだ、勇気がちょっと、足りないな……)
想像する事すら怖くなって、頭を振ったリィンは今は考えない事にする。きっとまだ先の話になるだろう。約束してあるのだ。クロウと共に強くなると。一緒にこのユミルで暮らし、共に強くなった未来でなら、話せるようになっているかもしれないから。その時になれば互いに笑いながら、何でもない事のように語れるのかもしれない。
そんな未来を、リィンは夢見ていた。いつかくるだろう、今は遠い先にある未来を。
「クロウ、さっきの手品の種を教えてくれっ」
「ん?今は秘密、だな。自力で考えてみろよ、お兄さんからの宿題だ」
「えー、そんな、ずるいよ。せめてヒントだけでもー……」
今は、ただ。こうして隣で笑い合える時間が何よりも、大切だった。
そうして、運命の日はやってくる。
14/12/11
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