第六話



海。
どこまでも続く蒼い大海原は、いつもクロウと共にあった。
ジュライの町のどこにいても、少し高い所に登ればすぐにそれは見えた。
良い事があれば水平線の彼方へ叫び、悪い事があれば夕陽に赤く染まる水面を見て心を慰めた。
外国の船が港に到着すれば、何が降ろされるのかわくわくしながら積み荷を見に行った。
あまり得意では無かったが釣りも何度も挑戦したし、知り合いの船に乗せてもらって沖に冒険へ出たりもした。
波の音は子守唄だった。
潮の香りはジュライの香りだった。
海は、常に寄り添う隣人で、飽きる事のない遊び場で、友人で、母で、故郷だった。

ジュライの市場には毎日変わった品物が並べられる。
綺麗に舗装された石畳の上を行き交う色とりどりの靴。
観光客はそれなりにいても、町にはいつもどこかゆったりとした空気が流れている。
通りを歩けば必ず声を掛けられた。
喫茶店の主人、果物売りのおばさん、漁師、日曜学校の同級生、近所のお姉さんに、祖父の友人。
顔の広さには祖父以外の誰にも負けない。
同じ歳ぐらいの子供たちとは特に仲が良かった。
毎日あの手この手を使って遊び倒した。
大人たちに仕掛けたいたずらが成功した時は、大声で笑い合いながら路地裏を逃げ回った。
その後には必ず、拳骨が待っていたけれど。

あまり近づくなと言われた裏の酒場にもよくこっそりと顔を出した。
酒を飲んだ赤ら顔の男たちに混じって、祖父仕込みのギャンブル勝負もよく挑んでいた。
お金は賭けたことが無かったが、お菓子を代わりに獲物にしていた。
男たちがクロウのために持ち寄ってくれたそれを賭けて、勝ったり負けたりを繰り返す日々。
時々クロウを探しに来た祖父にしこたま怒られ、そのまま勝負になってもボコボコに負けるのはお約束だった。

時にはいじめっ子に絡まれた年下の子供たちの助けに入る事もあった。
自分よりも体格の大きいガキ大将に飛び掛かり、その大体はクロウが勝った。
小さな子供たちにとってクロウはヒーローだった。
同い年や、年上の子供さえ、何かあれば頼ってくる事も多かった。

それでもたまには、泣かされる事だってある。
肉弾戦に口喧嘩、特に親の事を言われるのにはひどく堪えた。
ぐずぐずに泣いたクロウは、いつも海を見に行く。
人がいなくなった夕焼け色に染まる波止場は、むしろクロウの心を落ち着けた。
隅の方に腰掛け、太陽が海とキスをし、その欠片まで飲み込まれていく様をいつもじっと見ていた。
そうしていると必ず、祖父が迎えに来てくれる。
大きなしわくちゃの手で頭を撫でてくれた。
泣いてしがみ付くクロウを抱き締めてくれた。
落ち込むクロウに色んな手品も見せてくれた。

確かあの日も一つ、新しいものを見せてくれたのだった。

いつもの力強くも優しい笑顔で、茶目っ気たっぷりにウインクしてみせた祖父は言う。
クロウ、コインか何か持っていないか。
たまたまポケットに持っていた50ミラ硬貨を手渡せば、器用にピンと宙に弾いた。
硬貨が落ちるその前に、素早い動きで両手を突き出してみせた祖父は言うのだ。

さあクロウ、コインはどちらに入っていると思う?

ああ、あの時は、どちらに入っていると答えたんだったか。
指差して開かれた両手はどちらも空で、目を丸くしたクロウに祖父は大声で笑っていた。
仕掛けを教えろと詰め寄れば、帰ってから教えてやろうと約束してくれた。
そうして手を繋がれて、彼の愛する海の街を祖父と共に歩いた。
涙はいつの間にか止まっていた。

あの時の祖父の優しい声が頭に響く。


さあ、一緒に家に帰ろう。お前と私の家に。



帰ろう、クロウ。










「……じい、ちゃん……」

そんな、己の声に目を覚ました。
見上げた天井はここ最近ようやく見慣れた木造のそれで、背中と頭の柔らかい感触と合わせて、どうやらいつも使っているベッドの上に寝ていたのだという現状を辛うじて認識する。やけに重たい頭はしばらく正常に働いてくれず、クロウは目を覚ましたままの体勢でぼんやりと横たわっていた。
やがて目元を優しく拭われて、ようやく我に返る。のろのろと右側に視線をずらせば、柔らかい笑顔でこちらを見つめるルシアの顔と出会った。

「目が覚めましたか、クロウ君。気分はどうですか?どこか痛い所は?」
「ルシア、さん」
「ああ、動いては駄目ですよ。まだ熱があるのだから」

とっさに浮かんだ肩を、優しく押されて元の位置に戻る。額に乗っていたタオルをどけられて細い指が押し当てられ、まだ高いですね、と呟きが漏れた。熱。熱があるからこんなに意識が朦朧としているのかと、遅れて理解する。額にはすぐにまた冷えたタオルが乗せられ、無意識のうちにほうと息を吐いた。
鈍る頭を緩く回転させて、今までの事を思い出す。初めてのおつかいの見守りの途中、いなくなったエリゼを追って森の中に入り込み、リィンを庇って代わりに川へと落ちたのだった。テオとバドが駆けつけてくれたあたりから記憶が無い。あれから、どれほどの時が経っているのか。

「あなたが運び込まれてから、丸一日経っているんですよ」

視線の動きで察してくれたのか、ルシアが教えてくれた。確かに窓から漏れる日の光は、意識を失う前に見た夕焼けよりもまだ明るい。一日中眠ったままだなんて感覚がまるで無く、クロウは目を瞬かせた。

「……あいつらは?」

口から疑問が零れ落ちる。あの後、リィンとエリゼは大丈夫だっただろうか。自分がこうして無事でいるのだから何もないとは思うが、気になる。ルシアが微笑んだ。

「リィンもエリゼも怪我一つなく元気ですよ。あなたのおかげです、本当にありがとう」
「いや、そんな、ッケホ」
「あらごめんなさい、喉が渇いているでしょう、飲めますか?」

傍に置いてあった水差しからコップへとルシアが水を継いでくれる。それを受け取るために動かそうとした左手が、ぴくりとも動かなかった。

「……へ?」

重い。そして限りなく熱い。左手を負傷した覚えは無いのにこれはどうした事だ。恐る恐る左へと視線を向けたクロウは、見えた光景に絶句する。
まるで縋りつくようにクロウの左手を両手でぎゅうっと握りしめながら、ベッドの淵に突っ伏してくうくう寝息を立てているくせっ毛の黒髪頭。どうりでこんなにも熱く動かないはずだ。眠っているとは思えないほどの力が、絶対に離すまいとクロウを握りしめている。あっけに取られていると、困ったようなルシアの声がする。

「ごめんなさいね、リィンったら何を言ってもあなたの傍から離れようとしなくて……こっちの手でも飲めますか?」
「あ、はい、一応どっちも使えるんで……」

今はとりあえず喉を潤すことが先決だと、ルシアの助けも借りて何とか頭を起こし、冷たい水を口に含む。熱でひり付く喉が冷やされていく感覚に、途端に生き返った心地がした。
コップを返して一息ついてから、改めてぴったりとくっついて眠るリィンを見る。脇の椅子に腰かけたまま器用に頭をベッドに預けて力尽きているその姿に、自然と眉を寄せる。

「まさかこいつ、本当にずっとここにいるんじゃ」
「夜眠るときは自分のベッドへ入るように言い聞かせましたし、ご飯の時も何とか言い含めて食堂に行かせたのだけど、それ以外はずっとそこ、ですね。あの人も一度叱ったのだけど頑として聞かなくて……まったく、こんなに強情なこの子は初めてでした」

口調も言葉も困ったものだったが、ルシアの顔には温かく見守るような微笑みが浮かんでいた。どこか隠し切れない嬉しさが滲み出たような笑みだった。

「リィンにとってあなたは、本当に大好きで大事な子なんですね」
「……それは……」

多分、リィンが離れないのはクロウがこうして倒れた経緯もあるのだろう。あの時は無我夢中だったし、思い返す今も後悔などはしていないが、それでも複雑な感情が胸の中を渦巻く。どうして自分はこんなにも、リィンの事を気にして動いてしまうのか。これ以上踏み込む必要はどこにも無く、むしろ余計でしかない事なのに。
そんなクロウの胸中を知ってか知らずか、ルシアはくすくすと微笑ましそうに笑っている。

「最初はエリゼまでずっと一緒についていると言いだして大変だったんですよ。今は代わりに、この子を傍に置いて見守ってもらっていますからね」

この子、と持ち上げたのは、枕元にいつの間にか置いてあったくまのぬいぐるみだった。リボンがついたそれは確かにエリゼが大切にしていたものだ。うちの子たちにモテモテですね、と笑われて、頬が熱くなる。

「……でもね、クロウ君。あなたもあまり無茶をしてはいけませんよ」

ふと、ルシアの声が静かに響いた。視線を向ければ、真剣な瞳がクロウを射抜く。有無を言わせぬ迫力に、クロウは少しだけたじろいだ。覚えがあるような、無いような、妙に心がザワザワする迫力だった。

「今回はあなたのおかげでリィンもエリゼも助かりました。けれど、そのためにあなたが犠牲となる事はもう、絶対に止めて下さいね。あなたが傷つけばこの子たちが悲しみます。もちろん、私たちも」

座ってた椅子から腰を浮かせたルシアが、クロウの頭を撫でた。優しく、柔らかく、どこまでもこちらを慈しむ無償の愛が込められた手の平。向けられる笑顔にも、心からクロウの身を心配している様子がありありと写し出されている。
はっ、と息を吐き出す。クロウは思い出してしまっていた。その手も、その視線も、その感触も、覚えがありすぎるものだった。かつて己に向けられ、永遠に失われることは無いと根拠もなく思い込んでいた、今はどんなに足掻いても取り戻す事は出来ない、あたたかな感情。昔は、顔もほとんど覚えていない父と母から。それが無くなってからはずっと、尊敬する祖父から。尽きることなく与えられていた限りない、愛。
さっきまで見ていた懐かしい夢を思い出す。あんな穏やかで胸が締め付けられる夢を見たのは、ジュライを出てから初めての事だった。その理由を今知った。
右側から施された心からの看病と、左側から途切れることなく与えられるぬくもりが、クロウをあの優しさで満ちた過去へと誘ったのだ。
全て捨て去ったと思っていた、あの懐かしいばかりの故郷へ。

「……っ」

こみ上げてきたものを、クロウは歯を食いしばって押し留めた。そこで思い出した。先ほど目を覚ましたばかりの時に、ルシアに目元を拭われた事を。どうやらもう既に、手遅れだったらしい。
しかしクロウを撫でる手はとうとう、呟いた言葉の意味も流した涙の訳も何も聞くことは無く、そっと離れていった。

「さあ、まだお眠りなさい。今はゆっくりと休むのが大事ですよ。大丈夫、私たちはずっと傍にいますからね」

右手を取って、きゅっと握りこんでくれたルシアが笑いかけてくる。あたたかい。いいや熱い。熱くて熱くてたまらない。右側も左側も、不相応だとしか思えない想いに焼けるようだ。
それほどの熱さを感じているのに、何故だろうか。心臓は安心したように穏やかに鼓動を刻み、とろとろと瞼が落ちてくる。優しい暗闇が訪れる。

「おやすみなさい」

目元をまたそっと拭われて、耐え切れなかったものがまた一粒零れ落ちていたことを悟った。
そこでクロウの意識は再び、明るい夢の淵へ穏やかに落ちていった。





次にクロウが目を覚ましたのは、もう一回夜を越えた昼前頃の時間であった。最初に目を覚ました時と変わり映えのない天井を見つめたすぐ後、その視界いっぱいに誰かさんの心配顔がにゅっと現れた。

「クロウ?」

焦る心を必死に抑えて覗き込んでくる薄紫に、にやりと笑いかける事が出来たクロウは己の体力が戻ってきている事を実感する。

「よお泣き虫、俺が見てないからってまーたべそべそ泣いてたんじゃねーだろうな?」

そうやって開口一番に茶化したのはちょっとした照れ隠しのようなものだったが、純粋真っ直ぐなリィンには通用しなかった。ぱっと表情を泣き笑いのものに変えると、歓声を上げてクロウへとしがみついてきたのだった。

「クロウ!よかった、目を覚まして本当によかったっ!クロウ……!」
「ぐっ?!く、苦しい!分かった、分かったから早くどけー!」

二人で大騒ぎしていればすぐにシュバルツァー家が皆で駆けつけてきた。やっとの事でリィンを退かしたクロウは、すぐに再びエリゼからの抱擁を受ける事になる。しばらくそうやってじゃれ合っていた子供たちを、テオもルシアも微笑ましそうに眺めていた。

「ふえええん……クロウにいさまが目をさまして、ほんとうによかったです……!」
「川が寒すぎてちょっとぶっ倒れてただけだっての、お前らほんと大げさだな」
「だ、だってクロウ、あの後何度呼んでも一度も起きないし、ずっと熱で苦しそうだし、このまま目を覚まさなかったらって考えたらおれ……!」
「あーはいはい、俺が悪かったって」
「ほら二人とも、あまりクロウ君に無理をさせてはいけませんよ、まだ熱が下がり切っていないんですから」

涙目でつめよるリィンとエリゼをようやくルシアが宥めてくれる。その後ろからテオが近づいて、膝を折って視線を合わせてきた。

「クロウ、具合はどうだ?司祭様が煎じた薬を飲んでいるから、だいぶ良くなっているとは思うが」

クロウに覚えは無かったが、眠っている間に飲ませてもらっていたのだろう。ベッド上で身を起こしてから、姿勢を正してテオへと向き直る。

「この通り、何ともありません。……テオさん、すみません。お嬢さんの事見守っておきながら助けに来てもらって、挙句の果てにこの有様で……」
「何を言う。君は立派にエリゼとリィンを守ってくれた。感謝こそすれ、謝る必要などどこにもないだろう。……ありがとうクロウ、我が子たちを助けてくれて」

頭を下げようと思っていたのに、逆に下げられてクロウは慌てた。そういう人物であるとここ一ケ月の付き合いの中で分かっていたはずだが、やはりどこまでも帝国貴族らしくない人であった。

「つーか男爵様がそんな簡単に頭下げていいのかよ?!」

思わず素で尋ねれば、顔を上げたテオは堂々と胸を張る。

「感謝の気持ちを示す行為に身分など関係ない。それに、家族から家族に向けた行動を批難される謂れは無いな」
「……は?か、ぞく?」
「同じ屋根の下で共に暮らして早一ケ月、家族と呼んでも差し支えないだろう」

いや、差し支えあるんじゃねーかな。そう思ったが、あまりに当然のように言われてしまったので口を挟めない。家族。かぞく。頭の中でぐるぐるとまわり、じんわりと心の中へ溶けていってしまったひとつの単語。ぎゅっと、己の内側が引き絞られたのを感じる。
と、その時、どこからともなく「ぐうう」というどこか間の抜けた音が響いた。どこからともなく、というかクロウ自身には分かり切っていたことで、思わず腹を押さえた。

「……腹減った」

正直なその言葉に、全員の口からどっと安堵の笑いがこぼれる。食欲があればもう大丈夫だ。
口々によかったよかったと笑顔を見せるあたたかな部屋の中心で、クロウは改めて思う。
自分が生きていた事で、この人たちを悲しませずにすんでよかったな、と。


……だがしかし、クロウの色んな意味での戦いは、まだまだ終わっていなかった。

「いや、いいから」
「え、何で?」

クロウがどれだけ丁重に断っても、首をかしげるリィンはまったく分かってくれなかった。あの後ルシアが約二日間眠りっぱなしだったクロウのために消化の良いものを、と作ってくれたおかゆ。食欲をそそるいい匂いはクロウの空っぽの腹を刺激し続けているが、今そのおかゆの入った器はクロウの手に無い。一人運んできたリィンが、器を抱えたままベッド脇の椅子によいしょと腰掛けたためだ。そのまま、枕やクッションを重ねて身を起こすクロウに器を渡すことなく自らスプーンを取り出したのを見て、何をしようとしているのか概ね理解した。
しかし理解する事と納得する事は別物である。さっきからそれはいらないと断っているのに、リィンにその行為をやめる気配は全くない。それどころか厳しい視線で、弱弱しく伸ばしたクロウの腕をぴしゃりとベッドの中へ戻してしまう。

「クロウはまだ熱があるんだぞ。無理しちゃだめだ」
「いやいやいや、いくら熱があったって飯ぐらい一人で食えるって」
「ほら見ろよこのおかゆ、熱くて美味しそうだけど、もし手を滑らせて落としたりしたら大変だぞ」
「無いから、絶対しないから」

何度拒否しても、リィンはその手からスプーンを放そうとしない。つまりリィンは、熱で弱っているクロウに代わっておかゆを食べさせてやろうと言うのだ、その手ずから。気持ちは嬉しいが、正直めちゃくちゃ恥ずかしい。小さなお子様みたいで嫌だと考えてしまうクロウは、そういったお年頃なのだ。

「大丈夫、エリゼが風邪を引いた時はよくこうやって食べさせてやってるからおれ、慣れてるんだ」
「俺はエリゼ嬢ちゃんと同類か?!」
「同類?いや、クロウはクロウだろ?」

ああ駄目だ、話が根本的に通じてない。そもそもリィンに、「クロウにおかゆを食べさせる」以外の選択肢がおそらく存在していない。がっくりとクロウは、クッションの海へ身体を沈み込ませた。スプーンを慎重におかゆへ差し込むその瞳には、使命に燃える強固な意志が宿っている。これ、お兄ちゃんスイッチが入ってるな、と否応なしに悟った。
大きめの木のスプーンでおかゆをひとすくいしたリィンは、立ち上るアツアツの湯気を払うようにふうふうと息を吹きかける。その様子は確かに本人が言う通り手馴れていた。ほどほどに熱を冷ましたタイミングで、よしと頷いたリィンがゆっくりとスプーンを運んだ。向かう先はもちろん、クロウの目の前だ。

「はいクロウ、あーん」

きた。とろりと美味しそうなおかゆが程よい量でスプーンに乗せられている。向けられる笑顔に、ここまで来たらもう拒否なんて出来ない。とうとう観念したクロウは、口を開けてスプーンを含んだ。
途端に広がる優しい味。その温度は驚くほどちょうど良い。スプーンは無理のない力で抜かれていった。ゆっくり咀嚼し飲み込めば、空っぽだった胃袋へじんわりと浸透するように落ちていくのが分かった。

「……美味い」
「よかった」

母さんの料理はどれも美味しいからな、と笑ったリィンは、さっそく次の一口の準備をしている。おかゆを掬って、息を吹きかけて、流れるようにクロウの口元へ。リィンがあまりにも自然にこなすので、クロウも条件反射の様にぱくりと食いついていた。
リィンがおかゆを食べさせる速さはなかなかどうして絶妙だった。口の中で味わい、ごくりと飲み込み、一呼吸おいてさて次はと視線を向ければもうそこにスプーンが準備されている。そうして次々とあたたかいおかゆを飲み込んでいけば、あっという間にお皿の中身を平らげていた。

「あー美味かった、ごちそうさん」
「全部食べられたな、偉いぞクロウ」

にこにこと笑いながらリィンが褒めてくれた。スイッチが入ったままなのか若干お兄ちゃん目線だったが今はいいかと思う。さっきから目の前の顔が、嬉しそうな笑顔をずっと崩さないためだ。クロウがおかゆを食べる度ににっこり微笑まれるのはさすがに居心地が悪かったが。
空の器を脇に退けたリィンは、今度は手の平に一枚の紙を乗せて向き直ってきた。良く見れば紙の上には白い粉が積まれていた。同時に準備されたコップの水を見て、それが何であるのか察してしまう。クロウは思いっきり顔をしかめた。

「よりによって、粉薬かよ……」
「言っとくけど、絶対に飲んでもらうからな。これを飲んでよく食べてよく寝ればすぐに良くなるって、司祭様お墨付きの薬なんだから」
「別にそんなもん飲まなくったって、寝とけば治」
「ク・ロ・ウ?」
「……はい」

リィンの迫力ある笑顔が、無茶はするなと言い聞かせてきたルシアと重なる。お前はお母さんか、という言葉は寸での所で飲み込んだ。お兄ちゃんスイッチではなくて、もしかしたらお母さんスイッチでも入ってしまっていたのかもしれない。
飲む前から苦々しい顔で薬を受け取ったクロウは、一回深呼吸してから勢いでざらざらと口の中へ流し込む。渋い顔がさらに渋くしかめられて、うめき声が漏れた。

「うっぐ……にがっ!」
「はい、水」

その薬は今まで飲んだ中でもとびきり苦く感じた。あれだけ優しい味のおかゆを事前に食べてしまっていたせいかもな、と自己分析する。コップの水が空になるまで飲み込めば、ようやく苦さは口の中から去っていった。

「っはー……苦さで死ぬかと思ったぜ」
「そんな訳ないだろ。体にいい証拠なんだから」
「ックク、分かってるって」

途端にじろりと睨み付けてきたリィンは、冗談でもそんな縁起でもない事を言うなと表情で語っている。それがおかしくて笑みをこぼせば、むくれたリィンもすぐに笑顔を見せた。
とにかくこうして、他愛もないやり取りをできる事が嬉しい。そんな空気が部屋の中に満ちている。一度お皿を下げに部屋を出たリィンがすぐに戻ってきてひと段落した後も、包み込むような明るくてふわふわとした気配は消えなかった。
クロウとてこうして穏やかな会話ができる事は嬉しいが、それ以上に今の時間を喜んでいる人物が目の前にいる。ベッドの上から、クロウはじっとリィンを見つめた。

「それで?なんかあったか?」
「へっ?何が?」
「いや、なーんか妙に嬉しそうっつーか、そわそわしてるっつーか。いつも以上にほわほわしてるように見えたからな」
「ほ、ほわほわ?……だって、クロウとこうして話をしている今が楽しいからだ、けど………」

リィンの言葉は途中で切れた。何かに思い当たったように宙を見つめ、クロウへ顔を向ける。気のせいか少し姿勢を正したようだった。どうした事かと首をかしげるクロウへ、リィンは両手を膝にそろえたまま、突然頭を下げた。

「クロウ、ありがとう」
「……は?」

前触れもなく飛び出してきた礼に対処しきれず目を丸くする。リィンは若干の申し訳なさと、たくさんの感謝をこめた薄紫の瞳でクロウを見た。

「まだちゃんとお礼を言ってなかったと思って。おれとエリゼを助けてくれて、本当にありがとう」
「あー……はは、確かにあの時のお前、礼を言う前にめちゃくちゃ怒ってたしな」
「そ、それはだって、クロウがいきなりあんな事するから……おれ、誰かに対してあんなに怒ったの、初めてだったかも」
「初めて、ね。そりゃ光栄だな」

ワザとらしくウインクしてみせれば、まったくもうとため息を吐くリィン。クロウがくつくつ笑っていると、その表情はまた色を変えた。今日はころころと表情を変える奴だと思う。感極まって抱きついて来たり、始終嬉しそうに笑っていたり、叱りつけてきたりむくれてみたり。今のリィンはどこか照れくさそうに俯いている。腰掛けた足をもじもじとこすり合わせて、何かをためらっているようだった。

「初めて、か……」
「ん?」
「クロウの言う通りおれ、嬉しいのかも。クロウの目が覚めてくれたのも、クロウとこうしてお話をするのも、おかゆを食べさせてあげたりお世話出来たりした事も全部、一緒にいれる事だけで嬉しいんだ。でも、一番嬉しかった事が、別にあってさ」

ひとつひとつ噛み締めるように、一部は何でもない事をそれでも嬉しいのだと語ってみせたリィンは、俯いたままちらとクロウを見上げる。その頬が薄く染まっているのを見て、いよいよ訳が分からなくなった。心当たりが全く無い。一緒にいるだけで嬉しいなどとのたまうリィンをこれほどまでに浮かれさせた出来事など、あっただろうか。
今までの経験上、こういう時のリィンは危険だと本能が語っている。クロウも内心身構えながら待った。あれかこれかと些細な事でも予想をつけて、何を言われても動揺しないように心の準備をする。
しかし結論から言えば、クロウの覚悟は全て意味を成さなかった。はにかみながら口にしたリィンの言葉は、完全にクロウの意識外から飛び出してきたものだった。

「名前」

ゆらゆら、と。椅子に腰かけて床から離れていた足を揺らしながら、リィンが言う。

「おれを助けてくれる時、クロウ、おれの名前呼んでくれただろ?」

リィン、と。目にもとまらぬ速さで駆け寄って、引っ張り上げるその時に。

「おれが覚えている限りじゃ、あれが……初めてだったから。だから、嬉しかった」

あんな場面で不謹慎かもしれないけど、と。隠しきれない喜びを口元に乗せて、薄紫の瞳が細められる。純粋な嬉しさだけを浮かべた表情が、クロウに向けられる。思い出しているのか、照れたように微笑むリィンの頬がまた色付いた。
リィンからのそれをすべて見て、聞いていたクロウは。絶句していた。

(……はじめ、て?)

おそらく、無意識だった。しかし心当たりはあった。リィンに向ける己の感情がよく分からなくなっていく中で、呼ぶことをどこか避けていた名前。自分でも気づかないうちにさりげなく避けていたから、改めて言われるまで気付けなかった。気付いてしまったら、確かにそうだと納得するしかない。クロウはあの瞬間まで、リィンの名をまともに呼んだことが無かった。
まさかそれを、当の本人に指摘されるなんて。

「……悪い」
「ん、何で?」

思わず謝ると、きょとんと首を傾げられる。何故今まで呼んでくれなかったのだという不満も不信も疑問も、何もない笑顔。ただ純粋な嬉しさだけをひたすら伝えてくるそのにこにこ顔が、むしろ拷問のように感じた。クロウは毛布の下に隠した両手を、ギリリと握りしめる。納得したと同時に、気付いた事実があった。
それは、とても単純な事だった。

「リィン」

改めて名を呼べば、ぱっとリィンが顔を向けてくる。驚きに目を丸くするその顔を見て、クロウは笑った。

「ジュライって知ってるか?」
「……えっ?」

リィンの驚きがますます極まる。リィンはジュライの名前を知っている。しかし詳細はきっと知らない。クロウが話していないからだ。今まで話せなかったジュライの事を、話すことが出来るのはきっと今だと思った。
リィンの名をとっさに叫んでしまうぐらい、この子供が己の心に住み込んでしまった今ならば。

「ジュライ市国。大陸北西部……ユミルからはずっと西の方にある国だった。今は帝国の一部になっちまって、ジュライ特区って名前になってる。日曜学校で名前ぐらいは聞いた事あるか?」
「……うん」
「海上交易で栄えてた国でな、あー、つまりは海の傍にあった国ってこった。ユミル育ちのお前ならもしかしたら、海をまだ見たことが無いかもしれねえな」

クロウの語りを静かに聞いていたリィンはこくりと頷く。この地から海はとても遠いものなのだと実感しながらクロウは、覚えている限りをリィンに話して聞かせた。
海とは一体どういうものか。ジュライの街並みがどれほどユミルと違っているか。どんな人々が住んでいて、クロウとどんな交流があったか。釣れる魚の種類や、立ち寄る船の様々な造形、海の街での遊び方や、少しばかり危険な店の数々など。つい先ほど夢で見た光景も思い出しながら、クロウも話すたびに記憶がよみがえる。心が故郷に戻っていく。そうして最後にクロウは祖父の事も話した。自分の唯一の身内で、育ての親代わりだった人。今のクロウを形作る大部分をこの人から受け継いでいる事。市長であった事など詳細は省いたが、クロウにとってとても大事な人だったことを、隠す事無く話した。

「……で、色々あってじいさんが死んじまって、さらに色々あって俺はこのユミルに来ることになった、って訳だ」
「……そっか……クロウの故郷のジュライも、クロウのおじいさんも、とても素敵な場所で、素敵な人だったんだな……」
「まあな」

一度も口を挟む事無く、聞き入っていたリィンはほうと息をついた。いきなり脈絡も無く長々と話してしまったが、その全てを受け止め、噛み砕いて飲み込むようにその後はしばし無言だった。二人の部屋の中に柔らかな沈黙が落ちる。気付けば日が傾きはじめていた。ジュライでよく見ていた夕陽を思い出す。この日の光に燃やされるように赤々と照らされるユミルの雪山もまた、思い出の中の美しい夕焼けに引けを取らない。それほどまでに、気に入ってしまった光景だった。

「クロウ」

やがてリィンが声を上げた。視線を戻せば、真剣な表情でこちらを見つめる顔があった。膝の上の両手は力いっぱい握りしめられていて、リィンが何かを決意した事を物語っていた。

「おれの話も、聞いてくれるか?」
「ああ、もちろん。どんなことだ?」
「おれは……おれは、この家の本当の子供じゃないんだ」

はっと息を飲みこむ。クロウに負けず劣らずの突拍子のなさで、リィンは己の秘密を明かした。

「5歳の頃、雪山に捨てられているのを父さんが拾ってくれて、シュバルツァー家の養子になったんだ。本当の両親の事も、それまでの事も何もかもおれは覚えていなくて、持っていたのはこの名前ぐらいだった」

名前を呼んでもらえてこんなに嬉しかったのは、そのためだったのかもしれない。そう言ってリィンがはにかむ。

「エリゼはおれの事を本当の兄だと思ってくれているけど……たまに、おれは本当にここにいてもいいのかと思う時がある。父さんも母さんも、本当の息子の様に接してくれるけど、それでも……苦しくなる、時がある。クロウにはもしかしたら、薄々気づかれていたかもしれないな」

頭に手をやるリィンの言うとおり、この子供がたまに見せる戸惑いや躊躇いにクロウは気づいていた。しかしそれ以前にクロウは、リィンのその秘密を知っていた。リィンの知らないリィンの秘密まで知っている。しかしそれはさすがに、口に出せなかった。それに今はそんな事より大事なことがあった。
今大事なのは、リィンが自らの口でその秘密を語ってくれたこと、そのものだ。

「……どうしてそんな大事な秘密、急に話してくれたんだ?」

尋ねれば、何をいまさらとリィンは笑った。

「だってクロウが話してくれたから。おれも話さなきゃ不公平だろ?」

どうやらリィンも、出会ったばかりの頃に交わした言葉を覚えていたらしい。目が合って、二人は同時に吹き出した。

「言っとくが俺には、まだまだ話してない事があるんだからな?」
「おれもまだ、話していない事がある。まだちょっと、勇気が足りなくて」
「そりゃ、お互い様だな。まだまだ頑張らねーとな、一緒に」
「うん、一緒に」

ベッドの中から出した腕を伸ばせば、その手をリィンが握りしめる。あの日のように繋がれた二人の手は、あの日以上にしっかりと重なった。
温かな体温を手の平で感じながら、クロウは目を閉じる。こうやって手を繋げば安心する事を教えてくれた人の笑顔が浮かぶ。少し前までは怒りと憎しみと、悲しみと共にしか思い出せなかった祖父の姿。今は穏やかな波の音と共に、ジュライの街並みの中で笑顔を向けてくれる。

クロウ、お前は良い友達を作ったな。

そう言った力強くも優しい笑顔が、頭を撫でてくれたような気がした。



14/11/28



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