第五話
「エリゼ嬢ちゃんは、この道、使った事、あんのか?」
「ああ、夏頃にだけど、以前父さんに、連れられて……!」
「じゃあ一応、どんな道かは、知ってるって事か……ちっ!それでも、無謀すぎんだろ!」
「エリゼ、一体どうして、こんな無茶を……!」
歩きにくい雪の敷き積もった山道を、会話を交わしながらも懸命に走る。前をクロウが、そのすぐ後ろをリィンが駆け、転々と伸びる足跡を追いかける。まだそんなに奥へと進んでいないはずだ。時間はそれほど経っていないし、小さなエリゼがそんなに早く歩けるはずが無い。
すぐに追いつける。逸る心にそう言い聞かせて前方を睨む。
何事も無ければいい。雪まみれであるが人の手で切り開かれ、数年前までは確かに何人もの人々が毎日使っていた道なのだから、そんな滅多な事で危険は無いはずだ。そう分かっているのに、二人の胸からは何故だか嫌な予感みたいなものが消えなかった。
とにかく早く、無事な姿を見つけなければ。
「……ん?!ちょっと待て!」
「えっ?!うわっ」
クロウは急に立ち止まった。後ろを走っていたリィンがたまらずその背中に激突するが、バランスを崩した腕を引っ張ってきちんと立たせてやる。
「あ、ありがと……でもどうしたんだ?」
「前ばっかり見ててうっかり見逃すところだったんだけどよ、足跡が消えてるんだ」
「足跡?……あっ、エリゼの?!」
ハッとリィンが見下ろした足元にも、クロウが指摘した通りあの小さな足跡は無かった。さっきまでは確かにこの道の上をずっと歩いていたはずなのに。もちろん今まで分かれ道など存在しなかった。
「ど、どうなってるんだ。まさか追い越した訳がないし……」
「……いや、そのまさかかもしれねえぞ」
「え……?」
「とにかく戻るぞ、足跡が消えた場所があるはずだ」
今度は足元を注意深く見ながら登ってきた道を下る。クロウやリィンの足跡に混じる小さな別の足跡を見つけたのは、それから幾何かも経たない頃だった。
「よっしゃ、見つけたぜ!」
「確かにこれはエリゼの足跡だ!……でも、これは、」
リィンが顔を青ざめさせながら顔を上げる。クロウも道を辿っていたはずの足跡が、急に方向を変えて外れていくのを目で追う。エリゼの足跡は、辺りを囲む深い森の中へ吸い込まれるように消えていた。
「森の中へ入ったのか?!一体、どうして……!」
雪に閉ざされた森の中へ子供が一人入り込むなど、どう考えても自殺行為だ。それはエリゼも分かっているはずなのに、とリィンは絶望の声を上げた。ちょうど先日ユミルでは人里にも拘らず魔物が侵入したばかりで、どんな危険が待っているか分からないのに、と。
クロウは一歩だけ森へと足を踏み入れ、注意深く辺りを見回す。近くには何の気配もない。やはり奥まで入り込んでいる。それにもう一つ、嫌なものを見つけてしまった。
「……こりゃ急いだ方がいいな。エリゼ嬢ちゃん、自分の足で森の奥に行ってるみてえだからまだ無事だとは思いたいが」
「?!ど、どういう意味だよ!」
「見ろよ。俺たちのものでも嬢ちゃんのものでもない足跡が、一緒に向こうに続いてんだろ」
クロウに指を差されてリィンがはっと息を飲んだ。道の上についていたものと違い、急いで駆けていったかのようなエリゼの足跡のほかに、森の中へ続いている足跡が複数ある。人間のものではない。飛び跳ねるように丸くついているそれらを見て、心当たりがあったらしいリィンが声を上げた。
「これ、多分ユキヒツジンのものだ!」
「はあ?またあいつらかよ!追い払ったと思ったら、まだ近くにいやがったか?!」
「分からない、けどエリゼが危ない!」
「あっおい!」
たまらず駆け出したリィンの後を慌ててクロウも追う。さっきとは逆の並びで雪深い森の中を必死に走った。ただ積もるだけの森の雪は足が沈んで歩きにくいが、そんな事に構っている暇はない。
やがてクロウの耳に、とある音が聞こえてきた。自然の奏でる轟音が奥の方から響いてくる。
「川、があんのか?」
疑問が口をついて出るが、すぐに別な音も微かに聞こえてきてそちらに気を取られる。不安と焦燥に揺れる幼い声が、必死に何かを言い募っていた。
「……ねがいです、それを返して……!」
「!エリゼー!」
同時に気付いたリィンが大声で呼び、スピードを上げる。現場はすぐに目の前に現れた。ザアザアと川の音が近づいた森の少し開けた場所で、水色のもこもことした魔物が複数で跳ねまわっている。前にも嫌というほど見たユキヒツジンで間違いない。ぴょんぴょんとまるで人を小馬鹿にしたような軽さで、追い縋ってくる腕からギリギリ逃げ回っている。それらを泣きながら追いかけていた小さな女の子の姿を見て、無事だったか、とひとまずクロウは息を吐き出した。
「エリゼ!無事か!」
「!にい、さま……!」
リィンの声を聞いてしゃくりあげながら振り返ったエリゼ。その隙をつくように横から、ユキヒツジンがボインとエリゼの体を押してきた。
「きゃあっ!」
威力はあまり無かったとはいえ、幼い体が踏ん張れるはずもなく雪の中に倒れる。それを見てユキヒツジンたちはどうやらぴょんぴょんと笑っているようだった。なんて意地が悪い魔物だ。
すかさず助けに入ろうとしたクロウだったが、思わずその足を止めていた。隣から、今まで感じた事のない異常な力を感じたからだ。
「……なに?」
そう、それは異常だった。唐突にどこからか湧き上がってきた、暗く激しい気配だった。魔物のものではない、しかし人が発するにはあまりにも強烈な力。クロウは信じられない瞳で隣の少年を見た。
かつてないほど目つきを鋭くさせたリィンが、その体からどす黒いオーラのようなものを纏わせながら、ユキヒツジンたちを睨み付けていた。
「お前たち……エリゼに触るなッ!」
怒気を孕んだ声にユキヒツジンたちはびくりと飛び上がる。睨み付けるリィンの瞳にその時、炎が閃いたのを見た。赤々と燃える緋の色が、優しい薄紫を覆い隠すように瞳の中で広がっていく。それが全てを塗りつぶしてしまう、その一瞬前に。
「にいさまっ!」
妹の悲痛な声が、リィンの目をハッと見開かせた。
「リィンにいさま、わたしは、エリゼはぶじです!だいじょうぶ、ですから……!」
「え、りぜ……」
雪の中に両手をついて必死に頭を持ち上げるエリゼに、リィンが呆然と呟く。立ち上っていた強烈な気配は途端に消え失せていた。まるで何もなかったかのように普段の様子に戻ったリィンは、瞳の色もさっきのは目の錯覚かと思うほどいつも通りだ。急に消失したプレッシャーに戸惑うユキヒツジンたち。
チャンスだ。
「おらあっ!くらいやがれ!」
誰もが動けないでいる時間の中、一番に飛び出したのはクロウだった。森の中を駆け抜ける際ちゃっかり手に入れていた長く太い木の枝を手に、隙だらけのユキヒツジンの群れへ突っ込む。木の枝は下手をすればクロウの身長も超えそうなほど長いものだったが、これぐらいの方が扱いやすいのだ。クロウの、本来の武器を考えれば。
枝の真ん中あたりを持ち、力をつけた器用な腕でぐるりと回して振りかぶる。長いリーチは複数のユキヒツジンを巻き込み、油断していたその体を跳ね飛ばした。蹴散らしたユキヒツジンには目もくれずにすかさずもう一撃。エリゼを押したユキヒツジンが胴を薙ぎ払われて真横に吹っ飛ぶ。腕を閃かせて木の枝を持ち替えたクロウは、飛び出した勢いのまま先端を突き出し、さらにもう一匹の体を突いて遠くへ飛ばした。あと二匹ほど無傷な奴らがいたが、瞬く間に蹴散らされる仲間たちを見てピャッとか何とか悲鳴をあげながらぴょんぴょん逃げて難を逃れた。
とにかくこれで、あっという間にエリゼの周りからユキヒツジンたちがいなくなる。そこへ駆け寄って、クロウはまだ雪の中に倒れ伏すエリゼの傍へ膝をついた。
「嬢ちゃん、怪我はねえか?」
「あ……は、はい!」
「他には何もされてねえよな?とりあえず起き上がるか、そのままじゃ体冷やしちまうぞ」
まだ少し呆然としているその手を取って立ち上がらせてやる。その間に遅れて駆け寄ってきたリィンが、エリゼの前に立った。
「エリゼ……」
「にいさまっ!」
何故か躊躇うように俯くリィンに、エリゼが抱き着く。ぬくもりにいきなり触れてびくついた背中は、おずおずと縋り付く頭を撫でた。
「エリゼ、ごめん、おれは……」
「にいさま、たすけにきてくださって、ありがとうございます。クロウにいさまも、リィンにいさまも」
リィンにこれ以上何かを言わせまいとするかのように、はっきりとした口調で礼を述べるエリゼ。妹からのその想いを汲んだリィンは、何も言わずに小さな体を抱きしめた。少ししてから体を放して、クロウを見る。
「クロウ、ありがとう。今のすごかったな……」
「へっ、前に言ったろ、魔物と戦った経験あるってよ。まああいつら弱いしな……それにしても、どうしてこんな森の中であんな奴らと戯れてたんだ?」
リィンから視線をずらしてエリゼへと尋ねるクロウ。エリゼはぎゅっと手を握りしめて、悲しそうに俯いてしまった。
「ごめんなさい、みちをあるいていたら、きゅうにあの子たちに、バッグをとられて……」
「バッグ?」
「はい、かあさまがつくってくれた、おきにいりのバッグなんです」
そう言えば、出かける時も買い物中も大事に肩に掛けられていたあのピンクのバッグが無い。食べるものを探していたのか、それともただの悪戯なのか、道の途中で急に森の中へ入っていたのはそのためだったらしい。クロウはやれやれと息を吐いた。
「大事な気持ちは分かるが、一人で魔物を森の中まで追いかけるなんて無茶すぎんだろ」
「だ、だって、あのバッグのなかにはおつかいと、だいじなプレゼントが……あっ!」
言いかけたエリゼはぱっと自分の口を両手で塞いだ。内緒で渡すはずだった今日の買い物の品を話しかけて、ポッと頬が赤く染まる。心和む光景だが呑気に和んでいられなかった。
「エリゼのバッグは……あいつが持ってるのか」
辺りを見回したリィンがキッと一点を睨む。クロウの攻撃から逃げる事に成功し、こちらを遠巻きに見ているユキヒツジン二匹の中の一匹が、確かにピンク色の何かを頭の上に器用に乗せていた。クロウも一緒になって睨めば、きいきいと悲鳴を上げたユキヒツジンたちが踵を返して逃げてしまう。
「あっ、待て!」
「ちょっ?!こら、待つのはお前だ!深追いすんな!」
「にいさま!」
とっさに腕を伸ばすが、駆け出してしまったリィンを捕まえる事が出来なかった。そのままさらに奥へと逃げていくユキヒツジンを追いかけて、リィンが走っていってしまう。振り返りもせずに行ってしまった背中に、クロウはがしがしと己の頭を掻いた。
「あーもうあの馬鹿!仕方ねえ、追いかけるぞ!走れるか?」
「はい!」
エリゼをこんな森の中へ置いていくわけにもいかず、クロウはエリゼも連れてリィンの後を追った。リィンの遠ざかる気配に、どんどんと焦燥感が募る。反比例するかのようにだんだんと近づいてくる川の音も逸る気持ちに拍車をかけた。頼むから無茶だけはしてくれるなと、祈るように前へと進む。
今日ちょうど冗談交じりに、エリゼよりお前のが心配だよとリィンに言ったが、まさしくその通りだった。あのどこか不安定な子供は、見ていてやらなくては何をしでかすか分からない。他人を傷つける方向へはまったく心配ない。ただひたすら、自分を傷つける方向へ走り気味なあの子供が心配で心配で仕方がない。クロウは舌打ちした。早く追いつかねばと焦りばかりが生まれる。
そこで我に返った。必死に後をついて来ていたエリゼが息を切らして覚束ない足取りになっていたのだ。慌てて速度を緩めてエリゼの走りに合わせる。
「わ、悪ぃ、少し早く走りすぎたな。大丈夫か?」
「だいじょうぶ、です!それよりはやく、リィンにいさまに、おいつかなきゃ……!」
肩で息をしながら、エリゼは走る事をやめなかった。苦しいだろうに、前だけを見つめてリィンに追いつこうと懸命に足を動かしている。必死だった。クロウがリィンを心配して無意識に足を速めていた様子と同じぐらい、いいやそれ以上に急いていた。まるで何かを危惧しているようだった。リィン自身にではない、リィンの身に何か起こる事を恐れているかのようだ。
クロウの脳裏に、さっき見た異常な力をほとばしらせるリィンの姿が思い浮かぶ。きっと、何かあるのだろう。気にはなるが、今は考えている暇がない。
気配が、前方に近づいていた。
「……いた!」
やっと追いついた。音を立てて山からの水が流れる川の傍で、リィンがユキヒツジンたちと対峙していた。いや、対峙していただけでは無い。その手に何も武器を持たないままで構えを取り、拳をユキヒツジンに叩きつけている所だった。
「はあっ!」
ぴゃっという鳴き声と共にユキヒツジンが一匹弾き飛ばされる。あいつ素手でも戦えたのかと、思わず立ち尽くしたクロウが呆然と考える。あんなしっかりとした構えや攻撃が自己流な訳がない。定期的に盗み見ているリィンが習っているらしいあの流派は、素手での戦い方も学ぶのかと少し感心した。
「にいさま!」
エリゼの声に、一度だけ視線をよこしたリィンはすぐにユキヒツジンに向き直る。残っているのはあの、バッグを持った一匹だけだ。じりじりと後ずさるユキヒツジンに、リィンは容赦なく距離を詰めた。
「エリゼのバッグを、返せ!」
低く腰を落としたリィンから繰り出された右手は、正確にユキヒツジンへと叩き込まれる。もんどりうったその頭からピンク色が零れ落ちた。それを慌てて、リィンがしっかりキャッチする。
「よし!」
「やれやれ、やったか……」
「すごいです、にいさま!」
ユキヒツジンたちを残らず懲らしめ、無事にバッグを取り戻したことで全員が沸いた一瞬。
ずるりと、リィンの体が傾いだ。
「……えっ?」
リィンが足をもつれさせた訳では無い。リィンの立つ雪の地面ごと、大きく傾いていた。
気が付けばリィンは流れの速い川近くに移動していた。厚く雪が積もっていたせいで気づかなかったが、どうやら立っている場所はすでに、川の上に位置していたらしい。柔らかいまま積もり絶妙なバランスで川を覆い隠していたらしい雪が、先ほどの戦闘で崩れ始めていた。その上に立っていた、リィンを巻き込む形で。
何が起こっているのかまったく分からないエリゼ。リィンとクロウはほぼ同時にその事実に気が付いて、視線を合わせていた。赤と薄紫が空中で交差する。突然の事に体は動かない。声も出ない。ただ視線を交わして、互いの驚きを伝え合う事しかできない。
「っクロウ、これを!」
とっさにリィンがバッグを放った。弧を描いたそれは見事、何も言えないままのクロウの手元に収まる。それを見届けた瞬間のリィンの表情は。
冷たい真冬の川へと引きずり込まれそうになりながらも、ほっと安心したような笑顔で。
それを見た、クロウの中の何かが、音を立てて千切れる。
「リィン!」
その時のクロウの速度は、人生で初めてのものだった。受け取ったバッグを地面へ放り、武器として持っていた木の枝も遠くへ投げ飛ばし、思いっきりダッシュして手を伸ばす。あまりの速さに驚いた顔のリィンのその手を、落下しかかる中で無事に掴みとったクロウは。前のめりのまま地面についた足に力を入れ、体をひねってリィンを引っ張った。遠心力を利用してリィンは川の上から安全な雪の上へと放り投げられた。その代償に、軸となったクロウの体は崩れる雪の上に残る事となる。
空中で目を見開くリィンに、にやりと笑ってやったクロウは、そのまま。
凍えるような冷たさの川の中へ、音を立てて落下していた。
(うわ、冷た!死ぬ!)
流れが早いその川は幸い幅も狭く、そこまで深さも無かった。しかし凍りつく一歩寸前のその温度はクロウから一瞬のうちに容赦なく体温を奪う。覚悟を上回る冷たさに混乱しかけるが、動けなくなる前に必死で体を動かした。海辺の町生まれなので泳ぎは得意だ。こんな真冬にこんな川で寒中水泳はさすがに初めての体験だったが、泳がなければ己の命などあっという間に流され冷え切ってしまうだろう。
クロウは死ぬつもりは毛頭なかったので、とにかく岸を目指して手も足も死に物狂いで動かした。ここで死んでは意味がない。生きなければならないのだ。それは仇を討つためとか、復讐を成し遂げていないからとか、そういった理由では無かった。今のクロウの頭いっぱいに浮かんでいたものは、ただ一つの言葉だけであった。
刺さるような冷たさの水に押し流されながらも、クロウはやがて水面に顔を出すことに成功した。
「っっぶはっ!!」
そのままもがいていれば、運よく体が浅瀬へと引っかかる。地面を掻いて必死に身体を引っ張り上げ、ようやく死の川から抜け出すことが出来た。両手両足で這いずるように移動して、雪の中に倒れこむ。冷たいはずなのに、何故だか温かく感じた。
「っはー、はー……マジ、死ぬかと、思った……」
指先も足もほぼ感覚がなく、もうまともに動かせる気がしない。あともう少し、あのまま川の中にいれば本当に死んでいた気がする。もはやゾッとする気も起きなくて、一人乾いた笑い声をあげた。
その時、倒れたままの耳に誰かの声が聞こえてきた。遠くからやってきた声はすぐに、クロウの傍まで近寄ってきた。
「……ロウ、クロウ……!どこだ、クロ……あ、クロウっ!」
ざくざくと雪をかき分け、必死な声がすぐ傍までやってくる。顔を持ち上げれば、泣き出す寸前の顔をしたリィンがクロウを覗き込んでいた。
「クロウ!大丈夫か?!生きてる、よな?!」
「おお……見りゃ分かんだろ、この通りよ」
「ああクロウ!よかった……!」
「クロウにいさまっ!」
すぐ後ろにはちゃんとエリゼもついてきていて、こちらはすでに泣きながら駆け寄ってきた。その手に抱きしめられたピンク色のバッグを見て、ああ変な所に投げ込んでなくてよかったなと呑気に考える。
そんなクロウの緩い笑顔に、鋭い表情をしたリィンが叫んでいた。
「クロウ、なんで、なんであんな事をしたんだ!おれの代わりに川へ投げ出されるなんて……死んでしまってもおかしくなかったんだぞ!」
「にいさま……」
「このままクロウが見つからなかったらおれ、おれ……!自分で自分を許せなくなる所だった……!もうこんな事、二度としないでくれ!クロウがおれのせいでいなくなってしまうなんて、絶対に嫌なんだ……!」
溢れ出る激情のあまり、リィンの瞳からぼろりと涙がこぼれる。よほど心配したのだろう。きっとリィンにとって、初めての経験だったに違いない。普段から自らの身を挺して他者を庇ってきたリィンだから、なおさらショックだったのか。
そんなリィンの姿を静かに見つめた後、ゆっくりと体を持ち上げ、膝立ちの状態になる。急に起き上がったクロウに言葉を止めて見上げてくるリィンを、おもむろに指差し。
今出しうる精一杯の大声で、クロウは……
「っやーい!ざまあみろ!!」
笑ってやった。
「……、は……?」
「これで分かったろーが、無理矢理庇われる側の気持ちが!どうだ、悲しかろう!苦しかろう!もっと思い知れよ俺は今までいちいちそんな感情持て余してたんだよばーか!あー言いたい事言えてすっきりしたぜ、流されている間ぜってー笑ってやろうってそればっかり思ってたんだ!」
あっけに取られてリィンが口をはくはく開け閉めしている間に、クロウはやーいやーいとひとしきり嫌味を言って笑いまくった。ずぶ濡れの体は寒くて仕方が無かったが、心は驚くほどすっきりと晴れ渡っていた。溜まりに溜まっていたものをとうとう吐き出し叩きつけてやれたことに、心地よい充足感で満たされる。リィンが正気に戻ったのは、いい加減笑い疲れたクロウがひーひー言っていた時だった。
「そ、んな事、言うために、今のをやったのか……?!」
「いや?あれはまあ体が勝手に動いたようなもんだけどよ、落ちる前にお前のぽかんとした顔見た瞬間これは言ってやろーと決意したわけよ。そのために川ん中で頑張ったようなもんだし」
「ばっ……!ばかじゃないか?!そんな事のために頑張ったって……もっと自分の命大事にしろよ!言うだけならあんな事しなくたっていつでも言えばよかったじゃないか!」
肩を震わせ、目に涙を溜め、顔を真っ赤にして本気で怒っているらしいリィンに、クロウはやれやれと肩をすくめる。
「お前な、今のタイミングだから言えたんじゃねーか、それに今まで言ったって聞かなかったろうが!」
「聞く!こんな事されるぐらいなら聞くし!そもそも身体が勝手に動いたって、クロウだっておれと同じようなものじゃないかあっ!」
「俺のはお前と事情が違います―!」
「どっどこが違うんだよ言ってみろよぉ!」
「お、言っていいのか?まず頻度が違うしー、俺の方が鍛えてあるから丈夫だしー、まず年上だしー、身長も上だしー、あと他にはー」
「ううっうわあああんクロウのばかあああ!」
とうとう感情の箍が外れたらしい、リィンは声を上げて泣き出してしまった。こうかはばつぐんだな、と満足そうなクロウ。にいさまがにいさまを泣かせた!と脇で見ていたエリゼがおろおろしている。リィンの泣き声が響く森の中は、収拾のつかない空間となってしまった。そんなカオスな空気を破ったのは、どこか遠くから聞こえた犬の鳴き声だった。
「……え、バド……?」
しゃくり上げてごしごしと目元をこすりながらリィンが空を見上げる。エリゼもこくこくと頷いている。クロウにはまだよく判別がつかないが、飼い主たちがそう言うなら今の声は猟犬バドのものなのだろう。断続的に聞こえる犬の鳴き声は、気のせいか徐々にこちらへと近づいているようだった。
ユミルにいるはずのバドの声が何故今ここに聞こえるのか。下に流されたのだから、さっきよりもユミルから遠ざかっているのは間違いないのに。
「……ああ、俺たちの帰りが遅いから、テオさんが探しに来てくれた、とかかね……?」
「父さん……ああ、そうか、そうだよな、もうこんな時間だ……」
見上げた空はすでに茜色に染まり始めている。帰りが遅いのを心配して屋敷を出て、ケーブルカーが故障と聞いて山道を下り、森の中へ続く足跡を発見してここまでバドと共に向かってきてくれている。こんな所か。雪も降っていないので足跡は消えずに残っているだろうし、これでもう安心だろう。
そう考えた途端、クロウの口からくしゃみが飛び出していた。
「クロウ?!」
「たいへんです、クロウにいさまとってもつめたいです……!」
そっと腕に触れてきたエリゼが驚いた声を上げる。川の中から上がってそのままなのだから当たり前か、と考えた所でまたくしゃみ。空気と雪と濡れた服の冷たさを思い出したかのように身体が感じ、がくがくと震えだした。
「クロウ!ああごめん、今すぐ温めてやらなきゃならなかったのに……!」
「バド―!とうさまー!こっちですー!」
上着を脱いだリィンが肩にかけてくれる。エリゼが両手を振って駆けていき、一人で走ったらあぶねーぞと声を上げる気力さえなくなっている事に気付いた。ここでリィンを笑う事に体力を使い果たしたらしい。馬鹿じゃないか、というリィンの先ほどの言葉に、今なら「まったくだな」と自分で頷ける。だってそれほど、言ってやりたかったのだ。思い知ったか、ざまあみろと、リィンにどうしても言ってやりたかった。冷たい川の中で死と隣り合わせになっている時、そればかりを考えていたのだから。
「クロウ……クロウ、頼む、死なないでくれ……」
震える体を抱きしめてくれたリィンが、また一つ涙をこぼす。死なねーよ、という声は出なかったので、腕を伸ばして撫でてやった。くしゃり、と一撫でしたところで力尽きてしまったが。
「クロウ?!クロウ、しっかり!」
「とうさま、とうさまこっちです……!」
「リィン!クロウ!無事か……!」
「父さん……!……!」
温かな腕に凭れながら、遠くでたくさんの声が己を取り囲むのを聞く。遠くなっていく声はすぐに何も聞こえなくなって、いつの間にか閉じていた瞳も重すぎて持ち上げられない。今感じる事が出来るものは、己の忙しない呼吸と、傍らに寄り添い包み込んでくれている体温だけ。あまりにも心地よいその温度に、安堵のため息が漏れる。
だんだんと遠ざかる意識の中で、クロウの心はどこまでも穏やかだった。
14/11/23
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