第四話



郷の中に魔物が入り込んだあの事件の後、ユミルはしばらく元の平穏さを取り戻していた。ケーブルカーでちらほらと湯治客がやってくる以外は、何も特別な事は起こらない穏やかな日々。しかし本日、ごく一部の一家にとって大事件と言えるほどの出来事が起こっていた。
ユミルの当主シュバルツァー男爵家の長女、エリゼ・シュバルツァー嬢9歳が、初めてのおつかいに出かける日だったのだ。





「エリゼ、忘れ物はないか?」
「はい!ぜんぶカバンにいれました」
「道順はちゃんと覚えているか?」
「このちずをみれば、だいじょうぶです!」
「本当に?買うものを書いたメモも持ってるか?書き忘れとか、無いよな……」

今すぐにでもお出かけできる恰好をしたエリゼを頭のてっぺんからつま先までチェックして甲斐甲斐しくお世話しているのは母親、ではなく兄であるリィンだった。今回エリゼたっての希望で叶ったこのおつかいを、最後まで心配して賛成するのに渋っていたのもこの兄である。一番最初に許可を出したルシアは微笑ましそうにその光景を眺め、次に説得されてしぶしぶ頷いたテオもリィンと似た表情をしながらも見送る決断はしたようだ。何という過保護一家だ、と横から呆れた目で眺めていたクロウは別に賛成反対の意見を述べる立場には無かったが、シュバルツァー家族会議の場で何故か答えを求められたので「行かせればいいんじゃねーの」と答えておいた。あの時の恨めしそうな顔をしたリィンの表情が忘れられない。

「にいさま、わたしおみやげをかってまいります。なにがいいですか?」

リィンの全力の心配をよそに、これから待ち受ける初めての体験に張り切っているエリゼがきらきらと輝く瞳で尋ねた。面食らったリィンは少しだけ動きを止めた後、にっこり笑顔で、

「いや、おれは別に何もいらな」
「いらないっていうのは、だめです!」
「……エリゼが買ってくれるものなら何でもい」
「なんでもいいも、だめですっ!」

答えようとした言葉たちを悉くエリゼに遮られていた。妹の方も兄貴をよく分かってんなーと感心するクロウ。そうやって他人事な気分でいた所に、エリゼの視線が飛んできた。

「クロウにいさまも!なにがいいですか?」
「……は?俺も?」
「もちろんですっ」

力強く頷いたエリゼは、先ほどと変わらぬ張り切った表情でクロウを見つめ続ける。にいさま、だなんてお上品に呼ばれた事など今まで一度も無かったので、何週間か経つ今でも未だ慣れることは無い。むずむずする足を何度か踏み鳴らしてやりすごしながらクロウは、頬をかいて考え込んだ。

「あー……そうだな、何か美味そうな菓子があればそれでいいや」
「そ、それじゃあおれもそれで!」

すかさず便乗してきたリィンにぷっと笑いを漏らすと軽く睨まれた。口笛を吹いて誤魔化している間に、エリゼの買い物メモへお菓子の事を付け足している。この兄マメすぎる。
最後にルシアが軽く身だしなみを整えてやって、とうとう屋敷から旅立つ時が来た。肩から下げた可愛らしいピンクのカバンをしっかりと持ち、少しの不安とたくさんの期待に満ち満ちた笑顔で、エリゼはぺこりとお辞儀をした。

「それでは、いってまいります!」






「なあ、マジで行くのか?」
「クロウ、しっ!エリゼに気付かれちゃうだろ!」

こそこそと物陰に隠れながら、クロウとリィンは小声で会話していた。なるべく気配を消して覗き見る前方では、エリゼが懸命にケーブルカーの駅員に話しかけている。その様子を、そしてその周囲を、アリの子一匹逃さぬよう細心の注意を払って警戒し見つめているリィンはつまり、初めてのおつかいを尾行している所であった。真剣なその瞳には並々ならぬ使命の炎が灯っている。

「もし初めてのおつかいでエリゼが道に迷ったり変な人に声を掛けられたりしたら、危ないだろ。妹の身を守るのは、兄の務めなんだ」
「まあ、気持ちは分からんでもないが……行くのは近場だろ、心配しすぎじゃねえの?」
「そんな事ない。それに、父さんからもしっかり見守ってきなさいと言われてるんだ」
「ったくこいつらは揃いも揃って……」

クロウは本日何度目か分からない溜息を吐いた。
きっとおつかい場所が徒歩五分とも掛からない雑貨屋「千鳥」だったりすれば、ここまでリィンも心配することは無かったのだろう。その場合でもこの尾行は決行されていただろうという妙な確信はとりあえず置いておいて。
今回エリゼが一人で向かうのは、ケーブルカーで降りたふもとの町だった。クロウもあまり行ったことは無いが、ユミルの郷よりは多少大きな町だった。そこで買い物がしたいのだと、エリゼが言って聞かなかったのだ。おつかいはもちろんケーブルカーに一人で乗るのも初めてのエリゼに、もっと近くじゃだめなのか、ふもとの町に行くなら一緒に行くから、と必死にリィンが説得しても絶対に納得しなかった。あんなに強情なエリゼは初めてだった、と後で肩を落としていたリィンを慰めてやったのも記憶に新しい。

「しっかしあの時は面白かったよなあ。お前があんまりしつこいもんだから最終的にエリゼ嬢ちゃんに「にいさま、うるさいです!」って言われてすげえショック受けてたし!」
「クロウうるさい」

似てない声真似までしてからかうクロウに頬を膨らませるリィンはしかし、すぐにどこか遠慮がちな申し訳なさそうな目でクロウを振り返ってくる。

「……でもクロウ、わざわざおれに付き合ってくれなくてもいいんだぞ?おれは一人でも大丈夫だから」

……確かについて来てほしいなどと頼まれてはいない。エリゼを見送った後扉の隙間からじっと外を見つめて尾行のタイミングを計っていたリィンの後ろを、クロウが自らついて来ただけだ。自分のワガママにクロウを付き合わせるのは申し訳ないと思っているらしい垂れ下がった眉に、クロウはとうっと手刀を叩きこんだ。

「いてっ?!」
「今更なーに言ってんだ。俺が楽しそうだと思ったから勝手についてきただけだっての」

眉間を擦りながら上目遣いで見つめてくるこの年下の同居人は、最初の頃に比べると最近は随分とクロウに砕けて接してくれるようになった。くだらない事を言えば戸惑う事無く呆れた目でつっこんでくれるし、勉強なんかをさぼろうとすると遠慮することなく引っ張って連れて行くようになった。常に他人と距離を置き気味なこの子供にとっては随分と大きな進歩だろうと思っているが、それでも。こうしてたまに無駄な遠慮を繰り出す事がある。
これはきっともう性分なのだろう。今のような場面に出くわした時、クロウはしょうがねえなと思うと同時に、教えてやりたくなる。そんな、何かに怯えるように見つめなくてもいいのだと。こんな大したことない事を、今更遠慮する必要はないのだと。そんな時はこうやって、茶目っ気たっぷりに尻込みする手を取ってやるのだ。

「そ、れ、に、俺としてはエリゼ嬢ちゃんよりお前の方が時々心配になるぐらいだしなー。ま、兄貴分として見守ってやるから大船に乗ったつもりでいろよ!」
「ええっ?!あ、あにきぶん?」

笑って肩を組めば、目を丸くして驚いたリィンが少しだけ考え込む。今まで兄として育ってきた分馴染みのない言葉だったのかもしれない。何考えてるんだと待ってみると、薄紫がおずおずと見つめてきて、そして。

「……く、クロウにいさま?」

ぐふっ。予想外の衝撃に心がクリティカルダメージを負う。エリゼに言われる事もまだ慣れないうちにリィンからのこれは正直言って心臓に悪い。だが何とかこのダメージを顔に出すことなく、クロウは笑い続けることに成功した。

「おう、おう。何だお兄様が出来て嬉しいか?今度からお前もそう呼んでみる?」
「い、いやっ、やっぱり止めとく……!」

頬を赤らめて慌てて顔をそむけるリィン。言った本人も少なからずダメージを負ったらしい。兄様だなんて年齢でもないし、年齢差はあれど男友達同士で兄弟ごっこなんて照れたんだろうなあとクロウは思った。

「……で、嬢ちゃんは無事にケーブルカーに乗って行っちまったけど、どうするよ?」
「えっ?!」

気を取り直して前方を指さすと、クロウの腕から逃れてリィンが物陰から飛び出した。ケーブルカーはちょうど動き出したところで、今から全速力で走り寄っても乗り込めるタイミングでは最早無い。立ち尽くすリィンの隣に、クロウものんびりと並んだ。

「元々隠れてついていくんだから、一緒のゴンドラには乗れなかっただろ?」
「うん、それはそうだけど……一人で乗るのが初めてのエリゼが足を引っ掛ける事無く無事に乗り込めたか見守るのを忘れた……おれは兄失格だ……」
「兄の資格判定厳しいなおい」

そもそも何事も無く出発しているのだから大丈夫だったに決まっている、と慰めればリィンは何とか立ち直った。問題はここからだ。基本的にケーブルカーは一台のみなので、一度出発した後は立て続けに乗れるものではない。待ち時間が発生する訳だ。

「さて、時間差は出来ちまうが、次のケーブルカーに俺たちも乗るか。な、次の奴に乗るよな?」

念押しするように確かめたのは、一つの可能性が脳裏をよぎったからだった。果たしてリィンはクロウの予想通り、とある方向をじっと見つめている。それはケーブルカーの駅では無く……ユミルからふもとの町へと徒歩で降りられる唯一の道がある方角で。

「……もしかしたら、走れば追いつけるかも……?」
「いやいやいや、絶対無理!ケーブルカーは真っ直ぐ下に降りてるがあの道は曲がりくねった山道だろ?!しかも雪深いこの季節今じゃあまり使われなくなったせいで踏み固められてもいねえし、あんまり慣れてねえ子供が歩くには無謀だ!って前に俺に教えてくれたのはお前だったよな?な?!」
「うっ……」

必死に言い募れば、自分でも多少は無茶だと思っていたようで視線を逸らし、ぼそぼそと小声で呟く。

「ちょ、ちょっと言ってみただけだもん……」

嘘をつけ嘘を。
とりあえず何とか思い直してくれたリィンにほっとしたクロウは、大人しくゴンドラが戻ってくるのを並んで待ち、二人で乗り込んでふもとの町へと向かった。




幸いエリゼはリィンとクロウがケーブルカーから降り立って急いで探す間もなく見つかった。駅の隣の店に立ち寄り、えーとんーとと悩みながら物色している最中であった。入り口からその後ろ姿を見つけて、リィンがどっと安堵の息を吐き出したのは言うまでもない。

「よかった、無事だった……」
「いや無事だろ、そりゃ」

気付かれないように小声で会話する。エリゼはきちんと渡されたメモを見て、何か品物を選んでいるようだった。店の看板を見上げればどうやら日用雑貨の店らしい。ユミルにお店は一件しかないが、確かこの町にはそれぞれの分野に特化した店がいくつか建っていたはずだ。

「なあ、嬢ちゃんのおつかいって何買うんだ?」
「ええと、母さんから頼まれた調味料と、父さんから頼まれたレターセットと、バドのジャーキーと……おれたちへのお土産のお菓子、かな」
「ははあ、また持ち帰るのにかさばらなさそうなチョイスで……」

幼子に任せるにはちょうど良い頼み事だと思えた。昨日まで夜中に自室で密かにうんうん悩んでいたテオは、もしかしたらこのおつかいで頼む内容を毎晩考え込んでいたのでは、と気付いたクロウだったが、何も言わないでおいた。
しかしその内容なら、この店であらかた揃ってしまうのではないだろうか。ちらとリィンを見れば、クロウの言いたい事を正確に読み取ったらしく首を横に振る。

「こことは別に駄菓子屋さんが向こうにあるんだ。多分、おれたちへのお菓子はそっちへ買いに行くと思う。母さんに連れられて買い物に来た時は、かならず寄っていたから」
「へえ、なるほどなー」

納得して頷いてから、意味ありげにもう一度リィンを見つめる。今度は何を言いたいのか読み取れなかったらしく、リィンはきょとんと瞬いた。

「何?」
「お前、心が読めるのか?」
「はっ?」
「だってなー、俺が何も言わないのに答えてくれたもんだから、てっきり俺の心を読んだのかと思って!」
「な……!」

ぱちんとウインクを一つして言ってのけたクロウに、リィンが絶句する。はくはくと口を開け閉めしている間に頬も染まってくる。きっと思い出したのだ。まだ二人が出会ったばかりの時に、ほぼ同じことをリィンがクロウに言ってのけた時の事を。それを思い出せるような事をわざと口にしたクロウに、リィンが頬を膨らませた。

「な、なんでそういうの覚えてるんだよっ」
「覚えているだろー、いきなりあんな事言われてあの時は本当笑っ……微笑ましく思ったもんだし」
「うっ嘘だ、思いっ切り笑ったくせに!おれだってあの時のクロウの様子、覚えてるんだからな!」

ぷんぷん怒りながら睨んでくるリィンに、あんまり騒ぐとエリゼ嬢ちゃんに気付かれるぞーと忠告して熱を冷ましてやる、その前に。リィンの表情がふと変わった。怒りが途端に引っ込み、すぐに何故か淡く笑みを浮かべる。目の前での突然の変わりようにクロウは思わず閉口していた。

「うん、覚えてる、あの時のクロウ……」
「な、何をだ?」
「だって初めてだったんだ、あの時が」

笑われた本人にとっては苦々しい思い出のはずのそれを、まるで大事なものを思い出すかのように微笑んで、リィンはクロウを見た。

「クロウが声を上げて笑う所を見たの」
「へ……?」
「それまでやっぱり、どこか硬い表情してた気がしてたから、あの時はさすがに恥ずかしかったけど……あとですごく嬉しかったんだ。クロウが笑ってくれて良かったって、安心したんだ」
「………」

確かにあの時は初めての土地での緊張と、そして胸の奥底でくすぶっていた黒い企みに苛まれていて、今よりは大分強張っていただろう。大人たちはともかく、リィンのような子供に悟られるような真似はしていないはずなのに。俺もまだまだだよな、と反省しながらクロウの脳内にはもう一つ、最近クロウが目を逸らし続けているとある自問が浮かんでいた。まるでそこから逃げるなと囁くかのように。

かつては表情を強張らせるほど己の心を占めていたあの時の黒い感情。
では、今は?

「クロウはかっこいいから、笑ってた方が絶対に綺麗だしな」

そうして思考の海に沈む前に、天然さんが定期的に落として下さる爆弾を容赦なく喰らい、クロウの考えはめでたく停止した。いや、それがめでたい事なのかはさておき。

「お前ほんと……素でそういう事言うのやめろって、ろくな大人にならねえから」
「え、何が?」
「はあ、今からこの調子だとマジで先が思いやられるな……誰彼構わず同じような事言いまくるのだけは止めとけよ」
「そんなの、言う訳無いだろ。こうやってかっこよくて綺麗だって思うのはクロウだけだし」
「くっ、こいつは……!」

けろっとした表情で言ってのけるこいつには羞恥というものがないのか、とクロウは割と本気で考える。正確に言えば羞恥はある事はあるが、妙なところで躊躇う事無く堂々と恥ずかしい事を言ってのけるのが本当に困る。それを言っても分かってもらえないのが何とももどかしい。
と、そこで二人の耳に、「ありがとうございました」というおじさんの声が届いてハッと我に返った。慌てて店内を覗けば、買い物を済ませたらしいエリゼに店員のおじさんが袋を手渡している所だった。買い物が終わったのだ。いつの間にか支払いも済んでいたようで、あとはもう店から出るだけのようだ。一瞬で顔を見合わせたクロウとリィンは、ダッシュでその場を離れる。
民家の陰に身体を滑り込ませたタイミングで、おじさんに見送られたエリゼがうきうき笑顔で出てくる。短距離ではあったが全力疾走したせいで、少しだけ息が乱れた。幸い姿は見られていなかったようで、エリゼはそのまま確かな足取りで歩き出している。リィンの言っていた駄菓子屋へと向かうのだろう。
壁に並んで寄りかかりながら、薄紫の瞳がじっと恨めしそうに見上げてきた。

「クロウのせいでエリゼに見つかる所だった……」
「今のは俺のせいか?!」

勝手に恥ずかしい事言って思考を止めたのはどこのどいつだ!と文句を言いたかったが、あまり大声を出すことも出来ずエリゼもトコトコと一人で歩いていってしまったため、慌てて二人で後をつける。と言ってもそんなに距離を歩いたわけではない。ユミルより少しだけ大きな規模のこの町の中では、子供の足と言えども端から端まで歩く事すら容易だ。件の駄菓子屋も、そう離れていない場所に建っていた。町の中心にある、今は凍っていて水を噴きあげていない噴水の陰から顔を覗かせる。

「へえ、楽しそうな場所じゃん」
「うん、おれも大好きなお店だ」

駄菓子屋はまさに子供のためのお店のようで、お菓子だけでなくお小遣いで買えそうなおもちゃも表にずらりと並んでいた。これよりも規模が大きな、似たような店がジュライにもあった。日曜学校に共に通う友人たちと頻繁に寄って色々遊び倒したことが、クロウの脳裏に過ぎる。

「クロウ?」

リィンとクロウと、そして多分自分の分のお菓子を楽しそうに選ぶエリゼから視線を外してリィンが見つめてくる。その頭を押し戻すようにぽんと叩いた。

「こーら、ちゃんと妹ちゃんを見守ってやらなきゃ駄目だろ兄貴?」
「うん……」

まったく、今の一瞬の追想にどうしてこう反応するのか。自分の事や自分への好意にはとことん鈍いくせに、他人の気配や揺れにはこんなにも敏感なリィンにクロウはこっそり苦笑する。
今のは少しだけ、思い出してしまっただけだ。それ以上でもそれ以下でもない。いくら忘れたふりをしても、心に焼きついた思い出とは不意をついていくらでも蘇ってくる。こうして故郷を思い出せるような風景に出会った時や。
かつて唯一の生きた身内だった、あの人にどこか似ている人間を見かけた時など、特に。

「あ、あの人が店長さんだよ。いつも元気で、おれたちに優しくしてくれる人なんだ」

リィンが指す先には、両手に取ったお菓子を見比べて悩んでいるエリゼに店の中から出てきて声を掛ける老人の姿があった。遠目から見ても人好きする笑顔で快活に話しかけている。突然話しかけられたエリゼも一度びくりと飛び上がっていたが、顔なじみだったためかすぐに笑顔で受け答えしていた。きっと事情を説明したのだろう、しわくちゃの大きな手が褒めるようにエリゼを撫でる。嬉しそうな高い笑い声がこちらにまで届いた。
その様子を、クロウは何も言わずにじっと見つめていた。表情は今まで通り。気配だって何も変えていない、はずだ。手だけを軽く握りしめて、何でも無いようにエリゼを見守っていた。クロウは、そのつもりだった。
しかしふいに、左手をきゅっと、己とは別の体温が握りしめてきて目を見張る。

「おい……?」

戸惑いに振り返れば、視線の合ったリィンは困ったように眉を寄せつつにこりと笑い、何も言葉を発することなく前方へと首を戻す。リィンの右手で握りしめられたクロウの左手はその合間もそのあとも離される事無く、しっかりと繋がれたままだった。
リィンは何も言わない。クロウに何も聞かない。それはあの日、宣言していた通りの態度だった。クロウがユミルに来てから、ジュライを旅立ってから初めて声を上げて笑った日。リィンがクロウに向かって、何かを隠すような笑顔でそれでも真っ直ぐ言い放った言葉。

『クロウが、おれに話してもいいかなって思った時に聞かせてくれたら嬉しいな』

リィンはクロウの事情を何一つ知らない。クロウがその気になる日が来るのかも分からない。それでも、隣にいてくれる。今自分が「独り」である事実を強烈に突き付けられて立ち止まってしまったクロウのために、隣に並んでその手を握っていてくれる。何も言わずに、何も聞かずに、クロウが再び歩き出すまで待っていてくれている。
クロウは目を瞑った。そして左手にぎゅっと力を込めた。答えるように、同じように握りしめてくる温度を味わう。そうしていたのは僅かな時間だった。やがて目を開けたクロウはリィンに顔を向けて、軽く左手を揺らす。ちらっと横目で見上げてきた顔が、今度こそ嬉しそうに笑った。
クロウがそうして元気を分けてもらった後も、二人の手はしばらく握られたままだった。この寒空の下に好んで出てくる者も今はおらず、好きなだけ二人で寄り添っていられた。厳しい冬の寒さに密かに感謝の念が浮かんでくるほど、この温もりは離し難かった。

「……あれ?」

しばらくしてリィンが首を傾げた。心底不思議そうなその声に振り返って尋ねる。

「どした?」
「エリゼがお菓子以外のものを選んでるみたいなんだ。メモには他に何も書いてなかったはずだけど」

駄菓子屋の店主と並んだエリゼが今見ているのは確かに駄菓子のコーナーではなく、おもちゃが並んでいる一角だった。その手にはすでにいくつかの品物が握られていて、目的のお菓子はすでに手に入れている事が窺える。ならば今エリゼが物色しているものは何なのか。
疑問に思った二人は、エリゼと店主の会話が聞こえるようにと近づいてみる事にした。噴水の陰から離れて、駄菓子屋の隣の民家の物陰へと移動する。すると、ちょうどエリゼの嬉しそうな声が届いてきた。

「はいっこれならクロウにいさまにぴったりです!ありがとうございます!」
「ハハハ、そうかそうか、ちょうどいい色が見つかってよかったのう」

クロウにいさまにぴったり?
こっそり覗き見れば、はしゃいだ声を上げるエリゼの指先に摘ままれたものがチカチカと光を放っている。それは、赤色だった。赤色の小さな丸い何かを持っている。あれは、多分。

「ビー玉、か?」

疑問を声に出してから確信する。あれは確かに赤色のビー玉だ。クロウも昔色んな色のビー玉を使って遊んだことがある。あれをエリゼは、クロウにぴったりだと喜んで買うつもりらしい。どういう事か分からずにクロウは首を捻った。

「……そうか、エリゼ、もしかしたらこのために今日のおつかいに行きたがっていたのかな」

隣から納得したような声が上がる。どうやらリィンにはどういう事か見当がついているらしい。ビー玉とクロウ、いくら考えても繋がりが全く見えてこない。ギブアップしたクロウが繋がったままだった左手を引っ張った。

「おい、どういう事だ?」
「多分エリゼは、記念にあのビー玉をクロウにあげたいんだと思う。サプライズプレゼントって奴だな」
「はあ?プレゼントって、何でだよ」
「だって確か今日で、ちょうど一ヶ月だっただろう?」

当然のように言われて、何がだ、と尋ねようとしたクロウは、その前に気付いていた。
一ヶ月。今からちょうど一ヶ月前は……クロウが、このユミルに初めて足を踏み入れた日だ。
……その記念、だというのか。赤の他人のクロウが郷にやってきたというだけの記念のために。あの素朴で綺麗な子供にとっての宝物とも言える、丸い結晶を。

「……エリゼ嬢ちゃんもどうやらお人よし兄貴に随分感化されてるみてえだな……」
「なっ?!それって、エリゼを褒めてるのか?貶してるのか?!」

心外だとばかりに声を上げるリィンはややずれた所に引っかかったようだ。あんまり大声を上げると気づかれるぞ、とジェスチャーで伝えればハッとあいていた片手で口を覆う。幸いこちらに気付かれた様子も無く、エリゼは楽しげに店主と会話したままだ。

「しかし何で、赤色のビー玉なんだ……?」

独り言のようにぽつりと呟いた疑問には、すぐさま答えが返ってきた。

「だってクロウの色じゃないか」
「は?俺色?」
「クロウの目の色。さすがに本物には敵わないけど、赤いビー玉も綺麗だな」
「……なるほど、俺の目の色、ね」

今さらっと恥ずかしい事を言われた気もしたが辛うじてスルーする。自分の目の色なんて鏡を見た時ぐらいしか確認しないが、言うほど綺麗なものだろうかと首を傾げる。
とりあえず、しばしその姿を観察する。プレゼントをされる側ではなくする側なのに、何故かとても楽しそうな笑顔のエリゼ。渡す瞬間が今から楽しみなのだと、全身で語っていた。

「でも、内緒でプレゼントを買うために初めてのおつかいをするなんて……エリゼも成長しているんだな……」

何やらしみじみと感動しているらしいリィン。クロウははいはいと流してやりながら、自然と笑みが浮かんできていた。まったくこの一家は、クロウの心にダメージを負わせに来る術に長けているものだ。筆頭はもちろん、まだクロウにぬくもりを分け与え続けるこの左手に握り込んだ人物であるが。
二人がそれぞれ笑みをうかべて、さてこの初めてのおつかい見守り大作戦もこれで終わりか、と油断していた時だった。
赤いビー玉を手にまだ何かを眺めていたエリゼが、おもむろにもう一粒、ビー玉を拾い上げていた。

「それではこちらが、リィンにいさまのぶんです!」

え、とリィンが声を漏らす。ここでまさか自分の分を選ばれるとはさすがに思っていなかったようだ。エリゼが掲げたのは透明に近い紫色のようで、なるほど確かにこちらもリィンの瞳の色に近い。角度によって赤が混じったり青が混じったりその表情をよく変えるリィンの生きた瞳の色ほどの美しさは無いが、作り物のビー玉ならばあれで及第点だろう。そうやって素の頭で思ったクロウは、己の思考が先ほどのリィンの恥ずかしい言葉と大差ない事に気付かない。
満足そうに頷いた後、エリゼは店主に二つのビー玉を渡して会計を済ませるつもりのようだ。お買い物はあれで終わりだ。

「綺麗な色を選んだのうエリゼちゃん、プレゼントかい?」
「はい!にいさまたちに、きねんにプレゼントするんです。かあさまからおしえてもらいましたっ」

一個ずつ小さな袋に包んでもらいながら、エリゼはとても嬉しそうに笑っている。どうやらあのサプライズプレゼントはルシアからのアイディアのようだが。

「……あ、」

ふいにリィンが、目を見開いた。何かに思い当たった様子の横顔をクロウが見つめる。

「何だ、お前も何か記念日が近くにあんのか?」
「……うん」

ゆっくりと頷いたリィンは、少しの沈黙の後静かに口を開く。

「もうすぐ、おれの……誕生日となった日が、来るんだ」

誕生日となった、日。クロウは疑問に思った。ただ誕生日と聞けば、エリゼが記念と言ってプレゼントを用意する理由が簡単に理解できる。しかし今の言い方では、何だか回りくどく感じた。まるで元々その日は、誕生日ではない別な日だったと言っているようだ。
とっさに尋ねようとした口を、クロウは閉じていた。頭に浮かんだのはさっきも思い出していた、約一ケ月前にリィンと交わした会話。リィンが待つというならば、それではこちらもと返した言葉。それがクロウの疑問を押し留める。リィンが律義に守っているのだから、己だけが破る訳にもいかない。もどかしく思ったが、しかし同時に微かな喜びも湧き上がっていた。
こうして何かあると匂わせるような事を言える程度には、おそらく。リィンの中にクロウが住み着いている。
しかし何故その事に喜びを見出してるんだ俺、と考えかけた所で。

「クロウ危ない!」
「んなっ?!」

急に繋がったままの手を引っ張られてたたらを踏む。強制的に傾いだクロウの体へ被さるようにしがみついてきたリィン。その、頭に。

ボスン!
「わぷっ!」

真っ白な塊が音を立てて落ちてきた。黒い頭に当たった途端ぼろぼろと砕けたそれが、民家の屋根から零れ落ちた雪の塊であると気づいたのは遅れて一瞬後。覆いかぶさってきた小さな体のおかげでクロウがそれを被ることは無く、リィンは頭から思いっきり被ってしまったせいで肩から上が雪まみれとなっていた。
頭をふるふる振って冷たい欠片を落とした後、リィンは真っ先にクロウへ視線を合わせてきた。

「クロウ、だいじょ」
「まーたやりやがったな、この自己犠牲馬鹿っ!」
「いっ?!いひゃい!いひゃいよクロウ!」

雪がくっついたほっぺたを掴み、遠慮のない力で引っ張るクロウの表情は怒り顔だった。わたわたともがくリィンに構わず、良く伸びる頬を両方掴んで引っ張りまくる。

「俺が今まで何度言ったよ、自分を顧みないでなりふり構わず庇うのはやめろって!それをまだ分かってねえのかお前はあああ!」
「ご、ごめ、ごめんクロウ!ほんとにごめ……!」
「本気でごめんって思ってないから繰り返すんだろうがこの分からず屋が!」
「ふえええ〜」

今のがそんなに大きくない雪の塊でよかった。もしもっと大きな塊だったり、もしくはツララだったりすれば怪我で済まなかったかもしれない、と考えてゾッとする。今のタイミングならクロウを引っ張って軌道上から動かせばよかっただけの話だ。それを真っ先に自分が身代わりになるように飛び込んでくるのだからどうしようもない。
リィンのこの悪癖を一番最初に怒鳴りつけてから今まで、頻度は減ったようだったがここぞという時に顔を出してくる。今回は当たっても冷たいだけの雪だったが、そうして大事に至らなかった時から言い聞かせてやらなければならない。取り返しのつかない事態が起こってからでは遅いのだ。
手のかかる弟を持った本物の兄貴になった気分だ、と怒りながらもどこか感慨深げに考えてから、クロウはようやく手を放してやる。ぱちんと元に戻った頬を涙目のリィンは両手で押さえた。赤くなった頬が少し痛々しいが、ここで情を見せては駄目だと心を鬼にして睨み付ける。

「何か文句や反論があるなら聞くが?」
「うう……無いです」

しょんぼりと頬を押さえながら肩を落とすリィンは一応反省しているらしい。頭では理解しているつもりでも、心と体が急いてしまうのかもしれない。先は長そうだ、と重くため息を吐くクロウ。
そうして二人の間に沈黙が落ちた後、ハッと、同時に思い出していた。

「そうだ、エリゼ!エリゼは?!」
「もう駄菓子屋にはいねえし!」

物陰で揉めている間にエリゼの買い物はとっくの昔に終わっていたらしく、駄菓子屋に最早人の姿はなかった。店主も客が誰もいなくなって奥へ引っ込んだのだろう。小さな可愛らしい足跡が地面に敷き詰められた雪の上に転々と、駄菓子屋から噴水の横を通って真っ直ぐ続いている。周りの事は忘れて割と騒いでしまっていたが、どうやらこちらに気付く事なく帰ってくれたらしい。
隠れていた場所から飛び出してエリゼを探したリィンが、近くにもう姿が見えない事を確認してクロウを振り返ってくる。

「クロウ……」
「いや、今回のは完全にお前のが悪いからな?!」

とりあえず言い合っている場合ではない。慌ててあらぬ方向に駆け出そうとするリィンの腕をつかんで、クロウはとある場所に向かって足を踏み出す。

「まあそんなに慌てる事はねえって、買い物は全部終わったんだから、エリゼ嬢ちゃんが向かうのはただ一か所だ、そうだろう?」
「え?あ……そ、そっか。帰るなら、ケーブルカーしか無いよな」

納得したリィンも落ち着きを取り戻す。エリゼのものであろう足跡もまっすぐケーブルカーの駅へ続いているようだ。もう乗り込んで出発してしまっている可能性はあるが、元々同じゴンドラには乗れないのだから支障はない。

「でもまた、エリゼがちゃんと乗り込めるか見守ってやれなかったな……」
「だから過保護過ぎるっての」

さっき怒って怒られた事はとりあえず忘れて、二人並んで駅へと向かう。それぞれその顔には、一仕事終えた充足感が満ちていた。初めてのおつかいが無事に終わって本当によかったと、口には出さずとも同じことを考える。
赤と薄紫の瞳が互いに向き合って、笑った。帰ったらこの色と同じ宝物が一つずつ、この手に届けられるだろう。どうやって驚いてやろうか。どうやって感謝の言葉を伝えようか。語りながら歩く雪の道は、どんな帰り道よりも温かい。

こうしてエリゼの初めてのおつかいは、何事もなく無事に完了した。




そう、思っていた。




「あーすまんな坊主たち、一時間前ぐらいからケーブルカーが不調で止まっちまっててよ、まあ日が暮れるまでには修理してやるから気長に待っててくれ……え、女の子?ああ、確かにさっきここに来たぜ、温かい所で待ってなって声を掛けたんだが、早く渡したいのにだの何だのブツブツ言って、どっか行っちまったな……すまんな、修理に忙しくてどこに行ったのかまでは見ていなくてなあ」



「……クロウ」
「ああ」

クロウとリィンは強張った表情のまま、雪に覆われる山道の入り口に立っていた。
その足元には小さな小さな足跡が、細く険しい森の中の道へ向かって、真っ直ぐ続いていた。



14/11/19



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