第三話
あっちを見てもこっちを見ても冷たい銀世界という山の中の郷ユミルで暮らし始めてから早一週間以上。居候先であるシュバルツァー家の人々について分かった事がいくつかあった。
テオの趣味が狩りに出る事で、真冬なのに嬉々として出かけてしまう事も多い事。
ルシアの料理の隠し味には彼女が育てているハーブが入っている事。
エリゼに先日貰ったくまのぬいぐるみは、家族の一員として認めてもらった証な事。
そして。
ベッドから降りて伸びをしながら、クロウは隣の誰もいないベッドを眺める。
リィンが定期的に誰よりも早く起きて、どこかへ出かけている事。
(おーおー、今日もやってんなあ)
凍るような朝の空気に息を吐き出しながら、極力音を立てずに雪の上を移動し、木の陰からそちらを覗き見る。なるべく気配を消すのも忘れない。年下の子供とはいえ、武術を嗜む相手に油断は禁物だ。クロウの視線の先には、朝日が差し込む森の中で一心不乱に何かを振り回すリィンの姿があった。
クロウとてそこまで詳しい訳ではないが、その手に持つ不釣り合いな長さの武器と、ぎこちないながらも繰り返されるその型に、とある一つの流派を思い浮かべる。リィンが手に持っているものは木刀だった。おそらく子供用に少しだけ軽く短くなっているものなのだろうが、それでも今のリィンの背丈には長すぎる印象が拭えない。じっとしていれば体の芯まで凍えそうな冷たい朝だというのに、汗を滲ませながらもリィンは木刀を振る動作を繰り返していた。
屋敷からほど近いこの場所で早朝リィンがこうして一人鍛錬に励む姿を見つけたのは、クロウがユミルにやってきて二日目の朝の事だった。初日は疲れもあってつい寝こけてしまったが、その日はクロウの思惑通り夜明けと同時に起きる事に成功して、そしてその時間にはすでにリィンの姿が無かった。気配を辿って探してみればこの光景に出会ったという訳である。朝特に何も用事が無い場合は、大体こうして早くに起き出しているようだった。
(実力的にはまだまだだが、これは……将来化けるかもな)
おそらくその型を習ってまだ長くはない。しかし飽くことなく繰り返されるその真剣さと、どこか鬼気迫る空気、何よりもその瞳が。初めて出会った時クロウも射抜かれたその薄紫が、ひたすら見つめる先が明るく思えるのはその真っ直ぐさ故か。ただやはり彼の普段の印象と同じようにどこか急いているようにも見えるから、どこかで躓く事があるかもしれない。そこで這い上がる事が出来れば、きっと。
(って、俺はいつまであいつを見守ってるつもりなんだっつーの)
自分で自分に突っ込んで、クロウは音も無く踵を返す。この流れがここ最近のクロウの日課となっていた。リィンよりあえて遅く起きて、その練習ぶりを少しだけ眺めて、己の目的のための行動へ入る。リィンに遅れて起きるのはもちろんクロウのこの行動を相手に気付かれないためだ。テオ辺りには起き出している事をバレているかもしれないが、今まで口を出されたことは無い。その事に内心で感謝しながら、今日もクロウはこっそり足を進めた。
何てことは無い。やっている事は、ほぼリィンと変わらない。オズボーンに捕まるまで、放浪しながら血の滲むような思いで繰り返していた鍛錬を再開させただけだ。
「ま、俺も人の事は言えねえしな」
ぽつりと一人ごちて、その手に持っていた得物を見下ろす。旅をしている間に増えたクロウの荷物。とある伝手で手に入れたその大きな武器は、まだまだ成長途中のクロウの手には余る代物であったが。
諦めるつもりはない。こいつを使いこなせるようになれば少しは、あの憎き男にも近づけるだろう。そのための鍛錬は欠かさない。
「どっちが自分の得物を先に使いこなせるようになるか、勝負だな」
相手は知らない、一方的な勝負に笑みを浮かべる。リィンに見つからないように離れた場所に向かいながら、クロウは不思議に思っていた。
リィンの出自を考えればこれは、もっと深刻な勝負のはずだ。それなのにどうして、あの年下のライバルの成長をどこか楽しみにしている自分がいるのだろうか、と。
「クロウ、寝るなっ!」
「んあ?」
左隣から揺さぶられ、クロウは頬杖をついて転寝していた頭をはっと持ち上げた。朝が早いとどうしても日中に眠くなる。暖かな部屋の中で、椅子に座り、テーブルの上に広げたノートの文字を追っていれば、なおの事眠くなるのは必然であった。自分のすぐ後にクロウが起きている事を知らないリィンが、すぐに目を閉じてサボろうとするクロウをじっとりと見つめている。こいつはどうして眠くならないのだろうかと、クロウはいつも不思議に思っている所だった。
「せっかく皆で勉強してるんだから、寝るなよ」
「くあぁ〜……。だって俺、もう全問解いちまったもん」
「えっ?」
欠伸をしながら自分のノートを指し示すクロウにリィンが目を丸くして覗き込んでくる。じっと書かれた数字を視線で追った後、さっき呆れていた事も忘れてきらきらと輝く瞳を向けてきた。
「本当だ、すごいなクロウ……!」
「まー前に日曜学校で習った範囲だしなー。つーかお前ちょろすぎだろ」
「えっ何が?!」
持っていたペンの頭でとんとリィンの額を突いている間に、左右から別な顔がにゅっと覗き込んできた。共に勉強していたユミルの子供たちだ。日曜学校の前に予習復習をしておこうという話にリィンがクロウを誘ってきて、現在5名でテーブルを囲んでいる所なのである。
「いいなあ、クロウは頭良いんだね」
リィンの横から羨ましそうに見つめてくるのはリィンと同じ歳ぐらいの男の子ラックだ。今日こうして集合しているのもラックの家だった。さっきから周囲に付きっきりで教えてもらいながら頭を悩ませている所を見ると計算問題が苦手らしい。
ラックの向かい、クロウの右隣からにっこりと微笑みかけてくるのは、この中でも年長の女の子であるリサだった。将来はシスター志望だと自ら言っていた通り、慈愛に溢れた笑顔である。
「日曜学校は地域によって進み方も違いますからね。それをきちんと覚えていた事も偉いですよ、クロウ君」
「ちょうど良かった!私にもこの辺ちょっと教えてよイケメン!」
名前で呼びなさい、とリサに窘められたのは彼女と同じ歳らしい女の子メイプル。若干馴れ馴れしいが誰に対してもこの調子らしく、年下のはずのリィンとラックもメイプルには呼び捨てタメ口である。もちろんクロウも同じ子供同士であれば遠慮するつもりはない。
「やなこった。俺は人に教えるのが苦手なんだ、他あたってくれ」
「何よー冷たいわねえ。仕方ない、リィンお願い!」
「そこで何で年下に振るんだよメイプル……」
呆れ顔のリィンだったが、頼まれて断る事が出来るような奴では無い事は短い付き合いのクロウでもよく分かっている。案の定律義に計算方法を丁寧に教え始めた。
ユミルほどの小さな郷だと日曜学校も年長組と年少組に分けることが難しいらしく、子供たち全員がほぼ同じ所を習うらしい。だからこそリィンが年上のメイプルにこうして教える事が出来るのだろう。反対側ではラックが「リサ姉ー」とリサに助けを求めていて、クロウは少々手持無沙汰となる。仕方がないので、正面のリィンとメイプルのやり取りを眺める事とした。
「ほら、こうして式を当てはめると、答えは23だ」
「ははーなるほどねー。それじゃあこっちは?」
「えっと、そっちは……」
聞かれるがまま懇切丁寧に教えていくリィン。頬杖をついて見ていると、計算に少し間違いが出てきた。リィンもすぐに気付いてあれっと首を傾げている。仕方がねえな、と身を乗り出して、脇から腕を伸ばして間違い箇所を指し示してやった。
「おら、ここが間違ってんだろ」
「え、あ、そっそうか!えーと……これが正解、かな」
「あったりー。良く出来ましたっと」
指摘してやればすぐに答えに辿り着いた優等生の頭にぽんぽんと触れる。顔を持ち上げたリィンがびっくりしたようにクロウを見て、すぐに破顔した。さっきまで真面目にお勉強していた顔が、年相応の笑顔でこちらに向けられることに訳の分からない優越感を抱く。満足げに自身も笑みを浮かべた所で、リィンの向かいから不満そうな視線が飛んできている事に気付いた。メイプルだった。
「何だよ」
「ねえちょっとずるくない?私には教えてくれないのにリィンには教えるし、しかもご褒美つき!」
「ご褒美ってお前な、教えるのが面倒くさいのには変わりねえよ。今のはリィンだったから……」
……リィンだったから、?一瞬だけ息を吸って言葉を止めて、何でもないように続ける。
「……ただ指摘するだけで良かったんだ、一から教えるなんてごめんだな」
「何よー納得いかないわねー」
「メイプル、どーどー。……クロウ、教えてくれてありがとう」
メイプルを落ち着かせて、リィンがどこか嬉しそうに笑いかけてくる。適当に笑顔を返してから、クロウは内心で舌打ちした。考えているのはもちろん、先ほど止めた言葉について。
今のは、相手がリィンだったから。簡単に間違った部分を教えてやるだけで良かったし、それ以上の口出しはしなくてよかった。だから、面倒じゃないから教えた。それは間違いない。しかしそんな理由が出てきたのは、言葉を切ったあの一瞬の時だった。では何故その前に、何も考えずに「リィンだったから」なんて言ったのか。
答えは簡単だった。「リィンだったから」、それ自体が理由だった。それだけなのだ。
(はあ、まだ一週間ちょいしか経ってねーのに、俺はどれだけこいつに絆されてるんだ……)
クロウが握っていたペンを放り出してノートに額を押し付けて途方に暮れるのも、仕方のない事であった。
数時間後、無事に勉強を終わらせたリィンとクロウは皆と別れて外を歩いていた。……いいや、無事に、とはあまり言えない。クロウが溜息を吐くと、リィンが首を傾げて見つめてくる。
「どうしたんだクロウ?そんなに勉強がつまらなかった?」
「いいや、そっちじゃねえよ。この溜息はお前だお前」
「おれ?」
目を丸くしたリィンに、忘れたとは言わせねえぞと指を突き付ける。
「ラックのおばさんが重ねた皿落っことした時、お前止める間もなく飛び出しただろ。辛うじて全部受け止められたからよかったものの、下手したら大怪我してたぞ」
「あ……う、うん。ごめん」
指摘されたリィンは気まずそうに俯いた。勉強会の途中、おやつを振舞ってくれたラックの母親が、洗い終えた皿を棚に片づけようとしてバランスを崩した場面があった。その時クロウはちょうどメイプルとラックに両側から話しかけられていて、気づくのが遅れた。ラックの母親の悲鳴と同時に素早く動いた体を止める暇は無く。結局飛び出したリィンが零れ落ちた数枚の皿をすべて受け止めて大事は無かったが、もし受け止め損ねていれば頭に落ちていたり、床に落ちて割れた破片が刺さってしまったりしていただろう。とっさにあれだけ素早く動けたことは評価に値するが、とても無謀な行為だった。
クロウが見下ろせば、リィンが上目遣いでちらっと見つめてくる。この後ろめたそうな顔を見れば多少は自覚しているらしい。
「お皿が落ちそうな所を見たら、身体が動いてたんだ……これからは気を付ける」
「ったく、あんまり冷や冷やさせんなよ?」
怪我も何も無かったし、この話はここで打ち切ろうと思ったが、クロウは若干の危機感を覚えていた。リィンの行動にハラハラさせられた事は実はこれが初めてではない。クロウの勝手な分析であるが、どうやらこの子供は、他人が危険に陥っているのを見ると自らの安全を考慮せずに助けに入ってしまう癖があるようなのだ。ユミルで暮らし始めて短い期間であるにも関わらずすでに何度か似たような場面を見た事がある。テオもルシアもそんなリィンの癖に気付いていて、あんまり無茶はするなと懇々と言い聞かせているようだったが、本人に改めるような気配は今の所ない。
所謂ただ居候の自分が口を出す事ではないかもしれないが、さすがに目の前で怪我でもされたら目覚めが悪いし、何より己の中のお節介魂が黙っていなかった。見かけたら今回の様に注意してやろうとは思っているが、それもどこまで届くかどうか。クロウは一人頭を掻く。
その時だった。
「……ん?」
「クロウ?」
クロウが足を止めた事に気付いてリィンが振り返る。今、何かの気配を感じた。郷の人間とは違う、純粋なあれは……そう、殺気だ。小さいが確かに感じた。おそらく魔物の類だとは思うが。
「なあ、郷の中に魔物が入ってくる事って今まであったか?」
「え、いや、ほとんど無かったと思うけど……」
「うわああああっ!」
「「?!」」
二人の会話に割り込むように響いたのは、男性の悲鳴だった。突如上がったそれは郷の出口、渓谷へと抜ける道の方から聞こえたようだ。顔を似合わせ、クロウはリィンと共に悲鳴の元へ駆ける。
辿り着いた渓谷への出入り口には、雪を蹴散らしてこちらへ逃げてくる郷の人間の姿があった。リィンが一歩踏み出して話しかける。
「モリッツさん!どうしたんですか?」
「ああリィン、大変だあ……郷の近くで薪を切っていたんだが、そこにいきなり魔物が数匹現れて……!」
「魔物が?!そんな、こんな近くに……」
「さっきの気配はそいつだったか。んで、今その魔物はどこにいるんだ?」
駆け寄ってきてへたれ込むモリッツの後ろには、件の魔物の姿はない。リィンも首を傾げ、背後を振り返ったモリッツも目を丸くする。
「あれ、おかしいなあ、さっきまでたしかに追いかけて来たんだけども……」
「……あっ!あれ!」
鋭く声を上げてリィンが指差す。クロウも同時に気付いていた。家々の塀を飛び越え、森の中から数匹の毛むくじゃらが郷内に侵入していたのだ。意外に素早い動きでたったか駆けていく姿はどこか羊にも似た姿だった。
「あれは、ユキヒツジンだ!」
「ヒツジン?あいつほんと色んな種類がいやがるな……って感心してる場合じゃねえか!早く追い出さねえと」
「うん!」
リィンと二人でユキヒツジンを追う。追い始めてから何も武器を持っていない事に気付いたが、このまま放っておくわけにもいかなかった。
広場に出ると、ユキヒツジンたちは中央のお湯に入って温まったり、脇に並んでいた雪だるまを崩して遊んでいたりと、勝手に満喫しているようだった。まだ誰も襲われていないようなのが幸いだ。そこへ騒ぎを聞きつけたのか、剣を持ったテオが屋敷から飛び出してきた。
「リィン!クロウ!一体何の騒ぎだ!」
「父さん!郷の中にユキヒツジンが……!」
「何?この冬の時期に……腹でも空かせて迷い込んだか」
テオが二人の前に出て、剣を構える。朝に見るリィンの構えとは違った。この型は純粋に男爵家に伝わるものなのかもしれない。そうしている内に他の家からも大人たちが武器になりそうなものを手に集まってきた。さすがに子供の姿はない。
「二人は屋敷の中へ。安全になるまで外に出ないようにしなさい」
「でも、父さん……」
「いいから行くぞ、俺たちがいても何の役にも立たねえんだし」
躊躇うリィンの気持ちも分かるが、対抗できる武器も無いのだから仕方がない。それよりは自分で自分の身を守る事が重要だ。クロウが腕を取って引っ張れば、リィンもしぶしぶといった様子で後に続いた。大人たちはすでにユキヒツジンたちを包囲し、討伐に乗り出していた。
こいつをこのまま外に出していると碌なことにならない気がする、と嫌な予感が浮かんでいたクロウが足を速める。しかしその前方に、慌てて逃げ惑うユキヒツジンの一匹が飛び出してきた。
「うお?!」
「び、びっくりした……」
クロウもリィンも驚きに足を止めていたが、驚いたのはユキヒツジンも同じだったらしい。こちらを見て飛び上がって動きを止めた後、生意気にも小さな手を構えてみせた。掛かってこい、という事か。ちらとあたりを見回せば、傍に雪かき用のスコップが立てかけられているのが目に入る。それを手に取って、クロウは不敵に笑ってみせた。
「こいつ勝負を挑んでるつもりか?おもしれえ、受けて立ってやろうじゃねえか」
「クロウ?!」
「下がってろ、俺はここに来るまで多少魔物ともやり合ってきた経験があるんだ。一匹ぐらいなら負けねえよ」
ちゃんとした武器であれば複数を相手でもあっという間に蹴散らしてやれていただろうが、そこは一応言わないでおいて。クロウはリィンを後ろへ追いやると、スコップをユキヒツジンへ突き付けた。多少重いが、クロウの本来の武器に比べたら問題にもならない軽さだ。
戦う前に一応ギロリと睨んで、相手に格の違いを教えてやる。一瞬怯んだユキヒツジンは、しかし逃げる事無く飛び掛かってきた。短すぎる足から、それでもなかなかの威力のキックが繰り出される。
だが、遅い。
「甘いってんだよ!」
下から掬い上げるように振られたスコップが見事、正面から飛び込んできたもこもこの体に直撃する。その一撃だけで、ユキヒツジンは軽く吹っ飛んでいった。ピイとか何とかか細い悲鳴も聞こえた気がする。弱い。これならば大人たちに混じって討伐を手伝っても良かったかもしれない。
スコップを足元の雪にザクッと突き立て、安堵の溜息を零す。そのすぐ後に、またしても軽い殺気がこちらへ向けられた事に気付いた。
(ちっ、まだ来るのか!)
入り込んだ数が多かったのか、大人たちの包囲網を掻い潜ってもう一匹、クロウめがけて突撃するユキヒツジンがいた。スコップをもう一度持ち上げてガードするには少し遅い。衝撃を完全に殺すことは出来ないだろうが、この程度の敵なら素手でも問題ない、とクロウはその場で防御の姿勢を取った。腕を前にかざして、このまま攻撃を受けて耐えれば反撃のチャンスがくる。そう、考えていた。
「クロウ!」
「なっ?!」
その計画が全て崩されたのは、目の前に飛び出してきた小さな体のせいだ。脇からとっさに現れたリィンはクロウの代わりに受け身も取らずに前に出て、ユキヒツジンの体当たりに弾き飛ばされる。クロウの横をすり抜け、思いっ切り雪の上に倒れ込むリィンに、一瞬息を止めたクロウは何もかもを忘れてすぐさま駆け寄った。
「おい、大丈夫かっ?!」
背後ではすぐに駆けつけてくれたテオがユキヒツジンを追い払ってくれている。それに感謝する余裕も無いまま雪の中に膝をついてリィンの肩を揺さぶれば、きつく閉じていた瞳がゆるゆると開かれる。薄紫の鏡には必死な形相のクロウが映っていて、リィンは心から安心したように微笑んだ。
「クロウ、大丈夫か?けがとか、してないか?」
「……っ!」
ギリッと、己の食いしばった歯から音が漏れるのを、どこか他人事のように聞いた。自力で身を起こしたリィンは特に外傷がないようだ。柔らかい雪の上に倒れ込んだのと、やはり相手の攻撃の威力があまり無かった事が幸いしたらしい。
だが、そんな事。今は関係なかった。
「……クロウ?」
黙り込んだこちらにきょとんと瞳を瞬かせるリィン。座り込んだままのその顔を、クロウはギッと強く睨み付け、そして。
「馬鹿野郎!」
大声で怒鳴っていた。正面からそれを叩きつけられたリィンがびくりと肩を跳ねさせる。そんなリィンの様子も構わずに、自分より小さな肩を両手で掴んでいた。
「なんで飛び出して来たりした!今のは俺がちゃんと受けるつもりだったし、構えていたのも見ていただろうが!とっさにあんな風に身を投げたら受け身も取れねえだろ!何考えてるんだ!」
「あ……え、えと……」
「打ち所が悪かったり、もっと強い魔物だったりしたら、大怪我するだけじゃ済まねえんだぞ!さっき気を付けるって言ってたくせに、これかよ……!あんな無謀な守られ方される方の身にもなってみろ!」
「ご、ごめ……」
「おら、どこも痛くねえのか?!」
怒りの形相でぱんぱんと身体を叩いて確かめるクロウに、リィンは必死に何度もうなずいた。先ほどの見立て通り、本当にリィンに大したダメージが加えられなかったらしいことを確認したクロウは。
肩に痛みを感じるほど食い込んでいた指を少しだけ緩めて、怒っていた顔をくしゃりと歪めた。安堵と苦痛が綯い交ぜとなった複雑な表情だった。
「……あんま、心配かけさせんなよ」
「く、ろ……」
「マジ、ビビったんだからな……お前に怪我が無くて、よかった……」
長く大きな溜息を吐き出しながら、クロウはリィンの肩に額を押し付ける。リィンが全力で戸惑っているのが肩越しによく伝わってくる。思う存分、戸惑えばいいと思った。心配かけてしまったことをその身で感じて、少しは思い知ればいいと。
同時にクロウは、自分自身にも戸惑っていた。リィンが宙を飛んで雪の上に落ちたのを見た瞬間の動揺と、自分の事を顧みずまず一番にクロウの心配をしたリィンへの怒りと、それとは別な熱い激情、そしてリィンが無事だった事を確認した時の猛烈な安堵。いとも簡単にこんなに揺れ動く己の心全てに、何故、と困惑する。魔物の攻撃は弱く、酷い怪我をしていないのは見ただけで分かったのに、どうしてそれをはっきり確かめるまでこれほどまでに不安だったのか。そして。
自分を大事にしないリィンに対して、これほどの怒りがわき上がるのは、何故なのだろう。
「リィン、クロウ、無事か」
落ち着いた声が背後からかけられる。リィンから身を離して振り返れば、テオが優しい瞳で見下ろしていた。
まずはリィンの傍へ膝をつき、クロウと同じように怪我の具合を確かめる。リィンはそれを大人しく受け入れた。
「うむ、大事には至らなかったようだな。……リィン、私が言いたい事は、分かるな?」
「……はい」
「分かっていれば、良い。まあ、言いたい事は今すべてクロウが言ってくれた訳だが」
クロウへ笑いかけたテオは、リィンへも安心させるように笑顔で肩を叩く。そのまま大きな手に持ち上げられて、リィンは無事に立ち上がった。全身雪まみれなその体を、同じように立ち上がったクロウが叩いて落としてやった。向けられる薄紫は、何かを恐れるように揺れている。
「あの、クロウ、」
「ん?」
「……心配かけて、ごめんなさい」
手をきゅっと握り、俯いたリィンの声はどこか震えていた。まるで縋るような視線を向けられてバツが悪くなる。初めてあんな激高した姿を見せた事は、とうに自覚していた。脅えさせたいわけではない。ただクロウも、リィンにどうやって伝えれば己の気持ちを理解してもらえるか、よく分かっていなかったのだ。何せあれだけの憤りを感じたのは、ジュライを出てから今まで無かった事だったから。
少しだけ考えて、結局言葉にすることを諦めたクロウは腕を振り上げていた。持ち上がったクロウの手に肩を竦ませて目を瞑るリィン。広げた掌はそのままぽんと、リィンの頭に乗っかっていた。え、と声が漏れたその黒髪を、がしがしと痛みを伴うほどの勢いで掻き混ぜる。
「わ、わっ?!」
「まーったく、余計な心配しちまっただろーが!もうあんな事すんなよ、って言ってどれだけ通じるかねえ」
「っ気を付ける、ほんとに気を付けるから……!」
あわあわと混乱するリィンの頭を、それでもしばらくぐりぐり撫で回した。目を回して足をふらつかせ始めたのを見てようやく手を離してやる。ふらつく手をとって倒れ込まないように引っ張ってやれば、顔を見上げてきたリィンが、ようやくゆるく微笑む。どうやら自分も、上手く笑えていたようだ。
「ま、おかげで俺が助かったのは事実だし……サンキュな」
「ううん。おれ、余計な事しちゃったんだし……でもクロウにも怪我が無くて、本当によかったと思う」
「またお前は……」
どれだけしょげても反省してもそこは譲れないらしい。クロウが溜息を吐き出している間に、屋敷の方からこちらへ駆け寄ってくる人影があった。心配顔のルシアと涙目のエリゼだ。
「リィン、クロウ君、あなた……みんな、大丈夫?!」
「にいさま、にいさまっ!さっきにいさま、たおれていましたっ……!だいじょうぶですか?!」
「母さん、エリゼ……!」
リィンが歩み寄ると、エリゼがぎゅっと腰に抱き着き、その後ろからルシアにまとめて抱き締められた。ぎゅうぎゅうに包まれて再びあたふたしているその背中を、笑みを浮かべながら眺める。あれだけ大切にされているのに、どうしてああも自分を大事にしない思考になるのかと呆れながら。
「クロウ」
そんなクロウの隣に、テオが立つ。声を掛けられて見上げてみれば、テオもクロウと同じように団子状態になっているリィン達を優しい瞳で見つめていた。
「何すか」
「ありがとう」
「……え?」
どうして突然礼を言われるのか、訳が分からないクロウがぽかんとしていると、テオは優しい眼差しをそのままクロウへ向けた。
「君はリィンの事を心から心配してくれた。その事に感謝しているんだ。きっと先ほどの君の言葉はあの子に強く響いただろう……あの子が、リィンがこれから変わっていくきっかけにもなり得ると、私は思っているんだ」
その瞳には感謝と、親愛と、そして期待が込められていた。どの感情も全て不相応に思えて、クロウは気まずい思いで目を逸らす。もしテオがここに来たばかりの頃のクロウの感情を知れば、何と言うだろうか。迷いはあるものの、あの憎き男への復讐のためにリィンを利用する心がある事を知ったら、この人は。
「……買い被りですよ」
「いいや、私はそうは思わないがね」
クロウの心情を知ってか知らずか、とんと、柔らかく肩を叩かれる。前方ではようやく二人がかりの抱擁から抜け出すことが出来たリィンが、クロウに笑顔を向けている。眉を少し下げながらでも、真っ直ぐ届く純粋な笑顔。クロウは気づかれないようにギュッと、己の拳を握りしめた。
ある種の絶望が、クロウをじわじわと締め上げていた。
憎しみは、忘れていない。あの男への怒りも未だ己の内側で燃え続けている。復讐をやり遂げるためならたった一人、どんな手を使ってでも果たしてやるという思いは変わらない。
それでも、今。クロウの胸の内に浮かび上がる感情は、たった一つ。
この笑顔が失われる事無くいつまでも自分に向けられる事、ただそれだけだったのだ。
14/11/12
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