第二話
クロウがユミルで初めて迎えた朝。昨日の自分はよほど疲れていたらしいと、窓から差し込む眩しい朝日を眺めながらベッドの上でぼんやりと考える。昨夜ベッドの中に潜り込んでからの記憶が一切なく、現在の太陽はクロウが想定していたより高い位置にあった。確かに朝に強い体質という訳では無かったが、初めて寝泊まりする場所でこんなにも熟睡してしまうとは。色々と反省しながら体を起こし、隣のベッドを見る。そこに小さな同居人の姿はすでになかった。屋敷の中では複数の気配が朝特有の慌ただしさで動き回っているのが分かる。シュバルツァー家の住人の朝はなかなか早いようだ。
若干寝癖のついた頭のままぼーっとしていると、部屋の前にパタパタと誰かがやってきた。この子供特有の軽い足音、それでもどこか落ち着いて聞こえるそれが誰のものなのか、すぐさま思い当たる。果たして思った通りの黒髪が、自分の部屋なのに律義にノックをして顔をのぞかせてきた。
「クロウさん……あ、クロウ、起きてるか?」
こちらも律義に言い直して視線を向けてくる子供、リィンに、クロウは片手を上げて答えた。すると朝一番のにっこり笑顔をもれなく貰う。
「おはよう」
「……おー、はよっす」
昨日、面と向かってこっ恥ずかしい事を散々言われた記憶がよみがえり、少しだけ目を逸らす。あの時さらっと言ってのけたリィンがそれを意識している訳もなく、のろのろとベッドから降りるクロウににこにこ笑いながら言葉を重ねる。
「よく眠れたか?朝食がもうすぐ出来るから、顔を洗って食堂に来なさいって母さんから」
「ん、分かった分かった」
「顔を洗う場所はこっちだから」
自分の後方へ指を差しながら、その場から動かずクロウを見つめるリィン。どうやら案内してくれるつもりらしい。世話焼きめ、とガシガシ頭を掻きながら心の中で独りごちる。断る理由も無いので結局後をついていくしかなく、立ち上がってドアへ向かうとぱっとリィンの笑顔がはじけた。まったく何が嬉しいんだと思ったが、気づいたらクロウもリィンの頭をぽんぽん叩いていた。この笑顔は、とても恐ろしいものだ。
「クロウ。今日はおれがユミルを案内しようか」
昨日は時間帯的にほとんど見ることが出来なかっただろ、と、朝食後一番に隣のリィンから提案された。案内を申し出た側が何故こんなに期待した目で見てくるのだろうか。ちょっと待て、と、クロウが傾けている途中だった紅茶を飲み干している間に、向かいで帝国時報を広げていたテオが顔を上げる。
「しかしクロウはまだ荷ほどきも済んでいないんじゃないか?」
「あ……」
「そうですね、郷の案内は先に身の回りを片づけてからでもいいんじゃないかしら」
テオとルシアにそう言われ、リィンが今気づいたとばかりに瞬きをした。確かに、ジュライを旅立ってから少し増えたクロウの荷物はまだリィンの部屋の隅に持ってきたままの姿で置かれている。しかしそんなに大層な荷物ではないので、早急に解かなければいけない、というものではない。何より、そっかと呟いて肩を落とす黒い頭が何だか不憫に思えたので、カップをソーサーに置いたクロウは笑顔で隣の肩を叩いた。
「や、そっちはぼちぼちやりますよ。まあこいつが邪魔な荷物を部屋に置いたままで良いって言うならですけど」
「!べ、別に良いよ」
「なら今日は体動かしてえな。昨日はずっと列車に乗っててつまんなかったんだ。案内頼めるか?」
「うん!」
笑顔になったリィンが元気良く頷く。何でこいつはこんなに案内したがってるんだかとクロウも笑う。そんな二人の様子を、テオとルシアもどこか微笑ましそうに笑いながら眺める。皆が笑顔の空間の中、一人だけ必死にリィンの服を掴む小さな手があった。
「に、にいさま!わたしもいっしょにごあんないしたいです!」
クロウの反対側、リィンの左隣に座っていたエリゼが懇願する。リィンはエリゼを見ると、しばらく悩んでからふるふると首を横に振った。
「ダメだ、案内となると郷のあちこちを歩き回るから、エリゼは疲れてしまうぞ」
「へいきです、がんばります!」
「エリゼ、今日は兄様にお任せしなさい。あなたは別な日にクロウ君と遊んでもらうようにすれば良いでしょう」
元気な盛りの男の子に付いていかせるのは無理だろうと判断したルシアもエリゼを諭す。きゅっと唇を引き結んで涙目になるエリゼ。何とフォローしようか考えあぐねるクロウの目の前で、リィンがエリゼの頭を優しく撫でた。
「ごめんなエリゼ、次は絶対に一緒に連れて行くから」
「……ほんとうですか?にいさま、やくそくですか?」
「うん、約束する」
リィンが微笑めば、エリゼはやっとこくりと頷いて、笑顔をみせた。手慣れている。それにさっきのリィンの断りの言葉は、妹を納得させる方便と言うよりも本心から幼い彼女の体調を気にしているような口ぶりだった。薄々感じていたが、どうやらこの兄貴、この歳ですでにシスコンめいているらしい。
無事に決着がついた後、善は急げとばかりに自分の分の食後の紅茶を飲み干し、さっそくリィンが席を立った。
「それじゃあクロウ、早く支度をしよう!」
「おいおい、そんなに急がなくても郷は逃げないだろ?」
「冬は日が昇ってる時間が短い!」
「いや、そりゃそうだけど」
急かされるままに席を立ち、クロウも駆け足のリィンの後に続いた。
「あらあら、あの子があんなにはしゃいでいる姿、初めて見るかもしれませんね」
「そうだな、まさかこの短時間であそこまで仲良くなるとは。クロウと相性が良かったようで何よりだ」
部屋を出る直前、大人たちの嬉しそうな声が聞こえた気がした。
昨日辿り着いた時はすでに夕焼けさえも夜の闇に消えかかっていた時間帯だったので、この雪里の全貌を眺めるのはこれが初めての事となる。朝日の元に晒された温泉郷ユミルは、小さいながらも温かな街としてクロウの目に映った。昨日と印象が違うような、と自覚して密かに苦笑する。十中八九、心境の変化のためだろう。我ながら現金なものだった。
さて出かけるか、と足を踏み出しかけた所で、クロウはさっそくたたらを踏むことになる。横から飛び出してきたもふっとしたものに引っ付かれたためだ。
「ワンワン!ワフッ」
「うおっ?!」
「バド!クロウをびっくりさせちゃだめだ」
慌ててリィンが間に入ってくれる。毛並みが暖かそうな一匹の犬がそこにいた。昨日は気付かなかったが確かに犬小屋も屋敷の入口の傍にある。シュバルツァー家で飼われている犬らしかった。今はリィンに頭を撫でられて、千切れんばかりに尻尾を振り回している。
「バド?」
「うん、こう見えて猟犬なんだ。父さんの狩りにいつもついていってる」
「へえー、こいつがねえ」
確かに先ほどは油断していたとはいえ、見事な飛びつきだった。じゃあ俺は獲物と認定されたのかと問うと、リィンは笑って首を横に振った。
「久しぶりのお客さんだからはしゃいでるんだよ。バドは利口で人懐っこいから、クロウの事はすぐに分かってくれたみたいだ」
利口だからこの暗い野望を秘めた心を読んで飛び掛かってきたんじゃないか、とうっすら思ったが、確かにバドはつぶらな瞳にクロウを映しても牙を剥きだしたりしないし尻尾を振るのもやめない。そっと手を伸ばして撫でてやると、どこか嬉しそうに目を細めた。リィンの言う通り受け入れてくれているようだ。
とここで、何故か強烈な既視感に襲われる。思わず隣の笑顔を見た。
「……ん?何?」
「いや、なんでもねえ」
クロウは気のせいだと思う事にした。ちょうどクロウの目の高さにあるくせっ毛頭にふさふさの犬耳が見えた気がしたのも、それらと同じ黒色の尻尾がぶんぶん振られているように思えた事も、全部。
「それじゃあクロウ、行こうか……って、なんでおれの頭撫でるんだ?」
「や、何となく」
気を取り直して二人は、バドに見送られながら郷案内を開始した。
ユミルの真ん中の広場にはこんこんと温泉がわき出る場所があった。深さは30リジュほど、簡易的な屋根はついているがほぼ吹きさらしの状態で溜められた状態のそれは、広場の中央でもくもくと湯気を上げていていかにもな風情はあるが。傍に寄って手を差し入れてみれば、冷えた指先にはぴりりと痛いほどの暖かさに包まれる。思わずほうと息が漏れた。
「なあこれ、何のために溜められてるんだ?」
「えっと、少し前にモリッツさんが酔った勢いで掘ってみたら温泉が出てきたんだって。広場の真ん中だしどうしようかって今話し合い中らしい」
「どんだけ深く掘ったんだよその人……しかしこのままじゃもったいねえな、こんなにあったかいのに」
昨日入れてもらった露天風呂を思い出す。普通の風呂と何が違うんだと普段シャワーしか浴びないクロウは思っていたが、いざ入ってみるとあれはなかなか良いものだった。入るだけで色んな体の不調に効くという話もあながち間違いではないのかもしれない。そんな温泉がただ出っ放しというのも、さすが温泉郷と呼ばれるユミルならではだ。
「せっかくだから足だけでも浸かれるようにすりゃいいのに」
「足だけ?」
「それなら服を脱がなくても温まれるだろ。お手軽だし、足元温めると全身がぽかぽかしてくるもんだしな」
「そっかあ、クロウは頭が良いなあ」
そんな他愛もない話をしていると、横から声を掛けられた。クロウにとっては初めてのシュバルツァー家以外のユミル民となる。「千鳥」と書かれた店らしき建物から出てきた女性が、にこやかに二人の元へ歩み寄ってきた。
「あらぁ、リィン坊ちゃんじゃない。そっちの子は初めて見るわねえ、もしかしてその子が噂の?」
「こんにちはカミラおばさん。うん、昨日ついたばかりなんだ。クロウ、この人はカミラおばさんっていって、お土産屋さんをしてるんだ」
「ども、クロウといいます」
よろしくねーと微笑むカミラの手には赤ん坊が抱かれていた。先日生まれたばかりなのだとリィンから説明される。寒くないように全身もこもこに包まれていて、わずかに見える隙間を覗き込ませてもらうとすやすや眠る可愛らしい顔が見えた。温かくしているとはいえ、こんな寒い中良く眠れるものだと肩を震わせながらクロウは感心した。
「そうだ、新しい子が来るって聞いてたから珍しい品をいっぱい仕入れてるのよ、後で坊ちゃんたちも遊び道具を見に来てみてね」
「あ、えっと、うん、そのうちね」
楽しそうなカミラにそう言われ、リィンは少しだけ目を逸らして答えている。基本的にはきはき喋るリィンが言葉を濁すのが意外だった。それを見ただけでクロウの心中に嫌な予感が湧き上がってくる。きっとこのおばさんは要注意人物なのだろう。ちらりと視線を向けてきたリィンに無言で頷き返して、二人揃ってくるりと回れ右をした。
「あっそうだわ、その仕入れた中の一つに面白いものが」
「カミラおばさんじゃあね!またね!」
「また来まーす!」
「あ、あら?そんなに急いでどこ行くのー?」
形振り構わず駆け出し、その場から逃げ出す。赤ん坊を抱えているカミラが追ってくる訳もなく、戸惑った声を置き去りに建物の陰へと隠れこんだ。
はあと息を吐いたリィンがすぐに弁解してくる。
「ち、違うんだ、カミラおばさんは悪い人じゃなくてすごく良い人なんだけど、厄介事を何かと持ち込んでくる人でっ」
「ックク、分かってるって。まあ初対面で変な事に巻き込まれるのも嫌だしな、逃がしてくれて、ありがとよ」
リィンの事だからきっと普段はここまで露骨に逃げるような事はしないのだろう。簡単に想像できた。今日はクロウが一緒にいたから、巻き込まないように慌てて逃げたのだ。本人は首を振って否定しているが、一応礼を述べておく。
いきなり走って軽く乱れた息を整えていると、リィンが何か言いたげな視線で見つめてきた。何かを不思議に思うような瞳だった。
「なんだ、どうした?」
「クロウって、心が読めるのか?」
「は?」
「さっき、おれが何も言わないのに逃げる事をすぐに分かってくれたし、今もおれが全部言う前に分かってるって。何で分かったんだ?おれの心読んだの?」
そうやって心底不思議そうに尋ねてくるリィンに、クロウは思わず吹き出していた。肩を震わせて笑い始めたクロウに、リィンが目を丸くしている。
「どうして笑うんだ?!」
「だってお前、心なんて読める訳ねーだろ!俺が心を読んでるんじゃなくて、お前が分かりやす過ぎんの!あー腹いてー」
「そ、そんなに笑わなくても……」
大変複雑そうに眉をしかめるその顔もまた、内情がとてもわかりやすい。さらに笑いがこみあげてくるが、これ以上笑うと機嫌を損ねそうだったので何とか喉の奥に収めた。
誤魔化すようにその肩を叩いて、クロウが先に歩き出す。
「ほら、まだまだ案内してくれるんだろ?行こうぜ」
「うん」
リィンも今のはこれ以上気にしない事にしたようで、素直に歩き出す。隣に並んだ黒髪を、クロウはどこか不思議な心地で見下ろしていた。
何故だろう、今自然と、笑いが込み上げてきたのは。確かに顔に感情が出過ぎるリィンの事を面白く思ったのは間違いないけど。それを面白いと感じて、笑えて来たこと自体が何故だか不思議に思える。
自分より少しだけ狭い相手の歩幅に合わせて歩きながら、クロウは気付いた。
ああそうだ。ジュライを出てから、今まで。ああやって何かに対しておかしく感じて笑ったのは、久しぶりの事だったからだ、と。
社交的で誰とでもすぐに割と仲良くなれる性格のクロウであったが、そんなクロウが特に何かする事もなくユミルの人々は最初から友好的に接してくれた。顔を合わせて、リィンが軽く紹介して、クロウが名を名乗れば、相手は大抵笑顔で受け入れてくれる。温泉を目当てにやってくる旅行者への応対などもあって慣れているのだろうが、それでもこれだけ温かく迎えてくれるのは一重に郷の人たちの元々の気質と、この地を治める男爵の力によるのだろうとクロウは考える。
テオによって今のクロウの身元は保証されている。だからこそ、ここまで警戒される事無く受け入れてもらえる。そしてこの思いはきっと、隣の子供と少なからず共有できるものなのだろうな、と思った。
「司祭様、こんにちは!」
「こんにちはリィン。よく来ましたね」
昨日クロウも利用してここまでやってきたロープウェー乗り場、強面の主人がお菓子をくれた宿屋、皇族ゆかりの立派な凰翼館、まったく普通の民家などなど、手当たり次第に案内されて最後にたどり着いたのは礼拝堂だった。ジュライにも教会はあったが、それよりもずっとこじんまりとした建物だった。中に一人だけいた司祭にリィンが挨拶をすると、優しい笑顔が返される。その瞳がクロウへと移った。
「そして君が噂の子ですね」
「そうです、クロウです」
「どんだけ噂になってんだよ。どーも、噂のクロウ・アームブラストです」
今日一日だけで何十回としてきた気がする挨拶で頭を下げる。初めて訪れる土地なのに、出会ってクロウがここに来ることを知らない者はほとんどいなかった。恐るべし田舎のネットワーク、と若干ユミルに失礼な事を考える。
考えている間に、司祭はどこか労わるような声でリィンへと話しかけた。
「リィン、体調に変わりはないですか?何か少しでも気付いたことがあれば、すぐに言うように」
「はい大丈夫です、ありがとうございます」
ぺこりとお辞儀するリィン。クロウは二人のやり取りに、わずかな違和感を覚えた。一見優しい司祭が郷の子供の体調をこまめに気遣っているような印象を受ける。しかしその言葉たちの中に、何かが含められているような気がした。当人たちの間にしか分からない、些細で重要なやり取りが今しがた行われたような、そんな気がしたのだ。リィンの体調を聞くことに、何か特別な意味でもあるのだろうか。
しかしそうして深く考え込む前に、リィンが振り返ってきて考えを霧散させる事となる。
「司祭様はユミルの皆のお医者様でもあるんだ。クロウも体調が悪くなったりしたらすぐに言うんだぞ、司祭様に診てもらえばたちまち良くなるから」
「ハハ、買いかぶりすぎですよリィン。しかし、クロウでしたね、新しい土地に来たばかりの頃は体調を崩しやすいものですが、何か変わりは無かったですか」
労わりを込めて問いかけられて、クロウは少々むず痒くなりながら被りを振った。
「や、身体は丈夫な方なんでお気遣いなく。強いて言うならすげえ寒いって事ぐらいっすよ」
「えっ、今日はまだあったかい方だと思うけど」
「はあ?マジかよ……」
「ユミルの冬は厳しい。もし雪のない地域から来たとすればこの寒さに耐えられないのも無理は無いでしょう」
きょとんとするリィンに、げんなりするクロウ。二人の様子に微笑ましそうに笑いながら、司祭はごく自然な流れでクロウへ尋ねてきた。
「クロウ、君はどこから来たのですか?」
――その問いに。一瞬でも間を開けてしまった事をクロウは後悔した。表情は極力変えていないつもりだが、どうだろうか。この身に纏う空気がその時だけ、色を変えてしまったかもしれない。失態だった。
口元には今までと同じ笑みを張りつかせ、クロウは軽い口調で答えた。
「ジュライです。あっちはユミルほど寒くはなかったから、いやーこの寒さが身に染みるっすわ」
ジュライ、と聞いた司祭が軽く目を見張った後、静かにクロウへ頭を垂れた。おそらく司祭とて、かの地の併合の際何があったかなど詳細は知らないだろう。しかし一見穏便に帝国の仲間入りを果たした裏では、決して穏便には済まない何かがあった事を悟っているのだ。歴史とは常に、そういうものであると。だからこそジュライ出身のクロウがこの遠いユミルの地にやってきた理由などを、おぼろげにも察してくれたらしい。
司祭の、言葉には出さない密かな謝罪をクロウは笑顔のまま受け入れた。ジュライの名前を出すことを決めたのはクロウだ、謝られる道理など無い。こちらを気遣い無言で差し出されたそれに感謝しつつ、こちらもあえて軽いノリを取る。
「そういやシスターはいないんすか?いや、司祭様もいいんですけどやっぱりシスターがいないと華が無いっつーか」
「……はは、今は私一人です。時々近くの町からお手伝いで派遣されて来ることもありますから、その時を楽しみに待つといいでしょう」
「マジっすか。そりゃ楽しみだなあ」
クロウも、司祭も、あの一瞬の時を除けばすべてがいつも通りだった。その後軽く世間話をしてから、何事も無かったように司祭へ別れの挨拶をして、踵を返す。司祭も笑顔で見送ってくれた。
ただ一人、脇で全てを見て聞いていたリィンだけが、無言でクロウの後に続いた。
ぎゅっぎゅっと真っ白な雪を踏みしめる足音が二人分。礼拝堂を出てから屋敷までの道を、無言の時間が流れていた。ただし重苦しくはない。それは背後から向けられる視線が、問い質すものでも不信感が混じるものでもなく、ただ純粋にこちらを心配しているものだからだろう。ほんとお人よし、と内心で呟いてから、クロウは足を止めて振り返った。
「聞かねえの?」
つられて足を止めたリィンが目を丸くして見上げてくる。リィンはあの、クロウが作った一瞬だけの間に気付いている。動揺に揺れるその瞳を見れば一目瞭然だった。ジュライという地名をこの幼い同居人が知っているかは定かではないが、その事も含めて疑問に思っている事だろう。あの一瞬の間は何だったのか。司祭は何故何も言わなかったのか。クロウは、どこから来たのか。
リィンは少しだけ黙った後、静かに首を横に振った。
「いいんだ」
「いい?」
「確かにちょっと、気になったけど。クロウが話してもいいなって気持ちになった時で、いい」
クロウはまたしても言葉を失ってしまった。「話したくない」と言葉で言ったつもりはないし、先ほど司祭の問いにちゃんと答えている。クロウは頭を掻いて曖昧に笑った。
「おいおい、さっきの聞いてなかったのか?司祭様の質問に俺はちゃんとジュライだって言ってただろ。ほらな、別に隠してた訳じゃねーし」
「でも、話したくなかったんだよな?」
こてっと首を傾げて、確かめるように問いかけてくるリィン。困った。本当に隠し通すつもりではなかった。シュバルツァー夫妻にはきっと知られているし、そもそも隠すような事でもない。聞かれたら答えなければと思っていたし、だからこそ司祭の問いにも躊躇いは出てしまったもののちゃんと誤魔化す事も無く答えることが出来た。
ただ、そう。ほんの少し躊躇ってしまう程度には――ジュライの名を、口にしたくないだけ。何も知らずに幸せだったあの頃を思い出して、今と比べてしまうから。もう二度と会えない人の事を思い出してしまうから。それだけ、なのだ。
そんな気持ちを、表に出した覚えは一切無かったのだけれど。
「……言いたくない事、隠したい事って、誰にでもあると思うんだ」
クロウが答えに窮していると、リィンがぽつりと零した。はっと目を合わせれば、どこか揺れて見える薄紫と出会う。ああそうだ、初めてこの目を見た時も今と同じ事を思ったのだった。
どこまでも真っ直ぐで、しかし不安定に揺れ続ける瞳の奥。小さな体では隠しきれないその危うさが、穢れのないはずの心の奥底に横たわっている。そんな予感が。
リィンはきゅっと両手を握りしめ、クロウに微笑みかける。
「だからクロウが、おれに話してもいいかなって思った時に聞かせてくれたら嬉しいな」
その、どこか儚い笑顔に。先ほど司祭とリィンが話していた時に浮かべた違和感を思い出す。きっと今のリィンの言葉は、クロウだけでなく己にも向けられているのだろう。クロウはリィンが知らないだろうリィンの秘密を少なからず知っているが、それ以外にもどうやら言えない何かがあるらしい。
「……お前も、いつか聞かせてくれんの?」
気付けば尋ねていた。それは自分が、リィンの持つ言えない何かが気になっているという証拠であった。それを不思議に思う。このユミルの地で無難に生きるためにある程度仲良くしておく事は必要だと思っていたが、この知識までもが必要だろうか。考える前に言葉が出てきていた訳だが。
突然飛び出してきた問いに肩をびくつかせて驚いたリィンが、微笑むクロウを凝視した。
「やっぱりクロウは、心が読めるのか?」
「だーから、お前が分かりやす過ぎんだって。それで?」
「……おれ、は……」
リィンが口ごもる。思ってもいなかった形で自分の言葉が返ってきてあたふたと狼狽えている。ここでクロウが「なーんてな」と誤魔化すようなことを言えば、リィンだってこんなに悩む事無くノッてきただろう。しかし何故かクロウは「待つ」事を選択していた。何故自分はこんなにもリィンから言葉を引き出そうとしているのだろうかとぼんやり考えながら。
「……いつか、」
少し俯いて、そっと零されたその言葉は。
「いつか、クロウにも話せるように……強くなりたいと思う」
切実すぎる響きが込められているような気がした。
「……そっか」
強くなりたい。それが肉体的な事なのか、精神面での事なのか、それとも両方なのか。はっきりと判断はつかないが、クロウは己の心の内側がぎゅっと引き攣れたのが分かった。
生まれや境遇はまったく違うのに。互いの抱える秘密を何一つ知らないのに。
強くなりたい。その気持ちが、想いが、痛いほどよく分かってしまったのだ。
一歩だけ足を踏み出し、リィンに向かって手を差し出す。クロウの手と顔をきょとんと交互に見つめるその顔に、笑いかけていた。自分でも内心びっくりするぐらい、柔らかな声が出た。
「それじゃあ、一緒に頑張らなきゃな」
「……一緒に?」
「おお。俺たち、強くなろうぜ。言えない事、言いたくない事、笑い飛ばして言えるようなかっちょいい強い男目指して、な」
ぽかんと口を開けたリィンの表情が、じわじわと移り変わる様をクロウは見ていた。それはまるで、泣きだす寸前のような変化。眉を八の字にし、口元をかみしめながら、それでも隠しきれない喜びに笑顔を浮かべて。リィンはクロウの手を取った。
「っうん!」
クロウもにっと笑って、自分よりも小さな手を握りしめる。こんな寒い雪の中で、実際に指先まで冷たく凍えていたその手が、温かく感じるのは何故だろうか。
そのまま、クロウの左手にリィンの右手を収めたまま、二人は歩き出した。並んだ足跡が向かうのはもちろん、二人が帰るべきシュバルツァー家の屋敷。孤独な二人を受け入れてくれた温かな家。二人が出会い共に暮らす場所。
(一緒に、か)
自分自身で発した言葉をクロウは噛み締める。一人で復讐に生きることを誓った人間が言うべき言葉でない事はよく分かっていたが、何故だか前言撤回する気は起きない。相手はその、仇の息子のはずなのに。忘れていた訳ではなく、心の片隅に常に置いておいたはずなのに。今更この手の中の温もりを離すことが出来なくて、こっそりと一人で途方に暮れる。
もしも強くなれたら、この手を離して刃を向けることが出来るのだろうか。先ほど見た儚い笑顔を、本物の笑顔にしてやりたいと思う事も無くなるのだろうか。己の心がこれから向かう先が未知数すぎて、よく分からない。
ならば今だけは。まだまだ弱い今だけは孤独な者同士、こうして縋り合っていてもいいだろうか。全てを跳ねのける強さを手に入れるまでは、互いの体温を分け合っていてもいいだろうか。
(まあ俺が勝手に、こいつをどこか糧にしているだけだけど)
やっぱり俺もまだまだ弱いな、と一人こっそり溜息を零しているクロウは知らない。
握り込んだ手の持ち主が、一緒にと言ったクロウの言葉に、差し出された手に、救われたような気持ちでいる事を。孤独に己の内側の何かと向き合ってきた幼い心が、引っ張ってくれるその温もりに安らぎを得ている事を。
「……クロウ、ありがとう」
「あ?何がだ?」
「何でもない」
ぎゅっと握りしめられた独りと独りの手はその時、確かに互いを支え合っていた。
14/11/03
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