第一話
クロウ・アームブラストには殺したい男がいる。ギリアス・オズボーン。間接的とはいえ、ジュライ市国市長であった彼の祖父の仇である男だ。祖父はこの間亡くなった。あれだけ厳格で、堂々としていて、誰よりもジュライ市国を愛していた祖父は最後、まるで糸が切れてしまったかのようにあっという間に弱り、クロウ一人を残して死んでしまった。クロウには他に身寄りがいない。祖父と彼本人の人柄により差し伸べられる腕は決して少なくは無かったが、それを全て振り切ってクロウは旧ジュライ市国を発つ事にした。全ては、尊敬する祖父から故郷を奪い取ったあの男に、復讐をするために。
そうして大して重くもない荷物を持って一人旅立ったクロウが、オズボーンの手の者によって“保護”されたのはそう遅くも無い時期の事であった。
「……ユミル?」
もしも視線に人を射る力があれば、目の前の男を何十回と刺し貫いていただろうと思わせる剣呑な目つきでクロウが聞き返す。手元に刃物がない今の状態が歯がゆくて仕方がない。憎き男と彼の執務室で二人きりという、襲い掛かるには最高のシチュエーションだというのに。そうやって物騒な事をクロウが考えている事を知らないのか、全てを知ってなお意にも介していないのか、窓の外を眺めながら平然とオズボーンが答える。
「そうだ。お前には今日からそこに行って暮らしてもらう。身元引受人もすでに決まっているから、安心するがいい」
「安心するがいい、じゃねえよ。どういうつもりだ!わざわざ俺の事捕まえて名ばかりの保護者になったと思ったらユミルなんつー所に行って暮らせだあ?訳分かんねえよ!」
苛立ちを隠すことなくクロウは吐き捨てた。本当に、訳の分からない事まみれだ。オズボーンの手下に捕まった時、自分は殺されるのだろうと思った。しかし彼はクロウに何をする事も何を言う事もなく、身寄りのいないちっぽけな子供一人を本人の合意も無しに勝手に引き取った。このままオズボーン姓を与えられる究極の嫌がらせでもされれば舌を噛み切って死んでやると意気込んでいたのにそれも無く、数日帝都の彼の家に逃げ出さないよう閉じ込められたと思ったら今日、これだ。子供のクロウでなくともこの男が何を考えてこんなことをするのか、さっぱり分からないに違いない。
「今のお前の保護者はこの私だ。引き取った子供の処遇をどうするかは、この私が決める」
「そこに一体、どんな目的がありやがるんだ、ああ?」
「ふっ。こんな小さな子供一人の扱いに何か特別な目的でもあるとお前は思うか?自惚れるな」
「……っ!」
「ただ単に、引き取った子供をより良い環境で健やかに育つよう送るだけだ。感謝してほしいぐらいだがな」
「誰がっ……!」
クロウから怒りが立ち上る。どれほど歯を食いしばり、握りしめた拳を震わせようとも、今のクロウに目の前の男を排除する力は無い。それが悔しかった。結局はこの男の言う通りにしなければならないのだ。そうやって決めたのは、ほかでもないクロウ自身だから。
まだだ。今はまだ、力が無い。時が経ち、成長して、クロウが力を手に入れたその時こそ、この男の命をもぎ取ってやる。幼い心でそう誓ったのだ。
クロウが俯き何も言わなくなってから、オズボーンはようやく振り返ってきた。仕方なく己の境遇を受け入れる銀の頭を満足そうに見やった後、ふと言葉をこぼす。
「ああ、そうだ。ユミルには私の息子がいる」
「……、は?」
「本人はおそらく、自分の実の父が誰なのか知らないだろうがな」
クロウは思わず呆けた。オズボーンに実子がいるなんて話は初耳だし、オズボーンの口からそれを聞かされた事もまた意外すぎた。息子本人は父親が誰かを知らないだなんて、複雑すぎる事情があるのだろうに。
訳が分からない。オズボーンはクロウが殺したいほど彼を憎んでいる事など知っているはずだ。捕まってから初めて引き合わされた時、絶対に殺してやるなどと口汚く罵ってやったのだから知らないはずがない。これで本心から知らなかったと言われれば、クロウの事を本当に道端の石ころ程度にも意識していない証としていっそらしいとも思ったが、そうでは無い事をオズボーンの面白そうな瞳が語っていた。
挑まれている。クロウは直感した。この事実を知ったクロウがこれからどう動くのか、試されているのだ。まるでゲームだ。この男は自分の息子でさえゲームの駒として扱うのか。愕然としながらも、抑え込んでいたクロウの心からふつふつと何かが煮えたぎってくる。祖父の事を思い出した。孫相手に大人げなくギャンブル勝負をよく吹っかけてきた、クロウのたった一人の家族だった人の笑顔。ああやっぱり俺はあの人の孫なんだなと改めて悟る。こんな状況のくせに、勝負を挑まれたギャンブル魂の血が滾っている。知らずクロウはにやりと、笑っていた。
これはゲームだ。クロウと、オズボーン、二人だけのゲームだ。勝ち負けは分からない。その判定基準でさえも未だ曖昧だ。それでもクロウは、この男にだけは負けてたまるかと拳に力を込めた。
「……覚悟、しておけよ」
精一杯低い声になるように努めながら、クロウはオズボーンを睨み上げる。
「人の心を持っていないあんたは何とも思わないかもしれねえけどな……俺がその息子をどうしようが、構わないんだろ?」
物騒な笑みに見えるように口の端を引き上げれば、オズボーンも笑った。端からクロウが何もできないでいる事を確信しているかのようなムカつく笑みだった。
「やってみせるがいい、出来るものならな」
見えない火花が散る。ここまで言われて引き下がるわけにはいかない。クロウは頭の中で様々な計画を思い浮かべながら、彼のまだ見ぬ息子とやらを想像した。この男の幼少期でさえもろくに思い浮かばなかったので、とても困難だったが。
どうせこの男と血の繋がった子供だ、何をするにしたって、躊躇うことは無いだろう。
その時のクロウは、まだ知らなかった。
これから向かう雪の地に、ギリアス・オズボーン以上に厄介な生き物が存在することを。
ユミルは、クロウが想像していた以上に山奥にある辺鄙な郷であった。列車を乗り継ぎ何時間も座りっぱなしという初めての経験にうんざりしながら、時刻はすでに日も落ちそうな夕方の終わり。オズボーンの部下に連れられて降り立った雪景色に、思わず真っ白な溜息を吐き出す。海のそばで生まれ育ったクロウにとって、こんな山々に囲まれた人里に足を踏み入れるのは初めての事だった。見ているだけで凍えるような白い景色の中を、まるで温めるように湯気があちこちから立ち上っている。温泉で有名な場所なのだと、ここに来る途中で軽く読んだ本に書いてあった。丸太を組み立てて作られた素朴ながらも温かみのある家々がぽつぽつ立ち並ぶ様子は、貿易と観光業で栄えていたジュライとはことごとく正反対の眺めである。下手に反発せずに、言われるまま厚着をしてきてよかったと、肩を震わせながらクロウは思った。オズボーンの部下はクロウを送り届けるとその足でさっさと帰って行った。
引き渡されたのはこの郷で一番大きな屋敷、この地を治める男爵邸であった。まさかそんなお偉いさんに預けられるとは思っていなくてクロウは驚く。出迎えてくれた男性と女性が、俗にいう貴族らしい偉ぶった様子が微塵も無くてもっと驚いた。クロウの中の帝国貴族のイメージは、とにかく偉そうで金の事しか考えていない嫌な奴ら、というものでしかなかったからだ。
「君がクロウか、私はテオ・シュバルツァー。ユミルの領主をしている」
「妻のルシアです。これからよろしくお願いしますね、クロウ君」
テオは力強く、ルシアは柔らかく、それぞれ笑顔でクロウを迎えてくれた。クロウの両親は幼い頃に亡くなっていて、その思い出もまた少ない。それでもかつての父と母を思い出してしまうぐらい、その微笑みには愛情が篭っていた。いたたまれなくなって思わず目を伏せる。失礼に当たらないほどの短い沈黙の後、クロウは行儀よく見えるように丁寧に頭を下げた。
「……クロウ・アームブラストです。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
――ユミルにいる間は、せいぜい言う事を聞いて大人しくしていよう。列車に揺られながらクロウが密かに決意していた事だった。クロウはまだ子供で、あの狡猾な大人であるオズボーンにはまだまだ到底手が届かない。それをオズボーンも知っている。クロウが子供であることを馬鹿にしている。だからこそ今はせいぜいあいつの手の平の上で大人しくしておいて、密かに牙を研いで時が来るのを待つことにしたのだ。あの思い出すだけで虫唾が走る顔が驚愕に染まる所を想像するだけで、それまでの時間を耐えられるような気がした。
幸いこのシュバルツァー夫妻は決して悪い人たちではないようだ。どんな経緯であんなオズボーンと繋がっているのかは分からないが、この人たちの元でなら故郷から遠く離れたこの地でも、何とか暮らしていけそうだと思った。
「ここまで寒かったでしょう。さあさ、早く中にお入りなさい。あなたのためにごちそうを作って待っていたんですよ。そうそう、子供たちにもあなたを紹介しなきゃ」
「ああ、あの子たちも君が来るのを楽しみに待っていたんだ」
優しく背中を押されて招き入れられた屋敷の中で、クロウは二度目の自己紹介をする事となった。彼らの息子と娘が、そこでクロウを待っていた。
「あっあのっ……え、エリゼ、です。よろしくおねがい、しますっ」
やや恥ずかしそうにつっかえながらも頭を下げてくれた妹、エリゼ。言い終わるや否やぴゃっと素早く兄の背中に隠れてしまう姿がまた可愛らしい。そしてその兄の方が。
薄紫の瞳で正面からクロウを見つめ、はっきりとした口調で名乗り、微笑んだ。
「リィン・シュバルツァーです。しばらくは慣れない事も多いと思うので、何でも聞いてください」
――その、瞳。視線に。
射抜かれたと思った。意志の強さを感じさせるその真っ直ぐさ。自分と違ってどこも歪んでいない、それでいて奥底に危うさをはらんで見える瞳に。
同時に気付いてしまった。奴の面影も無く、どこも似ていないのにどうして気付いてしまったのか分からないが、それでも。
ああ、こいつだ、と。
海辺育ちであまり山の幸に馴染みのないはずのクロウでもおかわりをしてしまうぐらい、ルシアの手料理はどれも絶品だった。こんな人数で食卓を囲むのが久しぶりな事もあったのかもしれない。満腹になった腹を撫でながらクロウは席に座ったまま、テーブルの上が後片付けされるのを眺めていた。もちろん手伝いを申し出たが、今日ぐらいはゆっくりしていなさいと断られたのだ。
「母さん、お皿は全部下げました」
「ありがとうリィン。次はテーブルを拭いてきてくれますか?」
「はい」
「にいさま、わたしもおてつだいします!」
「それじゃあエリゼはこっちを頼む」
「はいっ」
真面目で、働き者で、世話焼き。そして多分すごくいい奴。クロウがリィンに対して抱いた最初の感想だった。歳の割にはしっかりとした真面目すぎる挨拶も、てきぱきと次々に母親を手伝って片づけを進めるその姿も、兄の真似をしたい年頃の妹の相手を笑顔でこなし、さらにあまり負担がいかないようにさりげなく自分が多く受け持ってフォローする感心な様子も、全てが想像していた人物像の斜め上を行き過ぎていてクロウは閉口するしかない。あの男の息子がこんな良い子ちゃんだとはさすがに予想外だった。食事中も隣の席だったせいか、口に合うか何かいるかおかわりするか等甲斐甲斐しく聞かれて大いに戸惑ったものだ。
しかし第一印象はそれだけではなかった。テーブルに頬杖を突きながら、ぱたぱた働くはね癖のついた頭を眺めてクロウは思う。
(何つーか……危なっかしい奴)
それはまるで、必死に背伸びをしているような。ぐらぐらの足場をくみ上げて、少しでも大人に手が届くようにとギリギリ伸ばしているような。そんな印象を受けた。きっとあいつは自分がこの家の本当の子供では無い事を知っているんだろうなと、漠然と考える。ルシアを見上げて次は何かないかと尋ねるその瞳が、どこか必死なように見えたから。
「クロウ。君はリィンについて何か知っているのか」
あまりにも凝視していただろうか。向かいに座っていたテオにそう話しかけられて、一瞬クロウは迷った。テオの問いかけは純粋な好奇心によるそれではなく、まるで何かを確認しているような口ぶりだった。この人はリィンの実親を知っているのだろうと瞬時に理解する。ごく短い思考の後、クロウは肩をすくめてみせた。
「いや、何も。よく働く奴だなと思いまして」
「ああ、そうだな。いつも頑張りすぎてしまう所が玉にキズなんだが」
幸いテオはそれ以上何も尋ねてくる事なく、内心ほっと胸をなでおろす。ここで下手に印象を悪くしたくは無い。少なくともしばらくはこの家に厄介にならなければならないのだから、仲良くしておくに越したことは無い。
最終的に、クロウがどんな行動を取るにしても。
食事を終え、しばらく団欒し、今日は特別だからと貸切の露天風呂に入らされた後は、リィンの部屋に二人で押し込められた。何でもクロウを預かるという話はなかなか急な事だったようで、手ごろな部屋を準備出来なかったのだそうだ。そこでベッドだけをもう一つリィンの部屋に運び、しばらくは二人で生活出来るようにしたのだと。男同士だし、歳もそんなに離れていない。妥当な判断だとクロウも思った。その心中は別にして。
(こいつと二人きり、か……)
しばらくは大人しくしていると誓ったが、それでもどこからかどす黒い気持ちがあふれてきそうになる。それを悟られぬよう飲み込んでいると、躊躇いがちな声が掛けられた。
「ええと、クロウさん。クロウさんはそっちのベッドを使って下さい」
気付けばリィンがそばに来て、クロウを見上げていた。少しだけ考えた後、クロウはへらりと笑ってみせる。
「おう。っつーかクロウさん、なんてむず痒いな。クロウでいいって」
「……えっ?」
「あと、出来れば敬語も無しで。俺堅苦しいの苦手なんだよ。ゆるーくかるーい感じで頼むわ」
「え、で、でも、」
大人しくしていると決めた以上、今はこの年下の同居者とも仲良くしておくべきだろうと気軽な態度を取ってみたが、リィンは目に見えて慌てふためいている。慣れていないノリなのかもしれない。不覚にもその様子に微笑ましい気持ちが沸き上がる。
「しばらくは同じ部屋に住む者同士仲良くしようぜ。ま、俺は居候な訳だけど。その分暇だし色々とこき使ってくれてもいいぜ?」
「い、いや、そんなっ」
「よっしゃ、そんじゃ練習してみるか。ほら言ってみ、クロウよろしくな!つって」
「ええっ……?!」
視線をうろうろと彷徨わせたリィンは、クロウがにこにこ笑顔で見つめ続ける圧力に負けておずおずと口を開く。
「クロウさ……っ。く、クロウ、よろしく、な?」
「ックク、よくできました」
「ふわっ?!」
つっかえながらも律儀に言い終えた黒い頭を褒美の様にがしがし撫でてやる。先ほどリィンを世話焼きと評したが、クロウも実は人の事を言えないぐらいの世話焼きだったりする。特に弱者であったり、無駄に頑張り屋であったり、余計なものを抱え込んでしまうタイプだったり、何かと生き方が不器用に見える人間にはどうしても手を差し伸べたくなってしまう性分なのだった。ギャンブル好きなくせに妙に義理堅かった祖父の影響なのかもしれない。
そんなクロウにとって、私情なんかを抜きにしたリィンは完全に助けてやりたくなる子供だった。出会って僅か数時間であるが、間違いなくそうだろうと思えた。両親を積極的に助け、妹の面倒をよく見て、突然現れた居候にもよく気を遣う、真面目で利口な子供。それはきっと本来の性格もあるのだろうが、「そうしなければならない」とどこか自分を律しているようにしかクロウには思えない。そんなガチガチに己を固めた子供に、そんなに肩肘張って生きなくてもいいのだと教えてやりたくなるのだ。
この性分のおかげでジュライでは何かと頼られ慕われる事も多かった。そんな暖かい場所を自ら捨ててここまで来てしまったのに、また同じように繰り返している自分をクロウは内心己で笑う。こういう性格の根っこの部分はどうしても改められそうにない。
クロウの手の平の下では、リィンが驚いた表情でこちらを見ている。今のはそんなに意外な行動だっただろうかと首をかしげていると、照れたように頬を僅かに染めたリィンは少しだけ下を向いて、
「……っえへへ」
笑った。最初に会った時や今までの合間に向けられた余所行きのような笑顔ではなく、内側からじわじわと滲み出てきた心からの喜びをじっくり噛み締めるような、そんな嬉しそうな笑顔。
(何だ、そういう顔も出来んじゃねーか)
年相応なその笑顔に、クロウは自分がどこかホッとしている事を自覚した。まったく厄介な性分だ。仇相手の息子にまでこんなに心を配らされるなんて。
一通りの会話を終えると、クロウは先ほどリィンに指し示されたベッドへと向かった。とにかく今日は疲れている。慣れない列車での移動はこれほどまでに体力を消耗するものなのかと密かに舌を巻く。これからの事を考えるともっと体を鍛えた方がいいなと、内心で気合を入れた。
慌てて用意されたにしてはしっかりとした作りのベッドに腰を掛ける。真新しいシーツもなかなか寝心地が良さそうだ。確認して満足したところで、ようやく自分に注がれる視線に気が付いた。
「何だ、どうした?」
リィンが立ち尽くしたまま、じっとクロウを見つめていた。その瞳から悪意は一切見えない。ひた向きに注がれるその視線に込められた感情の名をあえて選ぶとすれば、おそらく……憧れ、に近い何か。
疑問に思っていると、リィンはあっさりと答えを教えてくれた。それは、言葉としては非常に単純なものだった。
「クロウって、綺麗だな」
……単純な分、裏表がない。それが余計に、クロウを混乱させた。
「……は?」
「おれ、そんなに綺麗な銀色の髪、初めて見た。晴れた日の雪みたいにキラキラしてる。その赤い目も、暖炉の火みたいにあったかい赤色をしているし、顔もかっこいいから全部キラキラして見える。さっき初めて会った時、びっくりしたぐらいなんだ」
にこにこと、何の意図も無い笑顔で言う。キラキラと連呼する自分が瞳を輝かせて、クロウを見る。
「だからクロウは綺麗だなって、ずっと見ちゃってた。ごめんな」
……こんなに頭が真っ白になったのは、初めてだった。確かに、客観的に見て自分の容姿が悪くないものだとは認識していたけど。こんなに手放しでべた褒めされた事はさすがに無い。普通の人間なら出来ない。今日出会ったばかりの人物にこんな歯の浮くような文句、羞恥に耐えられなくて言えない。仮に思っても絶対に言えない。
固まるクロウにリィンがきょとんと首を傾げる。純粋無垢な薄紫の瞳。そう、無垢だ。嘘をつく事を知らない純白な本心から飛び出した言葉なのだと、その瞳が語っている。
「クロウ?」
不思議そうに見ていたリィンがとことこと近づいて、ベッドに座るクロウの前に立つ。さっきまで自分を見上げていた目線が少しだけ上になった。クロウが未だ呆けたままでいると、その頭を両側から軽く掴んで額と額をこつんと合わせだしたので、さすがに慌てた。
透明度のある薄紫が、目と鼻の先にある。
「なっ?!」
「熱、は無いなあ……」
「なな、何がだよっ?!」
「だってクロウ、顔赤いから。疲れたせいで熱が出てしまったのかと思ったんだ」
「………」
大丈夫だ、と安心したように離れていく笑顔。最早何も言えなくなって、クロウはそのままベッドへと仰向けで倒れ込んでいた。リィンの慌てた声が聞こえるが、返事をしている余裕も無い。
(〜〜っ一体何なんだ、こいつはっ!)
クロウの理解の範囲を超えている。今まで色んな人間と出会ってきたが、こんなに先が読めない奴は初めてだった。これから先、こんな奴を相手にしていかなくてはならないのか。こんな、あの男とはかけ離れた、真っ直ぐで柔らかな生き物を。
ちらっと見ると、脇にぱたぱたと駆け寄ってきた黒髪が首を傾げる。その瞳から憧れを含んだキラキラとした光は未だ消えない。逃れるように腕で目元を多い、深い溜息を吐く。
『やってみせるがいい、出来るものならな』
あの時のいけ好かない憎たらしい声が言った言葉の意味が今、少しだけ分かったかもしれない。
真面目で、働き者で、世話焼きで、いい奴で。どこか危なっかしくて、笑顔がなかなか可愛い、変な奴。
クロウ・アームブラストがリィン・シュバルツァーに抱いた初日の感想であった。
14/10/27
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