けついひょうめい。



真冬の空の上は静かだ。それが例え、大勢の人間を乗せた空飛ぶ戦艦だったとしても。
貴族連合軍旗艦、飛行戦艦パンタグリュエル内の一室。自らに与えられている部屋のベッドに横たわって、クロウはただ静かに目を閉じていた。眠っていた訳ではない。いや、眠ろうと寝転がったのは確かだが、そのまま安らかな眠りに落ちる事がなかなか出来ないでいた。艦内を動く複数の気配を無意識に追いながら、クロウは起き続ける自分に対して忌々しく思う。おそらく明日は大騒動が巻き起こる。それに備えて完全に意識を落とすことは出来ないまでも、しっかりと睡眠を取っておかねばならないというのに。何せ今日は、本気の力は出してはいないがユミルの地で騎神を駆ってきたのだから。疲れを明日に残してはならない。必要な時、短時間で十分な休息を取れるよう訓練もしてきたはずだ。それなのにクロウは今、不覚にも眠れない状態だった。
何故こんなにも眠れないのか、理由が分かっているからこそ余計に疎ましい。今までは誰も存在しなかった隣の空き部屋に今夜だけ、とある一つの気配が寝泊まりしているためだ。それも約一ヶ月前まで、あの古めかしい学生寮で毎日非常に近い距離で同じ空間に暮らしていた、最早この身に馴染んでしまった気配。あの時と同じぐらいの距離にいるはずなのに、むしろ間を隔てているのは壁一枚だけという近さなのに、あの頃とは違って心も体も途方もなく分厚い何かに阻まれているような気がする。当たり前だ。その何かを壁向こうの相手と自分の間に作り上げたのは、他でもないクロウ自身なのだから。
何を今更、気にかける事があるのか。こんな敵地のど真ん中で少しでも休めているのかなんて、そうやって心配する資格さえ自分には無いだろうに。
頑なに目を瞑ったまま、クロウは細く長い息を吐いた。とにかく眠ってしまおう。壁向こうの気配がベッドの中に潜り込んでいるのは確かだ。例え緊張で眠れなくてもそうして横たわっているだけで違うはずだ。無駄に気を揉む必要はない。そうやって自分に言い聞かせて。
明日だ。明日、声を掛けに行くことに決めている。恐らく話す事になるだろう己の過去に覚悟を決め、気合を入れてクロウは夢の世界へと旅立とうとした。

旅立つ直前に、それはやってきた。

「うわーっ!」
ドサッ
「っ……?!」

覚えのありすぎる声に、覚えのありすぎる衝撃。突如胸の上に圧し掛かってきたこの重みを、少し前に味わった事がある気がする。そっくりそのまま同じ重みを。
目を閉じたまま息をつめてその衝撃をやり過ごしたクロウは、そのまま。
目を開けなかった。

「いたた。あれ、この立派な胸板は……クロウ先輩!真っ暗闇で良く顔が見えないけど俺には分かりますよ!何せ俺はいつでも本気全開!一度覚えた胸の感触を忘れる事は無い男、リィン・シュバルツァーですから!」

そのまま警察にしょっ引かれてもおかしくない事を平然とのたまう声が聞こえてくるような気がしたが、クロウは頑なに目を開けない。声も極力出さない。あくまでも自然に見えるように息を吸い、吐き出し続ける。つまりは……狸寝入りだった。胸の上に何かが落下してきてもなお目を覚まさないほどの深い眠りについていますよアピールだった。クロウは一度しでかした失敗は繰り返さない男だ。覚えていたのだ。かつてトールズ士官学院で普通に学生をしていた頃、今と同じ衝撃を受けた際に起きなければ良かったと後悔した事を。体も記憶も覚えていたあの時の想いを果たすために、クロウは戦っていた。じっと、己の胸の上から強く注がれる視線に反応してしまわないように。
……それ以前に、これは夢だ夢に違いないという、ひたすら現実逃避したくてたまらない心境もあったのだが。
とにかく一切反応を示さないクロウに、しばらく胸の上でぎゅうぎゅうと感触を堪能していた小さな手の平がぺしぺしと頬を叩いてきた。痛くはない。

「おーい、クロウ先輩?寝てるんですか?」

ああそうだよ、と返事をする訳にもいかず、微かな息を吐き出すだけのクロウ。そのまましばらく暖かい手の平は、頬を叩き続けたり鼻の頭を摘まんで来たり前髪を引っ張ったりと遠慮なく動いていたが、やがてそれらはぴたりと止まった。飽きたのか、他に興味が移ったのか、目を瞑ったままのクロウには計り知れない。

「むう、仕方ない。ならば今日は俺が添い寝をしてあげます!俺はいつでも本気全開!あなたを全力で幸せな夢の世界へいざなう男、リィン・シュバルツァー!」

そうやって、勇ましい声が聞こえてきた直後。べたっと胸の上に大の字に小さな生き物が寝転がる感触がした。そこで寝るのか。添い寝どころじゃねえぞ。お前俺の上で寝たかっただけじゃねえのか。今日は俺が、って言い方だとまるで普段はこっちが添い寝してやってるみたいじゃないか覚えはねえからな。一瞬のうちにそうやってつっこみたい言葉たちは溢れてきたが、やっぱり何も発する事は無く。クロウは最後まで眠ったふりを貫いた。
実を言うと、そこから先の記憶は曖昧だった。現金なもので、無視していたはずの温もりが胸の上から伝わってきた途端にうとうとと微睡んでいたのだ。夢だ夢だと思いながら、己の元に前触れも無く現れたこの小さな生き物が異世界からの訪問者とはいえ、今の今まで気にかけていた張本人と同じ存在だと分かっていたためか。とにかくクロウの心は不思議と安らいでいて、次にハッと目を覚ました時には朝になっていた。
そして己の胸の上に誰も何も存在しないのを見て、あれは本当に夢だったのかと首を捻る事となる。随分と、リアルな温度を感じる夢であった、と。

夢であるはずが、ないというのに。





「……さて、こんなもんか」

集中させていた意識を緩め、腕まくりをしたクロウは辺りを見回した。ここはパンタグリュエルの奥まった一角にあるキッチンだった。カイエン公お抱えシェフたちが使う広くて機能的なキッチンではなく、使用人用の狭くて小さな場所である。クロウが頼めばメインのキッチンを使わせて貰う事も可能だったが、あえてこっそりとメイドに頼んでここを使わせてもらっているのは単純な理由だった。あんな無駄に整えられているキッチンは逆に使い辛い上に、人目を忍んで料理したかったからだ。
すでに揃えてあった材料を並べ、記憶の中から慎重にレシピを引き出し、今までクロウはとあるメニューを作り上げていた。クロウ自身の分と、もう一つ、どうやら昨日から出された料理に半分以上手を付けていないらしい一人の招待客の分。言わずもがな、リィンの分であった。ぺろりとソースの味見をしてみれば、脳内に刻み込まれているかつての味に近いものを作れているようでほっと息を吐き出す。こいつを手土産に今からリィンの元へ向かう所だった。かつて故郷で祖父と一緒によく食べていた、ジュライのソウルフード、フィッシュバーガー。一つはすでにバスケットの中へ保管してある。あとは今出来上がったばかりのもう一つを入れ、飲み物なんかを揃えて持っていくだけだ。
さて、と傍らに置いておいたバスケットへと腕を伸ばしたクロウだったが。蓋を開ける前にその手はびくりと空中で止まっていた。フィッシュバーガー一つしかまだ入っていないはずのバスケットが今、ごとりとひとりでに動いた気がしたからだ。

「……いやいや、んな訳ねえだろ」

自分で自分につっこんで、今のは気のせいだったに違いないと思い直したクロウは再びバスケットへ向き直り、慎重に手を掛ける。そうしてゆっくりと蓋を開ける、前にバスケットはガタガタと激しく音を立てて揺れ始めた。

「うおっ?!」

人払いを済ませておいてよかった、と声を上げて一歩後ずさってから密かに考えつつ、バスケットを凝視する。ガッタガッタとテーブルの上で揺れまくるバスケットは明らかに中で何かが暴れている様子だった。作ったばかりのフィッシュバーガーしか入っていないはずなのに。まさかフィッシュバーガーにいきなり手足が生えてもがいている訳ではあるまい。ごくり、と喉を鳴らしたクロウは、意を決してバスケットの蓋を素早く開けた。こういうのは勢いが肝心なのだ。
そうしてクロウの視界に飛び込んできたのは……強烈に見覚えのある、小さなくせ毛の黒髪頭だった。

「うんうん、初めて食べるハンバーガーだけどすごく美味しいな、何が挟まってるんだろう……あ!クロウ先輩!これ食べられますかっ」
「……いやもう食ってんじゃねえか。ってしまった!夢に受け答えしちまった!」

ぱっとこちらを見上げてきた純粋無垢な薄紫の瞳に、うっかり言葉を返してしまったクロウは頭を抱える。これではあまりの疲れに白昼夢を見てしまったのだと自分に言い聞かせることも出来ない。そもそも作ったはずのフィッシュバーガーを一個食べられてしまっている状態で誤魔化せるはずもないのだが。それでも往生際悪く、クロウは見なかったことにしたかった。
何故。どうして。夢であったはずの、夢でいて欲しかったはずの生き物がここにいるのか。口のまわりにフィッシュバーガーのカスやソースをつけたまま、バスケットにすっぽりと収まった状態でこちらを見上げる、小さな小さなリィン。かつて唐突に現れ、そして唐突に去っていったこの不思議な生命体と再び出会う日が来るなんて、思ってもいなかったのに。

「クロウ先輩!俺の全力の添い寝は効きましたか?俺はクロウ先輩の胸板が気持ちよくてぐっすりでした!ぐっすり眠ってお腹が空きました!」

クロウの夢の中のものだったはずの出来事を簡単に口にしながら、小さなリィンはバスケットの中から這い出てきた。途中でバランスを崩してバスケットごと倒れ込み、うわー敵襲かーと声を上げながらじたばたもがく姿をやや呆然と眺める。これは確かに、以前一度だけ遭遇したあの小さなリィンだ、間違いない。こんな小さな生き物が複数いてたまるか。また異次元から池にハマって落ちてきたのか、それは定かではないが。クロウの頭にはただ一つだけの疑問がぐるぐると渦巻いていた。

どうして。
どうして、このタイミングで。

「くっ、これは敵の罠か……しかし俺はいつでも本気全開!敵の罠にも怯む事無く全力で立ち向かう男、リィン・シュバルツァー!かならず抜け出してみせる!……抜け出して、みせ……!抜け出し……抜け……う、ううっ、先輩、クロウ先輩ー……!」
「……あーはいはい、今助けてやるから騒ぐなっての」

がたごととバスケットの下でもがいていた小さなリィンからとうとう助けを求められて、クロウはようやく手を貸してやる。まったく、考える暇も与えてくれない騒がしさである。クロウがひょいとバスケットを持ち上げれば、きょろきょろとあたりを見回した後小さなリィンは元気よくぴょんと起き上がった。

「ありがとうございますクロウ先輩!お腹すきました!」
「今食ってたばかりじゃねえか!その小ささでお前の燃費どうなってんだ!」

手の中のバスケットを覗き込めば、案の定フィッシュバーガーは跡形もなくなっていた。確かにリィンに食べさせるために作っていたものだが違う、食べさせたかったのは厳密に言えばこのリィンじゃない。しかも小さなリィンは敵の罠とやらから解放された途端に大きな目で次の獲物へと狙いを定めている。即ち、もう一つのフィッシュバーガーだ。まだ入るのか。昼飯に十分足りるような大きさで作っているはずなのだが、この小さな体のどこに詰め込まれているのだろうか。
ある意味感心さえしている間に、小さなリィンは残ったフィッシュバーガーにとことこと近寄り、輝く瞳でクロウを見上げてくる。食べたばかりなのにどういう事かぐうぐう腹を鳴らし、口元には涎をじゅるりと溢れさせながら。

「クロウ先輩っ!これ、食べられま」
「食べていい、食べていいからそんな目で俺を見るな……!」

完敗だった。あんな期待した目で見つめられて抵抗できる訳が無かった。項垂れるクロウからの即答にわーいと歓声を上げた小さなリィンはさっそくフィッシュバーガーに齧り付いている。口いっぱいに頬張って幸せそうに咀嚼している姿は大変微笑ましいものだ。状況を考えなければ。
しばらく突っ立ったまま小さなリィンをぼんやりと見つめていたクロウは、フィッシュバーガーが半分ほど消えたあたりでようやく動き出した。処分するか使用人たちに譲る予定だった余った材料を再び手にし、包丁を握りしめる。多めに用意しておいてよかった。おそらくあと2,3個はフィッシュバーガーを作れるはずだ。早く作り上げてしまわないと昼飯の時間が過ぎてしまう。
クロウはとりあえず小さなリィンが現れた理由等を突き詰める事を放棄し、当初の目的を果たす事だけを考える事にしたのだった。

「クロウ先輩!このソースとても美味しいですね!次はもっと多めに入れて下さい!」
「は?!おまっこれ以上食うつもりかよ!駄目だ駄目だ、少しは我慢を覚えやがれ!」
「そ、そんな……俺はいつでも本気全開、美味しいものならいくらでも全力で食べ続ける男リィン・シュバルツァーなのに!」
「いちいち無駄な所で全力出すんじゃねえよ!駄目なもんは駄目だ!」
「わかりました……それじゃあ全力で全力を出さないように我慢します!あと一個だけで我慢します!」
「全然わかってねえしろくに我慢もしてねえよそれは!こら、あんまり近づくな、危ねえだろうが」

調理する手元にわざわざ寄ってくる頭を押し留めながら、クロウは何とかフィッシュバーガー作りを押し進める。一気に騒がしくなった狭いキッチン内を、蒼の騎士様一人しかいないはずなのに何故こんなに賑やかな話し声が、と使用人たちが恐れ戦きながら遠巻きに眺めていた。





後方へと流れゆく雲ばかりが見える窓の外へ視線をやりながら、リィンはただただ一人押し黙っていた。頭の中はぐるぐると様々な考えや感情が入り乱れており、なかなかまとまろうとはしない。この混沌とした思考から何か答えを一つ拾い上げたいのか、それともこのまま何も導き出さないまま沈んでいたいのか、それすらもよく分からない。おそらく混乱しているのだろう、と一部の冷静な自分が結論付ける。ああ、きっとその通りだ。リィンは今迷い、混乱し、途方に暮れている。昨晩この与えられた一室でほとんど眠れない夜を過ごしていた時よりも、遥かに深く。
このパンタグリュエルへ強制的に招かれた時より今の方が明らかに感情がぐちゃぐちゃしているのは、先ほどまでこの部屋に訪問していた人物のせいであった。明確な敵という立場にいながら、共に学生として肩を並べていたあの頃のような親しみを込めた眼差しでやってきて、問われるがままに過去の出来事を話してくれた、どこまでも優しい残酷な先輩。用意された豪勢な食事がなかなか喉を通らなかったリィンのために、わざわざ手作りの昼食まで用意してくれた。それも、おそらく言葉に出来ないたくさんの思い出が詰まっているであろう、故郷の味を。そうして食べて、見て、聞いた今までのすべての事柄が、リィンを巻き込み翻弄しているのだった。この思考の迷宮を作り上げた張本人、クロウが部屋を去った今でも。
そう。だからリィンは、余裕が一切なかった。

「あー美味しかった。クロウ先輩は料理上手だな!またあのフィッシュバーガーを明日にでも食べたい気分だ!な、クロウ先輩のリィン!」
「ああ、うん、そうだな」

肩にぶら下がって満足そうに笑う小さなリィンに生返事しか返せないぐらい、余裕がないのである。

最初はリィンだってとびきり驚いた。何となくクロウの訪問は予想をしていたが、まさか頭の上にこの小さなリィンを引っ付けてやってくるとはさすがに思わなかった。よく考えれば予想がつかなくて当たり前の話なのだが。クロウ先輩のリィン、久しぶりだな!と、何度か否定したはずの懐かしささえ覚える呼び名でしゅたっと手を上げた小さなリィンの姿にリィンがぽかんとする中、とりあえず昼飯にしようぜとバスケットを持ち上げてみせたあの時のクロウの笑顔はどこか開き直ったもののように見えた。リィンの元に来るまでの間に一悶着あったのかもしれない。
とにかく小さなリィンも交えた奇妙な空気の中、リィンはフィッシュバーガーを食べてクロウの話を聞いた。クロウが話している間はさすがの小さなリィンも空気を読んで黙っていたが(腹が満たされてうとうとしていたとも言う)、フィッシュバーガーを食べる最中は大変だった。リィンの分と、クロウの分と、小さなリィンの分と三つのフィッシュバーガーを用意してきたクロウが、全てを諦めたような顔で小さなリィンに手渡していたのが妙に印象的だった。
初めて食べたフィッシュバーガーは非常に美味しいものだったが、じっくりと味わって食べていたのが間違いだった。さっさと自分の分を食べ終えてしまった小さなリィンが、おもむろに膝の上に移動してきたのである。
予告も無しによいしょとテーブルの上から膝の上に移動してきた小さなリィンに、リィンは大いに戸惑った。

「ど、どうした?」
「クロウ先輩のリィン、フィッシュバーガーは美味しいか?」
「え?あ、ああ、とても美味しいよ」
「そうか!俺も大好きだ!もっともっと食べたいぐらいフィッシュバーガーは美味しいな!」

じっと見上げてくる純粋な視線。これは、何かを訴えかけられている。ちらちらとリィンの食べかけのフィッシュバーガーに視線を移しながら、小さなリィンがキラキラとした視線を一心に送ってくる。リィンは首を傾げた。小さなリィンが何を求めているのか、フィッシュバーガーの味に夢中で考え付かなかった。そうしていると、向かいに座っていたクロウが呆れた目で小さなリィンの後頭部を軽く小突く。

「お前、あれだけ食っててまだ入んのかよ……胃袋どうなってんだ、マジで」

驚きと呆れと感心が絶妙に混ざったその声を聞いて、リィンはようやく思い当たったのだった。そうか、小さなリィンはリィンのフィッシュバーガーを狙っているのだ。以前トマトサンドを譲ってやった時のように、食べ残しを与えられるのを待っているのだ。あの時はお昼後だったしお腹も空いてなかったので軽い気持ちで渡したが……今は。
とうとう腕を伸ばしてきた小さなリィンから、慌ててリィンは食べかけのフィッシュバーガーを持ち上げて離し、力強く首を横に振ってみせた。

「だ、駄目だ、これは俺の分のフィッシュバーガーなんだからな!」

あまりにも力を入れ過ぎて想定外の大きな声が出てしまった。向かいのクロウがギョッとしたのが視界の端に映る。しかし小さなリィンが体をよじ登ってこようとしてきたので、そちらに手いっぱいで反応できなかった。
これは、これだけは譲れなかった。せっかくクロウがリィンのために作ってくれた、特別なフィッシュバーガーなのだから。

「一口、一口だけだから!」
「嘘つけ!一口が無駄に大きかったり、齧り付いたら離れないつもりだろう!一応俺だから分かるんだからな!」
「それは仕方ない、だって俺はいつでも本気全開!フィッシュバーガーを全力で食べる事に定評がある男リィン・シュバルツァーだからなっ!という訳で、そのフィッシュバーガーの残りを全部下さい!」
「駄目ったら駄目だ!これは俺の分なんだから、いくら俺からの頼みでも駄目だ!」
「そんな事言わずに!俺はリィンでクロウ先輩のリィンもリィンなんだから、俺がフィッシュバーガーを食べればクロウ先輩のリィンが食べた事にもなると思うんだ!だから下さい!」
「変な知恵をつけるんじゃありません!そもそもその話、逆も成り立つじゃないか!」
「ああっしまったー!」

しがみついてくる小さなリィンを一生懸命片手で押し返そうとするリィン。そんな不可思議な自分と自分の戦いに終止符を打ったのは、横から伸びてきた長い腕だった。

「喧嘩すんなよお前ら、一応同一人物だろうが」
「うわっ」

身を乗り出したクロウが、ひょいと小さなリィンの襟首を掴んで離してくれた。クロウに掴まれた途端に大人しくぶら下がる小さなリィンに、ほっとしながらもどこか複雑な感情を抱くリィン。クロウは小さなリィンをぶら下げたまま、自分の食べかけフィッシュバーガーを反対の手で持ち上げた。

「おら、お前には俺の分やるから騒ぐなよ、食いしん坊め」
「本当ですか!さすがクロウ先輩!」

空中でじたばたと喜びを表現する小さなリィンに、クロウが手ずからフィッシュバーガーを口元に持って行ってやる。あーんと大きな口をあけた小さなリィンはそのままフィッシュバーガーにがぶりと噛みついた。まるで小動物にエサをやっているような光景であったが、何故かリィンは無事だった自分のフィッシュバーガーを食べる事も忘れて、思わず目の前を凝視してしまっていた。何故だろうか、食べさせるクロウと食べさせてもらってる小さなリィンから目が離せない。得体の知れない感情がじくじくと沸いて来て喉を塞ぐ。これは一体なんだ。リィンは自分自身に戸惑った。
一口目をごくんと飲み込んだ小さなリィンが、もう一口頬張ろうとする前にふとリィンと目が合った。開いた口をそのままにじっとリィンを見つめた大きな薄紫の瞳は、次にクロウを見る。急に食べるのを止めた小さなリィンに怪訝な顔を向けていたクロウへ、元気な声が急に嘆願してきた。

「クロウ先輩!このフィッシュバーガーの残りはクロウ先輩のリィンにあげてください!」
「は?とうとう腹いっぱいになったか?」
「いや全力でまだまだ入りますけど!クロウ先輩のリィンがとても羨ましがっているので、あーんして食べさせてあげてください!」
「?!んぐっ?!」

自分の中に芽生えた変な気持ちを誤魔化すようにフィッシュバーガーを口に含んでいたリィンが思いっきり喉に詰まらせる。どんどんと震える腕で己の胸を叩くリィンにクロウが慌てて飲み物を手渡してくれた。

「ぐっ……っごほっげほ!はあ……はあ……し、死ぬかと思った……ありがとう、クロウ……」
「いや、それはいいけどよ……」
「はっはっは、クロウ先輩のリィンは慌てん坊だな!そんなに急いで食べなくても、クロウ先輩はきっとあーんをしてくれるぞ!」
「ちっ違うから!今のはべっ別に、あーん、なんて、してほしかった訳じゃない!」
「ええー、本当に?」
「へーえ、本当に?」

心底疑問そうな小さなリィンと、何故かニヤニヤと参戦してきたクロウに見つめられて、リィンの顔が瞬時に赤く染まる。言葉では力いっぱい否定したが、胸中はどくどくと脈打つ音が止まらない。自分でもよく分かっていなかったが、あれ、まさか、本当に?もしかして本当に、小さなリィンを羨ましがっていたのだろうか。直接手で持って食べさせてもらう事を、そんなに自分にもやって欲しかったのだろうか。クロウの手から、直接、フィッシュバーガーを。思わず想像してしまって、リィンの顔色は一人で勝手にどんどんと紅く色づいていく。
目を白黒させながらゆでだこ状態になってしまったリィンに、向かいから見つめていたクロウがとうとう耐え切れずに吹き出した。

「ぶっはっ!おっお前っその一人百面相面白すぎんだろ!たかが「あーん」にどんだけ思いつめてんだよ!真面目か!」
「う、うううるさい!小さい俺がいきなり変な事を言うから……!」
「これは……にらめっこ勝負か!負けないぞ、クロウ先輩のリィン!俺はいつでも本気全開!にらめっこ勝負にも全力で挑む男リィン・シュバルツァー!」
「ちょっやめろっ俺の腹筋を壊す気か!」

色々と勘違いした小さなリィンが変顔をし始めたのがツボに入りかけていたクロウのトドメになったらしく、腹を抱えて笑い転げている。緊張感皆無なその光景に、頬の熱が引き終わらないうちにリィンの口元にも笑みが浮かんでいた。ここがどこで、今自分がどんな状況下におかれているのか、その全てをこの一時だけ忘れ去り、リィンもくすくすと笑いをこぼした。

「あ!クロウ先輩のリィンも笑った!この勝負、俺の勝ちだな!」
「ああもう、お前の勝ちで良いよ、勝てる訳ないだろうこんなの……!」
「はーっ腹いてー、お前ら二人揃って優勝でいいだろ、大リィン小リィンのリンリン百面相ってな!」
「っはは、何だそれ、意味不明すぎる!」
「?はっはっは」

よく分かってないっぽいけど二人が笑っているのでとりあえず笑う小さいリィンと、自然と込み上がる笑いに肩を震わせるリィンとクロウ。以前もまったく同じような流れで三人笑い合った記憶がある。しばらく室内は、笑い声ばかりが満ちる空間となった。


そう。その時の空気があまりにも、「あの頃」と同じだったから。


リィンの心は未だ迷いの中を彷徨っている。まるで内戦など、それに付属して巻き起こった出来事などすべてが何もなかったかのように過ぎていった穏やかなお昼の時間、そしてその後に聞く事になったクロウの過去、おまけにこの艦に招かれてから誘われた話などが、綯い交ぜとなってリィンを思考の海へ引きずり込み、逃がしてくれない。
一体、自分はこれから何を選択すればいいのか。どこへ向かえばいいのか。少し先さえも見えない状態の今のリィンだったが、確かなことが一つだけあった。

「……俺は、」

ぽつんと、微かな絶望と共に音が零れる。

「俺は、クロウの事を……何も知らなかったんだ」

クロウが何故、宰相を撃ったのか。帝国解放戦線を起ち上げたのか。理由は分かっても、未だ分からない事は多い。クロウはクロウの想いだけは、一つも話してくれなかった。例えば故郷をたった一人で旅立った時。起動者に選ばれてしまった時。復讐のために陰で動いていた日々や、素性を隠してトールズ士官学院の学生として生きていた間。そして、リィンと出会い、限りある時の中で共に過ごした時間。その全てを捨てて敵の立場にいる、今。クロウは一体、どんな気持ちを抱いていたのか。どんな想いを抱えて今立ちはだかっているのか。教えてもらえはしなかったし、尋ねることも出来なかった。尋ねて、答えてもらえなかったらと思うと怖かったし、逆に答えてもらう事が怖かったのかもしれない。
呆然と呟いたまま、それきり押し黙って窓の外を見つめ続けるリィンの頬に、その時ぺたりと何かが押し付けられた。ゆるゆると視線を動かした薄紫の瞳に、同じ色の瞳が至近距離で映り込む。そういえば肩の上に小さい自分がぶら下がったままであったと、リィンはようやく思い出した。

「クロウ先輩のリィン、どうしたんだ?何だかとても悲しそうな顔をしているぞ」
「……悲しい?」
「ああ。今から泣き出してしまうんじゃないかと思った」

今までずっと能天気な表情ばかりを浮かべていたはずの小さなリィンの顔が、心配そうにゆがめられている。小さなリィンにこんな顔をさせてしまうほど今の自分はひどい有様なのかと、リィンはぼんやり考えた。自覚は無かった。しかし納得していた。言われてみれば確かに、今のリィンの心境を一言簡単な言葉で表すならば……「悲しい」が一番近いのかもしれない。リィンは俯いて、力無い声を上げた。

「……違う」
「えっ?」
「違うんだ。俺は、「クロウ先輩のリィン」なんかじゃない。最初から……違ったんだ」

クロウの事を何も知らないまま、呑気に隣で笑っていたような奴が、「クロウのもの」であったはずがない。そう、考えた所で。リィンは気付く。
小さなリィンに無邪気にそうやって呼ばれるたびに。恥ずかしさとむず痒さのために否定をしてきたこの心が、実は。妙な優越感と共に、喜びを覚えていた事に。

「俺は、もう……「クロウ先輩のリィン」になる事は、出来ないんだ……」

今更気づいてしまった、取り返しのつかないほのかな気持ち。それを最早ぶつけることも出来ないまま、リィンはただただ吐き出すしかなかった。項垂れた顔を両手で覆って、壁に寄りかかりでもしなければ崩れ落ちてしまいそうだった。
そうして、迷いと絶望に浸かり込むリィンの姿に。

「馬鹿野郎!」
「っぐ?!」

バキッと音を立てて頬に拳が叩き込まれる。音の割に吹っ飛ぶことも無くたたらを踏むだけで済んだのは、殴ってきた拳がとても小さいものだったためだ。小さいために余計に痛みが集中した気もする。
殴られた頬を抑え、呆けたように傍らを見つめたリィンの視界に映ったのは、憤慨した己の顔だった。

「さっきまであんなに楽しそうに笑い合っていたのに、何でそんなに弱気になっているんだ!あの時間を取り戻すために全力で頑張るとか、それぐらい言ってみろよ!」

よろめいたリィンの肩からひらりと飛び降り、小さな体で仁王立ちした小さなリィンはくわっと見上げてきた。見上げられているのに、まるで睨み下ろされているような迫力だった。

「で、でも、」
「でもじゃない!過去がどうたらとか、そんな事は関係ない!だってクロウ先輩のリィンは、クロウ先輩が好きなんだろう!」
「えっ?!いや、それは、」
「好きなら、諦めちゃだめだ!己の力でクロウ先輩を全力で取り戻すんだっ!」

勢いでとっさに否定しきれず、慌てふためくリィンに容赦なく小さなリィンが指を突き付ける。

「ちなみに俺は、クロウ先輩の胸板は最高だと思う!」
「?!」

突然何を言い出すのか。小さなリィンが現れる度にクロウの胸の上へ落っこちてくる事実を知らないリィンは目を丸くする。同時に思い出してもいた。そういえば初めてこの小さいリィンが出現した時は、問答無用でクロウに抱き込まれてしまったのだと。あの時は突然の出来事で頭が回らなかったが、押し付けられた胸板は確かに広くて暖かくて安心できて最高だった……って、何を考えているんだ!混乱で目を白黒させるリィンに、小さなリィンは畳みかけた。

「いいのか!クロウ先輩のリィンが諦めるなら、俺がクロウ先輩のリィンになってあの胸板を貰ってしまうぞ!毎日撫で撫でしてもらいながら胸の上で眠っちゃうぞ!それでもいいのか!クロウ先輩のリィンは、俺にクロウ先輩をとられてしまっても、クロウ先輩を他の誰かに渡してしまっても、本当にいいのか!!」

激情の緋が混じる薄紫の瞳に見据えられたリィンは、叩きつけられた言葉にとっさに叫んでいた。

「嫌だ!!!」

叫んでから、ようやく気付いた。そうだ、嫌だ。クロウがこのまま離れていってしまうのは、手の届かない場所に行ってしまうのは、嫌だ。せっかく近づけたのに。クロウの過去に触れて、同じ騎神という存在を手に入れて、近いようでいてとても遠くにいた立場から、ようやく一歩を踏み出せるスタート地点に立ったばかりなのに。
このまま諦めて、手放してしまうのは……この上なく、嫌だった。

「嫌だ……例え俺でも、クロウを他の誰かに渡してしまうなんて、嫌だ……!俺だってもっとクロウの胸板味わってみたい!小さい俺ばっかり、ずるい!」
「へへー、どうだー羨ましいだろう!」
「羨ましい!こうなったら……こうなったら俺だって、味わってみせる!クロウを必ずこの手に取り戻して、そして抱き締めて、胸板の感触をじっくり味わってやる!だって俺は、俺は……「クロウのリィン」だから!」

拳を握りしめて、高らかに宣言したリィン。その姿を、小さなリィンが足元から眩しそうに見上げた。口元にはとても嬉しそうな笑みを乗せて。

「よく言った……!それでこそ、クロウ先輩のリィンだ!」
「小さい俺っ……!」
「クロウ先輩のリィンならきっと出来る!全力でクロウ先輩を取り戻すことが出来るさ!俺には分かるぞ!だって同じリィンなんだからな!」
「ありがとう……ありがとう、小さい俺!俺、頑張るよ、かならずクロウを取り戻すから!」

小さいリィンを持ち上げて、リィンは両手でぎゅっと抱きしめた。小さいリィンも励ますように、応援するようにぽんぽんと押し付けられた肩を叩く。リィンの瞳に最早迷いはなかった。あるのは燃え上がる炎のみ。ただひたすら真っ直ぐに、とある背中を追い続ける緋色の決意が宿るのみであった。

「よーし、覚悟しておけよクロウ先輩!クロウ先輩のリィンがどこまでも追いかけるからなー!」
「ああ、そうとも……どこまでも、永遠に追いかけて、追いついて、必ず捕まえてやる!!」

小さなリィンを片手に抱えたまま立ち上がり、窓から外を見つめるリィン。さっきまでの悲壮な様子はもうどこにもない。同じ色の瞳が見合わせられ、微笑み合う。それは未来への誓い、希望溢れる輝かしい笑顔だった。



「はっくしゅん!あー……何だ、誰かこの色男の噂でもしてんのか?」

寒気を感じたクロウが、艦内のどこかで強烈な誓いを立てられている事を知る由も無い。
この瞬間から妙にリィンが熱くアタックしてくる事も。「俺はクロウを取り戻して、真の「クロウのリィン」になってみせる!」と敵味方入り乱れるパンタグリュエルの甲板で熱烈にほぼ告白みたいな事をされる未来も。何も。








15/03/13

←ふぁーすとこんたくと。
→きゅうせいしゅ。
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