バイリィンガル
「セリーヌ?セリーヌ、どこへ行ったの?」
待ち合わせをしていたのにグラウンドの倉庫裏へ姿を見せなかったパートナーの名前を呼びながら、エマは学院中を練り歩いていた。物陰を重点的に覗き込んで、黒いしなやかな猫の姿を探す。こうしてセリーヌが時間通りに姿を見せない事は初めてでは無かったが、やっぱり心配で放ってはおけなかった。もしかしたら何かあって怪我でもしてしまっていたら、と悪い考えばかりが浮かび上がる。それらを振り切るようにエマは駆け足でセリーヌを探し回った。
やがて足を止めたのは、旧校舎の正面。しかし視線は建物内ではなく、外へ向けられる。旧校舎周辺に生い茂る木々の間に隠れるように見えた、黒い尻尾を発見したのである。しかしエマはとっさに声を掛けることが出来なかった。何故ならその黒い尻尾が、リボンのついた長い猫の尻尾だけでなく、他にもう一本存在していたからだ。
(リィンさん……?)
座り込むセリーヌに目線を合わせるように、こちらに背を向けてしゃがみ込んだリィンがいる。地面に落ちたふさふさの尻尾が、まるで緊張するかのように小刻みに揺れている姿をつい目で追ってしまう。気配に敏い彼にしては珍しく、どうやらエマが近くにいる事に気付いていないようだった。それほどまでに、セリーヌを見つめる事に夢中になっているのか。
(何をしているのかしら……)
あまりにも研ぎ澄まされた真剣な空気に、エマは何となく声が掛け辛くてその場に立ち尽くす。セリーヌはこちらに気付いているようだが、素知らぬ顔で己を見つめるリィンを見上げていた。全員が息を潜めるこの場に聞こえる音は、周りを囲む緑の葉を微かに揺らす風の音と、学院側から響く生徒たちの遠い声と、リィンがぱたぱた揺らす尻尾の音だけだ。もしリィンが全身でセリーヌに注目するように前方に立てていた耳を少しでも後ろに傾けていれば、エマがごくりと唾を飲んだ音でも聞こえていたかもしれない。それぐらいの静寂が二人と一匹を包んでいる。
それからどれだけ経った頃だろうか。リィンの定期的に動いていた尻尾が、ぴたりと動きを止めた。旧校舎を包むように満ちていた緊張の空気が、ぶわりと密度を増した気がする。エマは直感した。これから、リィンがセリーヌに何かを仕掛けるのだ。
(い、一体何を……?!)
もしかして、自分たちの正体がバレてしまったのだろうか。完全には分からなくても、リィンならセリーヌがただの猫で無い事に気付いていてもおかしくない。もし悪意のある者だと勘違いされていたら……。エマはとっさに足を踏み出しかけるが、リィンの行動には間に合わなかった。
しゃがんだ体勢からぐっと身を乗り出し、大人しくお座りしているセリーヌを正面から見つめたまま、リィンはこの上なく真剣な表情でゆっくりと、静かに口を開き、語りかけた。
「……にゃーん?」
そして……僅かな静寂。
「っ?!?!?!」
「……えっ?!」
一体今何が起こったのか理解が遅れたエマが気付いたと同時に吹き出した途端、心底驚いた顔でリィンが振り返ってくる。音を立ててバチリと合う視線。見る見るうちにリィンの表情が驚愕に彩られていく。
「い、委員長……?!」
「リィンさん、あの、私その、ぬっ盗み聞きするつもりじゃなかったんですっ!」
「……!!」
肩を震わせ口元に手を当て赤くなった顔を隠すように必死に顔を逸らすエマの様子に、全てを見られて聞かれていたことを悟ったリィン。一瞬だけ呆けた後、ボンッと一気に全身を赤く染め上げた。ぴんと立った耳と尻尾までこうなったら赤く染まったように感じるほどだった。
「う、うわあああ!ちっ違うんだ、今のは!ほ、ほら、俺今こんな犬みたいな耳と尻尾が生えてるからさ!委員長みたいにセリーヌの言葉が少しでも分かったりするんじゃないかと!つ、つい出来心で……!そっそんなしょっちゅうやってる訳じゃなくて今初めて言ってみただけなんだ!本当なんだ!」
「え、ええっそれはもう私もよく分かってますよ!そもそも私もお話している訳じゃなくて……っふふ」
「?!」
あたふたと捲くし立てるリィンに普通に受け答えしようとしたエマだったが、やはり耐え切れなかった。途中で笑い出してしまったエマに、リィンが絶望的な表情になる。
「ご、ごめんなさい、ふふふっ、決して馬鹿にしているとか、そういった事では無くて……猫語でセリーヌに話しかけるリィンさんが、っふふ、可愛くて……!」
「か、かわっ?!……ああ、もう、やっぱり止めておけばよかった……」
しょんぼりと肩と耳と尻尾を垂らすリィンの姿がこれまた哀愁を漂わせていて余計に可愛く思えてきてしまう。さっきのにゃーんも今のこの姿も何もかもリィンさんは卑怯すぎます、と文句の一つでも言いたくなるような気分であったが、全てを無自覚で行っている本人に面と向かって言う訳にもいかない。そもそも次々と湧き上がってくるエマの笑いは、しばらく収まりそうも無かった。
「本当にごめんなさいリィンさん、うふふっ、わっ笑いが止まらなくて、ふふ」
「委員長……もう笑ってくれてもいいから、どうかこの事は他の人には秘密にしていてくれ……!」
笑い続けるエマと、尻尾を丸めて必死に頼み込むリィンの姿を、足元のセリーヌはあくびを零しながら呆れたように眺めていた。
いつか正体を明かした時には、このネタでこの子をいじってやろう。そうやってしめしめと考えながら。
14/02/12
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