七耀暦1204年7月20日。
本日も夏らしくとてもよく晴れた暑苦しい天気であった。生徒が押し込められた教室の熱気はより顕著で、じわりじわりと汗を流しながらも皆開け放たれた窓から僅かに入る風だけを心の拠り所にして、午後の気だるい授業を乗り切っている最中だった。開いたままのノートもズラズラと文字が書き連ねてある黒板も教室の前方を行ったり来たりしながら教科書を読む教官も何も見ずに宙を見つめてぼうっとしていたクロウもまた、他の生徒と同じように染み込むような暑さを耐え忍んでいた。ただクロウには他の生徒と違う所が一つだけある。だるくて仕方がない授業をやり過ごすための心の支えが、頼りない自然の風だけではない所だった。
空中に浮かせていた視線を手元に落とすと、ゆらゆらと揺れる小さな黒髪頭がある。机の上に乗せたまま微動だにしないクロウの右腕に寄り掛かり、足を伸ばして座り込んだままこっくりこっくりと居眠りをしている手の平サイズの生き物。ある日突然現れた卵から産まれた小さなリィン・シュバルツァーは、未だクロウ以外の誰にも見えないままここに存在していた。クロウにとっては見えるだけでなく、こうしてむき出しの腕に寄り掛かる背中のぬくもりさえ感じるというのに。その仕組みや、そもそも小さなリィンの存在そのものの謎は一切解明されないままだが、すでにこの小さな生き物との毎日がクロウにとっての日常と化していた。今更小さなリィンに対して疑問に思う事も、随分と前から無くなっている。
それにしても一定のリズムでよく揺れる頭だった。クロウはしばらく小さなリィンが睡魔に負けてうとうとしている姿を眺めた後、授業が始まってから何も書くことなく左手に握ったままだったペンの頭を使って、ちょんと上下に揺れる額を軽く押してみた。ぴくりと肩を揺らして一瞬だけ止まる頭。しかしすぐにうとうとが再開されてしまう。今度は俯きがちだった頭が上向きになるぐらい、ぐいっと力を入れて押してみた。さすがにぱちりと見開かれる薄紫。こてんと完全に体重を背後の腕に預けた仰向けで、目を覚ました小さなリィンが寝ぼけ眼でクロウを見上げた。

「ううー……くろうー？」

ごしごしと目元をこすってからぼんやりとクロウの名前を呟き、ふあっと大きな欠伸を一つ。何か用なのかと尋ねかけてくる視線に笑みを漏らす。もちろん用なんて無い、ただ気まぐれに起こしてみただけだ。素直にそうして答える代わりにクロウは、小さなリィンの目の前にペンを持ったままの左手をかざしてみせた。

「くろう？」

訳が分からないながらもじっとペンを見つめる小さなリィン。まだまだ眠気が覆いかぶさる薄紫の視線が注がれているのを確認して、クロウは指を動かした。器用に動く左手が握っていたペンが、くるりと綺麗に一回転する。取り落とす事無く無事に元の位置に収まったペンを見てしばしの無言の後、小さなリィンは勢いよく立ち上がって激しく拍手をしてくれた。

「くろう！くろうー！」

多分すごいすごいと言っているのだろう。思った通りの、いや思った以上の好反応にニヤリと笑う。ペン回しは昔から得意だった。一回転だけなら連続で何回も回せるし、親指から小指まで、小指から親指までペンを巧みに移動させる技も難なくこなせる。拳を握りしめ、瞳を輝かせて注目する小さなリィンだけのために次々とペン回しの技を披露してみせた。その度に机の上に一人分の歓声が上がり、拍手が鳴りやまない。静まり返った教室に指先ほどの大きさしかない手の平から高らかに鳴るこの拍手の音が、自分の耳にしか届いていない事が不思議だ。おかげでクロウは誰にも知られる事無く授業中の暇つぶしが出来るのだった。
ただペンを回してみせるだけで大喜びする小さなリィン。そんな無邪気な笑顔を眺めながら、クロウはもう一つの顔を思い出していた。手の平に乗る事は無い、数リジュだけ目線を下げればすぐに視線を合わせることが出来る、普通の大きさの本物リィン。今頃�Z組の教室でクロウと同じように授業を、クロウと違って真面目に受けているであろうその姿を。
赤い制服の後頭部が、脳内でぶれる。見慣れたくせ毛の黒髪頭が、立ち上る力の奔流によって余計に逆立って思えるような、白銀と。

「くろうー？」

頭の中の映像に夢中になって、気付けば手元がお留守になっていた。ぴたりと止まってしまったペンの動きに、小さなリィンがこてっと首を傾げて見上げてくる。注がれる眼差しはいつもと変わらない優しい青に色付く薄紫。この小さな瞳と同じ瞳が先日、まざまざと変化した瞬間を見た。全てを飲み込むような、濃い真紅へ。
教官が黒板に向かっているのを確認して、クロウは軽く首を振った。しつこく浮かんでくる記憶を振り払う。机の上をうろうろ移動してこちらの様子を窺う小さなリィンに視線を戻して、クロウはペン回しを再開した。心配そうな顔はすぐに楽しげな笑顔に変わる。そんな単純で可愛らしい姿に癒されながら。救われながら。
結局教官に見咎められ注意されるまで、小さな一人のためのペン回しショーは続いた。




開放を待ち望む静寂は、休み時間を知らせる鐘の音によってたちまち壊される。特に昼休み時間だと食堂の学食や購買部での昼食獲得、さらにゆっくり休むための場所取りなどで教官が立ち去った途端に廊下へと飛び出していく生徒も少なくなかった。半数以上が席を立ち一気に騒がしくなった教室の中、クロウは慌てず騒がず自らの席に座ったまますぐに立ち上がろうとはしなかった。右の手の平を枕代わりにして眠る小さな生き物のせいだった。
ペン回しを授業に集中しろと軽く叱られたその後、小さなリィンはあっけなく眠りに落ちた。しかも今度は転寝どころではなく本格的に寝入っている。クロウの手の平に頬を寄せ、身体を丸めてくうくうと眠る姿は平和そのものだった。なるべく起こしてやりたくなくなる穏やかな光景に、さすがのクロウもすぐさま立ち上がる気は起きなかった訳である。

「ったく、人の手を枕にして幸せそうに寝やがって」

短い休憩時間を友人たちとどう過ごすか語り合う周囲のざわめきのおかげで、ぽつりと零す独り言は誰に拾われる事無く周りの声に溶ける。健やかに眠る頬を指先でつんと押してみても全く反応は無い。調子に乗ってつんつんと何度も柔らかさを堪能してみても、やっぱり起きない。飽く事無く指先の感触をぷにぷに楽しんでいれば、ようやく小さなリィンが身動きした。むにゃむにゃと何事かを口の中で呟いた後、ゆるりと持ち上がった両手が自分の頬を突き続ける指を押しのける、かと思いきや、そのままぎゅっと抱き枕よろしく抱きしめて落ち着いてしまう。閉じられた瞼はとうとう最初から最後まで開かれる事無く、小さなリィンはクロウの指を抱き込んだまま再び眠りに落ちてしまった。
人差し指にしがみつく柔らかな力に、クロウは笑いを抑える事が出来なかった。他人から見れば自分の手の平を見つめて笑う不審な行為にしか見えなかっただろう。幸い誰もこちらに注目してはいなかったし、それが分かっていたからこその笑みだった。クロウはあれから細心の注意を払って表情を動かすようにしている。あれから、とはもちろん、不覚にも無意識の笑顔を後輩に見られてしまったあの日からの事だ。
あの日チョコレートケーキを奢ってもらって嬉しそうに笑っていた後輩、小さくないリィンとは、あれからも何かとつるむ間柄であった。小さなリィンの存在のせいでクロウにとってはもはや他人事とは思えない一方的な感情があって、姿を見かければ何かと声を掛けていたためだ。そうすれば社交的なリィンなので向こうから近寄って来る事も多くなり、結果、おそらく一年生の中で一番親しい存在となっていた。リィンの方は、分からない。毎日生徒会長のトワを通じてトリスタのあちこちを奔走しており、技術棟にも定期的に立ち寄ってジョルジュと話をしたり、バイク置き場ではアンゼリカと走りがどうのこうのと話し込む姿がたまに見受けられた。その他にもとにかく交友関係が広く、誰と一番交流しているのかは傍から見ていてはさっぱり分からない状態だった。まんべんなく顔を出すクロウも人の事は言えないのだが。
別にそれを寂しく思ってしつこく声を掛けている訳では無い。単純に放っておけなかったからだ。何せリィンは本当に毎日依頼事を自ら抱え込んで忙しそうに走り回っていた。たまに手を貸してやらなきゃその内ぶっ倒れそう案件筆頭であったトワに並ぶほどの、いや不安定さで言えばリィンの方に天秤が傾きそうなほどの気になる存在となっていたのである。きっと小さなリィンが存在していなくても、同じように気にかけていたに違いない。リィンはそういう後輩だった。
だから、あの時も。放課後途方に暮れた顔をして夕焼けの中誰かを探す必死な姿に、思わず歩み寄っていた。そうしてリィンが隠していた恐れの根底に触れた。
摩訶不思議な旧校舎で見た、「試し」。黒から白へ色を変えた髪と、激しく燃え盛る赤の瞳。獣じみた表情で首のない巨大な甲冑にひたすら刃を振り下ろす姿は、まるで理性を失くした鬼のようであった。直後、正気に戻ったリィンの怯えが混ざる視線と、リンクから僅かに伝わった震える感情は、今でもまざまざと思い出す事が出来る。クロウ自身もそれなりに、衝撃を受けた出来事だったからだ。

「……はあ」

自然と零れ落ちていた重い溜息につられるように視線を落とせば、クロウの指に顔を押し付けてすよすよ眠る小さなリィン。完全に安心しきった姿。クロウの傍で眠る事が何よりも安全なのだと全身で語る手の平サイズの体。……全てを、見てきたくせに。クロウの肩の上から離れることなく、クロウが「クロウ」でない姿で行動する時もずっとそこにいて、この透き通る薄紫で全てを見てきたくせに。小さなリィンは変わらなかった。変わらない笑顔で、変わらない声で、「くろう」と呼んで、欠片も疑うことなく慕ってくる。愛らしい存在。だからこそ、きっと現実の生き物では無いのだと思える。
最早確定してしまった、あの後輩と相容れない道。それでもこうして、血塗れた手の平の上で眠ってくれるぬくもり。こんなに都合の良い存在などありはしない。きっといつか、クロウにしか見えないこの笑顔も見えなくなる。それはいつになるのだろうかと、小さな寝顔を見つめながら思う。少なくとも、遠い日の事では無い。
物思いに沈みこむクロウの指先がその時、きゅっと一際強く締め付けられた。

「んー……くろうー……」

夢の狭間で蕩けきった寝ぼけ声と、ふにゃりと笑った眠ったままの顔に、少しだけあっけに取られている間に思考は霧散していた。一体どんな夢を見ているのやら。今度ついた溜息は先ほどのものよりも随分と軽い。同時にタイミングを見計らったように腹の虫もぐうと鳴った。

「はー……腹減った」

思考の迷宮から抜け出てようやく空腹を思い出す。そっと抱きしめられた指を抜き取り、手の平の上にごろりと転がった小さなリィンを持ち直し、クロウは立ち上がった。考えていても仕方がない。とりあえず今は昼食だ。
考えていたってどうせ、選ぶ結末は変わらないのだから。



購買で買ったパンをもそもそと食べた後、クロウは校舎内の階段を上へと登っていた。すれ違った生徒と軽く挨拶は交わすが、何となく今は賑やかな場所から遠ざかり一人でいたい気分だった。小さなリィンがいるかぎり真に一人にはならないのだが、そのもう一人は先ほどからずっと手の平の上で気持ちよさそうにお休み中だった。じわりと汗の滲む暑い日だというのによくこれだけ眠れたものだ。感心しつつクロウとて向かっている場所は、今の季節今の時間帯には暑くてめったに生徒が訪れない、日差しがさんさんと降り注ぐ昼休みの屋上だったりする。満足な日陰も無いひらけた場所に、おそらく誰もいないだろうと推測しての事だ。よくこの辺りで睡眠不足解消のためにサボる事のあるクロウだから知っているのだが、風の通りが良い分意外と過ごせてしまう場所だったりする。多少は日差しがきつくても孤独の時間を得るためには我慢しなければならない。
とにかく小さなリィンを落とさないように手の平の上を注意しながら屋上までの階段を登り、空いていた左手でドアノブに手を掛けた所でクロウはようやく気付いたのだった。まるで誘われるようにふらふらとこの場所へ辿り着いてしまったのは、もしかしたら目に見えない何かしらの繋がりがあったせいではないのか、と。それは先日初めて繋いだばかりのリンクによるものなのかもしれないし、このすぴすぴ眠る小さなリィンを通じてのものだったのかもしれない。あるいはそんな事は全然関係なく、ただクロウと同じように人気のない場所を選んだ結果だったのだろうか。屋上には一人先客がいた。扉を開いて目で確認しなくてもよく分かる気配だった。あいつがここまであからさまな気配を出しているのは珍しいなとだけ思って、一瞬止まっていた腕を動かしドアノブを捻る。金属の音を立てて開かれた向こう側は、思った通り初夏の太陽に照らされた明るい屋上。左右の奥に見えるベンチの、左側にその一人はいた。

「……やっぱりお前ら、どこかで繋がってんじゃねえの？」

眩しい場所に来てむずがる手の平の小さなリィンと、ベンチに座ってこっくりこっくり上下する黒髪頭を交互に眺めて、クロウは思わず零していた。誰もいない屋上で一人転寝していたのはリィンだった。お昼時いつもクロウの昼食の欠片を貰うために起き出す小さなリィンが、珍しく眠ったままだなあと思ってはいたのだ。真相は定かでないが、今クロウの目の前には二人のねぼすけが存在している。暇になれば不安定な肩の上や頭の上でも器用に寝る事も辞さない小さなリィンはともかく、リィンが学院内でこうやって眠っている姿を見るのは初めてだった。
足音をあえて立てて近づいてみても、伏せた顔が持ち上がることは無い。手前にしゃがんで覗き込んでみれば、影の落ちたその顔色がそうでなくとも少し悪く見えた。疲れでも溜まっているのか。無理もないだろう、先日「あんな事」があったばかりだ。目立つ怪我も無く、未知の力を解放した後遺症もほとんど無かったと聞いている。ただし肉体的には。

「いくら自力で抑え込めたと言っても、ショックは隠しきれねえよなあ」

自分の膝に頬杖をついてやれやれと呟くクロウの声にも、目を瞑ったままのリィンは反応しない。随分と寝入っているようだ。本格的に珍しいリィンをしげしげと眺めてから、立ち上がったクロウは空いていたベンチの右側に腰を下ろした。誰もいない場所を求めていたはずなのに、ここに居座ろうと決めた心に迷いは無かった。
太陽の光で熱くなっていたベンチに一瞬だけ息を詰めてから、こいつは大丈夫だろうかと隣を見る。ゆっくりと揺れるくせ毛頭に、ごく自然な動作で触れていた。黒は熱をよく吸収するし、こんな所で昼寝しては熱射病にでもなってしまわないだろうかと懸念しての腕だった。上に引き上げた手の平が優しくぽんと黒髪に乗せられた、その時。確かに熱い頭の温度よりも先に気付いたことがある。

「……あ」

思わず声が出る。だって、今ひどく慣れた様子で頭に触れたのに。まるで毎日こうやって触れているかのように指に馴染む黒髪なのに。クロウがリィンの頭にこうして触れたのは、きっと初めてだった。
初めてなのに慣れた動作が出るのは当たり前だった。この頭よりも数倍小さな同じ頭を、ほぼ毎日うりうりと指先で撫でてやっているからだ。撫でれば必ず嬉しそうな満面の笑みが返されるので、小さなリィンを撫でるのはもはや日課となっていた。その癖がリィンに対しても出てしまったという訳だ。しかし小さなリィンとのスキンシップはほぼ指先だけを使って行っていたのに、手の平によく馴染むこの感触は何なのだろう。触れたついでにさらりと撫でてみれば、こちらもまた丸い頭部に吸い付くように己の手が自然と動く。ゆっくりと動き出した手の平はまるで燃え上がるように熱い。リィンの髪の熱が移ったわけでも、太陽の光に暖まったわけでもないはずなのに。
突然頭に触れられてさすがに起きるだろうかと注目していた横顔は、一度だけしかめられた。眉間に寄せられた皺は、しかしすぐに消えて無くなる。薄紫は開かれない。触れたままの頭も突然の無礼な感触に避けようともしない。微かに開かれた唇から漏れだす息は細く穏やかなまま変わる事なく、リィンは眠ったままクロウの手の平を受け入れていた。むしろ先ほどよりも安らいでいるように見えるのは気のせいだろうか。疲れが濃く出ていたはずの影が、わずかに薄らいだような、そんな。

「こいつらは……揃いも揃って……」

無条件にこの汚れた手を、受け入れやがって。


「……くろう？」
「おっと、お前のが先にお目覚めか」

少しだけぽやぽやしつつもはっきりと響いた己の名前に、ゆっくりと撫でる左手はそのままでクロウは手元を見下ろした。長い事小さな生き物のベッドと化していた右手の平の上で、ぱちぱちと瞬きを繰り返す寝ぼけ眼な薄紫と目が合う。やっと覚醒した小さなリィンはクロウをじっと見上げ、やがて上がったままの左腕を視線で辿った。ぽやっと目の前の光景を見つめる事しばし、ようやく状況を飲み込めたのか半開きだった瞳が何とか全開する。小さなリィンも起きた事だし、こっちの大きいリィンはどうしようか、と思案していた矢先だった。

「くろうー！」
「うお！何だ、何だ？」

手の平から飛び上がった小さなリィンが突如、クロウの腕をよじ登ってきた。普段から何かとクロウの体の上を移動する小さなリィンにとってよじ登ること自体は珍しいものでは無かったが、その大体は楽しそうな表情をしていた。しかし今の声も顔も雰囲気も、いつもと何だか違う。笑ってはいなかった。悲しんでもいなかった。怒っている、に近かったかもしれない。しかし完全に怒り心頭という訳でもなく、もう少し柔らかくて、もう少し複雑な、珍しい感情。僅かにぷっと膨れている頬を見るに……これは、ふてくされている？
あっという間に肩の上へ到達した小さなリィンは、両手を大きく広げる。それでも顔の半分も覆えないような小さな両腕が、ガッシとクロウの頬へしがみついてきた。そのままペンペン手の平で叩かれるのでほんの少し痛い。

「くーろーうー！」

何かを訴えるような声、仕草。全身で懸命に伝えようとする小さなリィンはとても素直だ。頬に張り付くぬくもりを感じながらクロウは考えてみる。今のこの状況で、小さなリィンが求めてきそうな事。ぱっと思いついた事を、さっそく実行してみる事にした。ようやく空いた右手を持ち上げ、くっついて離れない小さな頭に指を乗せ、いつものように優しく撫でてやる。頬を叩く衝撃が消えた。

「……えへへ、くろうー」

至極満足そうな笑い声。真横過ぎて視界に入らないその表情はきっと、見慣れた蕩けるような笑顔だろう。やっぱりこれだったか。つまり小さなリィンは、リィンばっかり撫でてずるい自分も撫でろと、全力で訴えていたのだ。リィンを撫でながらリィンを撫でるという奇妙な状況になっているが、不思議な事に違和感は無い。指の力を強めてやれば、楽しそうな歓声が上がった。確か本物のリィンは女子供を撫でるのが癖でそのおかげで余計なトラブルを引き起こしたりしていると風の噂で聞いた事があったが、この小さなリィンと同じように撫でるだけでなく撫でられる事も好きだったりするのだろうか。

「ん……せんぱい……？」

はしゃぐ小さなリィンの相手をしてやりながら思考を飛ばしていたクロウの耳に、再び寝ぼけた声が届いた。今度は小さなリィンのものではない。ベンチの左隣、右頬に夢中になって動きを止めていた手の平の下からじっと、半分しか開いていない瞼の奥から大きな薄紫が覗いている。クロウを見ていると言うよりクロウがいる方向を見つめているぼんやりと定まらない焦点は、明らかにまだ半分眠っているせいだ。こんなに無防備なリィンの姿を見るのは初めてだった。こいつも寝起きはこれだけぽやぽやしてるんだなと妙に感心しつつ、クロウはぽんぽんと左手を乗せていたままだった頭を軽く叩いた。

「よっ、おはようさん。こんな所で眠り被って、日射病にでもなるつもりか？」
「……？……ああ、ここ、屋上……」

ゆっくりと周りを見回したリィンはようやく現状を把握したらしい。いつの間にか隣を陣取っていたクロウへ視線を戻し、ぱちりと緩く瞬きをしてみせる。反応が薄い緩慢な様子はまさしく寝起きの小さなリィンそのままで、止まっていた手の平を二、三回動かして撫で直すぐらいには微笑ましい気持ちが沸き起こる。くすぐったそうにそれを受け入れたリィンは逃げる事も眉をしかめる事もせず、ただただ気持ちよさそうだった。

「最近、ちょっと、夢見が悪くて……ついうとうとしていました」
「夢見？」
「昨日もそれで、夜中に目を覚ましてしまって……少し、寝不足だったんです」

ぽつぽつと語るその声は確かにまだ眠気を伴っている。一体どんな夢を、という問いは愚問だろう。具体的な内容をクロウが知る術は無いが、数日前に起こったあの騒動に関連する事だとは何も聞かないままでもよく分かった。ちらとリィンが、申し訳なさそうに微かに見上げてくるのがその証拠だった。

「クロウ先輩、この間は本当にありが……」
「あーあー、それはもう聞き飽きたっての。そうやってずっと気にしてっから悪い夢を見たりすんじゃねえか？」
「はは、そうかもしれませんね……」

困ったように笑ったリィンは、ふと視線を宙へ向けた。何かを思い出すような仕草だった。

「……あれ、でも、今……」

ぼんやりと、夢の瀬戸際に立って底を覗き込んでいるよなふわりとした声。今眠っていた間に見た出来事を思い出しているのかもしれない。そういえば夢見が悪いとは言っていたが、クロウが隣に座っている間リィンは特にそんなそぶりを見せることは無かった。続きを無言で促せば、見つめる先の口元が緩くカーブを描く。今しがたまで浮かべていたような苦みの混じるものではない、もっと純粋で、淡く柔らかな、ひどく無防備な笑みだった。

「ああ、そうか……先輩のおかげか」
「あ？何が、」
「今、俺夢を見ていなかったんです。ただふわふわして、とても居心地の良い暖かな空間で微睡んでいるだけでした。こんなに気持ちよく眠れたのは、久しぶりだな……」

些細な幸せを噛み締めるようにそう呟いたリィンは、改めてクロウを見た。軽く目を見張るその顔をいっぱいに映し込んだ薄紫は、浮かべた微笑みと同じようにどこまでも優しくクロウを包む。何の憂いも無い純粋な好意だけがそこにあった。

「きっと先輩が、隣にいてくれたからですね」

ありがとうございます、とクロウにだけ向けられた聞き飽きたはずのその言葉が、太陽の下溶けるように甘く響いて聞こえたのは何故だろう。寝起きのためか、この間助けてやった事があったからか、リィンに今まで張られていた遠慮の壁が何枚か、クロウの前から完全に取り払われている。いやそれどころか。クロウはきっと今、壁の向こう側を見つめているのだ。リィンはクロウを、他者との間に頑なに線引きしていた内側へ入れてしまった。
誰にも踏み荒らされる事無く、ひっそりと隠されていた彼の内側に、確かな己の跡が刻まれている。明るく暑い屋上でぞくりと、クロウは背筋を震わせた。それは恐れだったのか、期待だったのか、自分でもよく分からない。確かな事は、それを自覚した時に激しく胸の内を突いた感情の正体が、喜びにも似た何かだったという事だけだ。
己の中に生まれたあまりにも激しい感情に、少しだけ反応に遅れてしまったクロウをリィンはにこにこ笑いながら眺めるだけだった。若干寝ぼけ気味だったのが幸いした。呆然としつつも、クロウの手が本能に従うようにリィンの頭をゆっくりゆっくり撫で続けていたおかげかもしれない。くあ、と噛み殺しきれなかった欠伸を見て、ようやく我に返る事が出来た。

「……ほらよっと」
「わぷっ？！せ、先輩？！一体何を！」

おもむろに上着を脱いだクロウは、まったく警戒していなかったリィンに上から広げて被せていた。突然の出来事に慌てて抜け出そうとする頭を抑え込み、肩を抱いて半ば無理矢理こちらへと凭れさせる。上着の下から覗く困惑した薄紫に、力が抜けるようウインクを送る。

「そこまで言われちゃあ先輩として一肌脱ぐしかねーな。まだ寝足りねえんだろ？そういう訳だから、このままもうちょっと眠っとけ」
「えっ！で、でも、もうすぐ休み時間も終わる頃じゃ……」
「んな細かいこと気にしてたら大きくなれないぜ、リィン後輩」
「全然細かい事じゃないと思うんですけど！」

腕の中でもがきかけた体は、クロウが指先でリズム良くとんとんと叩いてやれば、自然と静かになった。肩に寄り掛からせた重みが少しずつ増えていく。やはりまだ随分と眠たかったらしい、リィンの声も意識もあっという間にふにゃふにゃと不明瞭になっていた。

「クロウ、せんぱい……」

夢の間際にいるせいで力の入らない指が、きゅっと、シャツの端を摘まんでくる。微かに震えて見えたのはおそらく気のせいでは無い。クロウは腕の力を少しだけ強めて、己の上着を被ったままの頭に頬を寄せた。

「だーいじょうぶ。夢なんて見ねえよ。怖い夢が来ないように、ここにいてずっと見ててやっから」

幼い子供をあやすようなその言葉に、くすりと笑ったリィンは。そのまま素直に瞳を閉じた。怯えが消えた口元から穏やかな寝息が漏れ始めたのは、それから間もなくの事。すぐに鳴り響いた授業の開始を告げるチャイムにも反応せずに、体重をクロウの腕に肩に体に全てを預け、穏やかに眠り続けている。悪夢が訪れる気配はない。クロウは一人ほっと息をついた。
慣れ親しんだ緑の制服の下で眠る横顔に、何故だか満たされたような心地になる。触れ合っている場所が燃え上がるほど熱く感じるのに、手放したいとは思えない。ただひたすら閉じられた瞼を、縁を彩る睫毛を、薄く開いた唇を、クロウが隣にいてくれたからだと笑ったその顔を見つめる。汗が一筋、目の前で額から米神に沿って流れ落ちる様を、ただひたすらにじっと。
その視界にひょっこりと、楽しそうな薄紫の瞳が突然どアップで現れた。

「うおっ！」
「くろうー！」
「っくりした……お前なあ、いきなり覗き込んでくるなよ」
「くろう？」

見惚れていた、としか表現できないさっきまでの自分を自覚して気まずくなりながら、クロウは驚いた第一声以外限りなく小声であった。対する小さなリィンはいつもの音量でクロウの名前を呼び続ける。どんなに大声を上げてもクロウ以外を飛び起きさせる事は無いのだから気楽なものだ。いつの間にか眠るリィンの頭の上に移動して、いつもの笑顔でクロウを見つめてくる。
……いや、いつもとは少し、違う。大抵笑顔を浮かべている事が多い小さなリィンが、今はさらに満面の笑みを浮かべていた。リィンとの会話に気を取られて強請られた指先での撫で撫でを止めていたので、どっちかと言えば怒っているのではないかと思ったのだが。微かに上下するリィンの頭の上で、器用にバランスを取って立ち続ける小さなリィンは、心から嬉しそうに笑っていた。

「くろう！」

笑顔の小さなリィンと、眠るリィンを見つめながら、クロウはぼんやりと考える。それは唐突に思い浮かんだ、とても些細な願望だった。だがその小さな願いはきっと、決して曝け出す事の出来ない大きな欲望に繋がっているのだろう。名前を付ける事さえ躊躇われる、本来ならば己の中に存在してはならない暗く醜く純真なそれに目を向けないように。クロウはただただ単純なその願望だけを抱き続ける。

（なあ、リィン。お前も早く、俺の事「クロウ」って呼んでくれりゃいいのに）






七耀暦1204年10月12日。
最近、小さなリィンの動きが激しい。

「クロウ？どうしたんだ？」

両手にマグカップを持ち、自室に戻ってきて小首を傾げてこちらを見つめるリィンは知らないだろう。今頭の上でじたばたと暴れ回っている自分と同じ姿の小さな生き物の存在を。飲み物入れてくるよ、と立ち上がったリィンにそのまま引っ付いていってしまった小さなリィンは、帰って来てからも肩や頭を縦横無尽にどたばた動き回っている。何がそんなに楽しいのか、最近自分の存在に気付くことは無いリィンの傍でああやって活発にしている事が増えた。まあそれは、クロウ自身がリィンとこうして同じ時間を共有する機会が増えたせいもあるのだが。
同じ�Z組のクラスメイトとなり、寮も向かいの部屋同士。ここ最近は学院祭の出し物の話し合いなどもあって、互いの部屋を毎日のように行き来している状態だった。エリオットや他の�Z組男子が加わる事もあるのだが、本日はリィンの部屋で二人、軽く衣装についての協議がなされていた。それもひと段落ついて、気を利かせたリィンが二人分の飲み物を持ってきてくれたのが現在。ベッドに座って待っていたクロウに、温かな湯気が立ち上るマグカップが差し出される。

「はい、クロウはこっち、ブラック」
「サンクス。なんだ、お前もコーヒーか？」
「クロウの分を入れたから、ついでにな」

クロウが受け取った濃い黒色よりずっと明るい茶色をした液体に、隣に腰掛けてからリィンが口をつける。すっかりタメ口が板についた元後輩現同級生が、本来は紅茶派である事をクロウは知っている。以前から根っからのコーヒー派であるマキアスにならってこの苦い飲み物を口にする機会はあった様だが、その頻度が最近になって増したのは明らかにクロウの影響だろう。こうして少しずつ己の存在によって変わっていくリィンの姿を見る度に、言いようのない感情が内側を荒れ狂う。うん美味しいと呟くほわりとした笑顔に、マグカップを持つ手に人知れず力が加わった。初めて先輩などという余所余所しい肩書を付けられる事なく名前を呼ばれた時、クロウがどんな感情を持て余していたのかリィンは知らない。
無視できないほど大きく育ちつつあるその感情を、クロウはそれでも何とか無視し続けている日々であった。気付いてはいけない、名前を付けてはいけない、無いものとして扱わなければならないそれは、大変厄介な代物だ。意識しなければ、それが何であるか考えなくても済む。気のせいだったのだと将来思う事が出来る。だからクロウにとってリィンは未だに、可愛い後輩という存在以外の何者でもないのだ。

「それで、どうしたんだ？」
「あ？何が」
「さっき俺の方をじっと見てただろう」

コーヒーを音を立てて飲み込み、余計な事を考えそうな頭を苦味でいっぱいにしている間にリィンが質問を続けてきた。クロウは僅かに押し黙る。視界の端ではリィンの腕を伝った小さなリィンが、瞳を輝かせてマグカップの中を覗き込んでいた。こっちの方を飲めと指先でちょいちょい手招いてみるが、いやいやと首を横に振られてしまう。やはり基本的な好みはリィンと同じらしく、ブラックはお気に召さないらしい。
まさか他の人間の目には見えない小さいお前を見てましたなどと言える訳がなく、誤魔化したことを悟られないように笑みを浮かべてみせた。

「ちょっとな、ほんの少し前の事を思い出して懐かしく思ってただけだ」
「ん？」
「敬語がなかなか取れなかったのに、慣れるとすぐに定着したなーとかよ」
「ああー……」

納得するように頷いたリィンは、マグカップを傾けてこくりと飲み込む。熱かったのか若干眉間に皺が寄った。その様子を涎を垂らさんばかりに小さなリィンが腕にしがみついて見つめている。勢い余ってカップの中に飛び込んだりするなよと、クロウは内心ハラハラしながら見守った。一度、頭からカップの中身に落ちてしまった前科があるためだ。あの時は自室で一人だったのが幸いしたが、溺れていないか火傷をしてはいないかとものすごく焦ってバタバタしてしまった記憶がある。誰にも見られていなくてよかった。

「最初はさすがに違和感があったけど、あらゆる意味でクロウはタメ口しやすい先輩だったからな……あ、すまない「元」先輩、だな」
「言うようになったじゃねえか後輩君め」
「今は後輩じゃありません同級生です」

肘で小突けば生意気な言葉が返ってくる。しかしその表情はずっと柔らかな笑顔で、言葉ほどクロウをおざなりにしている訳では無い事は、誰の目から見ても明らかだろう。リィンはそのままクロウへ顔を向けてきた。

「クロウ、ありがとう」

たまに予想もしていなかった無自覚な言動で周囲を驚かせる事のあるリィンだったが、この時もクロウは突然の礼に面食らった。身を乗り出してコップの中身を覗き込む危なっかしい小さなリィンから目を離してしまったほどだった。

「な、んだよ藪から棒に」
「だって、俺が敬語を取りやすいように気を回してくれていただろう？わざとおどけてみたりしてさ。俺は頭が固い部分があるから、そうしてくれて正直助かった」
「いやいやいや」

すぐさま手を振って否定しながら、そっと、感謝を伝えてくる薄紫の視線から目を逸らしたのは、身に覚えがありすぎるからだ。

「わざわざそんな、面倒くさい事するかよ。自然と慣れてくれりゃいいって最初から言ってたろうが」
「そうかな」
「そうだっての。だから律儀に礼なんか言うなって、逆に気ぃつかっちまう」
「それは、すまない。でも、じゃあ、クロウの無意識だったのかな。俺はすごくそう感じてしまったんだが」

あの時も、この時も、と過去を思い出しながら指折り数えるリィンに、今マグカップを手に持ってなければクロウは頭を抱えていたかもしれない。やめてくれ、と叫び出したかった。あの時も、この時も、無意識なんかでは無いめちゃくちゃ意識していたのだ。ふと胸の内に焦げ付くように現れた小さな願望を、訪れた好機に乗じて叶えてしまおうとひそかに頑張ってしまった過程だった。先輩、ではなく、小さなリィンみたいに屈託なく名前を呼んでほしいだなんて、今改めて考えても女々しくて仕方がない想いのためだけに。無かった事にしている奥深くの何かに直結する願望を、本人に察せられるぐらい必死に画策していたなどと、どんな顔で白状すればいいのか。
内心今すぐ穴に埋まりたい気分になっているクロウの目の前に、とことこと小さなリィンが戻ってきた。ぺろりと口の周りを舐めている様子からして勝手にリィンのミルクコーヒーを無事頂いてきたらしい。顔が引きつらないように頑張っているクロウの姿を見上げてから、にぱっと笑った。

「くろうー！」

指を差しきゃあきゃあと笑うその顔が、何だか「ざまあみろ」と言われているような気分になり、クロウはリィンに怪しまれない程度の動きで小さなリィンをデコピンした。もちろんこれだけ体が小さい相手なので最小限の力で、だ。それでも小さなリィンにとって十分すぎる威力を受けて、こてんと黒髪頭が膝の上に仰向けで倒れる。きょとんと見上げてくるその瞳に、ほんの少しだけ溜飲が下がった。

「むー！くろう！くろうー！」

すぐさま立ち上がり、抗議の声を上げて腕を振り回す小さなおでこに人差し指を当てて、立ち向かってくる体を押しとどめる。こみ上げて来る笑いを抑えてクロウは、小さなリィンで遊びながら、言葉はリィンへと向けた。

「だーから気のせいだろ、そりゃまあ、いつまでたっても敬語よりは親しみ持てて俺としてもありがたいこったけどよ」
「……うん」

半分以上飲んで、湯気も消えてしまったマグカップの中身を見つめながら。

「俺もだ」

瞳を細めるリィンの表情はミルクたっぷりのコーヒーよりもはるかに、はるかに。

「前よりずっと、クロウに近づいた感じがして、嬉しいんだ」

だから感謝を伝えたくなった、と。浮かべる笑顔に何かが重なる。気付けば人差し指に押し付けてくる微力は消えていて、代わりにきゅっと、短い腕で指先を抱きしめてくる温度が。


「クロウ」


にっこりと、いつものように、クロウの全てを受け入れる小さな笑顔が紡いだその名前が、一瞬リィンのものかと錯覚しかけた理由とは。
近づいている。クロウは直感した。リィンと、クロウが。リィンと、小さなリィンが。それぞれ、近づいている。物理的な距離が。面影が。心が。
同じベッドに腰掛けた距離。初めて物陰から姿を見たあの日から。初めて声を掛けたあの日から。縮まり歩み寄り互いの体温を感じる事が出来るほどの場所に収まった現在。
突然現れ、産まれ、まるで見守るように傍から離れなかった輝く笑顔。他人から一歩距離を取り、遠慮がちだった微笑みがその光へと徐々に近づき、同じ輝きを放つ寸前の、今。
クロウは直感した。

終わりは、目前にまで迫っている。









七耀暦1204年10月24日。
夜。



「俺はクロウの事も大切な友人と思ってる」
「先輩として以上にな」
「まあ、クロウだと“大事な悪友”って言うほうがしっくりくるけどな」


「改めて……卒業までよろしくな」



儚い光が瞬く星空の下。大きな炎が全てを照らすグラウンドの隅っこ。キャンプファイヤーを囲んで楽しそうに踊る歓声も、周りにたむろして談笑する生徒たちのざわめきも、全ての音がここまで届かない、二人きりの空間。
肩の上にはかすかな重み。頬に手を当てバランスを取り、ぶらぶらと腰掛ける小さな足。表情は見えない。クロウは反対側の、もう一人を見つめていたから。炎の明かりに照らされる、赤みが増えた燃えるような薄紫を見つめていたから。
それに、見なくても分かる。生まれてからずっとクロウから離れなかった小さな生き物が浮かべているであろう表情。半年もの間、ずっと見てきた。目の当たりにしてきた。網膜に、こびりつくほどに。
そして何より。
クロウが目を離せない、その顔が。
その笑顔が。


「クロウ」


限りない愛しさを込めた声。触れる事さえ躊躇われるような柔らかい、溶けてしまいそうに甘い甘い極上の笑顔。誰の侵入も拒んできた内側の奥の方から向けられる、クロウの全てを受け入れる親愛の眼差し。
今、クロウの目の前で、小さなリィンとリィン・シュバルツァーが、その笑顔が、完全に重なる。

心を占めるこの激情は、闇しか見えない絶望か、気が狂うほどの歓喜か。

（ああそうか）

リィンの笑顔を見て、たった一つだけ、クロウは理解した。


（俺はずっと、「これ」が欲しかったのか）









七耀暦1204年10月25日。
いつものように目覚めた朝。そこに小さなリィンの存在は無かった。
毎日枕元に潜り込んでくるので、寝ている間に踏みつぶさないように作った小さな寝床にも。部屋の中で起きている間はほぼずっとそこにいた机の上にも。腹の上にも肩の上にも頭の上にも。もうどこにも、いなかった。
クロウはベッドの上に身を起こした体勢のまま、静かに胸の上に手を当てる。目に見えない心というものが、感情というものが、本当にこの皮膚の下に存在するのだとしたら。
小さなリィンはここにいる。多分、最初からずっと。
クロウはあの小さな生き物の名前を、ようやく知った。自覚した。
いいや、名前を付けた。


「リィン」


昨日見た笑顔が鮮やかに蘇る。リィンは、リィン・シュバルツァーの名前だ。リィンの姿をした小さなリィンは、リィンであってリィンではなかった。
だって、あれはリィンではなかった。
リィンと出会ったその時に、クロウから産まれた生き物だった。

そう、あの生き物は。

手の平サイズの、あの笑顔は。


あれは。