あれはきっと「  」だった



七耀暦1204年4月1日。
朝、第二学生寮の自室でいつもと同じように目を覚ましたクロウ・アームブラストは、ベッドに仰向けで沈む己の胸元に卵らしき物体が一つ転がっているのを発見した。

「……何だこりゃ」

起き上がり、手に取ったそれを寝起きの瞼を擦ってからしげしげと眺めてみる。ちょうど手の平にちょんと乗っかる、普段よく見る食用のものより一回り大きいそれは、どこからどう見ても卵だ。カーテンの隙間から漏れる朝の光を浴びて純白に光り輝く卵はわりと重い。中に何かが詰まっているのは確かなようだ。ほのかに温かい気もする。決して落とさないように軽く握って、恐る恐る上下に振ってみても何も音は聞こえなかった。
少し考えたクロウは、静かに耳を寄せた。見つけた時から僅かな震えさえ見せない静かな卵は、しかしぴたりと耳をつけて息を殺していれば何かを感じ取れるような気がした。空気を介さずに皮膚から直接聞かなければ感じ取れないほどの、微かな、鼓動を。

「生きて、んのか?」

思わず零れ落ちた疑問は、一人しか存在しない部屋の中に響いて消えた。答えが返ってくる訳はない。問いかける形になった卵からも、もちろん。しかしこの中には確かに何かが詰まっているのだ。生きた、何かが。
手の中の卵を呆然と見下ろしたあと、クロウは自然と窓に目を向けていた。朝日が零れ落ちるカーテンの様子は、昨晩眠る前と特に変わりは無いように見える。カーテンをめくって向こう側を覗いてみるが、しっかりと掛かったままの鍵があるだけだ。じっくりと観察してみても一度開けられて再び閉められたような形跡はどこにもない。記憶力には自信があるので確かだろう。
そもそも昨晩この部屋に何者かが侵入した可能性はほぼゼロと言ってもいい。クロウは確信している。眠ったクロウを起こす事無く部屋の中へ入り、胸の上にこの卵を置いていくなんて芸当が出来る者など滅多にいるはずがない。そう言いきれるほど、クロウは眠る間も神経を張り巡らせ何かあればすぐに飛び起きられるようにしているのだ。一人で生きる事を選んだあの日からの習性だった。もし侵入した者が特殊な力を持つ知り合いの『魔女』でも、彼女の背後にある組織の異常者でも、まったく気付かない事は有り得ない、はずだ。伊達に修羅場を潜ってきた訳ではない。
それなのに。

「一体何なんだ、こいつは……」

クロウの手の平の上に見知らぬ卵は存在し続けている。まさか目に見えない鳥が壁をすり抜けて己の胸の上にこれを産み落とした、なんて事がある訳がない。一瞬脳裏に『魔女』が連れる青色の使い魔の姿が思い浮かんだが、例えそうだったとしてもクロウはやっぱり気配に気づいたはずだ。そもそも卵を産んでいく意味も分からないし、卵を産めるのかさえ知らない。可能性は低いだろう。
では一体、この卵はどこから現れたのか。何もない空中から突如生み出されたというのだろうか。それとも。

「……いやいや、まさかな」

頭の中に浮かんだ一つの可能性を、クロウはすぐさま首を横に振って打ち消した。ここはクロウの部屋で、クロウ以外の人間は存在しない。とすればこの卵の原因はおのずと一人に絞られてしまう。人にもらったとか、道端で拾ったとか、心当たりなどまったくないのに、だ。思わず口元も引きつるというものだ。まさかとは思うが、無意識に己がこれを……いいや、詳しく考えたくはない。
そうしてベッドの上で胡坐をかき、卵を呆然と眺めている間に随分と時間が過ぎてしまった。廊下から聞こえる他生徒のざわめきが耳に届いて、ようやくクロウは我に返る。とりあえず着替えなければ、とぼんやり考えていた所に、大きなノックの音が静まり返った部屋の中へ急に飛び込んできた。

「クロウ!起きているかー?今日は朝から実技入ってたろ、お前が遅刻したら連帯責任で俺らまで罰受ける事になるんだから、遅れるなよ!」
「っ?!お、おう!」

ドアの向こうから聞こえてきたのは同じクラスの生徒の声。不覚にも驚いてしまったクロウは、広げていた手の平をぎゅっと握りしめてしまった。握りしめてから、そこに何を乗せていたのか思い出す。やばい、と考えたのは一瞬の事。とっさに入れてしまった力は決して弱くは無く、もしここにある卵が普通の卵だったならば今頃クロウの手はべたべたに汚れていただろう。恐る恐る、一本ずつゆっくりと手を広げたクロウは思わず目を見開いていた。感触で分かってはいたが目で確かめてもやはり信じられない。クロウに握りしめられた卵は形を変えずヒビも入れる事無く、元の硬質な姿を保ったままであった。

「なんつー丈夫な卵だよ……」

ますます普通でないこの物体に、しかし不思議と不信感や嫌悪感みたいなものは沸かず。ベッドから降りて少しだけ考えたクロウは、制服に着替えた後結局はその卵をポケットに入れ、持ち運ぶ事にしたのだった。
これだけ丈夫ならポケットの中に入れていても割れる事は無いだろう。それに何故だか、この得体の知れない謎の卵を、離し難いと思ってしまったのだ。
部屋から一歩外に出ると、気を取り直すようにぐんと大きく伸びをする。昨日は入学式やその他諸々の準備のせいでとても疲れた一日だった。真新しい赤の制服に身を包んだ後輩たちの姿を思い出しながら、ぼちぼちと遅刻しないために歩き出す。ポケットに入れた片手の指で、滑らかな丸い表面を何とも無しに撫でながら。

そうしてしばらくクロウのポケットの中に入ったまま、卵は何の変化も見せなかった。
劇的な変化を遂げたのは、二週間と数日経った後の事である。



七耀暦1204年4月18日。
この日は自由行動日で、比較的朝の時間に余裕がある。ここぞとばかりに寝坊をするつもりだったクロウはその日、何かに導かれるように自然と目を覚ましていた。普段より暗めの部屋で視線だけを動かし時計を見れば、おそらく朝日が昇り始めた時間帯。部屋の中にはクロウ以外の気配は無く、学生寮内も一部の早起きの生徒がそろそろ起き出そうとしているだけの非常に静かな空間だった。
……いや。
何か物音が聞こえたような気がして、クロウは天井を見上げていた視線を横にずらした。何もないはずの枕元に、少し前から毎晩そっと置かれているのは例の卵だ。日中は肌身離さず持ち歩き、寝る時も何となくこうして傍に置いておいた不思議な卵が。クロウの視線の先で。
コトコトと、動いていた。

「……はっ?!」

眠気など一瞬で吹き飛ばし、勢いよく起き上がったクロウは卵へと顔を近づけた。確かに動いている。中にいる何かがコツンコツンと内側から殻の壁を叩くたびに、卵全体が揺れている。今までこんな反応を示した事など無かった。突然の変化に頭が追いついていかず、呆然と見守るしかないクロウの目の前で。ゆらゆら揺れていた卵の表面にとうとう、パキリと、小さなヒビが入った。

「おいおい、嘘だろ……」

確かに卵は生きていた。ぬくもりも、鼓動も感じた。しかしこうして実際に孵化する日が来ることを考えていなかった。心の準備を何もしていなかったクロウは無駄に慌てる。今更慌てた所で何もできる訳がない。所在無さげに両手をうろつかせている間に、天辺に出来たヒビはあっという間に卵の表面を上から下まで大きくなぞっていた。覚悟する暇も無かった。
全ての命が眠りから引き上げられる間際の静寂の時間、目覚めを促すような朝の光が一際強く差し込んできた、その時。今までで一番大きなひび割れる音が、いや、完全に何かが割れる音が部屋の中に響いた。目を見開き、口を開け、この上なく間の抜けた面をしてしまったクロウの眼下。パカリと割れた卵の中から現れた姿は、見守るしかなかった短い時間にいくつも立てていた予想を悉く裏切った、想像のはるか上を行く小さきものであった。
卵の殻を帽子のように乗っける頭はつんつん癖毛の濡れ羽色。頬か何かについた欠片をふるふる振って散らす顔も、割れた卵の縁を握りしめる両手も、見下ろす事でちらりと見える身に覚えのありすぎる赤い制服も、手の平サイズの卵の中に上手に収まる規格外の小ささ。そして、瞑っていた瞼を開いたそこには、瞬きするだけで零れ落ちてしまうのではないかと思わず心配してしまう、大きなまあるい蒼交じりの薄紫。
知っている。この色を、この姿を、クロウは知っていた。しかしその大きさだけが知らなかった。以前から知っていたこの色が、このサイズで己の目の前に現れる訳が、そもそもこんなちっぽけな卵から産まれ出てくる訳がないという思いが、クロウの喉を容赦なく塞いで呻き声さえ発する事が出来ない。中途半端に宙に広げた腕の下で、小さな生き物は一度ごしごしと眠そうに目をこすってから、己に影を落とす頭上を振り仰ぐ。凝視したまま動けなかった赤紫の瞳と、無垢に見上げる青紫の瞳が、正面から合わさった。
その瞬間向けられたこの表情を、何と表現すれば良いのだろう。19年生きてきたクロウの人生の中で、このような笑顔を見たことは一度も無かった。そう、笑顔だ。大きな瞳をほんの少し細めて、ふくふくした頬を持ち上げ、可愛らしい口をこの上なく嬉しそうに広げ、もみじよりもはるかに小さな両の手の平を惜しげもなくこちらへ向け、卵に包まれたままの全身をいっぱいに使って何かを求めるこの姿を。触れる事さえ躊躇われるような柔らかい、溶けてしまいそうに甘い甘い極上の笑顔を。その全てを目の前の、クロウへ向けて。
小さな小さなリィン・シュバルツァーは、満面の笑みで産声を上げた。


「くろう!」


――それはまるで、新たな世界の始まりを知らせる鐘の音のようだった。少なくともクロウの頭の中には、記憶よりも高めのその声が呼んだ自分の名前が、いつまでもこだまして鳴り響いていた。今目の前で繰り広げられる全てが、有り得ない事であるというのに。
ある日突然どこからともなく出現した見知らぬ卵から、産まれ出たのは鳥の雛でも未確認生物でもなく手の平サイズの人間で、さらにその姿は数日前初めて出会った一学年下の後輩君である。しかも名前を呼び捨てはおろか、確かクロウはまだ相手に名乗りさえしていないはずだ。こちらは色々あって名前や、ある程度の素性なんかは把握していたりするのだが。それなのにこの、突然現れた小さな後輩リィンは一番最初にクロウの名を呼んだ。明確な親しさと愛しさを乗せて。何もかもが有り得ない事過ぎた。
そこでクロウはハッと閃いた。卵からミニマムな人間が産まれたという非現実的な事実はとりあえず横に置いておいて、このリィンそっくりな小さな生き物は実はリィンにそっくりなだけの他人の空似なのではないだろうか、と。そうであれば少なくとも、顔見知りが卵の中から出てきたという不可解な謎は消え去る事となる。謎だらけの、むしろ謎しかない現状をどうにかするために、一つでも疑問を取り除いておきたい一心であった。
そんな必死な思いのまま、試しにクロウは小さなリィンそっくりの生き物に声を掛けてみる事にした。緊張で乾いていた唇を舐めて、聞き逃されないよう慎重にかつしっかりと、僅かに顔を近づけて呼んでみる。

「……リィン?」

思えばその名を己の声に乗せるのは、クロウにとっても初めての事であった。呼び慣れない、それでも涼やかな響きのその名前を、ぱちぱちと瞬きしてこちらを見上げる小さな生き物へ届ける。そのまま何も反応をする事無く見つめていてくれとクロウは心の中で願った。何を言われているのか分からないという態度を貫き通してくれれば、少なくともこの生き物が「リィン」ではないと思い込める。知っている人間が産まれたなんて事実は無かった事に出来る。そんな、切実な思いを込めたクロウの声に導かれた答えは。
まだ顔と手以外を卵の中に潜ませたまま、喜びにぱっと両腕を上げた笑顔であった。

「くろう!」

喜色満面な笑みとはこの事か。クロウに呼びかけられたことが嬉しくてたまらないといった様子で、ぱたぱたと両手を振ってみせた小さな体は、そのままこてんと、不安定な卵ごとうつ伏せに転がってしまった。ひゃーという小さな悲鳴が聞こえた気がする。前に倒れた卵はしばらくもごもごと、起き上がることなく蠢いていた。足がまだ外に出ていないせいで自力では立てないのかもしれない。
クロウは一部始終を絶望と共に見つめていた。このリィンそっくりな小さな生き物は、明らかにクロウが呼んだ「リィン」という名前に反応した。名前を呼んでもらえて嬉しいと全身で語っていた。今の劇的な反応を見てみぬふりなど出来ない。ああ確かにこいつは、リィン・シュバルツァーなのだろう。元のサイズより随分と小さくなって、しかも謎の卵から産まれ出てきたばかりだが。
認めざるを得ない認めたくない現実に呆然としている間に、事態は進展、しなかった。クロウが心理的な理由で動けない間、卵は物理的な理由で動けなかったためだ。体が小さい分バランスを取るのが苦手なのか、小さなリィンは卵の中からなかなか這い出てくることが出来ないでいた。未だに卵の殻を頭に乗せたまま、懸命に手をばたつかせて倒れた卵から抜け出そうとしている。が、出来ない。
いつまでも一人でぴーぴーもがいている姿にいくらなんでも可哀想に思えてきたクロウは、とりあえずこの生き物を救出してやる事にした。衝撃に空っぽになってしまった頭を働かせようにも、目の前でじたばたされては気が散って仕方がない。右手を卵へ、左手を小さなリィンへ伸ばし、出来る限りの繊細な動きで指を、小さな後頭部の後ろへ運ぶ。そのまま襟首を掴、もうとして首が締まるかと思い直し、腋の下を指先で摘まんで持ち上げれば、ずるりと。割とあっけなく赤色の制服が卵の中から姿を現した。どこからどう見ても今年から発足した特科クラスZ組の制服、の限りなくミニチュア版で間違いなかった。

「おら、これでいいだろ」

急に半身が自由になってきょとんと瞬く小さなリィンを静かに手の平の上に降ろし、ついでに何故落ちないのか頭に乗ったままだった卵の殻もひょいと取り除いてやる。頭が軽くなった、と言わんばかりに首を振ってみせた小さなリィンは、全て目の前の大きなクロウがやってくれた事だとすぐに気付いたらしい。ぺたんと尻餅をついていた状態からすぐさま立ち上がり、まだ近くを彷徨う殻を取り除いたクロウの人差し指へと駆け寄った。いきなり動き出した小さなリィンにぎくりと動きを止めている間に、近づいてきた小さな両手が、ぎゅっと。躊躇うことなく抱き締めてくる。

「くろうー」

感謝を伝えるようにすり、と寄せられた頬は、思っていたよりも柔らかくて。本日目を覚ましてから固まりっぱなしだったクロウの心が、信じられない光景の中で僅かに解れた。指から伝わる確かな生き物のぬくもりが、現実を拒否する胸の内に優しく流れ込んでくるかのようだ。呆然と引きつっていた顔の筋肉が、自然と元に戻るのが鏡を見なくても分かる。ちらと指にしがみついたまま見上げてきた小さなリィンもその様子を見て、ますます嬉しそうに腕の力を強めてくる。こんなに小さな体が力一杯抱き締めてきてもくすぐったいだけだ。いじらしい感触に思わず口元が緩む。
クロウはその瞬間だけ、今現在の困り果てた状況を全て忘れていた。


「おい、クロウ!いるんだろ?お前この間貸した本いい加減返せよな、又貸ししたのがばれたら俺がフリーデルにどやされ……」
「っ?!?!?!」
「あん?どうした?」

ガチャリと、唐突に開いたドアと勇ましい声によって意識は一気に現実へと引き戻されていた。思わず開いていた手の平を握りしめて、あれこれ数日前にも同じような展開があった気がすると頭の片隅で考える。この間と違うのは声だけでなく直接部屋の中まで乗り込まれた事と、とっさに力を入れすぎなかった事を褒めてやりたい己の腕と、物言わぬ卵ではなくぴゃっと悲鳴のような声を上げた小さなぬくもりが存在する事であった。
クロウがベッドの上から部屋の入口へと目を向ければ、緑の制服に身を包んだ同級生が過剰な反応を示したこちらを怪訝そうに見つめていた。思わず批難の声を上げる。

「ロギンス!てめえノックも無しに部屋あけんじゃねえよ!」
「んだと!俺は何回もノックしただろ!声までかけたのに居留守使ったのはそっちじゃねえか!」

ドアノブを握ったまま顔だけ部屋の中へ入れたロギンスの眉が吊り上る。確かに、この同級生は少々荒っぽい所はあるが常識的な礼儀はきちんと弁えている男であるとクロウも知っている。ではロギンスの言う通り本当に気付かなかったのだろうか。何度かされたであろうノックにも呼びかける声にも気付かぬまま、目の前の出来事に翻弄されていたのだろうか。いや、そうなってもおかしくない不可思議な生物が今目の前にいるのだが。
今、目の前に。そこまで考えたクロウはざっと血の気が引く思いがした。表情には極力出さなかったが、少しくらい顔が引きつったかもしれない。そもそも表情を取り繕ってどうにかなる事態でもないのではないか。だって、見られたのだから。この手に握りしめる、じたばたともがく小さな生き物を。ロギンスの視線は、ひたすらクロウの方へ注がれている。逃れられない。

「クロウ、それ……」
「あ、あー……その、これは、だな……」

必死に頭を働かせるが、良い言い訳など浮かんでこない。クロウとて状況や原因は一切分からぬ言わば被害者だ。それなのに何とか誤魔化せないかと考えるのは何故だろう。むしろこいつは一体何なんだと所構わず誰かに尋ね回りたいぐらいだというのに。
ベッドの上で小さなリィンを緩く握りしめながら固まるクロウの姿を、ロギンスはしばらくじっくりと眺めていた。そうして口を開き、次に飛び出してきた恐るべき言葉は。

「何だ、その変な恰好。一人で朝の体操か何かか?」
「………。へ?」

それだけだった。ロギンスの表情は変わらない。驚く事も何もないまま、拳を握ったまま固まって動かないクロウの様子だけがひたすら奇妙だと言わんばかりのどこか呆れた視線で見つめてくるだけだ。別に見てはいけないものを見てしまったので見て見ぬふりをしている、という様子でもない。視線はクロウ全体を見ているが、その手元に注目している訳でもなかった。こんな見た事も無い珍しすぎる小さな人間を、初見で見逃せるはずはない。では、何故?

「ロギンス、クロウ、いくら自由行動日だからって朝からうるさいぞ」
「ああ悪いハイベル、クロウの奴が居留守使いやがるからよ。まさか又貸しをさらに又貸ししてんじゃねえだろうな」

ロギンスの背後の廊下を、たまたま通りかかったらしいハイベルもひょいと覗き込んでくる。眼鏡をしっかりと掛けた瞳がクロウを見るが、やはりその表情が驚愕に染まる事は視線が逸らされる最後まで無かった。

「はは、相変わらずだなあ。借りたものはちゃんと返すんだよ、クロウ」
「お、おう……」
「で!実際どうなんだよクロウ!本当に誰かに貸しちまってんなら今すぐ取り返しにいかせるからな!」

にこやかに去っていくハイベルも、仁王立ちで凄むロギンスも、クロウの手の中でわーわーもがく生き物については何も触れない。さっきからくろうくろうとひたすら名前を呼びながらぺちぺちと己の胴を握りしめるクロウの手を叩いているのに。いくら小さくても、ここまで暴れる姿に気付かない、訳が。
クロウは小さなリィンを持ったままゆらりとベッドから立ち上がった。部屋の隅に積んであった本の中から目的のものを取り出し、ロギンスの目の前まで歩いて手渡してやる。クロウと、件の本と、大きな薄紫の瞳で見上げる小さなリィンを目の前にしたロギンスは。純粋に貸した本が戻ってきた事に喜んでいた。それだけだった。

「何だ、あったんじゃねーかよ!ったく、返せるならさっさと返せよな」
「……悪い悪い。これ、なかなか面白かったぜ。また頼むわ」
「へっ、今度は早めに返しやがれよ」

じゃあな、と受け取った本をひらりと振ってみせてから、何事もなくロギンスは去って行った。穏便に閉められたドアの前に、クロウはしばらくそのまま立ち尽くす。宙に固定された視線をゆるゆると動かしたのは、手元を相変わらずぺちぺち叩く信じられないほど小さな手の平だった。

「くーろーうー!」

不服そうに頬を膨らませたその顔は、まだ一度しか面と向かってまともに会話したことが無い後輩の面影とは随分と違っていて、クロウを大いに戸惑わせた。とりあえず握りしめられて身動き出来ない今の状況に不満があるようなので、机に歩み寄ってそこに降ろしてやる。晴れて自由になった小さなリィンは、礼を述べるようにこちらを見上げて笑顔を見せた。

「くろうー!」

まったく邪気の無い笑った顔は、見ているだけで毒気を抜かれる。はっ、と肩を落として吐き出した息は、自分で思っていたより柔らかかった。

「お前、それしか言えねえのかよ」
「くろう?」

ことりと首を傾げさせるその頭を、戯れにちょんと指先でつついてやる。わたわたとよろめいた小さなリィンは辛うじて転ばなかった。むっと見上げてくる瞳が面白い。物陰から初めてその姿を見た時と、一度だけ騙まし討ちしてみせた昨日だけでは到底見る事の出来ないコロコロ変わる表情。訳が分からない事だらけだが、こうして珍しい後輩君の姿を簡単に見る事が出来るのは悪くないと思った。
一つだけ確かに分かった事がある。それはこの、首が痛くなるほど見上げてクロウを見つめる小さなリィンが、クロウ以外の人間にはどうやら見えていないという現実だ。

「マジで何なんだろうなお前さんは。まさか幻、なーんて、そんな訳ないよな」

例え幻でもまったく構わないのだが、残念ながら質量のある幻なんて聞いた事が無い。指先でそっと撫ぜた黒髪は確かにここにあった。小さなリィンは触れてもらえたことが嬉しかったのか、にぱっと笑った。

「くろう!」
「何だよ」

それしか言葉を知らないように繰り返される己の名前に、初めて返事をしてやれば。両手を振り上げて喜ぶ無邪気な姿を眺めてクロウはそういえば、と気付いた。思い出すのは初めて見た木々の間から覗いた緊張に強張る顔と、昨日見たこちらの動きを注意深く観察してくる警戒心の塊のような姿。そうだ、あの後輩君の笑い顔を、実際にまだ見た事はなかったのだった。
目の前でにこにこと無防備に微笑む小さな笑顔。大きな方の同じような顔も見てみたいだなんて、何となく考えてしまう自分がクロウは不思議であった。

大きな戸惑いと、小さな安らぎと、自分でも気付かぬほどの僅かに芽生えた何か。
クロウが小さなリィンと過ごすささやかな毎日は、ここから始まった。





七耀暦1204年5月23日。
この日クロウは喫茶キルシェにて打ちひしがれていた。銀色頭が突っ伏すテーブルの上に広がるのはブレードのカードと、賭けに使われたお菓子が数種類。それにコーヒーが一杯と紅茶が一杯、そして小さなリィンが一人。めそめそと悲しむクロウの頭にふわりと触れた腕はとても小さく、撫でるように動かしても髪の毛が揺れてこそばゆいだけだ。小さいリィン自身もそれに気付いたようで、むむと唸ってからすぐに名案を閃いたらしく、がしっと両手でしがみついてきた。そのままわしわしとクロウの頭を全力で撫で撫でしてくれる。
……どうやら慰めてくれているらしい。

「お前は優しいなあ」
「え、何がですか」

思わず零れ落ちた呟きを拾ったのは、懸命に撫でてくれる小さなリィンではなかった。ゆっくりと頭を起こすとしがみついていた小さなリィンまで一緒に持ち上がり、頭の上でくろうーと慌てたような声が聞こえる。落ちる様子は無いので今の所それは無視して目の前を見つめれば、そこにはきょとりと瞬く薄紫色の瞳があった。毎日肩や手の平の上で見ているものよりも数倍大きい同じ色。突然独り言を呟き始めたいじける先輩を、紅茶片手に不思議そうに見つめている。
リィン・シュバルツァー。クロウよりも数リジュ小さいだけの彼こそが本物の後輩で、手の平サイズでもなく卵から産まれた訳でもなく普通のサイズでここに存在している。頬杖をついて数秒だけじっとリィンを見つめてから、クロウは戸惑い始めるその顔にようやく言葉を返してやった。

「いやあ、先輩だからって手加減する事無く完膚なきまでに叩きのめしてくれちゃって、ほーんとリィン後輩は贔屓しなくて優しいなーと思ってよ」
「……お互い手抜いたりするのはやめようぜって言い出したのは先輩ですし、俺の制止を振り切ってリベンジし続け悉く負け続けたのも先輩ですよね?」

溜息交じりのリィン相手に反論出来る要素など一切持ちえない。その通りであった。さっきまでここには町の子供カイとルーディもいて、4人でお菓子を賭けたブレード勝負を繰り広げていたのだった。二人は両手いっぱいのお菓子を持って満足げに帰り、この場に残ったお菓子も全てリィンの手元に置いてある。つまりはそういう事だ。

「ちくしょー、金欠な先輩からさらに巻き上げるなんてひどくね?」
「ああ、そういえば昨日も10ミラしか持っていませんでしたね……」
「やめろ、憐れんだ目で俺を見るな。同情するなら金をくれ」
「既に50ミラ巻き上げられてる先輩に貸すお金はありません。……代わりにはい、どうぞ」

ぴしゃりと恨みがましい視線を跳ね避けたリィンから、お菓子が半分ほど渡される。言っている事とやっている事が噛み合っていない。視線で問えば、「一人じゃ食べきれませんから」という返事。お金はさすがに渡せないけどお菓子なら、という事らしい。優しいというより甘いなあと思いながら、クロウは自然なさりげない仕草で頭の上から小さなリィンを摘まみ降ろした。途中から静かだと思ったらクロウの存外柔らかな髪の中に埋もれてうとうとしていたようで、急に降ろされた事にびっくりしてきょろきょろとあたりを見回している。その目の前に今しがたもらったばかりのお菓子の中からチョコレートを一つ、包みを剥がして置いてやった。

「くろうっ?!」

チョコレートを前に期待をいっぱいに含んだ輝く瞳で見上げてくる小さなリィンに、軽く頷いてやる。わあっと大喜びした小さな体は、チョコレートを両手に持って齧り付いた。クロウにとっては一口で終わるチョコレートも、小さなリィンにとってはボールよりももっと大きい物体となる。もぐもぐと美味しそうに微笑む小さなリィンの姿を、クロウは横目で眺めながらコーヒーに口をつけた。向かいのリィンはそんなクロウに何の反応を示すことなく紅茶をソーサーの上に戻している。リィンにとっては何も聞こえないし、何も見えない出来事だったのだから仕方ない。
小さなリィンが卵から孵って一ヶ月、共に暮らす中で気が付いた事が複数あった。小さなリィンはどうやら本当に「くろう」としか喋れない事。食い物を与えれば喜んで食べる事。人間と同じように夜は眠る事。部屋に置いていっても、いつの間にか肩に座って足をぶらぶらさせている事。クロウ以外の人間には、リィンにさえこの姿が見えない事。
そのおかげでこうして人目を憚らず連れ歩く事が出来ている。というか連れ歩かざるを得ない。小さなリィンは何をどうやったってクロウの傍から離れなかった。一番最初に部屋へ置き去りにした日、自室のドアを閉めて歩き出した途端耳元で聞こえた「くろう」という声に廊下で一人飛び上がってしまったのは、思い出したくない恥ずかしい記憶だ。ちょうど目撃してしまった同じ寮の生徒たちを必死に誤魔化さなければならなかった分も含めて。その間も小さなリィンは人の肩の上で機嫌よさそうにくろうくろうと笑っているので、色々と参ったものだ。
最近はさすがにもう、色々な事に慣れてきている。誰かの前でもこうやって、誰にも見えない小さな姿をさりげなく構う術を身に着けていた。誰の視界にも実在する食べ物を、他人の世界には実在しないらしい小さなリィンが食べている姿は一体どう映っているのだろうと気になる事もあるが、今の所食べ物だけが宙に浮いていると指摘されたことは無い。

「お前、チョコレート好き?」
「え。はあ、嫌いではないですけど」

口の周りについたチョコレートをぺろりと舐め、その味にさえ幸せそうにふわふわ笑う微笑ましい姿を眺めながら、クロウは気付けば何ともなしに向かいの後輩へ尋ねかけていた。リィンにとっては脈絡無いだろう質問に、曖昧な答えが返される。もしもリィンと小さなリィンに何らかの関係があるのなら、リィンもこんな風に美味しそうにチョコレートを食べるのだろうかと思ったのだ。基本的に小さなリィンは何も食べなくても特に文句をいう事は無いのだが、与えられたものは何でも美味しそうに食べる。好き嫌いがあるタイプには確かに見えなかった。その代わりに、どんな食べ物が一番好きなのかは分からない。小さなリィンはくろうとしか喋らないし、目の前の大きなリィンとはまだそこまで語り合っていない。何せリィンにやっと自分の名前を名乗ったのは、つい昨日の事だ。

「嫌いじゃねえなら、いいか」
「藪から棒に何ですか」
「答えはほれ、ちょうど来たぜ」

クロウが頬杖をやめて姿勢を正すのと、リィンが首を傾げたのと、テーブルの上に一人分のチョコレートケーキが届いたのは、ちょうど同じタイミングであった。

「はいチョコレートケーキです。ごゆっくりー」
「おうサンクス」
「えっ?」

ケーキが置かれたのはリィンの目の前。すぐに立ち去ったウエイトレスのドリーの背中をぽかんと見送ったリィンは、困ったようにクロウを見る。

「あの、俺ケーキなんて頼んでないんですけど」
「お前はな。俺が頼んだの、お前に」
「な、何故?!」

クロウとケーキを慌てふためきながら見比べるリィンの姿は大変面白かった。くくっと喉を震わせてから、手元にあった飴の包みを見せびらかすように解いてみせる。

「さっき、賭けブレード勝負したろ?敗者は大人しく勝者にケーキを奢って、お情けに頂いたお菓子で我慢するって事よ」
「ええっ!そんな、ケーキなんて賭けた覚えはありませんよ!」
「いいからいいから。このオレ様が奢るなんてめったに無い事なんだぜ?ありがたーく食えよ、後輩君」

口の中に放り込んだ真っ黄色の飴玉は、すっきり爽やかレモン味だった。うめえーと声を上げて、これ以上の断りの言葉は聞きませんよとそっぽを向く。ついでに小さなリィンを見ればチョコレートを半分食べ終わっていて、クロウの視線に気付いて見上げてきた顔がぱっと嬉しそうに笑う。こいつみたいに素直に受け取りゃいいのにと、指の腹でこっそりチョコレートに夢中な頭を撫でつつ横目でリィンを眺めてみれば。困り果てたようにじっとケーキを見つめながらも、口元には緩く笑みを浮かべていて。
おっ、と。声を上げかけたのを寸前で飲み込んだ。

「……奢るぐらいなら、50ミラ返して下さいよ」
「あー悪いな、ツケでの奢りなんで今は現金が無いんだわ」
「そんなお店側の負担になるような奢り方しないでくださいよ?!」
「そだなー、次回から気を付けるか」

あくまで飄々と受け答えするクロウに、とうとうリィンも諦めたようだ。フォークを取る前に、両手を揃えて頂きますと呟いている。あれは確か東方の作法だったはずだ。なるほど八葉一刀流らしい、と、今日また一つクロウはリィンの事を知った。
右手に持ったフォークを使って形を崩さずにケーキを切り分ける姿は、さすが貴族なだけあってお上品だ。トロリとした、いかにも甘そうな茶色のクリームがリィンの口の中へと消える。緩く咀嚼した後、口の端をぺろりと舐めた仕草は小さなリィンそのままだ。ケーキを再び見下ろした瞳は先ほどよりもどことなく輝いて見えて、ああ美味かったんだろうなと容易に想像できた。何よりもその表情が物語っている。ほう、と淡い息をついた口元が、ケーキを食べる前より明確に笑みの形へとしなっていた。

「美味いか?」

尋ねれば、素直な頷きが返ってきた。

「はい、ここのケーキは初めて食べましたけど、美味しいですね。これなら定期的に食べに来たいぐらいです」
「そうかい、そりゃよかった」

奢った甲斐があったぜとおどければ、くすりと笑ったリィンがもう一口ケーキを食べる。浮かべた笑みは絶えない。もう一口、もう一口と次々にケーキは無くなっていく。その様子を口の中でガリガリと飴を噛み砕きながらクロウはただ見つめていた。食べている相手をただ見ているだけという普通に考えれば手持無沙汰な時間のはずだったが、その時のクロウの頭の中には暇だという言葉は欠片も浮かんでは来なかった。コーヒーのカップにさりげなく隠した手元で、相変わらず小さなリィンを撫で続けていた事もあったのかもしれない。しかしそれが無くとも自分の目は飽きる事などなかっただろうと、何故か確信めいた思いがあった。
ふいに、柔らかくて小さな頭に乗せてた指が宙に浮いた。ハッとして視線を下にずらせば、今までそこにあったはずの黒髪頭が見当たらない。いつの間にかチョコレートをぺろりと平らげていた小さなリィンはトテトテとテーブルの上を移動し、リィンの傍へと歩み寄っていた。同じ色の瞳にじっと見上げられても、気配には敏いはずの後輩は一切反応しない。小さなリィンはフォークで切り取られていくケーキとそれを食べるリィンを、興味深げに交互に眺めていた。
まさかケーキを狙っているんじゃないだろうなと一瞬ひやりとしたが、そうではないらしい。振り返ってきた小さなリィンは別に物欲しそうな顔をしている訳ではなかった。何故だかとても嬉しそうに、にこにこと笑っているだけだった。

「くろう!」

戻ってきた小さなリィンがテーブルに乗せていた腕に抱きついてくる。体に湧き上がってくる喜びをそのままぶつけるように勢いよく飛びついて来て、頬を摺り寄せた。小さなリィンは一体何をそんなに喜んでいるのだろう。リィンが美味しそうにケーキを食べる姿に感化されたのだろうか。それにしては、しきりにクロウを見上げてぎゅうぎゅう抱きついてくる。先ほどリィンの元へ近寄った時の様子は、嬉しそうな同じ顔に誘われたというより何かを確認するためのような仕草であった。

「クロウ先輩」

小さなリィンに気を取られていた耳に、馴染む声で馴染まない言葉が届く。少しだけ高めな同じ声で日頃から「くろう」と呼ばれているせいで、改まって先輩と呼ばれる事が少しむず痒かった。そんな気持ちをおくびにも出さずに視線をリィンへと向ける。

「ん?」
「先輩はレモン味が好きなんですか?」
「は?何で」

突拍子もない質問にクロウが瞬きしている間に、リィンは最後のケーキの欠片を口に入れる。じっくりと口内で味わって飲み下すその顔は最後まで微笑んでいて、奢ってやってよかったなあと改めて感じた。それは一種の自己満足のための行動だった。
小さなリィンが日頃から目の前であまりにも美味しそうにものを食べるから、笑顔を向けてくるから、本物でも似たような表情を見てみたいなと、何となく考えていたのだ。考えてはいたがなかなか機会が訪れることは無く、本日子供たちとのブレード勝負待ち合わせ中にリィンに声を掛けられ、ここにいてもいいかと尋ねられた時、最大のチャンスだと思ったのである。結果、クロウの企みは無事に達成された。小さなリィンほど満面の笑みでは無かったが、リィンも実に美味しそうにケーキを食べてくれた。念願のものを見る事が出来てクロウはとても満足していたのだった。
だからだろうか、きっと気が抜けていたのだ。リィンにケーキを奢ってその笑顔を見るという目的をもうすでに果たしてしまっていたから。完全に一方的なこの行為で、己に何かが跳ね返って来る事など予想もしていなかったのだ。
そんな、ある意味無防備なクロウの内側に、小首を傾げたリィンの言葉は容赦なく刺し込まれた。

「だってさっきから、嬉しそうに笑っているじゃないですか」

ほら、今も。そう言って微笑ましそうに細められる薄紫。注ぐ視線へと僅かに込められた感情は、一瞬だけ小さなリィンに重なる。クロウは理解した。小さなリィンが嬉しそうに抱きついて見上げてくる理由。目の前で笑うお人よしな後輩と同じだ。他人が幸せそうな姿を見て喜びを見出すという典型的なそれ。つまりはクロウが笑っているから、それが嬉しくてこんなにも。
ぱちんと、思わず音を立てて触れた己の頬は、紛れもなく笑った形で固定されていた。確かに笑っている。しかしクロウは産まれた瞬間から付き合ってきたはずの己の顔が今、どんな風に笑っているのか想像すら出来なかった。まったくの無意識にとある表情を浮かべてしまうなんて、常に意図して顔の筋肉を動かしてきたはずのクロウにとって、不覚以外の何ものでもない。
頬に手をやったまま黙りこくってしまったクロウを、リィンがフォークを置いて不思議そうに見つめてくる。小さなリィンもパチパチと瞬きをして首を傾げ、制服を器用によじ登って肩の上まで這い上がる。押さえたままの頬の反対側に、ぺたりと触れてきた小さすぎる手の平は、クロウの真似をしているようだった。そのささやかなぬくもりでハッと我に返った。

「……ああ、まあな。この控えめな甘さが癖になるっつーか」
「確かに美味しいですよね、レモン飴」

俺も寮に帰ったら舐めようかなと、自分の元に残っていた飴の包みを手に取るリィンへ笑顔を返す口の中は、レモン味など感じていない。ガリガリと噛み砕いた黄色の欠片はとっくの昔に溶けて消えて無くなっていた。リィンが嬉しそうと評した時には、すでに。

「クロウ先輩?」
「くろう?」

同じ声が、同じ瞳で、正面と横からクロウを呼ぶ。頬に置いていた手で口元を覆って、何でもねえよと答えるだけで精一杯だった。すぐさまカップを手に取り飲み込んだコーヒーの残りは何よりも苦くて、顔をしかめればくすくすと聞こえる笑い声。
きっとリィンは知らないだろう、クロウの顔が二つに分けられる事。舌を出して苦いと叫び、誤魔化すように笑った今の顔と、ケーキを食べる自分を見つめていた時の、味わうような甘い顔。その明確な笑顔の違いを。
大丈夫かと心配するように頬へ体を寄せる小さな頭に指で触れながら、クロウは心の中で舌打ちした。

ああ、情けない。
笑わせるつもりが、笑わせられていたなんて。
笑った顔を見るだけのつもりが、笑った顔を見られてしまったなんて。

クロウがリィンの笑顔を見た日。リィンがクロウの笑顔を見た日。
共に小さなリィンがクロウの元へとやってきてから、約一か月後の事であった。







15/04/21


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