ペチン、と肌を叩く音がしてアッシュは顔を上げた。真正面にはルークがいて、右手で左腕を押さえながら空中を睨みつけている。今の音は左腕を叩いた音だろう。


「どうした」
「ここに蚊が止まってたんだ!急いで叩いたけど蚊の奴、逃げやがってえ」


心底悔しそうにルークが蚊に刺されたと思わしき左腕を指差す。今はまだ何ともないように見えるが、次第に赤く膨らんでしまうのだろう。アッシュは少しだけ気の毒に思った。蚊に刺された後の痒さはとてもよく分かるし、ここはアッシュの部屋なのでルークが蚊に刺されたのにはアッシュにも少しぐらいは責任がある気がしたのだ。ちなみに今は漢字の書き取りの宿題を一緒にやっている所だった。


「あーっ何か刺されたって分かったら痒くなってきた」


むず痒そうに刺された腕へ片腕が伸びたので、とっさにアッシュはその腕を掴んでいた。途端にルークからの不満そうな視線が寄越される。


「何だよアッシュ、止めないでくれよ」
「今掻こうとしただろう。掻くと余計に痒くなるだけだから、駄目だ」
「だって痒いんだもん」


ぶすっとむくれてみせるその頬を突いてみたくなる衝動を必死に抑えながら、アッシュは駄目だと言い聞かせる。掻き回したい気持ちは分かるが、掻き過ぎれば血だって出てしまうのだ。手加減をしなさそうなルークでは余計に駄目だ。


「掻く代わりに叩いておけ。まだましなはずだ」
「ちぇっ、分かったよ」


パシパシと自分の腕を叩くルークを眺めてから、おもむろにアッシュが立ち上がった。そのまま部屋を出て行こうとするのでルークは首をかしげる。


「アッシュ、どこ行くんだ?」
「あるものを取ってくる。ちょっと待ってろ」


そう言って部屋を出たアッシュは、言葉通りすぐに戻ってきた。その手には、ぐるぐる渦巻状の緑色のものが握られている。それはルークも知っているものだった。


「あ!蚊取り線香!」
「まだ仕留め損ねた蚊がいるはずだからな」


二人で囲んでいたテーブルの隣に、蚊取り線香を置く。そして一緒に持ってきたマッチでアッシュは上手に火をつけてみせた。火がつけられた端っこから薄く細い煙が立ち上るのを、ルークがジッと見守る。


「これで、蚊も怖くなくなるな」
「ああ。でも、良かったか?」
「何が?」


少し控えめに尋ねてくるアッシュに、ルークは首をかしげる。蚊に刺されたルークのためを思って蚊取り線香をわざわざ持って来て貰ったのに、何を尋ねる必要があるのだろうか。


「蚊取り線香の煙や匂いが駄目な奴も、いるからな」


アッシュも渦を巻く蚊取り線香を見つめる。確かに、独特な匂いはするし否応無しに煙だって出る。しかしそれは蚊取り線香だから仕方のない事だ。ルークはふるふると首を横に振ってみせた。


「俺、大丈夫。むしろ蚊取り線香好きなんだ」
「そうなのか?」
「何かぐるぐるなってる所が、好き!」
「何だそれは」


ルークの言葉にアッシュがくすりと笑ってみせる。笑うアッシュを見ることが出来てニヤニヤしているルークは、例え少し蚊取り線香が苦手だったとしても、言わなかっただろうなと思った。蚊取り線香を用意してくれたアッシュの好意を無駄にしたくなかったのだ。


「さあ、さっさと今日の分を終わらせるぞ。じゃないと遊びに行けないからな」
「おう!よーし、アッシュと遊ぶために、早く終わらせるぞー!」


蚊取り線香の煙に守られながら、二人は再び宿題に取り掛かった。これで蚊に気を取られる事も無く、早く宿題を終わらせる事が出来るだろう。そうしてまた、二人で遊びに出かける事が出来るのだ。えんぴつを動かす手は、輝かしい午後のために黙々と進むのだった。




   蚊取り線香

08/07/22