自由研究に昆虫採集をしているとどこからか聞きつけたらしく、ある日ガイがアッシュに変なものを手渡してきた。


「どうだ、これ!俺の知り合いが譲ってくれたものなんだが、これがあれば昆虫を簡単に標本にする事が出来る優れものなんだぞ。お前たちがやっている自由研究に役に立つはずだろう?」


そう得意げに胸を張ってみせるガイから、手渡されたものへ視線を移す。『専門的な知識は一切不要!面倒くさい作業をしなくても、これさえあれば簡単に昆虫標本を作れちゃう!夏休みの自由研究にもってこい!』とか何とか謳い文句が書かれてある箱は、どうやら昆虫標本キットなるものらしい。確かに、便利そうだ。


「貰っても、いいのか?」
「言ったろう、俺も貰ったものなんだ。どうせ使わないんだから、お前たちで使ってやってくれよ」
「ああ……それじゃあ、有難く使わせてもらう」


全然子どもとは思えないお礼の言葉を言いながら軽く頭を下げたアッシュの表情は、何故かあまり嬉しくなさそうだった。おや、とガイは首をかしげる。あまり感情を表に出さないこの小さな幼馴染だが、付き合いが長い分その微妙な表情でガイは彼が何を考えているのか、多少は分かる事が出来るのだ。


「どうした?もしかして、昆虫採集やめちゃったのか?それとも、同じようなキットをもう持っているとか?」
「いや、これは初めて見た。それに、昆虫採集は今の所はまだやっている」
「……今の所は?」


アッシュの口ぶりからすると、どうやら「昆虫採集」に何かあるらしい。もしかしてルークと喧嘩でもしたのかな、と思ったが、それならもっと落ち込んでいるだろう。この様子はどちらかと言えば、何かを心配しているような感じだった。


「何か、心配事でもあるのか?」


そう尋ねてみれば、案の定アッシュが小さく頷いた。視線はひたすら手渡された昆虫標本キットに向けられている。そうして躊躇いながらも呟かれたアッシュの言葉に、ガイは目を丸くした後、本人に見えないようにこっそりと微笑んだのだった。





よく遊ぶ公園の木陰に集まり、昆虫標本キットをルークに見せると両手を挙げて喜んだ。


「すっげえ!これで自由研究が簡単になるんだな!」


漢字の書き取りのおかげで自由研究が普通に発音できるようになったルークは受け取った箱を宝物のように掲げてみせた。その無邪気な様子に、アッシュがまぶしいものでも見るかのように目を細めてみせる。箱に書いてある説明書きを流し読みしながら、ルークが 尋ねてきた。


「で、これはどうやって使うんだ?」
「中にも箱にも説明が書いてある。よく読んでみろ」
「おう!」


勢い勇んで箱を開け始めたルークの背中をアッシュは内心複雑な心境で眺めていた。この昆虫標本キットをガイから貰った時から、本当を言えばもっと前からアッシュが心配していた事は、ルークの事だった。
ルークは、優しい子どもである。知らない者でも少し喋り合うだけですぐに分かる事だろう。どこか甘すぎるぐらい優しい面があるし、何でも信じる子どもらしい純真な面があるし、ちょっと考えの足らないお馬鹿さんな面もある。そのどれもがルークという人間を構成している大事な要素であり、欠かせないものだ。しかし、それ故に今からのルークの反応が何となく分かってしまうアッシュは、複雑だったのだ。


「ルーク。本物の昆虫標本を見たことはあるか」
「え?それはまあ、まだ無いな」


見つけ出した取扱説明書を読み始めたルークがこちらを向かないまま問いに答える。やっぱりなあ、とアッシュはため息をついた。しばらくそのまま待ってみると、楽しそうだったルークの空気が変わる。じっと説明書を読み進めた後、ぱっとアッシュを振り返ってきた。その表情は、驚きに彩られている。


「アッシュ!」
「何だ」
「昆虫標本って、虫を殺さなきゃならないのか?!」


当たり前だ。と言ってもルークにとっては当たり前の事ではないので仕方がない。とりあえず肯定のために頷いておいた。するとルークはショックを受けたように昆虫標本キットを見下ろす。
だと思ったのだ。見かけたヒグラシを可哀想だからと見逃してやろうと言うルークだからこそ。捕まえた昆虫を殺して標本にするなんて、そんな事が出来るとは思わなかったのだ。案の定だったな、とアッシュは内心で思っていた。


「お前、昆虫標本はどんなものだと思っていたんだ」
「え。いや何か、大きな籠か何かに虫を沢山入れてまとめて観察するのかなーって」
「……それは標本とは言えないだろう」


指摘してやれば、うっと言葉を詰まらせる。その後すごく悲しそうな瞳で、周りを見渡した。探してやれば、今も聞こえてくるセミたちが沢山見つかるだろう。もっと時間帯を変えてやれば、山の中でクワガタやカブトムシが取れるかもしれない。しかしいくら昆虫たちを捕まえても、標本にするには殺さなければならないのだ。


「い、生きたまま出すっていうのは、出来ねえかな?」
「どうだろうな。世話もしなけりゃならないし、下手すれば逃げ出すかもしれない。第一、自由研究の作品にはならないかもな」
「ううう……」


いつもは元気一杯の朱色の頭がしゅんと垂れた。今まで虫取りを頑張ってきた分ショックが大きいようだ。しかし、じゃあ心を鬼にして標本を作ろう、とは、やっぱりならない。迷いに迷いまくって、とうとう恨みがましい目で昆虫標本最中を睨みつけ始めたルークの頭を、アッシュがぽんと軽くはたいてやる。
驚いた丸い瞳が、アッシュを見た。


「アッシュ?」
「無理してやらなくてもいいだろう。別に昆虫だけが自由研究じゃないんだ」
「で、でも、今まで頑張ってきたのに……」


ルークの目は、アッシュにも申し訳ないという思いが篭っているような気がした。確かに一緒に暑い中駆け回って虫を探した思い出が疲労と共に思い出されてくる。しかしアッシュはわざとらしくため息をついて、ルークにデコピンしてやった。


「あでっ!」
「このまま辛気臭くやられても面白くねえんだよ。それならさっさとお題変えて新しい自由研究を始めた方がずっとマシだ」
「い、いいのか?今から新しいものなんて」
「何とでもなる。だから、そんな顔するな、ウザってえ」


ぷいと顔を背けてしまったアッシュをしばらくジッと見つめていたルークは、がバッと勢い良く抱きついてきた。ちょっと予想はしていたけどやっぱりびっくりしたアッシュがとっさにもがき出す。


「こら!こんな暑い中抱きつくなと言ってるだろ!離れろ!」
「だって、アッシュ、ありがとう!俺の事、慰めてくれたんだろ?」
「お、お前がしょげているのがうっとおしいだけだ」
「へへへ、それでもありがとな!」


ぎゅうぎゅう抱きついてくるルークにとうとう逃げ出す事を諦めたアッシュは、ちらりと足元に放置された昆虫標本キットを見下ろす。これは後日、ガイに返そう。きっと、やっぱりいらなくなったかと優しい笑顔で笑いながら、受け取るだろう。




   昆虫標本キット

08/08/03