季節が違えばしんと静まり返っている山の中も、夏場は随分と騒々しくなる。そう、虫たちの大合唱だ。鳴いているのは、主にセミ達だった。


「あーっもううるせー!」
「いちいち癇癪を起こすな、暑いのが余計に暑くなる」


ジージーミンミンうるさいセミたちにとうとうキレたルークが叫べば、頭上に虫取り網が振り下ろされた。すっぽりと網の中に頭が入ったまま、後ろを振り返れば、ルークの頭を覆う虫取り網の柄を持ったままのアッシュがいる。


「や、やめろよアッシュ!俺は虫じゃないぞ!」
「うるさい所は似たようなものだ」
「ひっでえ!」


じたばたもがけばすぐに網は外れる。やれやれと言わんばかりにため息をついたアッシュは、あたりを軽く見渡した。いくらか背の高い木々が視界の届く限り立ち並んでいる。もちろん、数え切れる本数ではない。その木の幹のどこに止まっているのか、四方八方からセミの鳴き声が聞こえてくるのだ。きっとセミの数も数え切れぬぐらいいるに違いない。


「くそ……あんな小さな体から一体どうやってこんなでっかい声が出るんだよー」


ぶつぶつ呟きながらルークが恨めしそうに頭上を見上げる。鳴き声が聞こえてきた方向に目を向けてみても、漠然としか聞こえずどこに止まっているのかは分からない。声はうるさいのに姿が見えないのが、余計に悔しいのだ。


「小さな体ででっかい声なら、お前も負けないだろ」
「えーっ、アッシュだってでっかい声出すじゃんか!」
「誰が小さいだって?!」
「せ、背の事は俺言ってないだろー!」


何やらアッシュの琴線に触れたらしく、怒りの目で睨み上げられた。ルークはクラスの中では背の高い方ではないが、アッシュも同じぐらいの背丈なので、もしかしたらそれを気にしているのかもしれない。確かに背は大きい方が良いが、そんなに気にするものでも無いんじゃないかなあとルークは心の中で一人呟く。男の子は後から背が伸びるものなのよ、と母親も言っていた。


「ふん……背さえ高ければ……あんな虫共など……」


ブツブツ呟きながら網を手に持つアッシュの背中に影が見える。無理も無い。今二人は自由研究の昆虫採集のためにこうして森の中で網と籠を持って虫を探している所なのだが、今まで一匹も捕まえていないのだ。理由は、周りの木が二人の身長に対して高いというのがあるかもしれない。おかげで捕獲対象の虫、主にセミたちが、遥か頭上に止まっていて手が出せないのだ。
限界まで腕を伸ばし、柄の端を持って虫取り網を掲げても声高らかに鳴くあのセミに届かなかった時の絶望ったらなかった。特にアッシュの落ち込みようはすごかった。今はいくらか立ち直ったが、こうしてちまちま愚痴っているのだった。


「あーあ。一匹ぐらい捕まってくれりゃいいのに……」


首にぶら下がっている空の虫かごを見下ろして、ルークは重い息を吐いた。これでは一向に自由研究が進まないままだ。他の宿題はアッシュに見張られながら地道に終わらせているのに、これだけはまだ全然進まない。


「ルーク、立ち止まるな!せめて一匹ぐらいは今日中に捕まえるぞ」
「おす!アッシュ隊長!」


アッシュに声を掛けられ、自らに気合を入れるようにルークは拳を振り上げてみせた。このぐらいでへこたれていてはダメだ。アッシュと共に、頑張らなければ。
力強く虫取り網を掲げ、虫かごを揺らす二人は、勢い良く山の中を駆ける。目指すは、誰もが羨む立派な昆虫標本だ。



しかし、勢いだけでは虫は捕まえられない。もうすぐ日も落ちてくるだろう夕方よりちょっと前の時間、ルークとアッシュは一つの木の下でぐったりと休んでいた。首から下がる鳥かごの中は、未だに空だった。


「くそ……セミめ、この世から滅亡してしまえ……」
「もう俺、セミの声聞きすぎて頭の中にジリジリ響いてるよ……」


セミを捜し求めている間に頭の中にセミが住み着いてしまったのではないか、とルークが頭を振ってみせる。そんな訳あるかと軽く隣の頭をはたいてから、アッシュは額の汗を拭った。何といっても暑かった。セミの声に囲まれて駆け回った疲労もあったが、やはり暑さで一番ぐったりしてしまう。これから日が傾くから、少しは涼しくなるだろうか。
そんな事を思っていた時だった。今まで響いていたセミの声とは違う鳴き声が、不意に耳の中に入ってきたのは。


「……あれ?これは……」


思わずルークが幹に預けていた体を離し一歩踏み出した。耳を澄ませば、確かに聞こえる。空気を震わせるどこか涼やかな鳴き声が。声に釣られて空を見上げれば、赤く染まり始めていた。これから夕焼けの時間だった。


「ヒグラシか」
「そうだ、これはヒグラシの鳴き声だ!」


隣に並んだアッシュの言葉にぽんと手を打つ。ようやく記憶の中から名前が出てきた。日暮れを知らせるように響いてきたこの鳴き声は、ヒグラシの声だった。自然と耳を済ませれば、意外と近くに聞こえる。首を巡らせれば、その姿を見つけることが出来た。


「アッシュ!あそこだ、あそこにヒグラシがいる!」
「何だと?」


ルークが指差した先の木に、確かに一匹のセミが止まっていた。しかも、案外下のほうに止まっている。この距離ならおそらく二人の身長でも虫取り網で捕獲できるだろう。しかしその前に、ヒグラシのよく通る鳴き声に聞き惚れた。


「ヒグラシの鳴き声って、他のセミとは違ってあんまりうるさくないよな」
「そうだな」
「しかも、何か涼しくなってきた気がする」


ぐんとルークが伸びをする。その気持ちはアッシュにもよく分かった。あまり耳を刺激しない鳴き声だからなのか、いくらか涼しくなる夕刻に鳴き始めるのもあるのか。今まで嫌になるほどセミの声を聞き続けて来たが、悪い感じはしなかった。


「……なあ、アッシュ」


じっとヒグラシの声を聞いていたルークが、一心に鳴くその背中を見つめながら控えめに口を開いてきた。アッシュはルークが何を言おうとしているのか、何となく分かるような気がした。それはアッシュも、少なからず同じ事を考えていたからかもしれない。


「あのさあ、あのヒグラシなんだけど……」
「……行くぞ」
「え?あれ?アッシュ?」


立てかけていた虫取り網を手にとっていきなり歩き出したアッシュに、戸惑いながらもルークがついてくる。歩きながら、アッシュがぽつりと言った。


「暑くてどうしようも無い今、少しでも涼しくしてくれた恩があるからな」
「アッシュ……!」


自分の言いたい事を正確に汲み取ってくれたアッシュに、ルークは胸が一杯になる。どうしても、夕日を連れて来た涼しげな声で鳴くあのヒグラシを捕まえる気が起きなかったのだ。きっとアッシュも、似たような事を考えていたのだろう。何だかとても嬉しくなって、ルークはアッシュの背中に勢い良く抱きついた。


「アッシュっ!大好きだ!」
「な?!ななな何言ってやがる離れろ暑いんだからひっつくんじゃねえ!」
「少しぐらいいいじゃんか、今俺はアッシュに抱きつきたくてたまらないんだ!」
「ふふっふざけんじゃぬぇー!離れろー!」


二人で仲良く揉め合いながら、赤く染まり始める夕焼けの中森の中を歩く。その背中を、ヒグラシの鳴き声がいつまでも、いつまでもついてきていた。まるで、二人を見送るかのように。




   ヒグラシ

08/07/29