そうして二人の初めての冬が、過ぎ去ろうとしていた。





今日は月も出ていない、静かな夜だった。


「おい、ちゃんと前を見ろ」
「ううっちくしょう、試験の馬鹿野郎!肉まん美味いっ!」
「ったく……」


恨み言を言いながら歩きつつ肉まんにかぶりつくルークに、アッシュは隣を歩きながらため息をついた。全ての試験が終わった今日、アッシュが言っていた「試験散々で気の毒だが次回は頑張れパーティ」(但しルーク限定)が行われたのだった。もちろん、ほっかほかで美味しい肉まんを買って、だ。


「試験なんてこの世から無くなっちまえばいいのに……」
「まったく駄目だったのか」
「いや、まったくって訳じゃないけど、いくつか赤点の危機が……いや、無いと信じたいけどでも……」


肉まんを噛み締めながらルークはさっきからブツブツ言っている。よほど無念な結果になってしまったのだろう。少しサボりながらも頑張っているルークを見てきたアッシュは不憫に思うが、今は何の慰めの言葉も耳に入らないだろう。だから肉まんをおごって、愚痴に付き合ってやる事しか出来ない。結果はまだ分からないのだから、アッシュだってハラハラしなければならない立場ではあるがルークほど悲観ではない。


「……あっ」


ふいにルークが声を上げた。気がつくとルークは少し後ろで足を止めていて、ポカンを空を見上げている。ルークの隣に戻ったアッシュは、食べていた肉まんの最後のひとかけらを口の中に放り込みながらつられて顔を上げた。
そこには、満点の星空が広がっていた。


「すっげえ綺麗に星が見えるな」
「今日は月も出ていないからな」


夜に道のど真ん中で並んで空を見上げる図というのはどこか怪しげではあるが、この夜もふけた時間には辺りになかなか人が通りかからないから、遠慮なく立ち止まる事が出来る。ルークも口の中の最後の肉まんを飲み込んでから、ほうと白い息を吐き出した。


「最近こんな風に空なんて眺めてなかったからかもしれないけどさ、夏より、綺麗に見えるような気がする」
「空気が澄んでいるからな」
「そっか、こんだけ空気が冷たいもんな」


鼻の頭を身に着けているマフラーやてぶくろのように真っ赤にしながらも、ルークはじっと夜空を見つめる。その表情からは先程の試験に対する悔しさや無念さが抜けていて、アッシュはホッと息をついた。反省をする事は大切だが、後悔してばかりでは仕方が無いものだ。少しでもこの親友が立ち直ってくれれば、アッシュもその様子にハラハラせずに済む。
一心に空を見上げていたルークが、あっと声を上げて指を差した。


「アッシュ見ろよ、あの星とあの星と、あの星!」
「あの明るい三つの星か」
「ああ、あれを繋げれば、冬の大三角だよなっ」


思わずアッシュがルークを見れば、ルークは照れながらもどうだと威張ってみせる。


「実は俺、星座とか星の名前とか、星の事だけは得意なんだ!」
「それは初耳だな。……夏の星座だけは知っているだろうと思っていたが」


アッシュがそう言った訳は、何年か前に遡る。ルークとアッシュが初めて出会った夏休みの自由研究に、二人は同じ課題で挑んだのだ。それが、夏の星座だった。額を付きあわせて二人で本を読み、実際に夜空を見上げながら懸命に調べたものだ。それを忘れているわけが無いだろうとアッシュは思ったのだ。
ルークは、アッシュの言葉にもちろんと頷いてみせた。そしてその後、何故か俯いてしまう。アッシュが不思議に思って顔を覗き込もうとするが、さっと視線をそらされてしまった。


「何だ」
「いや……俺が星の事を調べて、詳しくなろうとしたのは、それからだったんだ」
「何?」


ルークはひょいと一歩踏み出して、アッシュを振り返ってきた。視線をあちこちに彷徨わせながら、どこか照れくさそうに言う。


「アッシュ、あの時色んな星座を教えてくれただろ?」
「まあ、授業で習った範囲までだったと思うがな」
「うっうるせえよ!それに俺、素直にすげえって思ってさ。それでなくてもアッシュは確実に俺より勉強出来やがるし」


夏休みは学校で習うもの以外のものを、ルークは沢山アッシュに教えてくれたのだが、ルーク以上に照れ屋のアッシュは口には出せず、ルークを見つめるだけであった。ルークはどこか懐かしそうに、再び空を見上げる。


「その後自由研究で星座の事勉強しただろ?それがなかなか面白くってさ。アッシュはさっき言った通り学校で習ったものしか知らないって言ってたし。これなら俺にも……勉強すればって……」


照れくささがピークに達したのか、ルークの言葉は尻切れトンボになっていく。はっきりと聞きたいアッシュが声を上げる前に、気配を感じ取ったのかルークが慌てて一歩後ろに下がった。そのまま言い訳を口走るような声で言う。


「これなら俺もアッシュを追い越せるかなって、思っただけだよ!」
「俺を、追い越すだと?」


意表を突かれてアッシュは言葉を失った。本当に予想もしていない言葉だったのだ。そんな様子のアッシュに、ルークは向きになって詰め寄ってくる。


「だって何にしてもアッシュの方が俺を上回ってただろ!だから一つぐらい俺がアッシュに教えられるような得意なもんが欲しかっただけだっ悪いか!」
「っ悪い!」
「悪いのかよ!」


アッシュの言葉に衝撃を受けるルーク。そんなルークの肩を、アッシュはガッシと掴んだ。罵倒が飛び出すか、と身構えたルークだったが、予期していた勢いはまったく襲ってこなかった。かわりに、どこか疲れたようなため息と、片方の肩に少しの重みを感じた。アッシュがどこか脱力した様子でもたれ掛かってきたのだ。


「まさか……ずっとお前はそんな不毛な事を思っていたのか?」
「だ、だって、悔しかったし、何か寂しいじゃねえか。いつか、その……置いてかれそうで」


しどろもどろに答えるルークは、しかし本心だったのだろう、若干その肩が震えたように思えた。会える時は夏休みという短い期間のみで、勉強をいつも手伝ってもらうぐらい差がつけられている状況が、ルークなりに思うところがあったらしい。だからこそ、高校受験の際はアッシュに黙って、アッシュが行くという高校を目指したのだろう。少しでも、アッシュに追いつけるようにと。


「お前は……真性の屑だっこのド屑!」
「なっ何だとー?!今の俺の告白に対してその言葉はひどすぎんじゃねえの!」
「いいや、こんな無駄な事でずっと悩んでいたなんて、お前は……くそっ」
「な、何だよー」


色んな思いがせめぎ合って言葉にならないらしいアッシュに、ルークが情けない声を上げる。そんなルークよりも、アッシュは自分自身を情けないと思っていた。確かに、勉強はアッシュの方が出来る部分が多いだろう。しかしそれ以外の面、例えばその人懐っこい笑顔だったり、比較的誰とでも仲良くなれる性格だったり、そういう人間的な要素で、アッシュはルークに大分負けているとずっと昔から、初めて出会った時から思っていた。そしてそのために、どこへでも行ける風のようなルークは頭も性格も固めのアッシュを簡単に置いていけるのだろうと、ずっと思っていた。それを諦め半分に認めていたのだった。


「いや……屑なのは、俺もか」
「おいアッシュ、何一人で打ちひしがれてんだよ」
「何でもねえよ……」
「何でもあるだろ!」


ルークにガクガクと揺さぶられても、アッシュは何も言う事が出来なかった。言える訳が無かった。ルークと同じ不安を、己も抱えていたのだと。言えばルークは笑うか、喜んでくれるとは思うのだが、アッシュのプライドとかそういうものが耐えられそうにない。この事は墓場まで持っていこうと固く誓ったアッシュは、掴みかかるルークをそっと避けた。


「とにかくお前の心配は杞憂だから安心しろという事だ」
「何だよそれ!はっきり今の間の葛藤を説明しろよ!」
「うるせえ!どうせ俺達はずっとこのままだろうが、置いて行かれるとか追い越すとかそういうのはまったくの無駄で必要のねえものだって事だ、分かったか!」


ピンとおでこを弾いてやれば、ルークはひどく驚いた顔でアッシュを見た。じっと見つめられて、さすがにアッシュも気付く。今、何かすごい事を勢いで口走った気がする。しかしそれはアッシュの紛れも無い本心からの言葉なので、訂正やごまかしをする事も出来ない。精一杯の普通の表情で、顔を背ける事しか出来なかった。


「……こんな所にいつまで突っ立っても仕方がねえ、風邪ひかねえうちに帰るぞ」
「お……おう」


アッシュが歩き出せば、ルークも小走りでついてきた。隣に並んだルークをちらりと見れば、その顔はとても嬉しそうににやついていた。


「ずっとこのまま、かあ」
「………」
「なあアッシュ、俺最近アッシュんちに泊めてもらう事多いよな」
「な、何を突然」
「もう自分ち帰るの面倒になっちまってさ、家賃半分で済むし、このままアッシュんちに引っ越そうかなーとか」
「……?!」
「うおっアッシュ?!何も無いところで転ぶなよ!」


顔を真っ赤にしながらも、冬の寒さをものともしない全身真っ赤でお揃いな二人の親友を、美しく瞬く冬の星空が静かに見守っていた。その夜空は二人が出会った頃の夏の空と同じように、これからの二人を変わらず見守っていくのだろう。

ずっと、このまま、二人で。
それは言葉にする事無く交わされた、二人だけの約束であった。





   冬の星空


09/03/01