何でこんな事になった。
心の中で何度繰り返したか分からない言葉がまだぐるぐると頭上を回っている。俺は死んだはずだった。これは間違いない。あんなリアルな死を体験したんだ。あれが偽者だったとしたら、死とはリアルを超えていっそ非現実的なものなのだろう。俺の腕の中には現在進行形で恐ろしくリアルな体温が存在しているのだが、だとしたらこの体温を感じ取る事が出来る俺はやはり生きているという事になるのだろうか。
いや、そんなまさか。
俺が何度今を否定してもこの腕の中のものは一向に消えてくれる気配は無かった。何事かをむにゃむにゃ呟きながら小さな体が身じろぎする。何て呑気な寝顔だ。姿は確かに子どもだが、それでも俺か。

そう、それは俺であるはずだったものだった。俺から生まれた、もう1人の俺であるはずだった。しかしその無防備な顔は、俺も、かつての子どもの俺も知らないものだった。俺が持たないものを俺より小さなこいつは持っている。つまりそれは、俺ではなかった。分かっている、そんな事は分かりきっている。俺は確かに認めたのだから。俺ではない俺から生まれたものが、俺と違う人生を歩む事を確かに俺は認めたのだ。そうして俺は死んだはずだった。

では何故俺はここにいる。

思考は堂々巡りを繰り返して先へと進む気配を見せない。いい加減うんざりして思わず大きな舌打ちをしてみせた。イライラするとしてしまうこの癖は昔からいずれ直さなければならないものだと分かってはいるのだが、とっさに出るから癖というのだ、簡単に直せるものならばとっくに直している。
つまりは、俺の舌打ちで目の前の生き物が目を覚ましてしまった、という事だ。

2つの大きな翡翠の瞳が俺を見上げる。
これは確かに……かつての俺のレプリカだった。


「お、はよー」


あくび交じりにそうやって言われた。起きた時はそう言う様に教育されているのだろう。もちろん俺もだった。しかしその舌足らずな声に思わず眉を潜める。潜めてから次の瞬間、ハッとなって何とか眉間の皺を収める。
俺はさっきから何故不機嫌なんだ。

ふいに俺より小さな手がぺたりと額に当てられた。その後押し伸ばすようにぐりぐりと掌を押し付けられる。多分、皺を伸ばしているのだろう。瞬間的に怒鳴りそうになった声を寸での所で抑えた。
これは10歳児これは10歳児これは10歳児!
しかも精神年齢は0歳だ。ここで明らかに年上の俺が怒鳴ってどうする。俺が堪え性の無いことは俺が十分に分かっているのだ。だからとりあえず落ち着け、俺。

ひとまず相変わらず俺の皺を伸ばそうと奮闘する屑は置いといて、今の状況を整理する事にした。
俺は死んだはずだった。が、気がつけばここに立っていた。ここ、とは、かつての俺の家だ。奪われた居場所だ。まるで鳥篭のような離れの部屋の中にいつの間にか俺は立っていた。そしてその一瞬後、この真剣な表情で俺の眉間を押してくる屑に体当たりよろしくしがみ付かれたのだった。とっさの事に反応できなかった俺は(情けない事だ)背後にあったベッドに腰を下ろしてしまう。そのまま俺の正面に落ち着いて安心したようにすぐさま居眠りを始めてしまった赤い頭に俺の思考はしばらく止まってしまっていたようだ。気がついて頭をようやく回転させてどれぐらい経った頃だろうか、冒頭に戻る訳だ。

ふと、額の中心に当たっていた柔らかい手が離れた。膝をついて俺と目線を合わせたこいつは、その真っ直ぐな視線で俺を貫いた。この視線が苦手だととっさに思った。記憶の中のこいつと重なる。記憶の中のこいつは俺と同じ背格好をしていたが、その視線だけは目の前の幼い瞳とダブって見えた。同じ人物なのだから当たり前なのか。その前に同じ人物と認めていいのだろうか。もし認めてしまえば、俺が存在しているこの場所は所謂「過去」になってしまう。そんな馬鹿な。

ただ1つだけ分かった事がある。毎回怒鳴ったり顔を背けたり他人はおろか自分をも誤魔化していたが。
俺はこの視線が昔から苦手だったのだ。


「……何だ」


何か言いたいことがあるのだ、俺はそれを分かっている。俺に何かを言う前にあいつは決まってこんな目をして俺を見ていたからだ。だからこそそうやって尋ねたのだが、しかしすぐに後悔する事になる。
目の前の顔が、へにゃりと歪んだ。俺には一生出来そうに無い完全に緩んだ笑顔で、目の前の存在はとんでもない事をさらりと言ってのけたのだ。


「すきー」


……俺たちは確か初対面だったな?(少なくともこいつにとっては間違いなく)。お前は初めて会った男に、しかもおはようの挨拶の次に、こんなに簡単に好きだと言える様な奴だったのか、レプリカ。
俺の胸に顔を埋めて両手でぎゅうぎゅうと俺の胴を締め付けてくるこいつに、俺の頭と体は完全に固まっていた。停止する思考の中で変な所につっこみを入れていることにも気がつかない程に。
今ようやく分かった。自分でも不可解な眉間の皺を寄せたさっきの俺は「不機嫌」なのではなく、「戸惑って」いたのだ。


「すき、すきー」


しかも繰り返し言いやがる。すきすきすきすきそれしか言葉を知らないのかと思ってしまうほどそればかりを繰り返す。やがて不自然に濡れたように小さな顔が押し付けられた胸の所が熱くなって来た頃に、俺はようやくそれに気がついた。

その通りだ。この生まれて間もないレプリカは、相手に伝えるべき感情を「すき」とか「きらい」とかしか言葉として知らないのだ。だから……思わず涙が出るほどの激しい衝動が幼い心を襲っても、その感情を正確に表す言葉を持ってはいないのだ。
俺は知っている。かつては俺も知らなかった。憎しみだけしか知らなかった、否、憎しみ以外の感情を忘れてしまった俺はその激しい感情を「憎しみ」としたほどだった。しかし「憎しみ」以外を知った今の俺には、正確かどうかは分からないが、この溢れる感情を言葉に表す事ができる。

俺の顔をそっと見上げてきた濡れたその瞳は……この世のものとは思えぬほどの、美しさで。


「……ルーク」


衝動的に喉に競りあがってきた言葉を吐き出しながら、力を入れればそのまま消えて無くなってしまうんじゃないかと思うほど小さなその体を出来るだけそっと抱き締める。そうすれば、縋り付いてくる俺とは比べ物にならないほど小さな腕。
相変わらず腕の中の子どもは「すき」としか口に出せない。それでも濡れた事によって深い色を湛えたその瞳が、細かく震えるその体が、力いっぱい俺の服を掴む小さな手が、それ以上の感情を俺に伝えてきた。ほとんどの事を何も知らない生まれたばかりのこいつに教え込むように、俺は口を開いた。
俺は俺のままで、こいつはこいつのままで、ここでこうやって向かい合って視線を交わすことが出来る今というこの瞬間が、こいつは。俺は。


「愛おしいんだ」



それは確かに、俺の中に潜んでいた狂おしいほどの感情だった。





   最愛なる 1

06/07/20