今日は今年一番の暑さとなるでしょう。そうやって朝の天気予報でテレビの向こうのお姉さんが言っていた事を思い出して、今更ながらルークはうんざりとした。時間はもう日も傾く夕方だったが、昼が長く夜が長い夏らしくまだまだ太陽はその熱を余す事無く地上へ降り注がせている。きっと空が真っ赤に染まり始めるころには多少気温も下がるだろうが、それまではこの灼熱の気候を耐え忍ばなければならない。額に浮き出た汗を腕で拭って、ルークは家路を急いだ。
節電としてあまりエアコンをつけない我が家も、今夜ばかりは付けっぱなしも致し方ない事だろう。このままでは干からびて死んでしまう。扇風機で十分だとか豪語していたアッシュも最近はうんざりとした表情をしていたし、もしかしたらもうすでに部屋の中が涼しい空気で満たされているかもしれない。少しわくわくしながら、暑い暑い帰り道を小走りで駆けた汗だくのルークは馴染みのアパートへ辿り着き、元気よく玄関を開けた。

「ただいまー!アッシュ、ルーク、帰って来てるか?」

そうして飛び込んだ部屋の中はむっとした空気で満たされていた。どうやら当ては外れたらしい。その事は確かにルークを落胆させたが、落ち込んでいる場合では無い光景が目の前に現れたのであっという間にその事は忘れ去っていた。ルークは玄関の扉を開け放ったまま、悲鳴を上げていた。

「る……るるるる、ルークゥゥゥ?!」

もちろん自分の名前を叫んだのではない。ルークが「ルーク」と呼ぶのは同じ名前を持ち互いにルークと呼び合う愛猫以外にいなかった。つまりは、猫ルークの名を叫んだのだった。玄関の目の前の廊下で、まるで行き倒れたようにぐったりとうつ伏せに横たわる猫ルークの姿を見て。
尻尾は一切の力が入っていない様子でぱったりと床に落ち、四肢もだらんと力なく伸びたまま。お日様色の長い髪も心なしか普段より跳ね方なんかが元気ないように見える。伏せた顔はいくら見つめても持ち上げられる事が無いままだ。ぴくりとも動かない猫ルークの無残なその姿に、ルークは慌てて泣きついた。

「ルーク、しっかりするんだ、ルーク!どうして、一体誰がこんな事を……!」

何とか抱き起して、身体を仰向けにしてやる。すると固く目を瞑っていた猫ルークの瞼がぴくりと動いた。ハッとルークが見下ろしていれば、ゆっくりと綺麗な新緑の瞳が覗いてくる。目を開けた猫ルークは、ぼんやりと天井を見上げた後、すぐ傍で見下ろしてきていたルークの顔へと焦点を当てた。はくはくと酸素を求めるように開け閉めされた口からは、ひび割れた声が漏れた。

「あ……っ、い……」
「ルーク?!気をしっかり持て!一体俺に、何を伝えたいんだ!」

微かな息しか漏れない猫ルークの口元に耳を寄せて、ルークは何とかその儚い言葉を聞き取ろうとした。こんなになってまで言葉を発しようとしているのだ、きっとどうしても伝えたい事があるのだろう。それこそ、猫ルークをこんな姿にまで追いやった犯人の事なのかもしれない。ルークは息を殺して、猫ルークの声を待った。
そうやってぴったりとくっついていた成果か、ルークは辛うじて猫ルークの言葉を聞き取る事が出来たのだった。確かに猫ルークは、こう言った。

「……あ、」
「あ?」
「あ……あ、あつい……」

がくっ。猫ルークの首から、口から、瞳から、完全に力が抜ける。全体重をルークの腕に預けてしまった猫ルークに、ルークは目を見開いた。

「ルー、ク……?ルーク!しっかりしろ!しっかり……!」

いくら揺さぶってももう猫ルークの瞼は開かない。やりきれない怒りと絶望が心中へと襲い掛かる。震える手で何とかその体を支えながら、堪えきれなかった衝動のまま、ルークは天へ向かって叫んだ。

「くそ……くそっ!夏の、馬鹿野郎ー!!!」
「……何馬鹿な事をやっているんだ屑共が」

そこへ無粋な呆れた声が掛けられた。ルークが首を巡らせば、リビングへと続くドアからアッシュが声と同様の表情でこちらを覗き込んでいる。ルークはキッとそちらを睨み付け、思いっきり指を突きつけてやった。

「この、人でなし!!」
「ああ?!何だと!」
「可哀想に、ルークが家の中で暑さにやられて行き倒れていたってのに、それにも気付かず部屋の中でのうのうと過ごしてたってのかよ!アッシュの鈍感!薄情者!」

一気にまくしたてられて、アッシュは不機嫌そうに眉をしかめさせた。あつい、あついとうわ言のように呟く猫ルークを目の当たりにしているというのに、とても反省しているようには見えない。しかも信じられない事を言い出した。

「屑が、俺がそいつの存在に気付いていない訳がねえだろ」
「な……なん、だと……?!それじゃあアッシュは、猫ルークのこんな状態を知っていながら、放置してたってのかよ!」

信じられない思いのまま責めるように見つめても、アッシュはひとつも揺るがなかった。尊大な態度でフンと息を吐き出してみせただけだ。

「それがどうした」
「し、信じらんねえ!鬼!悪魔!こんな風に力尽きた猫ルークの姿を見て可哀想だとは思わねえのかよ!」
「思わねえな」
「うわーこいつ、人の心を持たない大魔王!俺の双子の兄貴がそんな非道な奴だとは思わなかった!!」

ぎゃーぎゃー騒いで糾弾するルークの声を、ただの騒音だとしか思えないような顔でアッシュは踵を返した。そのままリビングへと戻っていってしまう薄情な背中の後を、とりあえず猫ルークをその場に安静に横たえて追う事にする。

「大体、今日めちゃくちゃ暑かったじゃねえか!こんな日にエアコンつけないで部屋に篭っておくなんて自殺行為だろ!最近のニュース見てねえの?エアコン入れずに死んじゃった人だっているんだぞ!死にたいのかよアッシュ!」
「死にたい訳あるか」
「だったら何で!エアコンつけてな、い……?」

肩を怒らせてリビングのドアをばんと開け放ったルーク。勇ましい声はそこで途端に萎んでしまった。部屋に足を踏み入れた瞬間、その身が心地よい涼しさに包まれたからだ。廊下と比べたらまさに天国と地獄、このドア一枚を隔てて世界が違った。ぽかんと呆けてから慌ててエアコンを見上げてみれば、しっかりと稼働している姿がある。ぱちぱちと瞬きするルークに、アッシュが腕を組んで胸を張ってみせた。

「だから言っただろうが、死にたい訳あるかと」
「え……えっ?エアコン、つけてたのか?」
「当たり前だ。今日は俺が一番に帰ってきたから、屑猫が帰ってくる前からつけてやっていたんだ」

それなのに、と、アッシュは目を細めてドアの向こう、未だ倒れ伏している猫ルークの姿を一瞥する。

「そいつが自主的にエアコンの冷気がいかねえ廊下に出て、一匹で暑い暑いとうるさくわめいていたんだ。自分から望んで行き倒れた奴を何で助けてやらなきゃならねえんだよ」

説明を聞けば、アッシュの言う事はもっともであった。倒れるほど暑いのならば、すぐそこに広がっているエアコンの世界に足を踏み入れれば良い。アッシュがそれを咎める訳がない、何だかんだ言って弟と飼い猫には甘い男なのだ。
ルークは困惑した。てっきり猫ルークは、エアコンをつけてもらえないが故に暑さにやられていたのだと思っていたのだが。アッシュと猫ルーク、交互に見回してから改めて確認する。

「……え、つまりルークは、せっかく部屋がこんなに涼しくなっていたのに、自分で廊下に出て部屋に戻る事無くああやって暑いってぶっ倒れてたって事か?」

アッシュは無言で頷いた。ルークはゆっくりと猫ルークの方へ顔を向け、じっとその全身を見つめてから、しみじみと呟いた。

「ルーク……馬鹿だ」
「だから馬鹿だと言っただろうが」

最早否定するものは誰もいない。このエアコンによって冷やされた空間に入ってしまったルークとしてはもう一歩もあの地獄のような暑い空気の中に出ていきたくは無いのだが、猫ルークはあえてそうしたらしい。訳が分からない。本当に死にたいのだろうか。

「前からあんまりエアコンは好きじゃなさそうだったけど……まさかここまで嫌がっていたなんて」

がりがり頭を掻いてルークは途方に暮れるように天井を仰いだ。猫ルークは元々こっちの方がいいとエアコンより扇風機を、そして扇風機よりも窓から入ってくる風の方を好む猫だった。野生で生きてきたからなのか、それとも猫の習性か、とにかく自然の風が好きなのだろう。それは知っていた。知ってはいたが、無理をしてまで逃げるほどエアコンの事を嫌っていたとは思わなかった。とりあえずルークは冷蔵庫から取り出した冷たい麦茶をコップに注ぎ、猫ルークへと持って行ってやる。

「ほらルーク、これで少しは冷えるだろ?」
「おお……おお、さんきゅー……」
「お前、そのまんまじゃ本当に脱水症状か何かで死んじゃうぞ。エアコンの何がそんなに嫌なんだ?」

同じ我が家の中だというのに廊下の呆れるほどの暑さに顔をしかめながら、ルークは猫ルークに尋ねてみた。むくりと起き上がって麦茶を一気飲みした猫ルークは、それだけでもだいぶ生き返ったようでしっかりとルークを見た。へちょっと垂れていた耳も頭の上で元気そうにぴくぴく動く。

「何つーか、違和感あるんだよなー。周りが一気に冷えるから、このままじゃ凍えちまうんじゃないかって怖くなるっつーか」
「ふーん……?つまり、冷えすぎるのが嫌いなのか?」
「そうなのかもな?」

しきりに首をひねる猫ルークも自分がエアコンを嫌う原因をはっきりと分かっている訳では無いらしい。野生の本能がエアコンの人工的な風を嫌うのだろうか。
それなら温度をもう少し下げてみればいいのかもしれない……と思ったルークは、それを口に出す事が出来ずにそっと振り返った。開いたままのドアの向こうから様子を窺っていたアッシュも目が合って、何とも言えない微妙な表情を作る。言葉を交わしてはいないが、二人の考えている事は大体同じであった。そして互いに同じ思いを抱いている事をほぼ確信していた。生まれた頃から共にいる双子の以心伝心的なものだ。
即ち……エアコンの温度は下げたくないなあ、という、欲望まみれの想いである。

「冷えすぎるのが嫌、かあ……うーん……あ、そうだ!」

そこでルークは名案を閃いた。一気に表情を明るくしたルークにアッシュも猫ルークも目を見張る。ルークは得意げに微笑みながら、座り込んだままの猫ルークの手を引っ張った。

「ルーク、俺に良い考えがある!とりあえずエアコンついたままの部屋に入ってみようぜ!」
「え、ええー?」
「嫌そうな顔しないでさ、ほら、俺に任せとけって!」

どんと胸を叩いてみせたルークはやけに自信満々だ。逆に不安そうな顔になった猫ルークだったが、しぶしぶルークに促されるまま立ち上がった。抵抗する方が体力を使うと判断したのかもしれない。そのままルークに引っ張られて冷えたリビングに足を踏み入れた猫ルークは、全身の毛を一気に逆立てた。

「ううっ!や、やっぱこのエアコンの空間慣れねえー!涼しいけど!」
「ふん、つくづく変わった奴だな……」
「そんなルークにプレゼントフォーユー!」

腕を擦る猫ルークの背後から突如、ルークが飛びついた。その手にはいつの間にかタオルケットが掴まれていて、腕の中に閉じ込めた猫ルークごと自分も含めてタオルケットで肩を包んでみせた。にゃっと驚いて尻尾をぴんと立たせた猫ルークが、そのままバシバシと尻尾の先でくっついてくるルークをはたく。

「お、おいこらルーク、いきなり何すんだよ!」
「エアコンの中にいるのが涼しすぎるんなら、凍えないようにこうやって包んでやればいいじゃん!な、これで冷えすぎないだろ?」
「へ……」

背後から笑顔のルークに覗きこまれて、猫ルークはぱちと瞬いた。尻尾の動きは止まり、髪と同じ色の耳がまるで探るように注意深く動く。しばらくそのまま固まった後、猫ルークの口からほう、とため息が漏れた。呆れたものでも恐怖に染まるものでもなく、安堵によるものだった。

「……確かになんか、安心するな、これ」
「だろ?人肌程度のぬくもりがこうやってくっついてれば、エアコンの風も寒くないだろ?」
「ああ、これ、いいな!」

ぱっと猫ルークも笑顔になった。今日初めて見る笑顔だったのかもしれない。嬉しそうに尻尾を擦りつけてくる猫ルークに見ているこちらもうれしくなって、ルークはますます抱きしめる腕に力を込めた。

「ルークがこの部屋にいる間、ずっとこうしててやるから!それならわざわざ暑い中に逃げ出さなくてもいいよな!」
「そうだな、これなら平気だ!俺もこれで心置きなく涼しい思いをする事が出来るぜ!」

タオルケットを巻きつけて、ルークと猫ルークがきゃっきゃと笑う。そんな微笑ましい光景を目にして、アッシュは深い深い溜息を吐いた。

「世話の焼ける屑猫が……大体そうやって隙間なくくっついてりゃエアコンあっても暑いだろうに、呑気に笑いやがって」

ルークが暑いと音を上げたら、今度はこっちが猫ルークにくっついてやらなきゃいけないじゃないか、と、非常に不本意そうにブツブツ呟くアッシュだったが。猫ルークをエアコンの冷気から守る役目から逃げ出そうとは露ほども思わない、根っからの飼い猫思いなのであった。




   猫と双子とエアコン嫌い

15/08/23