俺の兄貴がこんなに可愛い






今まで俺を育ててくれた父さん、母さん、本当にごめんなさい。
俺は実の兄貴の事を、心の底から「可愛い」などと思ってしまう男になってしまいました。




カラ松がそうやって心の中で両親に懺悔する事になったきっかけは、件の長男が「久しぶりに皆で宅飲みしたい」などと言い出したのが始まりだった。酒とつまみを買いこんだ松野家はその日親子そろってどんちゃん騒ぎで、明日早いからと父母が寝室に引っ込んでも六つ子全員が居間で好き勝手に飲み続けた。一人、また一人と弟たちが潰れていく中、元々酒にあまり強くないカラ松は、最初に呑んだ缶ビール一本の後はずっと麦茶を飲んでいて無事のまま。おかげで日付が変わりそうな深夜、未だ眠りの世界に旅立たず生き残っていたのは、カラ松を含めて二人しかいなかった。

「あれえ?チョロ松も寝ちゃったの?んだよーお前ら揃って情けねえなー」

隣でちゃぶ台に突っ伏して動かなくなった三男の肩をバシバシと叩くのは、もう一人の生存者おそ松だった。残りの弟たちはすでに居間のあちこちに散らばっていて、ぐーぐーすやすやと幸せそうな寝息を立てている。さっきまではチョロ松も、ブツブツと日頃の文句を吐き出しながら何とか起きていたのだが、とうとう眠ってしまったらしい。ビール缶を握ったままモゴモゴとまだ何か呟いている。酔ったら日頃の恨み辛みを際限なく喋りつづけるのがチョロ松だった。

「ったく。常識人なんて自称してるから無駄にため込むんだよ、ばーか」

さっきまでハイハイとその愚痴に付き合ってやっていたおそ松が笑う。かつて共に悪童の名を欲しいままにした相棒を見るその瞳は、言葉とは裏腹にひどく柔らかい。がしがしと突っ伏す頭を撫でる手つきもことさら優しいものだった。
おそ松は撫でるのが上手いよなあ、とその光景を反対隣から眺めていたカラ松はぼんやりと思った。あの一見乱暴に見える手の平が、想像以上に繊細に動いて頭をかき混ぜてくれることをカラ松は知っていた。きっと四人の弟たちもその身で以って実感しているだろう。子供の頃はまさに六分の一、横並びで誰が上で誰が下だなんて区別は無かったはずなのに、長男と呼ばれ始めるようになったこの人は必然的に弟を甘やかす事が上手くなった。誰も口にしないけれど、多分彼の弟たち全員が、おそ松に撫でてもらう事を好ましいと思っている。もちろんカラ松もその中の一人だった。
背丈も同じ、歳も誕生日も同じ、たった数時間もしくは数分の差で長男と次男の間には高い高い壁が立ちふさがっているように感じる。そう考えてしまうほど、落ち込むカラ松を励ますようにいつも撫でてくれるその手は、どうしようもなく「兄」だった。

「どーしたあ?カラ松ぅ。せっかく飲んでんのに辛気臭い顔すんなよー」

物思いに沈んでいると、肩に腕を回しておそ松が絡みに来た。赤く染まった顔は相当飲んでいる証拠だ。そろそろこの兄も潰れる頃かな、と予想しながらカラ松は酔っ払いに顔を向けた。

「いや、ただおそ松はやっぱり兄さんだな、と思って」
「んー?当たり前だろー!俺ってば生まれた時からお前らのにーちゃんやってんだぜー!」

ケラケラと機嫌よく笑った顔は、しかしすぐに頬を膨らませて寄り掛かってくる。

「なのにお前らときたら、おにーちゃんをまったく敬おうとしねえ!おとーとのくせに!おいカラ松聞いてんのか!」
「聞いてる、聞いてる」
「俺すっげーいいにーちゃんしてるだろ!もっと敬え!褒め称えろ!おとーととしてにーちゃんにかまえー!」

ああこの酔っ払いめ。面倒くさい絡み方をしてくるおそ松に、カラ松はこっそり溜息を吐いた。しかしすぐに、自分でもびっくりするほど優しい目でぶーぶー文句を言う兄を見る。
さっきまでおそ松の事を考えていたからだろうか、我儘な長男にがくがく肩を揺らされながらも穏やかな気持ちでいられた。いつもは引っぺがしてその辺に転がす所であったが、耳元で大声で怒鳴られる事も今は受け入れられる。これがおそ松なりの甘え方なのだ。六つ子で唯一兄がいないおそ松は、構え構えと駄々をこねて弟を抱き込まなければ甘える事など出来ない。自分は弟たちをさりげなく、欲しいと思ったその時に上手に甘えさせるのに。
そう考えるとカラ松はおそ松が不憫に思えてきた。おそ松に頭を撫でてもらう時のあの、包み込まれるような安心感をおそ松自身は知らないのだ。あの胸の内に明かりが灯るような幸福感を、分け与える本人は感じた事が無いのだ。それはひどく寂しい事のように思えた。だからカラ松は、気付けばそっと腕を伸ばしていた。
深くは考えていなかった。ただ、おそ松に「泣くな」とか「元気出せよ」とか励ましてもらいながらがしがし撫でてもらった時のような安心感を、「頑張ってるな」とか「よくやった」とか褒めてもらいながら髪の毛をかき混ぜられる時の幸せな気持ちを、少しでも返す事が出来たらな、と、そう思っただけだ。

「ああ。俺にとっておそ松はとても良い兄さんだ」

ありがとう、と気持ちを込めて。カラ松はおそ松の頭をゆっくりと撫でていた。カラ松とて弟の方が多い次男なので誰かを撫でてやる機会は割とあるが、おそ松がやってくれる時ほど滑らかに手が動かなくて、それだけが少々申し訳なかった。思っていたより形の良い頭を、なるべく優しく意識して何回も撫でる。
対するおそ松はぎょっと目を見開いてカラ松を見た。頭を大人しく撫でられながら、信じられないような顔でじっと見つめてくる。おそ松は動かないのではなく動けなかったのだとカラ松が気づいたのは、はく、とその唇が喘ぐように酸素を取り込んだのを見てからだった。どうやらそれまで、目の前の兄は息さえ止めていたらしい。
しばらく固まったまま撫でられていたおそ松は、ようやく現状を把握する事が出来たようだ。カラ松に良い兄さんだよと褒められて、ありがとうと感謝されて、弟の暖かな手で撫でられる、この現状を。そういえばこうして兄の頭を撫でるのはこれが生まれて初めてではないか、とカラ松が考えている間に、おそ松は。
まるで春の日差しに雪が解けて新緑が芽吹くような柔らかさで、ふにゃりと破顔した。

「へ、へへ、そお?よかったあ」

お酒によるものだけではない感情で頬も耳も首元も真っ赤に染め上げて、蕩ける様に笑う兄。正面からそれを見たカラ松は、思わず撫でる手を止めてしまうほどの衝撃を受けた。
何だ、これ。初めて見た。おそ松のこんな顔、初めて。こんな風に笑うんだ、こんな風に笑う事が出来たんだ。いつもはほら、得意げに、偉そうに、「兄」の顔で笑うから。そういう笑顔しか見た事なかったから。だからこんな、こんなに柔らかく笑う人だと思ってなかった。どこか照れくさそうに、それでも嬉しそうに、花まで飛ばす勢いで、今にも溶けだしそうな甘い顔で笑うなんて。
たった一回撫でただけなのに。それだけでこの人、こんな顔で笑って喜ぶんだ。

「……おそ松」
「んー?」
「かわ、い……、……っ?!」

とっさにカラ松は、おそ松を撫でていない方の手で己の口を塞いでいた。今、何か、無意識にとんでもない事を言おうとしていた。同じ歳の六つ子の兄に対して抱くには決して正しくないであろう感情を、言葉に乗せる所だった。つまりそれは、有り得ないはずのその感情を紛れも無く己が持っている証拠なわけで。

「……嘘だろ」

でへでへ嬉しそうに笑い続ける酔っ払いを撫でながら、カラ松は絶望とともに呟いた。ちらっとおそ松に視線を向けて、目が合った途端へにゃっと笑いかけてくるその顔に、やっぱり気のせいでは無い感情が次々と沸き上がってくる。不器用なカラ松にそれを無視する事など出来るはずも無かった。

可愛い。

弟に撫でられただけでこんなに嬉しそうに笑う実兄が、可愛い。
おそ松が、可愛い。

「なんだー?どーしたカラ松?お前も酔いが回ってきた?顔、ちょー真っ赤だぞ!」
「……頼む、兄さん、あんまり見ないで……」

無邪気に笑って頬を突いてくるおそ松に、いっぱいいっぱいなカラ松はそうやってお願いするしかなかった。脳内を占めるのは、冒頭で両親に懺悔していたあの言葉。
何故、どうして同じ顔の兄にこんな、こんな。

結局カラ松の手は、撫でる頭が安らかにすぴすぴ寝落ちるまで、ひたすら動き続けていた。




と、ここまでで終わればまだ、酒の席での気の迷いとして何とかやり過ごす事が出来ただろう。カラ松にとって幸か不幸か、今回はこれだけでは終わらなかった。
胸の内に宿ったその感情を気のせいだと片づけられなくなるほど自覚する事になったのは、そのすぐ後だった。潰れた兄弟たちを何とか全員二階の布団の中に運び込んで、そこで力尽きてカラ松も眠りについた、翌朝。母親によって六つ子は強制的に全員叩き起こされる事となる。

「こらっニートたち!寝るのはいいけど後片付けをしてからにしなさい!」

空き缶やつまみの残骸が転がる居間の惨状に、雷が落とされたのだった。条件反射で飛び起きた六人は、眠い目を擦ってぶつくさ文句を言いながらも母親に従う。ニートをしている以上、養って頂いている親に逆らえる身分では無いのだ。

「ん、これまだ残ってる」
「こら一松、つまみの残りを食うな!」
「十四松兄さーん部屋の真ん中でヨガしながら寝てないでどいてー」

兄弟たちがのろのろと片づける音、声。空き缶をまとめて袋に入れ、まだまだ眠気でぼんやりする頭でそれを見て聞きながら、カラ松はふと部屋の隅に立つおそ松を見た。大あくびをしながら半分眠りかかっている兄は、チョロ松にすぐに見つかってちゃんと働けと叱られている。誤魔化すように鼻の下を擦って笑う顔は、いつものおそ松の笑顔だった。

(昨日のあれは、夢だったのかな)

とっさにそうやって考えてしまうほど、カラ松にとって昨晩のおそ松の無防備な笑顔は衝撃的だった。それを見た時に芽生えてしまった血迷った感情も含めて。あまり酔っていなかった分、カラ松の脳みそはからっぽな頭にしっかりとあの甘やかな光景を刻み付けてしまった。あの様子だと、昨日の夜の出来事をおそ松自身はあまり覚えていなさそうだ。

「さーて、トメ松がうるせえから俺ゴミ出し行ってくるわ。お前ら終わったらさっさと朝飯食うか寝とくかしとけよー」
「誰がトメ松だ?!姑って事かよオイ!」

ついでとばかりに母親に頼まれたいくつかのゴミ袋を掴んで、ぶらぶらとおそ松が玄関から出ていこうとする。朝ご飯どうするのーという母親の声を背中に聞きながら、カラ松はとっさに兄の背中を追いかけていた。

「おそ松兄さん!俺も、行く!」
「んお、マジで?付き合いいいじゃんカラ松ー」

にやっと歯を見せて笑ったおそ松の顔は、悪戯好きな子供が浮かべるようないつもの表情。それだってカラ松は好きだったが、今はもっと、別な笑顔が見たいなと考えていた。
賑やかな松野家から外に出ると、途端に朝の静寂と身を斬るほどの寒さが襲い掛かってくる。おそ松が持っていたゴミを半分受け取って、少し歩いた先にある近所のゴミ捨て場へ足を運ぶ。カラ松はちらとおそ松の横顔を見つめた。

「一番面倒な仕事を、自分で受けたな」
「は?」
「サボって逃げたように見せかけて、寒くて一番時間が掛かる仕事選んでる。……お前はそういう奴だよな。さすが、俺達の兄貴だ」

ふっと微笑みかけてやれば、ぽかんと口を開けたおそ松はすぐにこちらを馬鹿にするように笑ってみせる。

「何それ、お前俺の事過大評価しすぎでしょ!さっきサボってたのはマジで面倒だったからだし、今めちゃくちゃ寒くてやっぱやめときゃよかったって後悔してるぐらいよ?お前の兄貴のクズっぷり見くびんなよ?」
「おそ松がそう言うならそういう事にしておいてやろう、シャイボーイめ」
「シャイボーイでも何でもなく、そういう事なんだっての」

澄ました顔で否定してくるおそ松。真実がどうであれ、弟たちが朝の寒い空気にさらされる事がなくなったのは事実だ。辿り着いたゴミ捨て場にゴミ袋を放り投げて、我が家に戻りながらカラ松は誇らしくなった。昨日から何となく続く、おそ松兄さんはすごいという気分だった。
同時に蘇るあの、笑顔。緩み切った表情。密かに誇り慕うただ一人の「兄」とはまた違う、おそ松の無垢な笑顔。思い出しながらカラ松は、腕を伸ばしておそ松の頭に触れていた。

「ゴミ捨て、偉かったな、おそ松」

取り立てて褒める事でもない、些細な事だとは思う。しかしそれは口実で、ただただカラ松はおそ松の頭を撫でたかっただけなのだった。またあの顔が見たいなあという漠然とした気持ちで、昨日初めて撫でた頭を再びよしよしと撫でる。寝起きで若干寝癖のついた頭は、それでも存外撫で心地が良かった。
突然何でもないはずの事で撫でられたおそ松は、昨晩と同じびっくりした顔でカラ松を見返してきた。歩いていたはずの足もぴたりと止まる。驚愕した表情を見るに、やっぱり昨日のことは覚えていないに違いない。ぱち、と丸く見開いた目が一回瞬きする様を、カラ松はおそ松の頭を撫でながら見つめていた。早くあの時みたいにこの表情が溶けないかなと、そればかりを考えていた。
しかし目の前の光景は、カラ松が思い描いていた通りにはいかなかった。パシ、と音を立てて撫でていた頭から腕を払い落とされてしまう。

「え、」
「ば、バッカじゃねえの!何いきなり人の頭気軽に撫でてきてんだよ!このカリスマレジェンドの頭はそんなに安くねえんだよ!」

少しだけ俯いたおそ松が大声で捲し立てる。カラ松はびっくりして、慌てて謝ろうとした。そうだ、昨日のあれは酔っていたからで、負けん気の強いおそ松が弟に頭を撫でられるなんて本当は不快に思ってもおかしくないのだ。褒めるつもりが嫌な気分にさせてしまったと、カラ松は大慌てだった。怒り狂う顔が見たかった訳でも、嫌悪にゆがむ顔が見たかった訳でもない。ただカラ松は、初めて見たあのおそ松の柔らかな笑顔を。
可愛い、笑顔を……。

「……お、おそ松?」

謝るためにその顔を覗き込んだカラ松は、思わずぽかんとした声を上げていた。そこにあるのは、怒った顔でも嫌そうな顔でも、笑った顔でもなかった。
さっきまで寒さのために仄かに染まっていた鼻の頭の、その何十倍も真っ赤に顔面を染め上げて、おそ松はカラ松を睨み上げていた。怒らせるとおっかない長男に、こんなにも睨まれて「怖くない」と感じるのは初めての事だった。真っ赤な顔で必死に睨み付けてくるその瞳が、何故だか潤んで見えるためだろうか。口を引き結んだおそ松は、頭に与えられた感触を上書きするかのように自分の頭をガシガシと掻いてみせる。覗く耳元もびっくりするぐらい赤い。兄の突然の変わり様に呆けたカラ松は、あまり上等でないおつむをフル回転させて考えた。この、初めて見るおそ松の表情について。
耳まで真っ赤な顔、戸惑うように揺れる瞳、悔しそうに噛み締める口元、怒った顔なのに全然怖くない、これは。カラ松はぴんときた。いつもは鈍い頭が奇跡的に瞬時に答えを導き出した。そうだ、間違いない。
突然頭を撫でられて、普段めったにそんな事をされない長男おそ松が。

めちゃくちゃ照れて、恥ずかしがっている。

「っ何見てんだコラァ!」
「ぐほっ?!」

カラ松が答えに辿り着いた瞬間、その鳩尾に重いボディーブローが叩き込まれていた。冗談じゃなく体が数メートル空を飛んだ。そのまま背中から地面に落ちたカラ松を見向きもしないまま、おそ松は大股で歩き去ってしまう。何とか見送ったその後ろ姿からも真っ赤な耳が確認できて、カラ松は顔を覆った。
殴られた腹が痛い。しかしそれ以上に、カラ松の体の一部が異常をきたしていた。腹よりもっと上、首よりもっと下、心臓よりもっと奥。カラ松の心が、何かにきゅうきゅうと締め付けられて、上手く息が出来ないぐらいだ。こんな気持ちは初めてだった。凍るように冷たいアスファルトなど、燃えたぎる血流がぎゅんぎゅん巡るこの身体を冷ます役にも立ちはしない。訳の分からぬ衝動のまま、カラ松は叫んでいた。

「っ可愛い!!」

撫でられただけで、あんなに真っ赤になって、恥ずかしがって、涙目になって。照れ隠しにぶっ飛ばして、慌てて逃げていってしまったその姿さえ。

可愛い!

酔ってた時はあれだけ素直に喜びを表していたのに、つまりそれだけ撫でられる事が嬉しいくせに、素面の今はあの時以上に真っ赤なくせに、素直に喜べない恥ずかしがり屋が。

可愛い!!

普段は唯我独尊、暴虐武人なオレ様何様長男様、な六つ子の頂点、おそ松兄さんが、撫でられただけであれだけ動揺しちゃって。

可愛いっ!!!

もしこの場にチョロ松かトド松がいれば、カラ松兄さんそれは所謂ギャップ萌えって奴だよ、と教えてくれたかもしれない。しかしカラ松は今ここに誰もいなくてよかったと思っていた。だってこんな、だらしのない顔を覆いながら足をじたばたさせて悶える姿なんて、誰にも見せられないだろう。カラ松は襲い掛かってくる激情に、身悶えしながら必死に耐えていた。
やがて、ようやく頭に乱舞する「可愛い」が落ち着いてきた頃、カラ松はゆっくりと身を起こした。叫び出したい衝動を耐えていた身体は最早息も絶え絶えである。朝日が昇る空を見上げながら、「あー」と声を上げた。

「おそ松が、可愛い」

天に向かって呟く。周知の事実はゆっくり体に染みわたっていく。昨日初めて覚えたあの感情は、間違いでは無かった。おそ松は可愛い。間違いない。カラ松は確信した。今まで不幸にも機会が訪れず知る事が出来なかったが、昨日と今日でようやく知る事が出来た。
カラ松のこの世でただ一人の兄貴は、可愛いのだ。
ようやく知り得た世界の真理に、カラ松は大層満足そうに頷いた。うん、可愛い。普段はムカつく事の方が圧倒的に多いクズなニートでも、照れた時はあんなに可愛い。今思い出しただけでも、地面に拳を叩きつけたくなるほど可愛い。もちろん酔った時のあの素直な反応もめちゃくちゃ可愛い。可愛い。
最早カラ松の中には、「実の兄にこんな事を思うのは変だ」という一般常識は存在しなかった。塗り潰され、粉々になり、爆発四散して、きっともう二度と戻ってこない。存在するのはただひたすら、うちの兄さんあんなに可愛い奴だったのか!という感動にも似た何かだけだ。
散々転がった地面からようやく腰を上げる。カラ松の心は頭上に広がる本日の空のように爽やかに晴れ渡っていた。同時にふつふつと、際限のない熱が地底からマグマのように湧き上がってくる。

「……もっとあの可愛いのが、見たい」

とっくの昔に立ち去った兄の背中を追いかけて歩き出しながら、ぼそっと呟く。見たい。もう一回見たい。まだまだ見たい。普段は見せないおそ松の貴重な可愛い姿を、もっと見たい。恥ずかしそうな素直になれない照れ顔もいいが、あわよくば昨晩見た柔らかくてふにふにしたあの嬉しそうな笑顔も見たい。そのためにはやはり、また撫でてやらなければならないだろう。酔った勢いで見せてくれたあの表情はきっと、撫でられる羞恥心を越えた先にある。恥ずかしがることも忘れるほど慣れてもらわなければ。
さあて、これから忙しくなるぞお。寒い寒い朝の空気の中帰宅するカラ松の足取りは、スキップをしているようなそれはそれは軽やかなものだった。





その日からカラ松は、細心の注意を払って兄を観察した。監視と言っても良い。何せ我らが長男、基本はクズニートなのでただ単に今までと同じように一緒に暮らしているだけでは、なかなか頭を撫でて褒める機会など訪れないのである。せめて簡単なバイトでもしてくれていれば、今日もお疲れ様と労わりを込めて帰って来るたび撫でてやれるのに。さすがにパチンコや競馬で散財してきたどうしようもない頭を褒めてやるわけにはいかない。カラ松はこの時ほどニートを恨んだことは無かった。
しかし、隙あらば撫でてやろうと機会を窺いながらじっと注視していれば話も変わる。日常のほんの一コマ、本人も意識していない所で、共同生活をしていれば何かしら手助けをするものだ。
例えば、カラ松が真実に辿り着けた記念すべきあの日、家に帰った後は他の兄弟に遅れて朝食を食べる事となったのだが、その際おそ松は不機嫌そうな顔のまま、それでもカラ松が帰るまで食べるのを待っていてくれていた。心から感激したのは言うまでもない。本当に感謝した事と、こんなにも早く撫でる機会が訪れた事、どちらに対してもだ。

「待っていてくれたんだな、ありがとうおそ松。さあ共にブレックファーストを頂こうじゃないか」

ちゃぶ台の前に座る頭を後ろから通りすがりに撫でてやれば、振り返りもせず拳が飛んできて脛を思いきり殴られた。10分ほど痛みで転げ回る事になったが、無言でご飯を食べ始めたその耳が赤く染まるのが倒れたままでも確認できたので、カラ松は大層満足だった。
こんな感じでおそ松の行動を一つ一つ見つめていれば、意外と褒めてやれそうな機会はいくらでもあった。例えば、テレビのリモコンを投げて寄越してもらった時、部屋でゴロゴロしてる際漫画を貸してもらった時、母が六つ子に買ってきたそれぞれ味の違うおやつを文句言わずに残り物で手を打った時、いつもよりちょっと早起き出来た時や暴れる事無く大人しく夜寝ようとする時まで、細かな事を挙げていけばきりがないほど頭を撫でるチャンスは目の前に転がっていた。カラ松は感激した。

「おそ松兄さんはこんなにも褒められるべき人間だったんだな……っく、俺は今まで兄の何を見ていたんだ、次男失格だ……!」
「いや、明らかにお前の方がおかしいからねカラ松。おそ松兄さんはいつもと変わらずクズ人間のままだからね」

ここ数日で見出すことが出来たおそ松の頭を撫でるチャンスは、つまりそれだけ今まで褒めてやるべき機会をスルーしていた事になる、と、カラ松はテーブルに拳を打ち付けて悔やんでいた。たまたま居合わせたチョロ松が呆れ返った声でツッコんでくれる。

「ほんといきなりどうしたの、急におそ松兄さんの事あれだけ褒め殺しにしてさ。しかも内容はびっくりするぐらいクソくだらない事だし」

良い機会だと思ったのか、重ねて尋ねられる。カラ松は目の前に転がるチャンスを逃す事無く、そのことごとくを褒めちぎって頭を撫でておそ松を照れさせてきた。チョロ松が不思議に思うのも無理はないだろう。カラ松はきょとんと目を瞬かせて答えた。

「どうしてだ。さっきも母さんに手伝いを頼まれて、逃げずに風呂掃除に行ったじゃないか、偉いだろう」
「それ、不良がたまたま捨てられた猫助けてるの見て不良のくせに優しいーとか思うのと同じことだからな?!一般的には普通の事なんだからな!ハードルがめちゃくちゃ低くなってんの分かってる?!分かってねえだろうなーこいつも何だかんだクズだもんなー!」

チョロ松が何故か天井を仰ぐ。カラ松が首を傾げている間に、風呂掃除が終わったらしいおそ松が二人のいる居間へと戻ってきた。すぐにごろんと大の字に寝転がったその姿は、まあ確かに情けない事この上ない。

「アー疲れたー仕事したー。今日俺めちゃくちゃ働いたわ、マジで」
「たった風呂掃除しただけで何言ってんだこの馬鹿」

蔑む様に長男を睨み付けるチョロ松の言葉にも一理ある。しかしカラ松はにっこりと慈愛の笑みを浮かべて、横に転がるその頭を撫でてやった。最初は躊躇いがちに触れていた指も、今となっては慣れたものだ。丸い頭を労わる様に撫でてやれば、ぎょっと見開かれた瞳が向けられる。

「そうだな、おそ松は頑張った。お疲れ様」
「……っ!!」

さっと紅が差す頬。ぷるぷる震えた体は、すぐにごろんとカラ松の手が届かない場所まで転がって、背を向けてしまう。いじらしいその姿に、カラ松の笑みは深くなるばかりだ。うん、今日も俺の兄貴は可愛い。

「……まあ、カラ松のこの突然の行動も意味不明だけど、おそ松兄さんも慣れないもんだよね」

コレが始まってからもう結構経つのに、とチョロ松が頬杖をついて呟く。カラ松はただひたすらおそ松の頭を撫でる機会を人目も憚らず狙うばかりだったので、当然それは一つ屋根の下で共に暮らす兄弟たちの目にも触れる事となる。突然長男の頭を事あるごとに撫で出した次男に、最初こそどうしたんだこいつという目で見られ、気でも触れたのかと失礼な疑いをかけられたものだが、今では皆慣れてしまって気にしなくなっていた。ただし、撫でられる本人を除いて、だ。
チョロ松の言う通り、おそ松は撫でられる事にいつまで経っても慣れなかった。口実を作って何度も何度も撫でられているというのに、その頭に優しく触れられる度にぶわっと赤面させて、固まったり逃げたり殴りかかってくる。どんな対応を取られても初々しいその姿にカラ松は微笑ましい気持ちになるだけだ。撫でられる事に慣れさせて、一番最初に見たあの笑顔を引き出す事が最終目的ではあるが、迫力が全くない怒り顔で睨み付けてくる照れた顔もまた、何度見ても見飽きない可愛らしさなのだった。
背を向けていたおそ松は、チョロ松の言葉を聞いてばっと起き上がってきた。顔には心外だと書かれている。

「ちが、俺のせいじゃねーし!だってこいつが!」
「俺が?」

おそ松はビシッとカラ松を指差してきた。ただ撫でているだけで他に特別な事はした覚えがないカラ松は、瞬きをしながら次の言葉を待つ。勢いよく口を開けたくせに次がなかなか出てこず、あーとかうーとかおそ松は必死に呻いていた。まだ赤みが消えない頬が可愛い。

「こいつが、カラ松が!その、ほら、俺撫でてくるたんびに、こいつの顔がだんだんさぁ……!」
「ん?」
「っっ〜〜〜何でもねえよっ!」

続きを促すようにじっと見つめていれば、何故かだんだん顔面を真っ赤に染め上げていったおそ松は、やがて何かに耐え切れなくなって立ち上がる。そのまま戸惑うカラ松と呆れるチョロ松を部屋に残してバタバタと部屋から外へと出ていってしまった。足音が荒々しく階段を登って、途中でずるっと滑ってこけて、慌てる様に子供部屋の襖が開いて閉じる音が聞こえて、そしてようやく静かになる。訪れた静寂の中で、カラ松は一人ぐっと握り拳を作っていた。
今の、どうしてか分からないが照れまくってたおそ松も可愛かった。特に途中慌てすぎて足を滑らせたのなんて最高に可愛い。音だけでなく是非ともこの目で見たかった。惜しかった。

「……しかし、おそ松は一体何を言おうとしていたんだ」
「あー……僕はまあ、兄さんが何が言いたかったのか何となくなら分かるかな」
「本当か、チョロ松」

期待を込めた目で見つめれば、チョロ松は何故だかとても嫌そうな顔をした。カラ松自身に嫌悪を抱いている、訳では無く、とてつもなく面倒くさい事に巻き込まれているのが嫌でたまらなさそうな顔だった。

「お前がおかしいってさっき言ったろ。おそ松兄さんに異様にくっつくようになってからカラ松さ、どんどん表情とか、雰囲気が何か、変わってきたっていうか……」
「ほ、本当か?」

自分でまったく自覚の無かったカラ松は慌てた。一体何がどう変わったのかと不安に思ってチョロ松を見返せば、仕方なさそうに答えてくれる。

「そうだな……トド松はこう言ってたよ、うっとおしいって」
「う?!」
「一松は死ねって」
「辛辣?!」
「十四松は……あー、カラ松兄さんすげえ幸せそう、って言ってた」

弟たちのあまりの温度差がある意見に、カラ松の頭は混乱した。一つ一つ飲み込んでいって、最後の十四松の言葉を理解した瞬間、すとんと気持ちが収まるべき所へ収まった心地がする。
幸せそう。幸せ。なるほど確かに、ここ最近のカラ松は幸せだった。確かにそうだ。

「……そうだな、この感情に名前を付けるとしたら、確かに幸せ、が一番しっくりくるのかもしれない。俺は今、極上の幸せに包まれている!」
「へー」

すごくどうでもよさそうな返事を気にもせずに、カラ松はちゃぶ台に身を乗り出して語る体勢に入った。対するチョロ松は諦めの境地のような顔をしている。

「聞いてくれるか、この間俺が至った世界の真理の全てを」
「はあ。……ま、今までおそ松兄さんに絡んでた時にしか感じてなかったそのクソウザいオーラが最近よく見える様になった理由は、ほんの少しだけ知りたいかな」
「そう!全てはおそ松兄さんから始まったんだ」

カラ松は対面するチョロ松を熱い瞳で見据えた。興奮に輝く顔と、白けた半眼の呆れ顔、対照的なほぼ同じ顔がちゃぶ台越しに合わされる。カラ松は至極真剣な声色で口を開いた。

「チョロ松、知っているか。実は、おそ松兄さんは……可愛いんだ」

とっておきの秘密を話すように、そっと潜められた声の後は。たっぷりと耳に痛いほどの静寂が挟まれた。チョロ松は体感的に言えば小一時間ぐらい固まった。

「…………。………………は?」
「俺はつい先日その事実に気付いた!偶然だ!しかしきっと必然だったのだと思いたい……それほどまでに今まで気づきもしなかった過去を後悔したからな。お前も見ただろう、さっき俺に撫でられた時の兄さんの顔!反応!」
「ああ……うん……」
「めちゃくちゃ照れてたな、あの兄さんが!あのおそ松が!お酒も飲んでないのに真っ赤になって!逃げるんだ!怒るけど少しも怖くないんだ!あのおそ松がっ!殴られてもケロッとすぐに復活する大胆不敵なあの人が!頭を柔らかく撫でられただけであれ!体を震わせて口元引きつらせて、ものすごく照れるんだ!涙目で!おそ松が!ああっ!」

バン、と拳でちゃぶ台を激しく叩きながら、カラ松は感極まって叫んだ。

「っ可愛い!!」

ぜえはあと興奮に息を乱すカラ松に、少しだけ体を逸らしたチョロ松は、

「……そう、だね……」

思わずぎこちない相槌を打っていた。いつもは兄弟間でも立場が悪い情けない一つ上の兄が、ここまで迫力のある力説を披露するのは初めてではないだろうか、と。気圧されて、ツッコむ余裕も無かった。

「しかも、しかもだ。その可愛い姿をもっと見るために撫でてやる機会を窺っていると、だ。俺はまたしても真理に近づいてしまった。気付いてしまった。こんな素晴らしい事に何故気付かなかったのかと、俺は俺の今までの二十数年の人生が信じられなくなったほどだ……」
「へ、へえ……それって……?」
「聞いてくれ、チョロ松。そしてお前もこの世界の真理に気付いてほしい!」

ただでさえ目力のあるカラ松の熱烈な視線を受けて、チョロ松はごくりと喉を鳴らした。どんな言葉が飛び出してくるのか覚悟するその耳を、カラ松の熱の篭った低い声が鋭く貫いた。

「おそ松は、おそ松兄さんは、実は……照れた時だけでなく、むしろ日常的に、四六時中、可愛いんだ!」
「………」

カッ、と。目を見開くカラ松に、チョロ松はもはや無言で答えるしかない。

「じっと見つめてたら、何かだんだん全てが可愛く思えるようになったんだ。寝起きの寝癖付いたぼやぼやの顔とか、退屈そうにテレビ眺めている姿とか、こっちの都合考えずに遊べ遊べってくっついてくる我儘な態度とか、競馬に勝って嬉しそうな顔もパチンコに負けて不機嫌そうな顔も、全部全部!おそ松がそこに存在して息をしているだけで、胸の内からこう灼熱のパッションがみなぎってきて、可愛いという想いだけが俺の脳を支配するんだ!たまらなくなるんだ!」
「…………」
「チョロ松、お前はおそ松兄さんを見て何か込み上げてくるものはないのか?!あの人の一挙一動が可愛くて仕方なくならないか?!もっと色んな可愛い姿を見てみたいと思わないかっ?!」

バンバンと、ちゃぶ台を壊しかねない勢いで叩いてみせるカラ松。そんな大興奮の兄に、チョロ松はしばらく無言を貫き通した。やがて、細くて長い溜息を体中の空気が無くなる勢いではあぁ、と吐き出してから、何とも言い難い表情でカラ松を見る。

「……カラ松、あの、その……それってさ……」
「ん?」
「……いや、なんでもない。これは僕の口から、他人から言うべき事じゃないだろうし」

ぶつぶつと独り言を呟いてかぶりを振った後、チョロ松の呆れながらも真剣味を帯びた瞳がカラ松を見据える。正面からの視線に、カラ松は自然と背筋を伸ばしていた。

「とりあえずさ、お前は今のそれをもうちょっとオブラートに包んでおそ松兄さんに伝えておいた方がいいよ」
「へ?」
「ちょうどこの間相談された所だったんだ。最近カラ松がしつこいほど嫌がらせしてくる、俺何かしたかな、って」
「な……?!」

カラ松の全身に衝撃が走った。嫌がらせ……嫌がらせ?!もしかして今までの可愛い姿を見たいがための撫で撫でを、全てそうやって捉えられてしまっているのだろうか。思わずその場から立ち上がる。

「ち、違う!俺は断じてそういうつもりでおそ松を撫でていた訳では……!」
「あーうんそれは今日話を聞いてて嫌でも分かった。まあ、成人男性相手に可愛いからって理由も正直どうかとは思うけど、少なくとも悪意があってやってる訳じゃないって本人に伝えておいた方がいいんじゃない」
「そ……そうだな、そうする。ありがとう、チョロ松」

善は急げだ。さっそくカラ松は二階に逃げていった兄を追いかけるために居間を出た。そのまま階段へ向かう後姿を、チョロ松が頬杖をついて見送る。誰もいなくなった部屋の中で、重苦しい溜息が一つ、零れ落ちた。

「……はあ……。馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたけどあそこまで馬鹿だったとは……。実の兄が実の兄に、なんて、知りたくなかったわ……」

しかも本人は完全に無自覚だし、と。ゴツンとちゃぶ台に突っ伏した憂鬱な独り言を聞く者は、残念ながら誰もいなかった。





「……おそ松?入るぞ」

二階の子供部屋の襖を恐る恐る開くが、呼びかけに答える声はいつまで経っても返ってこなかった。顔を覗かせたカラ松は、その理由をすぐに知る事が出来た。ソファの上でころりと丸まった赤い背中がこちらに向けられたまま、くうくうと健やかな寝息を立てている。どうりで静かな訳だ。音を立てないように部屋の中へ滑り込んで、決して起こさないようにそろそろと近づいた。そうして背もたれに向けられたその顔を覗き込む。
生まれた瞬間から共にある寝顔を、それでもやっぱり可愛いと思う。勝気な瞳が閉じられた瞼も、穏やかに呼吸しているいつもは生意気な言葉しか吐かない唇も、きゅっと緩く握りしめられた拳も、完全に脱力して気を抜いた状態の身体も、眠りこけるおそ松の全てが可愛い。半開きの口から涎が垂れていようとも、いやだからこそそれが可愛い。噛み締める様に存分に寝顔を堪能した後、ソファの開いているスペースに腰を下ろす。ちょうど寝転ぶおそ松の頭側だった。カラ松は何の躊躇も無く、ごく自然にその頭を撫でていた。
もしその行為が、おそ松の反応を楽しむためだけにやるものだとしたら、意識の無い今ではまったく意味の無い事だ。それでもカラ松は撫でたかったから撫でた。深くは考えていない。元々深くは考え込まない性質だ。撫でたかったから撫でる、それだけなのだ。この時点ですでに、目的と手段が最初の時から入れ替わっている事になど、カラ松が自分で気付く訳が無かった。
可愛い兄の頭をただ静かに撫で続ける今が、カラ松にとっては何よりも満たされた時間だった。それだけでよかった。

「……んー……?」

どれほど経った後だろうか、むずがるように呻いたおそ松が、ゆっくりとその瞳を開かせた。起こしてしまったか、と申し訳なく思いながらも撫でる手は止まらない。さっきの目覚める時のどこか幼い仕草も可愛かったし止められる訳がない。
しばらくぼんやりと視線を宙に漂わせたままカラ松の手を受け入れていたおそ松が、首を動かして見上げてくる。寝ぼけ眼とカラ松の視線が交わる。撫でてくる感触と、それを誰がもたらしているのか、ぼんやりと認識したおそ松が眠そうなその表情を、少しだけ崩した。

(……えっ?)

カラ松の目が見開かれる。その反応に、我に返ったおそ松の眠気もパッと覚めたらしい。カラ松を呆然と凝視したかと思えば、慌てて体を起こしてきた。

「び、びっくりした!おいこらカラ松ぅ、人の寝込みを襲うなんて趣味悪いぞ?きゃーっけだものーっ」
「ち、違う、別に何もしてない。俺はただおそ松を撫でてただけだ」
「何もしてなくないじゃねーか!ばっちりしてんじゃねーか!舐めんな!」

ぷんすか怒るおそ松に、しかしカラ松はしどろもどろの返答しか出来なかった。それほど今の一瞬の光景に心を奪われてしまっていたのだ。あの、おそ松が寝ぼけたままカラ松を見とめた、一瞬。かつて一度だけ見た、未だ二度目は見られていないあの表情が。全てを受け入れ拒まず微笑むあの蕩けるような笑顔が、微かに浮かべられたような気がしたのだ。本当に一瞬の出来事だったので、気のせいだと言われても否定はし切れない。今のすっかり目が覚めたおそ松には、先ほどの柔らかな名残なんて欠片もなかった。

「っよし、良い機会だから言っておくぞ、カラ松」

カラ松が脳内で混乱を極めている内に、対面したおそ松は何事かを決めたらしい。覚悟の灯った瞳がじっとカラ松を見つめてきた。ああ、珍しく真剣なその顔もまた可愛い。

「単刀直入に聞くけど、俺、お前に何したっけ?」
「……えっ?」
「えっ、じゃないよ。いつもは怒った事もすぐに忘れるお前がこんだけ長い間俺の事辱めてくるんだから、相当やらかしちまったんだろ?でも悪いけど、俺には心当たりがさっぱりないんだわ。だから教えて。お前何に怒ってんの?」

ほぼ睨み付けるようなおそ松の視線に、カラ松は疑問でいっぱいだった。一体何のことを言っているんだろうこの人は。最近は怒るどころか、おそ松には幸福しか感じていないというのに。そこでピーンと、先ほどのチョロ松の言葉を思い出す。
そうか、この兄は本当に勘違いをしているのか。弟が嫌がらせの為だけに自分の頭を撫でて来るのだと思ってるんだ。理解したと同時に、カラ松は思わず勢いよくおそ松の肩を掴んでいた。

「ち、違うっ!俺は別におそ松に対して怒っている訳でも、嫌がらせで頭を撫でている訳でもない!」
「はあ?!じゃあなんで撫でてくんの?!俺めちゃくちゃ嫌がってたじゃん!恥ずかしいんだよ!何が悲しくてお兄ちゃんが弟に頭撫でられないといけないんだよ!」
「別に、弟が兄さんの頭を撫でちゃダメだって決まっている訳じゃないだろ!」
「決まってますー!お兄ちゃん憲法ではしっかりはっきり決まってます―!はいカラ松くん有罪!これからは俺の頭一切撫でてくんなの刑で!」
「!!そ、それはとても困る!嫌だ!」

さっと顔を青ざめさせて必死に肩を揺さぶるカラ松に、おそ松は怒る事も忘れて怪訝そうな顔を向けてくる。

「いや、何で途端にそんな死にそうな顔するんだよ。え、なに、お前そんなに俺の頭撫でたいの?」
「撫でたい!とてつもなく撫でたい!禁止なんてされたら、これから俺はどうやって生きていけばいいんだっ……!」
「怖っ!何その執念!何でだよ!何でそんなに俺の頭なんか撫でたいの?!」

怯える様に尋ねてくるおそ松の疑問に、カラ松は顔を上げた。しっかりとおそ松の瞳を見つめて、言い聞かせるように、もう二度と勘違いなどさせないように、己の想いを口にした。

「おそ松が、可愛いからだ」

単純明快。但しカラ松にとっては。そんな一言を伝えれば、おそ松はパチ、と瞬きをしてから、ゆっくりことんと首を傾げた。可愛い。

「……………は?……え、何て?」
「だから、おそ松が可愛いから撫でたいんだ。だって、可愛いから撫でたいし、撫でればさらに可愛いだろう?」

いや、だろう?って言われても。おそ松の理解出来なさすぎて真っ白になってしまった頭は、しばらく働こうともしてくれなかった。そんな固まった頭を、カラ松が落ち着かせるように優しく撫でる。その表情は微笑ましそうに、慈しむように笑っている。
ほら、今の顔。何も考えられない頭でぼんやりとおそ松は思っていた。この顔だ。カラ松が最近浮かべるようになったこの、むず痒くなるほど優しいこの表情。ある日突然どうでもいい事を褒めながら頭を撫で始めた次男が、だんだんとその顔に幸せそうな笑みを色濃く乗せるようになってきて、おそ松はそれがとてもとても苦手だったのだ。元々頭を撫でられる事が今まであまりなかった事も相まって、最早こいつ嫌がらせかっと思い込むほどに。
別に嫌いではない。ただただ、その慈しむような表情を己に向けられるのが、恥ずかしいのだ。

「……か、わ、いい……?」
「ああ」

おそ松が尋ねれば、カラ松は当たり前の事のように頷く。「おそ松は可愛い」という真理に辿り着いたカラ松に、それを肯定することへの躊躇いなど欠片も無かった。

「おそ松は撫でると照れるだろう?その時の真っ赤になった顔が可愛いって思ったのが始まりだったかな。照れ隠しに逃げたり殴ったりして誤魔化そうとするのも可愛かったし、そう思うと日常のありとあらゆるおそ松に可愛さを感じてきたんだ。可愛いって思ったらその頭を撫でたくなるし、頭を撫でたらまた反応が可愛いし、つまりはそんな感じで今までずっと撫でてきた。誤解をさせてしまったのなら謝る。俺はただ、おそ松が可愛いから頭を撫でていただけなんだ」

何となく、本当に一番最初に「可愛い」と思ってしまった、酔った席でのあの柔らかな笑顔の事は言い出せなかった。あれはお酒の力を借りて見る事の出来た奇跡だ。今度は自分の手であの笑顔を引き出してやりたいという、カラ松の意地みたいなものである。それを見る日までは、本人にも内緒にしておこうと思ったのだった。それほどあの時のおそ松の笑顔はカラ松にとって特別なものだった。
一方のおそ松はまだまだ呆けている。生まれて初めて聞いた可愛いの乱舞が、向けられているのが自分自身である事をなかなか受け入れられない。普段からよく見ているごく普通の表情をしている弟へ、おそ松は乾いた唇を無理矢理動かした。

「……カラ松」
「うん?」
「お前……俺の事、可愛いって思ってんの?」

このカリスマ、レジェンド、人間国宝。男の中の男、松野家長男松野おそ松様の事を。

「ああ、もちろん。だっておそ松は、こんなに可愛いじゃないか」

一点の曇りもない笑顔で、カラ松は可愛いと言った。あの、おそ松が苦手な慈愛溢れる笑顔で。愛しいと全力でこちらに伝えてくるような溢れんばかりの幸福そうな笑顔で。
普通、男に向かって可愛いなんて、褒め言葉にもならない。むしろ侮辱されていると取られても仕方がないだろう。しかも男から男へ。同じ歳の兄弟から兄弟へ。弟から、兄へ。馬鹿にされているとしか思えない。思えない、のに。
嘘をつくのが下手くそな弟の事を、誰よりも理解している長男は分かってしまうのだ。この、目の前で笑っている男が、心の底から、本気で、おそ松の事を可愛いなどと思っている事を。そしてそれを全力で好ましいと思っている事を。

「…………ば、」

理解して、理解してしまって、おそ松の震える喉が紡げたのは、たった一言だけだった。

「ばっかじゃねーの……」

へにょへにょな情けない声を出しながら、さらにおそ松は自分の今の状況についても正確に把握できてしまっていた。多分今、自分の顔が、トマトのように真っ赤に染まってしまっている事。体中が熱くて、ぷるぷる震えている事。胸の奥から込み上げてくるこの激情が一体どんな名前を持つかなんて、考えたくもない。
死ぬほど恥ずかしすぎて、これほどまでに泣きたくなった事なんて、生まれて初めてだよ!

「お、おそ松……」

そんな、自分が本気で可愛いと言われている事を理解してぷしゅーと湯気を出しながら全身を赤く染め上げて俯いてしまったおそ松の一部始終を、目の前でばっちり目撃してしまったカラ松もまた、固まっていた。これだけ激しく照れる兄の姿なんて初めてだったし、何よりも衝撃的だったのだ。
こんなにも可愛らしい姿を、頭も撫でずに見る事が出来たなんて!

「……おそ松」
「……なに」
「可愛い」
「っ?!」

バッと顔を上げたその瞳は、今にも零れてしまいそうなほど潤んでいる。可愛いって言われただけで、こんなに照れている。カラ松の背筋を恐ろしい勢いでゾクゾクと何かが這い上がっていった。
うわ、何だこれ、可愛い!可愛すぎる!!
衝動のままにソファの上でじりっと身を乗り出せば、その分おそ松がじりっと後ろに仰け反る。ソファについた手の先までもが赤く染まっているように見えた。

「可愛い」
「っや、め……」
「可愛いよ、おそ松」
「っっっ!!」

とびきり甘い声で囁く。その身に纏う赤色パーカーと見分けがつかなくなるほど真っ赤な涙目の顔が、可愛いって伝えるだけでこんなに可愛い!と調子に乗った幸せそうな顔と、正面からかち合う。ブッチーン、と何かが切れる音が、二人の脳内に響き渡った。カラ松は生まれてから二十数年、この兄の一つ下の弟として生きてきた経験による勘にて察した。
あ、やりすぎた。

「ってめぇコラいっぺんマジで死ねーッ!」
「おそま、ッガフゥ!!」

渾身の右ストレートだった。あの体勢でどうやってこんな鋭い一撃を、と十人中十人が感心するような拳が、カラ松の顔面に突き刺さった。ソファのおかげで背もたれにガクンと引っかかる事が出来たが、それがなければ後方へどのぐらいぶっ飛んでいた事だろうか。壁を突き破っていたかもしれない。立ち上がったおそ松はさらに足を振り上げた。

「ふんっ!」
「ヒギィ!!」

鳩尾を全体重かけて踏まれ、息を失う。股間に踵が振り降ろされなかった分だけ、慈悲があったと見るべきか。ドスドスドスと荒々しい足音を立てて部屋を横切ったおそ松は、振り返る事無く立ち去り、かけてやっぱり一回だけ振り返った。瀕死のカラ松の視界にも、かろうじてその顔が映り込んだ。

「……カラ松のバーーーカ!!」

ガラッバシーン!部屋の襖が壊れんばかりに開けられ、閉められる。階段を駆け下りる音がやっぱり一回合間に滑ったのを聞き届けながら、カラ松は痛みに霞む視界で天井を眺めていた。体の半分はソファの上から落ちてしまっているが、今は指一本も動かせ無さそうだ。ああ、多分鼻血出てる。これ鼻折れてるのかな。
どれぐらい一人でそうしていただろうか。やがて宙に浮いたままの視界に、ひょっこりと誰かの顔が覗き込んできた。うわ気持ち悪い、と呟いたのは、さっきカラ松の背を押してくれた大事な弟の内の一人だ。

「おそ松兄さん、さっき真っ赤な顔で慌てて外に飛び出してったけど……お前何したの。生きてる?」
「……かろうじて」
「ああ、そう。………。……なあ、カラ松、」

今世紀最大の呆れ顔を見せながら、チョロ松は半眼でカラ松を見下ろした。

「なんか今のお前、ムカつくほど幸せそうだな」
「っああ……!もちろんだ!!」

殴られ踏まれ、顔面を鼻血で赤く染めながらもカラ松は、さっきから収まる事の無いだらしがないにやけ顔で、勝利の拳を掲げていた。
赤く染めた目元を潤ませたまま、必死に威厳を保とうと睨み付けて、語彙力の少ない子供のような捨て台詞を吐いて逃げていった、反則的に可愛すぎる先ほどのおそ松を思い出しながら。

ああー!俺の兄貴がこんなにも、可愛い!!






16/01/30



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