闇からの声






光が見える。
光に包まれる。
暖かいような、そうでないような。
分からないのは、自分の身体が消えかかっているからか。
何も見えない。
何も感じない。
ただ分かるのは。
この腕に、誰かを抱きかかえている事だけ。

目を閉じる。
誰かが、呼んでいる気がした。



そんな、夢を見た。





ルークが目を覚ましたのは、当たり前のように自分の部屋だった。カーテンの隙間から漏れる朝日の眩しさに少しだけ目を細めながら、見慣れた天井をぼんやりと眺める。広いお屋敷と比べて、まるで鳥かごのようにこじんまりとした印象を受けるこの我が部屋を、ルークは案外気に入っていた。
やがてゆっくりと身を起こし、寝起きの頭をじんわりと働かせる。今まで、夢を見ていた気がする。途方も無く長かった気もするし、あっという間に終わった気もする、不思議な夢だった。夢を見ていた事は覚えているのに、肝心の内容はさっぱりと忘れてしまっている。ルークはベッドから立ち上がる事もせずに、ひたすら思い出そうとしていた。
それは、何かとても重要な夢だったのではないか。そう感じたからだった。
しかしルークの微弱な思考は、部屋の扉を開けた人物によってあっさりと霧散した。


「よっルーク、おはようさん。珍しいな、お前が起こす前に起きてるなんて」
「あ……ガイ、はよ……」


爽やかな朝に大変見合った笑顔で片手を上げてきたのは、使用人兼親友のガイだった。彼はルークが幼い頃から何かと世話をしてくれている人物で、兄のような存在でもある。ねぼすけなルークを起こしに来るのも大抵ガイの仕事だった。


「っても、まだ半分寝てるみたいだな。本当にお前は朝に弱いんだなあ」
「うるっせえな……今日はちょっと、夢を見てたせいだよ」
「へえ、夢?一体どんな夢だったんだ?」


カーテンを開けながらガイに問われて、床に足をつけてベッドに腰掛けたルークは再び考えてみる。会話をしたおかげで若干冴えてきた頭だったが、それでも夢についての記憶はもやが掛かっているように曖昧にしか思い出せない。とうとうルークは首を振って諦めた。


「内容は忘れた。けど、何か気になる夢だったんだよな、多分……」
「ああ、そういう事たまにあるよな、見たはずの夢を思い出せない事。俺も何度かあるよ」


うんうんと同調するように頷いてみせたガイは、優しくルークの肩に触れて、そして離れていく。部屋から出る前に笑顔でルークを振り返った。


「さあルーク、いつまでも夢の世界に浸ってないで、早く起きろよ。いくらこの屋敷から出られないって言っても、規則正しい生活は心がけなきゃな」


励ますように、背中を押すように支えてくれるこのガイの笑顔には何度も救われているような気がする。ルークも笑みを浮かべて頷いてから、己の短く切りそろえた頭をガシガシと掻いて、立ち上がった。
ガイの言う通りだ。この屋敷から外へ出る事は許されていないが、だからと言って寝て過ごす訳にはいかない。剣の稽古とか、勉強とか、この狭い世界の中でも自分が出来る事、やるべき事は探せば沢山ある。それを地道にこなしていかなければ。
……そう考えているルークの頭に一瞬、何かの違和感が過ぎった。瞬きをする間にその違和感は跡形も無く消えてしまったので、結局ルークはその事について考える事は無かった。

部屋から一歩外に出て、ルークは伸びをする。降り注ぐ光に照らされた中庭はどこか色あせて見えた。理由は簡単だ、きっと花壇に何も植えられていないからだろう。かつては庭師のペールの手によって美しく色とりどりの花が咲き誇っていたはずだが、いつからこの中庭はこんなにも殺風景になっただろうか。彼に暇が与えられて、庭を整備する者が誰もいなくなったせいだろうか。はっきりしない。何故か思い出せないルークはその事について考え込む、前に目の前に現れた人物に思考を停止させる。
こちらに背を向けて、中庭をじっと眺めている自分とほぼ同じ背丈の背中。くすんだ色しか存在しない中庭の中心で、その赤だけが鮮烈なまでにルークの瞳に突き刺さる。思わず声を失う目前で、その燃えるように赤く長い髪が踊り、こちらを振り返った。


「………」
「あ、アッシュ……」


ルークはかろうじて相手の名前を呟いた。そのまま何か言おうと一歩足を踏み出すが、一度睨むようにルークを一瞥したアッシュはすぐに視線を逸らし、屋敷の中へと歩き去ってしまう。ルークはその後ろ姿を追いかけることが出来なかった。ただ中庭から去るその背中を見送る事しか出来ない。一言も会話することなく行ってしまったアッシュの消えた入り口を、しばらく立ち尽くして眺めていた。
そこへ、後ろから声を掛けられた。ルークの元へ戻ってきたガイだった。


「ルーク?そんな所に立って、一体どうしたんだ?」
「ガイ……。今、アッシュがいたんだ」
「アッシュが?」
「うん、話しかけようとしたら、すぐに行っちまったけど」


そうやって寂しそうに俯くルークの頭を、ガイはぽんぽんと撫でてくれた。


「仕方ないさ。いつかアッシュともちゃんと話せる日が来るだろ。今はまだ、そういう時期じゃないだけだ」
「そう、かな。俺もアッシュに、きちんと認めてもらえる日が来るかな……」


名残惜しむように、ルークの視線はアッシュが向かった方へ向けられる。ルークはアッシュのレプリカだ。自分の代わりとして作られた、劣化した紛い物を簡単に受け入れられない気持ちはルークにもよく分かる。だがしかしそれでも、ルークはオリジナルのアッシュに少しでも自分の存在を受け入れてもらいたかった。きっと時間はかかるだろうが、いつの日か。こうやって一緒に暮らしている間に、少しずついろんな話をして、分かり合えればいい。
その時ルークを、またしても何かの違和感が襲う。この気持ちが何に対しての違和感なのか、ルークにもよく分からない。まるで目に見えない歪みを突き付けられたかのような一瞬の不安。その気持ちは、やはりすぐに跡形も無く消えて感じ取る事も出来なくなってしまうのだが。


「きっといつか来るよ、大丈夫さ。ほら、朝飯が出来てるぞ。奥様達も待っているから、早く来いよ」
「……うん」


ガイに促され、後ろ髪を引かれるような思いを何とか飲み込み、ルークは踵を返した。その後ろ姿を、建物内からアッシュがじっと見つめている事には、とうとう気付けなかった。




母と、今日は珍しく一緒になった父と共に朝食を食べ、いつも通りの変わらない毎日を過ごす。ルークの活動できる世界は、この広くて狭い屋敷の中だけだ。面倒だけど勉強したり、本を読んだり、軽く体を動かしたり、気まぐれにガイの仕事を手伝ってみたり。誰かしら訪問者がいれば退屈しないで済むが、そう毎日訪れるものではない。今日もルークはここまで読もうと決めていた本をさっさと読み終えてしまって、頭を休ませるために中庭の片隅で休憩中であった。
ベンチに腰を下ろし足を投げ出して、ぼんやりと空を見上げる。ルークのぼんやりとした思考がそう見せるのか、頭上には靄がかかったように真っ白なはっきりとしない色が広がっている。何も生えるものが無いこの中庭と相まって、世界がモノクロで味気のないものに映る。
ここには、何もない。朽ち果てた花壇と、色を失った景色と、ルークがいるだけだ。最早何も考える事無く、ただただ空を見つめる。いつもの事だった。何もないこの屋敷の中で、ただこうして暮らすだけ。ゆっくりと瞬きをしながら、ルークは今日も一日が過ぎるのを待っていた。それだけだった。
そんな閉じこもった毎日が、今日も続くものだと思っていた。



「おい」


その、唐突に聞こえた誰かの声が自分に向けられている事に気付いたのは、数秒経った後だった。動かない空を見つめ続けていたルークは声を頭で理解した後、ぱっとベンチから跳ね起きる。視線を空から正面に戻せば、真っ直ぐ強い翡翠の瞳に貫かれた。今までぼおっと色のない空を見つめていたルークにとって、痛みさえ感じるほどの視線だった。


「え、あ……アッシュ?」


ルークに話しかけてきたのはアッシュだった。今まではルークに自ら近寄りさえしてこなかったのに、今日はどうした事だろう。驚きのあまり呆然としているルークへ、アッシュはつかつかと距離を詰め、胸倉を掴まんとする勢いで口を開いてきた。


「いい加減にしろ!」
「……へ?」
「いつまで放っておくつもりだ、屑が!自分で何とかするまで待ってやろうと思っていたが、うるさくて敵わねえ!さっさとどうにかしやがれ!」
「え、えーと、アッシュ、俺、何の事だか……」


いきなり怒鳴られる理由もその言葉の意味もさっぱり分からない。戸惑うばかりのルークに盛大に舌打ちした後、アッシュは真っ直ぐとどこかを指し示した。


「あれだ、あれ!まさか、気づいていないとは言わせねえぞ!」
「あれ、って……」


アッシュが指した方向を見て、ルークはさらに困惑した。まっすぐ伸ばされた指の先をいくら辿ってみても、その目には中庭からしか出入りの出来ないルークの部屋しか存在しなかったのだ。あの部屋の中は少しだけ散らかっているぐらいで、部屋に出入りしないアッシュが怒るようなことは特に何もないことなど、ルーク自身が一番よく知っている。アッシュがあの部屋を指して何を言いたいのか、いくら考えても分からなかった。
そんなルークの戸惑いが伝わったのだろう、アッシュの眉間がさらに不機嫌そうに寄せられる。せっかく面と向かって会話をしているのにむやみに怒らせたくはないが、さすがのルークもどうしていいか分からない。しばらくそのまま、怒った様子のアッシュと困った様子のルークは硬直したように見つめ合う事となった。
先に動いたのは、大きなため息をついたアッシュだった。


「……あんなにうるせえ声に気付いていられないとは、随分と鈍感野郎だなてめえは」
「は?うるさい……?」
「いいから。さっさと行って泣き止ませて来い。今すぐだ!」


ピシャリと言いつけると、アッシュはもうルークを顧みる事なくさっさと歩いて行ってしまった。ぽかんと立ち尽くしたルークが我に返ったのは、アッシュがいなくなってしばらくした後の事。慌てて辺りを見回しても、アッシュはおろか誰一人として姿が見えなかった。さっきのはどういう事だろうと他人の意見を聞く事は出来なさそうである。ガイでも探してみようかと一瞬思ったが、その過程でアッシュに見つかってしまえばさっさとしろとさらに怒られることになりそうだ。
困り果てたルークは、とりあえずアッシュの言う通り自分の部屋に帰ってみる事にした。その心中は半信半疑である。アッシュの言う事に間違いはないだろうという根拠のない確信と、何も聞こえないのに何を馬鹿な事をという思い。
泣き止ませて来い、なんて。ルークは首を傾げる。泣いている誰かがルークの部屋にいるとでもいうのだろうか。ルーク以外の誰も、あの部屋にはいないはずなのに。




果たして、すぐそこに見えていた馴染みの我が部屋へ辿り着いたルークは。何の変哲もない部屋の中央に立ち、ぐるりと見回してみた。あちこちを注視してみても、今朝起きた時そのままの景色しか映らない。アッシュの言っていた声も音も気配も何も感じ取る事が出来ず、予想通りの結果にルークは息を吐く。しかしこのまま、やっぱり何もなかったと言ってアッシュが納得するだろうか。ここで毎日を過ごすルークが気付かないような声とは一体どんなものなのか。
泣き止ませろと、アッシュは言った。つまりその声は泣いているのだろう。泣き声、泣き声と頭の中で念じながら、目を閉じて耳を澄ませてみる。この部屋で、今までこうして耳を澄ませた経験など無かった。そんな事は必要ないほどの狭さであるし、この空間で声を上げるのは部屋の主であるルークと、起こしに来るガイぐらいだ。隠れる場所が何もないはずのこの部屋で、それでもルークは隠れた何かを聞こうとする。どんなに信じられない話でも、アッシュの言う事ならば間違っていないはずだと、何故かそう思うから。
そうして、どれぐらい立ち尽くしていただろうか。自分の呼吸の音しか聞こえてこない無音の世界で、やっぱり何も聞こえないじゃないかと諦めようとした時だった。


……―――ぅ……

「……っ?!」


聞こえた。何も聞こえないはずの耳に、確かに今何かが届いた。弾かれたように顔を上げたルークは、今感じ取ったものを逃さないうちに声の出所を探そうと視線を彷徨わせる。しかしそうやって急ぐ必要は無かった。一度聞こえ始めたそのか細い声のような音は、もうルークから逃げようとはしない。いや、一度音を拾ってしまったこの耳が、逃げるのを諦めたせいか。とにかくその声は、どれだけ小さくなろうともルークの耳に聞こえ続けた。おかげでルークは部屋の中をじっくりと見渡し、とうとうどこから鳴り響いているのか、特定することに成功する。


「……あっ」


思わず口が開いた。どうして今まで気にもしなかったのだろうと思う場所だった。確かにこの、部屋の隅に備えられたクローゼットであれば、誰かしら隠れる空間が存在していてもおかしくないだろう。ルークはゆっくりと歩みを進めて、クローゼットの前に立った。声は目の前の扉から漏れ続けている。人ひとりはゆうに入り込めそうな、大きなクローゼット。
扉の取っ手に手を伸ばしながら、ルークは声の主が誰であるか考えていた。非常に小さなその声は、なるほどアッシュの言う通り泣いているようにも聞こえるし、そうでないようにも聞こえる。懐かしいほど聞き覚えのあるような声にも思えるし、まったく聞いたこともないような声にも思える。曖昧な印象の中でただ一つだけはっきりしているのは、その声がまるで誰かを呼んでいるように響いている事だけだ。いや、こっちへおいでと呼んでいるというよりは、ここにいるよと知らせようとしているような。そんな風に聞こえる声。
こんなか細い声で知らせるぐらいならこの中から出てくればいいのにと思いながらルークは、同時にクローゼットについても考えていた。最近使用した記憶が一切ない、だからこそ誰かが隠れる事が出来たのだろう。いつから使ってなかっただろうか。
そもそも。


(こんなクローゼット、この部屋にあったっけ?)


そっと取っ手に手を掛けた途端、突然胸の奥から膨らんでくる不安や嫌悪、恐怖にも似たドロドロとした黒い感情に恐れ戦く。訳が分からないまま、今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られるが、先ほど強い瞳で訴えかけてきたアッシュの顔が頭を過ぎり、辛うじて踏みとどまった。


「っ……くそ!何なんだよ!」


自らを奮い立たせるように声を上げ、震える指で取っ手をしっかり握りしめたルークは、勢いのままクローゼットを両手で開け放った。目の前に広がったのは、服でも荷物でもなんでもなく、ぽっかりと空いた真っ暗闇。
吸い込まれそうなほど暗くて寒いその闇の中に、何かがいた。


「だ……誰、だ?」


開けた扉に手を掛けたまま、呆然とルークが尋ねかける。闇の中に埋もれるようにして丸まっていた「誰か」が、その声に反応するように顔を上げた。ルークの瞳と、「誰か」の瞳が、正面から合わさる。
その瞳は、同じ色だった。


にゃあ。


「……は?う、わっ?!いっででで!」


一声鳴いた、と思った「誰か」は一瞬のうちにルークへと飛び掛かり、容赦なく顔をひっかく。悲鳴を上げてルークが飛び退くと、「誰か」はすぐさまルークから離れ、そのままするりと開いていたドアの隙間から部屋の外へと逃げ出していってしまった。ほぼ一瞬の出来事に、ルークの思考も身体もついていかない。引っかかれた鼻先を押さえながら、飛び退いた姿のままゆるゆると座り込む。開け放たれたままのクローゼットは何もない空っぽの中身をさらけ出していて、先ほど感じた途方もない闇などもうどこにも見当たらない。
微かに中庭が見えるドアの隙間に首を巡らせながら、思い出す。突然現れ、突然去っていった「誰か」の姿。まるで、赤々と燃える生きた炎が闇の中から躍り出てきたような、鮮明な光。聖なる焔の光、という単語が自然と頭の中に浮かび上がる。聖なる焔、ならば誰よりもアッシュに似合う名だろうと確信を持って言えるが、そんな神聖なる純粋な赤に光の混じる色というのは、まさしく今のような色を言うのだろう。
そんな、ルーク自身は気づいてもいないが己とほぼ同じ色を持つ生き物が去ったドアを見つめながら、ルークは愕然と呟いていた。


「ね、猫……?!」




闇から声が抜け出たその日。

その時確かに、制止していた世界の歯車がカチリと、ひとつ動いた。



14/05/16



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