あなたが、一番





ある日突然、犬っぽい耳と尻尾が自分の身体に生えてきてから、何日経っただろう。学院から寮に帰る道すがら、伸びをしながら空を見上げてリィンは考える。徐々に暮れてきた晴れた空を眺めていると全てを忘れられそうな気分になってくるが、いくら忘れても自分の頭と尻に生えているふさふさは無くなる事は無い。普段己の目で見る事はあまり無いが、鏡を見ると逃れられない現実にすぐに直面させられるし、なにより見なくても感覚が常に存在を伝えてくる。生えてきた原因も何もかもはっきりとは分からないまま、何事も無く今日まできてしまった。はあと重い溜息を吐いて、リィンは視線を正面へ戻す。
と。

「……あ」

若干伏せ気味だった耳がぴくりと持ち上がる。垂れていた尻尾がふさりと振られる。目で確認するよりも先に体が全力で反応していた。そもそもまだ、今しがた感じた人物を視覚で確認出来ていない。きょろきょろと見回しても見つけられなかったが、リィンはほぼ確信していた。近くにいる。
まるで何かに引っ張られるように駆け出したリィンは、やがて寮の前の坂で目的の背中を発見した。ぶらぶらと歩くその姿を見つけた途端、地面を蹴って突撃する。

「クロウ!」
「うおっ?!」

下り坂なのもあってリィンの勢いは結構なものだっただろうが、背中から飛びつかれたクロウは驚いた声を上げながらも難なくその体を受け止めた。多分気づいていたんだろうな、とリィンは考える。普段おちゃらけた姿ばかり見せるこの先輩だが、意外に周りをよく見ているし気配にも敏感な事を知っている(さすがにこの耳と尻尾が生えた初日部屋に飛び込んだ時は素で驚いていたが)。そしてこういう時には避けたり振り返ったりせずに、あえて気付かなかった振りをして受け止めてくれる事も。甘えてしまっているなあと思っても、つい今のように寄りかかってしまう。
振り返り見下ろしてきた赤い瞳は、予想通り優しく弛んでいた。

「ったく、元気だなー後輩。今日も散々しなくてもいい仕事してきたんだろうに、さすが若いと体力が違うねえ」

同じ学生なのにジジくさい事を言うな、とつっこみを入れようとした所で、ようやくリィンは我に返った。ぎゅっと引っ付いていた背中から慌てて離れる。

「ご、ごごごめん……!クロウを見つけたと思ったらつい走り出してて……!」
「いや、別にいいけどよ。それ何回目だよ」
「うっ……」

身体ごと向き直ってきたクロウに溜息を吐かれ、耳を伏せるリィン。この間から、具体的に言えばこの犬耳と尻尾が生えてきてからというもの、以前は絶対にしなかったであろう行動をとってしまう事が増えていた。今のもその一つである。クロウを見かけると、何故か体中に力がみなぎってきて、全力で飛びついていってしまう。以前その光景をミリアムに見られてしまった時は「まるで飼い犬が飼い主に嬉しそうに飛び掛かっていってるように見えたよ!」と笑顔で言われてしまった。もう止めよう、とあの時ほど固く誓った事は無いはずだったのに。
落ち込むリィンに、そうじゃねえよとクロウは声を掛けた。

「別に飛びついてくるのは良いんだよ。その後そんな風に急いで離れられるとさすがに傷つくだろ。駆け寄ってくるほどオレ様に会えたのが嬉しいのは分かるが、嬉しいなら嬉しいなりににこやかに離れろっつー事」
「う、嬉しいって……確かにその、嬉しくない訳じゃないけど……!」

必至に否定しようとしても、尻尾振りながら飛びついてしまった後なので説得力は無い。それが自分でもわかっているので結局否定しきれずに、リィンは視線を逸らして誤魔化す事しか出来なかった。くつくつと笑うクロウが憎たらしい。

「それにしてもお前、俺の事見つけるの得意だよなあ。今も結構離れた所から駆け寄ってきたんじゃねえの?」
「あ……うん。何となく、近くにいるなって分かったんだ。勘で近寄ってみると、大体当たってる」
「マジか、さすが獣の力……」

呆れたような感心したような目で見てくるクロウを見つめ返すと、リィンは何かに気が付いた。気のせいかもと思ったが、いくら確かめてもその違和感は無くならない。気になるので、尋ねてみる事にした。

「なあクロウ」
「ん?」
「今日はもしかして、トリスタから出ていたのか?ちょうど今帰ってきた所とか」

クロウの表情が一瞬、固まったような気がした。瞬きをしている一瞬のうちにそれは消えていたが、声は若干低くなったように思える。

「何で、そう思うんだ?」
「確証は無いんだが……匂いがいつもとちょっと違う気がして」
「……は?匂い?」

今度こそクロウの表情がまるきり変わった。ぽかんと放心したようにリィンを見てくる。まったく予想だにしていなかった答えだったのだろう。リィンは頷いた。

「今のクロウの匂いはトリスタとは少し違う匂いがしたんだ。さすがにどこの匂いかは分からないけど……だからどこかに出かけていたんだろうなと思って」
「いやいやいや……待て待て。匂いってどういう事だ?お前今までそんな変態的言動とった事無かったじゃねえか」
「変態ってどういう意味……あっ、言ってなかったか」

この犬の耳と尻尾が生えてから、リィンに起こった変化は見た目以外にもあった。さっきの所構わずクロウに飛びつく癖もそうだし、今から話す新たな能力もそうだった。

「実は俺、前よりずっと鼻が利くようになっているみたいなんだ。ものや人って、それぞれこんなに匂いが違うものなんだな、初めて知った。クロウの匂いなんかはもう覚えたぞ」
「……俺の、匂い?」
「ああ。毎日まったく同じって訳じゃないけど、大体これがクロウの匂いだなっていうのがある。……あ、遠くからクロウの居場所が分かるのって、この匂いもあるのかもしれないな。今まで意識した事なかったけど、今度確認してみるよ」

嬉々として語るリィンを、クロウは呆然と眺めてくる。そんなに変な事を言っているだろうかと尻尾を動かしながら首を傾げていると、頭に手を置いてクロウが頭上を見上げた。何だか絶望しているような顔だった。

「何だこの野生児は……ますます厄介になりやがって、今度から匂いにまで考慮しなけりゃなんねえのかよ……」
「クロウ?」
「あー、何でもねえ。しっかし、こうなったら本当にわんこだなお前」
「わ、わんことか言うな」

すぐににやにや笑顔になったクロウに、今の意味深な発言を問い質したい気持ちもあったが、その気持ちはあっという間に消えてしまった。クロウがゆっくりと手を持ち上げたからだ。宙に浮いた手の平を、思わずじっと見つめてしまう。無意識のうちに尻尾が揺れ、耳が待ちわびるように少しだけ伏せられた。クロウが耐え切れないというように笑うが、その手を見つめるリィンは気づかない。
ふらふらと空中を彷徨った手はそんなに焦らすこと無く、リィンの頭の上にぽんと収まった。そのままがしがしと撫で込めば、尻尾が同調するようにパタパタ振られる。

「よーしよし、リィン君はお利口でちゅねー」
「犬扱いもやめろって……!」

こうしてあからさまな犬扱いをされても内心喜んでしまうのだからどうかしている、とリィンは自分で思った。リィンに起こった変化で、周りにも影響を及ぼしている一番の変化はこれだろう。何故か人々は(特にZ組メンバーは)リィンの頭を撫でたくなり、そしてリィンは撫でられると嬉しくなってしまうのだ。これも犬の宿命なのだろうか。まだリィンの中ではこの力が犬のものだなんて、認めたくはない気持ちの方が大きいのだが。
特にクロウ相手だとそれは顕著だった。クロウ自身はどうか分からないが、リィンはクロウに撫でられることがものすごく嬉しくてたまらない。まったく知らない赤の他人に撫でられるのはやっぱり嫌だし、親しいZ組の皆に撫でられるのは恥ずかしくて嬉しい。でもクロウに撫でられるのは他の誰とも違う喜びが溢れてくるのだった。何故クロウだけ違うのか、考えてみた事もあったが結局答えは出てこないままだ。
クロウの手に全てを委ねて大人しく撫でられるリィンの姿を、クロウは目を細めて見つめていた。

「……っとうに、何で俺なんかを選んじまうんだろうな、お前は……」
「えっ?」

聞きとがめたリィンが顔を上げようとする、が、クロウの手に力が入って押さえつけられてしまう。いくら慌てた声を上げてもしばらくクロウは力を緩めてくれず、解放された時は髪の毛と巻き込まれた耳がボサボサになってしまっていた。その頭を遠慮なく片手で抱えて、クロウが陽気な声を上げる。

「っさーて、こんな道端で話し込んでも仕方ねえし、さっさと帰るぞ!お前も帰る所だったんだろ?ちょっくらお兄さんと夕飯までブレード勝負でもしねえか?」

今何か、明らかに誤魔化されたかはぐらかされた気がする。気にはなったが、クロウからの体温がダイレクトに伝わる今の体勢が存外心地よかったので、無粋なつっこみは避けて当たり障りのない答えを口にしていた。

「……いいけど、賭けは無しだからな」
「ちっ、つまんねえな、今のお前は絶好のカモだっつーのに」
「ど、どういう意味だ?!」
「いやー、正直者でお利口なリィン君の耳と尻尾はまったく嘘がつけないようで、見てて面白いっつーか何つーか。ま、元からピンチになったら表情硬くして丸わかりだったけどな」
「なっ、それが目当てか?!俺で遊ばないでくれよ……!」
「えームリ。いつ元に戻るのか分かんねえし、今遊んどかねえと。なあ、もう一回尻尾触らせてくんね?」
「だ・め・だ!」
「ケチ!減るもんでもねえのに!それならこっちだって、もう撫で撫でしてやんねえぞー?」
「えっ……?!」
「……そこでマジに悲しそうな顔になんなよ、どれだけ俺の事好きなのお前」
「べ、別に好きとかそういう訳じゃ……!」
「あーはいはい、俺が悪かった悪かった。……まったくどうしてこんなに懐いちまったかねえ。いっそこいつを連れ回せれば、いちいち悩まなくて済むんだがな……」
「は?何の話だ?」
「何でもねえーの」

くっついたまま、連れだって歩く帰り道。すぐ隣から香るクロウの匂いを吸い込んで、湧き上がる安心感にほうと息を吐いたリィンは、下に向いた視線を慌てて前に向けた。今地面に、見なければ良かったものが見えてしまった。先ほどクロウが呟いた言葉を己の心の中でも同じように呆れて呟く。
本当にどうして、自分はこんなにもクロウに懐いてしまったのだろうか。

夕陽に照らされて伸びるリィンの影は、クロウと重なり合ったまま嬉しそうに、漆黒の尻尾をいつまでも振り回していた。


14/02/12


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