手の平リィン君「ぱくっ」




小さなリィンは別に何も食べなくても支障はないらしい。産まれ方から存在まで摩訶不思議な生き物なのだから別にそれで違和感など無い。だがしかし、クロウがいちいち自分の食事の時に瞳を輝かせる小さなリィンに一欠片ずつ分け与えていたせいか、空腹というものを覚えてしまったらしい。朝昼晩きっちり何か食べなければ気がすまなくなってしまったのだった。

「くーろーうー」
「はあ……お前は夏バテ知らず、か……」

自室の机にぐったりと突っ伏すクロウの頭を、てしてしと叩いてくる小さい手の平。もうとっくの昔に夕飯の時間なのにご飯はどうしたと訴えてきているのは、くろうくろうとしか喋れない小さなリィン相手でもよく分かった。しかし本日のクロウは珍しく食欲が無い。真夏のうっとおしいほどの暑さに加えて、最近色々と準備だ何だと忙しかった事もあり、すっかり夏バテしてしまったようなのだ。まったく食欲がわかない。今日は特にひどかった。炎天下の中で一日中実技のためにグラウンドで走り回ったせいに違いなかった。疲れ切った今日一日ぐらい自堕落でいさせてくれと、夕飯を抜いてクロウは思う存分脱力している所なのである。
常に一緒にいるはずの小さなリィンには夏バテというものが訪れなかったらしい。そもそもバテる事があるのかという元気いっぱいの様子で、クロウの頭によじ登ってくる。手の平サイズの重さは頭に一切響く事のないほどの軽さなので、払いのける事無く好き勝手させておく。が、クロウにしか聞こえないその声だけが少々鼓膜に響いた。

「くろうー!くろうくろうー!」
「んーあー……分かった、分かった」

頭上でぴょんぴょん跳ねる感触がする。仕方がないのでむくりと起き上がると、頭の上からころりと小さな体が落ちてきた。手の平で難なく受け止めて机の上におろしてやってからポケットを探る。確かここに、昼間貰った食べ物が入っていたはずだ。

『先輩、夏バテですか?え、昼食もまともに食べてない?……少しでも食べて元気を出して下さいよ。ほら、とりあえずこれ、あげますから』

心配の色を滲ませた薄紫で後輩君から施しを受けたのは、たった一枚のクッキー。これがクロウの今日の晩御飯予定だった。まさかクッキーを渡した後輩、リィンも、夕飯までのつなぎにと差し出したものをクロウがそのまま夕飯にするつもりで受け取ったとは思うまい。心配と気遣いというくすぐったくなりそうな気持が込められたこのクッキーであれば、バテる体も受け入れられると自然の内に考えていた。そんな唯一の食料を、クロウは指でつまんでパキリと半分に割った。

「はいよ」
「!くろうー!」

不満そうだった表情が一気に華やぐ。笑顔で半分のクッキーを受け取った小さなリィンは、さっそくサクリと齧り付いた。こんなちっぽけな大きさでも小さなリィンには十分すぎる大きさだろう。にへらと幸せそうに緩む笑顔を眺めながら、クロウも残ったもう半分のクッキーを口に入れる。こちらは一口だった。素朴な甘さが美味しいが、さすがに口内は物足りない。だが不思議と満たされた気分だ。
両手をだらりと机に投げ出し、顎も乗せて背中を丸め、完全に力を抜いて息をつくクロウ。ぼうっとどこを見るともなく目の前を映し出していただけの視界に、すぐにひょっこり薄紫が覗き込んできた。口の端を小さい舌で舐めながら笑みを浮かべる小さなリィンの手元にはすでにクッキーは無い。

「もう食っちまったのか?相変わらず早いなー」

クロウに見つめられて、てへへと笑う小さなリィン。机の上に落ちる顔の前までトコトコと歩いてくると、満面の笑みを見せた。

「くーろう」

それは、クッキーを半分分け与えてもらえたお礼のつもりだったのか、それともただの気まぐれだったのか。もしくは、まだ足りないからもっと寄越せという主張だったのかもしれない。何だ何だと緩く持ち上がったクロウの鼻先を、ちょんと掴む短い両手。ほんの少し背伸びをすれば届く高さの頂き目掛けて、小さなリィンが顔を寄せてきたと思ったら。

ぱくっ

「………。……っ?!なっ!?」

大変珍しいクロウの心から驚愕した声。ガタンと音を立てて立ち上がった赤らむ顔を、小さなリィンはきょとんと見上げる。まだじんわりと残る、鼻先を包んだ暖かい感触に、クロウの混乱は止まらない。今こいつ何した。ちゅっと、キスだけならまだしも、ぱくって。ぱくってこいつ、鼻先を口に入れなかったか?!

「くろう?」

どうしてそんなに驚いているのか、と大きく首を傾げる純粋無垢な顔に、跳ねあがった心臓は徐々に落ち着きを取り戻していった。一人でこんなに慌てて馬鹿みたいだ。他人から見たら正真正銘一人で慌てふためいているのだという事実を思い出し、静かに着席する。クロウの名をしきりに呼ぶ小さな生き物の横に、がっくりと頭を突っ伏した。

「くろう?!」
「はー……やられた」

わたわたと心配そうに頭にしがみついてくるこの小さなぬくもりと暮らし始めて早数ヶ月。慣れたと思った途端にもたらされる、胸を騒がせて仕方がない小さなリィンからのスキンシップに、クロウが勝てたためしは一度としてないのである。








15/06/07


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