明日は、夏休み最後の日だった。


「俺、明日の朝早く帰るんだ。だから、見送りとかは良いからな。ほら、ラジオ体操とかもあるし」


もうじき暗くなる、ぽつぽつと星が出始めた空の下。それぞれの家に帰るために別れる間際、ルークはそう言った。アッシュは眉間にぐっと皺を寄せたままルークを見つめながら、口を開いた。


「何時だ」
「へ?」
「明日、何時に家を出るんだ」
「………」


ルークが口にした時間は、確かに早朝だった。そんな時間に出なければならないほどルークの帰るべき家はここから遠い場所にある事を思い知って、アッシュは心の中で舌打ちした。起きるのも大変そうだし、そんな時間に家を出して貰えるかどうかも分からない。


「なあ、アッシュ」


何かしら考え込んでいると、ルークが話しかけてきた。顔を上げればそこには、笑顔があった。


「むこうに帰ったら、手紙とか出してもいいか?」
「……お前の汚い字でか」
「あっひでえ!ちゃんと読めるように頑張るからさ、いいだろ?アッシュもちょっとでいいから、返事書けよな」


字が汚いのは自覚しているらしい。手紙はあまり書いたことは無いが、アッシュは頷いておいた。それを見たルークが嬉しそうに微笑む。手紙を送った向こうでこんな笑顔をしてくれるだろうと分かっていれば、書き甲斐もあるというものだ。
こうして顔を合わせ話している時間はとても楽しいものであるが、時間がそれを許してはくれなかった。空はまるで追い詰めるようにどんどんと暗闇を広げていく。とうとうルークが口を噤んで、一歩後ろに下がった。


「それじゃあ……そろそろ帰らないと、怒られるから」
「……そうだな」
「アッシュ、今までありがとう。俺アッシュがいなかったら、多分この夏休み、もっと寂しいものになってたと思う」


だからずっとお礼が言いたかったのだと笑って、また一歩ルークが後ろに下がった。暗くなり始めた周囲はすぐにルークを取り込んで、見えなくなってしまいそうだった。思わず引きとめようとした右手を、アッシュは必死で押さえ込む。
手を出さぬ代わりに、口を開いた。


「俺もこんなに騒がしい夏休みは、初めてだった。……ありがとう」
「おお……アッシュからありがとうが聞けるなんて思わなかったな!」
「んだと?」
「じ、冗談だってば!」


睨み付ければ慌てて手を振ってみせる。思わず二人で笑みが零れたが、すぐにそれも引っ込んだ。また一歩ルークが後ろに下がる。こちらを、名残惜しげに見つめながら。


「それじゃあアッシュ……て、手紙、ちゃんと返事くれよな、絶対だぞ」
「ああ。分かってる」
「もし来年また、こっちに来る事があったら、その時はまた一緒に遊んでくれよな」
「仕方がねえから、その時は遊んでやるよ」
「へへ、ありがとな。それじゃあ……アッシュ、またな!」
「ああ、またな、ルーク」


手を振り合ってから、ルークは一気に踵を返して走っていってしまった。しんみりとした空気を振り切るように遠ざかる小さな背中を、アッシュは見えなくなるまでそこに立って見ていた。見えていないと分かっていながら、手を振りながらずっと見ていた。




そうして、夜が明ける。




夏休み最後の朝。これから朝日が昇ってくるような時間帯。ようやく明るくなりはじめてきた朝焼けの空の下、ルークは自分の荷物が沢山入ったリュックを背負って、車の前にいた。その表情は頭上の空とは違ってどこか晴れないものだった。その原因が何となく分かる両親はルークに何も言わず、慌しそうに出発の準備を行っていた。後は少しの荷物を乗せるだけだ。もうすぐ、出発の時間だ。
ルークは周りを見回した。もうこの見慣れた景色とは、この町とはお別れなのだ。胸にぽっかりと穴が開いたような物悲しい心地がいつまでたっても離れない。じっとそこに佇んだままのルークに、とうとう母親が声をかけた。


「ルーク、そろそろ出発するわよ、早く車に乗りなさい」
「……うん」


ルークは一度、二度、三度ばかり振り返って、ようやく車に乗り込んだ。おじいちゃんたちにさようならの挨拶をして、とうとう車のエンジンがかけられる。走り出した車の中、やがて外を眺めていたルークが何かを諦めるように、正面を向いた。
ほとんどの人間が眠っている時間。来なくても良いと伝えた。それなのに、それなのに一体何を待っているのか。昨日別れは済ませたのに、一体何を名残惜しんでいるのか。もう一生会えない訳ではない、分かっているはず、なのに。
その時だった。



「ルーク!」



声が聞こえた。最近になってよく耳にする、とても馴染む声。ルークは運転手である父親に慌てて声をかけて車を止めるように伝え、開けたままだった窓から外へと身を乗り出した。そうして声が聞こえた方向を探す。車が脇に寄って止まったのは、ほとんど車がまだ通わない大通りだった。声は寄った歩道とは逆の、向こう側から聞こえた。大きな道路を挟んだ向こう側の歩道へと顔を向ける。
そこに立っていたのは。


「アッシュ……!」


息を切らせてこちらを見つめるアッシュだった。いつもちゃんと整えている髪はぼさぼさで、どれだけ急いでここへ走ってきたのかが否応にも分かった。言葉も出ないルークへ、アッシュが声を張り上げる。


「約束しろ!来年、かならずまた帰ってくるって!」


ぐいっと、小指を立てた手を掲げる。以前指きりげんまんをした時のぬくもりを、思い出しながら。


「絶対、また帰って来い!絶対だ!じゃないと、もう遊んでやらねえからな!ここできっちり約束しろ!」


アッシュの強い翡翠色の視線がルークを貫く。ルークは目を見開いたまま、自分でも気付かぬうちにぼろりと涙を零していた。視界が滲んだ事でようやく気付いた。慌てて腕で拭ってから、自らも小指を掲げてみせる。


「うん……!うん!約束する、絶対帰ってくるって。絶対アッシュに会いに来るって!」
「本当だな!破ったら叩いたり踏んだり投げつけたり振り回したりこのブタザルと罵ったりするからな!」
「本当だ!絶対、破ったりしない!」
「その言葉、忘れねえからな!」


掲げられた小指は、確かに結ばれていた。実際に触れ合ってはいなかったけれど、二人の心の中ではしっかりと絡められていた。例え間を大きな車が幾度と無く通り過ぎても、結ばれた小指は破られる事は無い。決して破られる事のない約束が交わされる。強い視線が正面からぶつかり合った。


「またな、ルーク!約束忘れんな!……元気でやれよ!」
「アッシュ!アッシュも、元気でな!ガイとかにもよろしく!」
「ああ!あいつらにもお前が来年また来るって、言っておくからな!逃げられないからな!」
「逃げねーよ!絶対、絶対帰ってくるから!」


相手の目に焼きつくように大きく手を振った。二人の間を通り過ぎる車が増え出す。それでも張り上げられた声は、互いの耳にまっすぐ入ってきた。微笑みながら様子を見守っていた父親が、ゆっくりと車を走らせる。


「ルーク!約束だからな!」
「ああ!またな、アッシュー!」
「またな、ルーク!」


アッシュも走るが、車には到底追いつけない。分かっていた。分かっていても、走り出さずにはいられなかった。ルークが見つめる中、アッシュの姿はだんだんと小さくなっていく。その手はいつまでも振られていた。ルークも振り返していた。そしてとうとうアッシュのあの鮮やかな赤い髪の色まで見えなくなった頃、ようやく手を下ろす。母親に危ないから戻りなさいと声を掛けられ、ゆっくりと乗り出したままの体を車内へと戻した。


「……アッシュ」


小指を掲げた左手を、ぎゅっと抱き締める。風に煽られてすっかり冷たくなった腕は、しかし確かに約束の証だった。




「……ルーク」


肩で息をしながらアッシュはようやく立ち止まった。ルークの乗った車はもう見えない。朝日がようやく昇り出し、すっかり明るくなった町の中。佇むアッシュは小指を掲げた右手を、ぎゅっと抱き締めた。めったに行わない、慣れない事をした腕だったが、それは確かに約束の証だった。


焔色の朝日が昇る。鮮やかな日の光が、夏休み最後の日を照らし出す。この日離れ離れになった二つの焔は、別れの悲しみに塗り潰される事なく美しくその身を燃え上がらせていた。
悲しむ必要は無い、再会は約束されているからだ。


いつの日か、必ず。


約束は果たされる。







   ま た ね

08/09/01