新米社会人フレンの帰宅時間は早い。与えられた仕事を時間内にきっちり終わらせ、なるべく定時には帰ろうとする男だった。その甘いルックスと誠実な人柄のおかげで仕事後に色々と誘おうとする女たちをも軽くかわし、上司からの飲みへの誘いでさえもなるだけ断ってくる、そんなツワモノだ。
誰もが帰りにどこへ寄っているのだろうと首をかしげるのだが、何のことはない。フレンはただ、真っ直ぐ家へ帰っているだけだ。今日は特に女子共の妨害が激しかったが、華麗な身のこなしでそれを避けてフレンは今日も急いで帰る。
何故なら、我が家にはフレンの帰りを待つかけがえの無い存在がいるからだ。


「ただいま!」


声を上げながら音を立てて玄関の扉を開いたフレンはその勢いのまま靴を脱ぎ、奥に向かうかと思ったらしゃがみこんで靴を揃える律儀なフレン。その背中に呑気な声がかけられた。


「おう、おかえり」
「ユーリ!無事だったかい?何も無かった?」
「何でお前は飽きもせず毎日無事かどうか尋ねてくるんだよ」


声に即座に反応して振り返れば、そこには呆れた目でこちらを見つめるフレンの愛しのうさぎ、ユーリが立っていた。
そう、うさぎである。フレンと同じ身長で、流れるような艶のある黒髪を背中まで伸ばし(今日は珍しく一つに結んでいるが)、紫水晶のような瞳で呆れながらもどこか暖かく見つめてくれる、このどこをどう見ても麗しの美青年はれっきとしたうさぎなのだ。その証拠に頭にはすらりとした髪と同じ漆黒色のうさぎの耳がつんと生えているし、お尻の所にはまあるい可愛らしいうさぎの尻尾だって生えているのだ(但し触ると怒る)。うさぎ以外の何者でもないと豪語するのは他の誰でもないフレンである。


「だって君は自分の容姿にまったく自覚の無いまま外を歩き回るんだもの、どこかの誰かに攫われないかと僕は毎日心配で心配であらゆる事に手がつかなくなるんだよ」
「いや仕事しとけよ、後自覚が無いのはお前の方だと思うけどな」
「僕のどこに自覚しなければならない要素があるのか分からないな。それよりユーリ、散歩の時に遠くの知らない所まで行ってはいないよね」
「へいへい行ってない行ってない」


どっちもどっちな二人(一人と一匹)はくっつきくっつかれつつ部屋へと戻る。さり気なくユーリの腰に腕を回そうとしてその手を叩かれたフレンは、そこに見つけたものに首をかしげた。


「ユーリ、それは……?」


フレンが見つめる先はユーリの正面である。そこには服の上にもう一枚、いつもと違う布を纏っていた。その瞳と同じ色の、エプロンである。ユーリが台所に立つ事は珍しくない、作業をするときに髪を束ねる事だってある、しかしその見た目に反して意外と男らしい大雑把な面もあるユーリは、本格的な料理に打ち込む時ぐらいしかエプロンをしないのだ。


「ああ、これか?ただエプロンしてるだけだろ」
「まだ夕飯の時間でもないのに、どうしてエプロンを?」


フレンの問いにぴくりと耳を反応させてユーリは振り返ってきた。じっと見つめられて、フレンは焦る。もしかして、何か大事な事を忘れていたりしただろうか。例えば何か記念日だとか。そういう特別な日にはユーリがご馳走を作って待っていてくれたりするのだが、思い当たる記念日が何も無かった。一体ユーリは何を作っていたのだろう。
慌てるフレンの顔を見て、ユーリは軽く吹き出してからひらひらと手を振った。


「ま、味オンチで女にも特に興味が無いお前には確かに関係ない日だろうな」
「どっどういう意味だ!確かに僕の興味は大方ユーリにしか傾いてはいないけど!」
「これだよ、これ」


フレンの戯言はさっくり流して、ユーリはキッチンから何かを持ってきた。フレンの鼻の先を甘い香りがくすぐっていく。この香りには、覚えがあった。


「チョコ……?」
「あたり。まさかお前、バレンタインを知らないなんて言うんじゃないだろうな」
「あ、ああ!そうか、今日はバレンタインだったのか」


耳をひくひくと動かしながら幸せそうな顔で手元のチョコを眺めるユーリに、フレンはようやく納得がいった。それで会社の女の子たちが今日はあんなにしつこかったのだ。その女の子たちには悪いが、特別チョコが好きな訳ではないフレンにとってはあまり興味の無い行事だったので、すっかり忘れていたのだった。
しかし、チョコレートの日と言っても過言ではない今日のこの日は、ユーリにとってとても重要な日だったりする。


「そう、店に色んな種類のチョコが並べられていくら買っても食べても普段よりは気にされない、記念すべき日だろうが」
「だから朝からそわそわしていたのか」
「悪かったな」


悪態つきながらもチョコを片手に嬉しそうなユーリは、うさぎのくせに甘党なのだ。もちろんチョコも大好物なので、チョコが行き交うバレンタインは幸福に包まれる喜ばしい日となる。そこまで考えが行き着いたフレンは、たちまち後悔した。がっくりとテンションが下がったフレンが分かったのだろう、ユーリが怪訝そうに顔を覗き込んできた。


「おい、どうしたフレン」
「ユーリ、ごめん……僕は何て不甲斐無い男なんだ……」
「何だよいきなり」
「ユーリがこんなに楽しみにしていたバレンタインを忘れていただけでなく、愛する君にチョコレートひとつも用意出来ていないだなんて、僕は……僕はっ!」
「あー、それなら気にすんな」


下手に手作りされちゃ敵わねえしとボソッと呟いたユーリは、ピッとキッチンを指差した。項垂れていたフレンがつられてそちらに目を移せば、そこにはユーリの世界が広がっていた。見渡す限りの、チョコの山。買ってきたまま包みに包まれたものもあれば、わざわざチョコを溶かしてケーキやクッキーに変化したものまで、様々なチョコレートがそこに集められていた。しばし無言になったフレンは、ユーリを振り返る。


「……ユーリ、これはまさか」
「もちろん、責任持って食い切るからんな心配そうな顔するなって」


頼もしそうに胸と耳をそらしてみせるユーリは、どうやらチョコ作りに勤しむために今の格好をしていたらしい。それよりユーリはこれを全部自分で食べるつもりなのだろうか。甘いものをいくら食べてもまったく太らない目の前の黒うさぎを、フレンは尊敬するような気持ちで見つめた。


「今ちょうど一通り終わった所だったんだ、夕飯作るのに邪魔だろ、片付けてくるわ」
「ああ、うん」


しばらく冷蔵庫はチョコまみれなんだな、とフレンは思った。そこに不満はまったく無く、あるとすればチョコを美味そうに頬張るユーリをしばらくの間思う存分堪能出来るんだなという喜びと、チョコばかり食べて体調を崩しはしないだろうかという心配ぐらいだ。むしろユーリに付き合ってしばらくの間の飯をチョコづくしにしても耐えられるという心意気であった。しかしそれではさすがに栄養面に偏りが出てくるだろう事は明白なのでしないが。


「おっと、忘れてた」


キッチンに足を向けていたユーリが、何気に手の中のチョコを食べながら何かを思い出したようにフレンの元へ戻ってきた。帰ってきてそのままだったので荷物を置くために奥へ引っ込もうとしていたフレンは、何事だろうかと肩越しに視線を向ける。その顔がチョコレートの甘い香りを纏わせる腕によって掴まれ、グキッと音が鳴るほど勢い良く首を持っていかれた。無理矢理振り向かされたフレンはたまらず抗議の声を上げる。


「うわ!ちょっと、ユー」


リ、と続く言葉は声にならなかった。フレンの声はその口ともども濃厚なチョコレートの香りと味、それよりももっと甘美な甘い何かに塞がれ、包まれてしまった。思わず見開く空色の瞳には、細められたすみれ色の笑う瞳がすぐそこに映し出される。その時確かに、フレンの時は止まった。
我に返ったのはおそらくそのすぐ一瞬後だったのだろうが、その時にはすでにいたずらうさぎが自分のチョコレート味の唇をぺろりと舐めながらフレンの元を離れていた所だった。


「ハッピーバレンタイン、フレン」


してやったり、と言わんばかりに長い耳がぺこりと揺れる。そのまま踵を返すユーリを見つめたまま、フレンは己の唇に指で触れた。それは、世界中のどんなチョコレートよりも甘い甘い柔らかさで。


「っユーリィィィィ!」
「うおっ?!ふ、フレン落ち着け離れろ、片付けが出来ないだろうが!」
「片付けも他のチョコも何もいらないよ、ユーリが何よりも甘くて美味しいからね……」
「こんな時間にこんなタイミングで盛ってんじゃねえよ、こら!」


ふわふわの尻尾が覗く背中を抱き締めたフレンは、いくら殴られても蹴られてもその腕を緩める事はなかった。腕の中のぬくもりは、世界中の誰よりもかけがえの無い甘くて愛しいフレンだけのうさぎだからだ。






チョコレイト・ラビット


09/02/14