それは、普通の人間では考えられないほど長い時を生きてきた彼の人生の中の、ほんのわずかな時間の記憶であった。遥か昔に手放し、もう二度と触れる事は無いだろうと覚悟していた彼が手に入れることが出来た、ありったけの幸せを凝縮した奇跡のような時間だった。

その日の夜、彼は空を見上げていた。気持ち良く晴れ渡った月のない夜空で、普段は見えないであろう細かな星々までよく見渡すことが出来た。気温は若干低かったが、それを苦にも思わないほど頭の中では様々な考え事を巡らせていたような気がする。どんな事を考えていたのか、具体的な記憶は無い。おそらく将来の漠然とした不安なんかを抱えて悶々と考え込んでいたのだろうと思う。
やがてその肩に背後からそっと、上着が掛けられた。振り返ればそこには、彼が世界で一番愛した女性が微笑みながら立っている。夜中に起き出した夫を心配して来てくれたらしい。起こしてしまった事を申し訳なく思って謝ると、そんな事はどうでもいいとばかりに首を振られたのだった。

「星を見ていたの?」

頷けば、隣に立った彼女もそっと寄り添い、空を眺め出す。何を考えていたのか、とは聞かれなかった。おそらく彼女には何もかもお見通しだったのだろう。いつまで経っても答えの出せない堂々巡りに、それを分かっていて付き添ってくれる彼女が愛しくてたまらなかった。この穏やかな時間を失くしてしまってから、こうやって思い出す今でも温かな想いは溢れて止まらない。例え愛した彼女がすでにこの世にいなくなった存在であってもだ。
しばらくそうやって二人で立ち尽くし、星を眺めていた後はどうしたのだったか。思いを巡らせば大切にしまいこんでいた記憶はすぐに顔を覗かせてくれる。こうやって家の入口から、とても眠そうに目を擦りながら。

「とーさん、かーさん?」

起きたばかりの寝ぼけ眼で、舌足らずな幼い声が自分たちを呼ぶ。同時に振り返り、彼女が慌てて駆け寄った。両親が二人ともベッドから抜け出してしまったせいで、幼い息子まで目を覚ましてしまったようだ。ますます彼は申し訳なく思うが、母親に撫でられた子供は満面の笑みで父親の足にしがみついてくる。目はパッチリ覚めてしまったようだ。しばらくは寝られまい。

「なにしてたの?」
「星を見ていたのよ。ほら、綺麗に見れるでしょう」
「うんきれい!」

彼が立つ隣で、しゃがみ込んで息子の肩を支えながら、彼女が空へと手を伸ばす。すぐ間近で広がっていそうな星々は、しかし彼女の手に触れる事無く瞬いている。普段はこんなに夜更かしをしない子供は初めて見る満天の星空に、同じぐらい瞳をきらきらと輝かせながら母親の真似をして両手を空に伸ばした。

「おほしさま、とれる?」
「取れないの。誰にも取れない、遠い所にあるのよ。だからずっと、お星さまは変わらずそこにあるの」
「そうなんだー」

残念そうな息子の声に、彼はくすりと笑った。同じように笑った彼女が、代わりとばかりに星々を指差す。

「だからこそ、ほら。星座を作れるのよ」
「せいざ?」
「お星さまとお星さまの間を線でつないで、形を作るの。ほら、こうやってつないでいくと、何が出来るかな?」
「んーと、んーと……」

母親が辿る指の先を必死に追う大きな目。何度か同じ動きを繰り返した腕を見て、ぱっと笑顔が咲いた。

「わかった、ねこさん!」
「ピンポーン、当ったりー。今のはねこさん座でした」

彼女が楽しそうに笑う。果たして猫座というものはあっただろうかと彼は首をひねるが、彼女は人差し指を口元に充ててウインクしてみせた。どうやら今誕生したばかりの新種の星座らしい。しかもきっと、ここでしか見られないとても限定的な星座だ。子供は手を叩いて喜び、次を母親にねだっている。

「それじゃあ、これは?」
「えーっと……とりさん!」
「正解!じゃあ今度は、これっ」
「んー?ぼーる?」
「ブッブー。正解は、あなたとお父さんの大好きなトマト座でしたー」
「ええー!やー!」

抗議の声を上げる息子と共に思わず彼も顔をしかめてしまう。星座といえども苦手なものは苦手なのだ。予想通りの反応だったのか声を上げて笑う彼女に、母が笑っている事が嬉しいのか子供もケロッと笑顔になる。そんな息子の手を取って、彼女は空へ向けた。

「今度はあなたが作ってみなさい。ほら、どんな星座にする?」
「いいの?」
「もちろん、だって星はこんなにあるんだもの」

やったーと声を上げた子供は、うんうん悩んでからおもむろに手を動かした。少しだけ身をかがめて彼も子供の目線に立ち、小さな指がどんな軌道を描くのか見つめる。子供はずいぶんと複雑な動きで長々と軌跡を描き、一周したようだった。まるでクレヨンでの一筆書きを見守ったような心地であった。

「今のは何ていう星座?」

さすがに読み取ることが出来ずに彼女が尋ねる。子供は自信満々ににっこりと笑い、彼を見上げた。

「“とーさん”ざ!」

かっこいいでしょ、と胸を張る我が子に、彼は言葉を失った。ああもっとよく見ておくのだったと心の内の方で後悔する。でたらめに引いたように見えた星々の線はどうやら息子的には決まった形であるらしく、もう一度似たような動きで空に彼だけの星座を描いてみせる。今度こそそれを彼は目に焼き付けた。沢山浮かんでいる内のどの星が結ばれているのか、具体的に分からなくともせめて形だけは、と。辛うじて人型のように思えるそれは、子供から見た父親の全体像だったのだろうか。

「そっか、お父さんの形の星座か」
「うん!とーさんざ!」
「よく出来たわね。ねえ、   」

妻が名前を呼んで微笑ましげに見上げてくる。子供も期待や憧れを詰め込んだ大きな目で彼を見た。二人分の視線に、自然と頬が緩むのを感じる。こんな風に笑みを浮かべることが出来るようになったのは、間違いなく目の前の命たちのおかげだった。
彼を愛してくれる人と、愛する人との間から生まれた、己の血を引く我が子。何にも代えがたい、大切な存在。彼は手を伸ばし、息子の頭を撫でた。

「     」

あの時の自分は、何と言ったのだったか。目の前の愛しい光景を記憶する事ばかりに必死で、自分の言葉は忘れてしまった。しかしおそらく、全てを失ってしまった今では考えられないほどの柔らかい言葉を掛けたのだろうと思う。
頭を撫でられ、父親に言葉を貰った子供のその顔が、記憶の中でとても嬉しそうに破顔したからだ。


それは、昔の記憶だった。もう二度と手が届かない、眩しいばかりの思い出。
クラトス・アウリオンが僅かに持つ、今は失くしてしまった親子の記憶だった。


「うわ、今日はすごいな!満天の星空だ」
「本当だね、すごい。こんなに星がきれいに見える夜は初めてかも!」
「僕も初めて見るよ。この辺には民家が無いせいかなあ」

野営中、そろそろ眠らないと旅の疲れが取れないというのに子供たちは空を見上げて眠る気配が無い。リフィルが何度か注意しても、好奇心旺盛な瞳たちは夜空に釘づけだった。

「まったく、私の授業もこれぐらい真剣に受けてもらいたかったものですけど」

特にロイド、と小言を言われて、バツの悪そうな顔が一度だけ振り返る。隣のコレットに袖を引かれ、すぐに空へと視線を戻してしまったが。溜息を吐くリフィルもそれ以上は言わなかった。今日の夜空はそれほどまでに美しく星々を広げていたのだった。
普段であれば問答無用で寝かしつけようと思っていたクラトスも、今日ばかりは少しだけ夜更かしを許す事にする。先ほどまで思い出していた記憶のせいだった。あの時と今日の星空は、とてもよく似ていた。

「これだけ晴れていると、綺麗に星座も見れるね!ロイド、授業で習った星座覚えてる?」
「ん?そんなの授業で習ったっけ?」
「習ったでしょ、しかもこの間!ほら、あれが……」

密かに感傷に浸っていれば、ジーニアスによる星座講座が始まっていた。当たり前であるが、彼オリジナルのものではなく広く一般に広まっているものたちだ。コレットも楽しそうにジーニアスの後について次々と星座を指先で結んでいる。ロイドは首をひねりながら二人が指し示す星々を見つめるばかりで、補習授業が必要かしらというリフィルの呟きが聞こえた。

「ロイド、本当に一つも覚えてないんだね」
「ば、馬鹿にするなよ!俺だって星座の一個ぐらい覚えてるさ!見てろよ、ほら、あれとあれとあれと繋いで……!」

やれやれと息を吐き、見張りとして周りの警戒に努めようと意識を逸らしたクラトスの耳に、懐かしい言葉が飛び込んできたのはその時だった。

「“トーサン”座!」

夜空に指を伸ばしたまま、自信満々に答えたロイド。両隣から覗き込んでいたコレットとジーニアスがそろって首を傾げた。

「と、トーサン座?何それ」
「知らねえの?」
「うーん、私も聞いた事がないかなあ」
「おっかしいなあ、俺が昔から唯一覚えてる星座なんだけど。もう一回見てみろよ、あれとあれとあれと」
「そんな複雑な形の星座なんてあるわけないよ!一体どこで見たのさ」

ロイドが淀みなく辿る軌跡には覚えがある。クラトスの目が、人知れず見開かれる。三人の様子を見守っていたリフィルが口をはさんだ。

「私も見た事聞いた事が無いわね。あなたが作った星座じゃなくて?ロイド」
「えー……そうなのかな。そうなのかもな……」
「あはは、言われてみればロイドが作りそうな変な形!」
「何だとー!?」
「でもどうしてトーサン座なんだろうね?どういう意味なんだろう?」

コレットが真剣に考え始める。そんなに考えなくても適当に決めたんだろうとジーニアスが肩を竦めている。あんないびつな形の星座と「トーサン」が持つ意味が繋がらないのだろう。無理はない。何故あんなガタガタな、人型に見えなくもない星座が「トーサン座」なのか、クラトスだけが知っている。心の動揺を無表情で隠しながら、ひたすら言葉を失うばかりのクラトスだけが。

「俺もよく覚えてないんだけど、ただかっこいい星座だとしか覚えてないんだよなー」
「えー?今の形のどこがかっこいいの?」
「んなの俺だって知らねえよ!でもかっこいいの!」
「意味わかんないってば!」
「ふふっ、ロイドがかっこいいって覚えてるんだから、きっとかっこいい星座なんだよ、トーサン座」
「そ、そうかな?ありがとうコレット。うーん、このまま旅すればどこかに同じようにトーサン座を知ってる奴に出会えねえかなー」

友人たちと笑い合いながら、期待と憧れを詰め込んだ瞳で星空を見上げるその顔が。その輝きが。あの日と同じもので。

(きっと、出会う事は無いだろう)

心の中で、ロイドの言葉を否定する。何故ならロイドの他に「トーサン座」を知っている者はたった二人。一人は永遠に失われ、一人は永遠に口を閉ざす事を誓っているから。
それでも。

(もし、出会う事があったならば)

有り得ない未来を描きかけたクラトスは、今度こそ視線を逸らし、地面を見る。そのような資格は無い。同じ星座を知っている者を夢見る子供の前に名乗り出る資格など、自分には無いのだ。そうやって言い聞かせる胸の内側で、己に笑いかける二人分の笑顔。
この記憶さえあればいい。この、かつての温かな記憶さえあれば。

クラトスは胸に手を当てて、空を見上げ、目を閉じた。
それはまるで、祈りの姿に似ていた。





祈りの彼方

15/01/04