近頃空を見上げる事が多くなった。ここ一週間で、今まで生きてきた中で空を見上げた回数を軽く越えていると思う。何せ子どもの頃はいくら手を伸ばしても届かない空の上なんて興味が全然無かったのだ、成人するまではいっそゼロだったのではないだろうか。だからと言って別に今空に興味があるわけではない。隣に立つ子どもがよく空を見上げるものだから、つられて顔を上に向けることが多くなっただけだ。子どもがどういった理由で何度も何度も空を見上げるのか分からないが、子どもの目には一体何が映っているのか気になるのだった。子どもの見上げる空は、綺麗に晴れた青空であったり、現在進行形で雨を降らせている曇り空だったり、彼の短い髪の色と同じ色の夕焼けであったり、今にも降ってきそうな無数の星が瞬く夜空だったりする。つまりそれほどまでに子どもは頻繁に空を見上げていて、己はそれに気づいてしまうのだった。この前パーティ最小の少女に「大佐、この頃ぼーっと何か見てる事多くなりましたねぇ、何見てるんですかぁ?」と尋ねられた時はさすがに愕然とした。死霊使いの名を(不本意にせよ)頂いてから今まで、他人から自分の行動を悟られる事があっただろうか、いや無い。幼い頃からの腐れ縁である皇帝陛下を除いたら誰もいない、はずだ。これは今まで固めていた自分というものが確かに崩れている兆候だ。良くない事だ、と思いながら、大してずれてもいない眼鏡を押し上げた。何かをごまかそうとする時にしてしまう己の癖だった。


上記のような事を一気につらつらと考えながら、ジェイド・カーティスはその場に突っ立っていた。他者から見れば実に優雅に意図的にその場に立っていると見えるだろうが、事実ジェイドはこの場に立つ以外何もする事が思い浮かばず、かといって去ることも出来ず、立っている事しかできなかったので「突っ立っていた」と表現するのが正しいだろう。
彼の目の前には、1人の子どもが立っていた。短めの朱色の髪を僅かに風へとなびかせながら、その翡翠の瞳をひたすら頭上へ向けている。頭上には満天の星空が広がっていた。言わずもがな、現在の時刻は夜だ。野宿をする事になった一行の中からいつの間にかいなくなった子どもを探しにきたのがジェイドだった。しかし見つけ出したはずの人物はジェイドが近づいてきたことにも気付かずに飽く事無く空を見上げ続け、声をかけるタイミングを失ったジェイドは立ち尽くすしかなかったのである。この光景を誰かが見かければ一様に驚いた表情をしてくれる事だろう。皮肉げにジェイドが笑って見せた時、空を向いていた瞳がようやくジェイドに気がついた。


「……あ、ジェイド、いたなら声掛けてくれよ」
「すいませんねえ、普段は間抜けた顔をしている人が珍しく真剣な表情をしていたものですから、声を掛けづらかったのです」
「普段は間抜け面で悪かったな!」


憤慨した様子のいつも通りの彼の様子に、ジェイドは自分でも気付かぬ内に安堵していた。ジェイドの言葉は嘘ではない。あまりにも真っ直ぐに空を見ていたその姿が、自分以外の全てを拒絶したように見えたのだ。それに気付いてしまった聡い大佐殿は、手をこまねいて見守るしかなかったのである。


「それで、一体何をしていたのですか、ルーク」


ジェイドがいつもと同じ笑みを張り付かせてそう尋ねれば、ルークはきょとんといった表情で空を指差した。


「空を見ていたんだ」
「そうですねぇ、見れば分かりますよね」


当たり前の返答にジェイドは頷いた。誰がどう見てもルークは空を見ていた。それは間違いない。ジェイドが聞いているのはその理由だった。するとルークは照れくさそうにあちこちに視線を彷徨わせた後、結局再び空を見上げた。そこには全てを飲み込んでしまいそうな真っ黒な空に、それでも数え切れぬほどの小さな星達が刺すように輝いている。それを見つめるルークの瞳はまるで空の星の光を集めてしまったかのようにキラキラと輝いていた。


「星が、綺麗だろ」
「ええまあ」
「俺はどのぐらい光っていられるのか考えてたんだ」


ジェイドはひっそりと眉を寄せた。自分の話で相手を混乱させる事はしょっちゅうあるが、相手の話で自分が混乱する事は稀であった。気配で気付いたのだろう、慌てた様子でルークが説明しだした。


「昔ガイが、人は死んだらお星様になるんだって教えてくれたんだ」
「それはそれは」
「だからレプリカの俺でも一応生きてるんだからさ、星にはなれるかなって思って」


ルークは照れくさそうに笑う。その笑顔に影は無かった。それがいっそうジェイドを苦しめた。この子どもは死を恐れている。死にたくないと何度も呟いていた姿をジェイドは知っていた。しかし死んだ後の事を語るこの子どもに恐怖は一切無いのだった。
ルークは近い将来消えてしまう。それは変えようの無い事実だった。死を恐れている子どもは消えてしまった後、地上に残る自分達を振り返る事無くさっそうと空の上に上っていってしまうのだろう、ジェイドは悟った。


「あの星たちは、この大地から信じられないほど遠くにあるのですよ。あなたはそこまでいけるのですか?」


迷子になったりしませんか?と意地悪く尋ねると、馬鹿にすんなと返って来た。空の上を迷いに迷って、そしてとぼとぼと帰ってくればいいのだとジェイドは思ったが、口には出さなかった。


「でもそんなに遠いのか……ミュウあたりは寂しがるかもなあ」


ガイも寂しがってくれるかな。アニスもナタリアもあれで寂しがり屋だし。ティアはどうだろう、ずっと見ていてくれるって言ってくれたから、時々は見上げてくれたりはするかな。ルークは楽しそうに語る。それを聞いていたジェイドは、ぽつりと呟いていた。


「私も寂しいですよ」


え、とルークがジェイドを見る。その瞳は軽く見開かれていた。ジェイドは眼鏡を押し上げながら、何とか笑顔を張り付かせることに成功した。


「何てったって、うさぎさんですから」
「ジェイドのどこがうさぎだよ!」
「ほら目が赤いでしょう。どこからどう見てもうさぎです」
「見えないから言ってんだよ!」
「どうするんですかルーク、うさぎは寂しいと死んでしまうのですよ」


ジェイドの言葉に、ルークの顔が泣きそうに歪められた。そう、そうやってこの世界に未練を残せばいい。何としても戻らなければ、と思うような理由をこの世界に見つければいいのだ。そうすれば心優しいルークは戻ってきてくれるだろう。己が理由にはなれないだろうけど。


「よし、わかった」


しばらく考え込むようにしていたルークがぱっと顔を上げた。その表情は、泣きそうなものでも、怒ったようなものでもなく、いいこと思いついた、という楽しそうで嬉しそうな笑顔だった。


「じゃあジェイドが寂しがってたら、俺が流れ星になって落っこちてきてやるよ」


そうしたら寂しくないだろうとルークが胸を張る。その心底得意げな顔に、とうとうジェイドは絶望した。今自分が上手く笑えているかどうかすら分からない。

ああこの子どもは、自分1人のためだけに遠い空から落ちてきてしまうのだ。
空から落ちた星はもう、輝けないというのに。





   星を落とした男

06/08/21