「アッシュー!この本のこの文章、どういう意味か教えてくれ……って、あれ?」

バーンと音を立てて部屋の中に乗り込んだルークは、すぐにその動きを止めた。視線は前方に固定されている。入ってきた勢いなんて信じられないほどそろりと足を動かし、まずは部屋のドアを極力音を立てぬように閉めて、視線の先へと向かう。息さえ押し殺してルークが近寄ったのは、ソファに座って目を瞑るアッシュの元であった。

「えー……もしかしてアッシュ、寝てるのか……?」

吐息のような小声でルークがそうやって話しかけても、静かに閉じられた瞼はぴくりとも動かない。アッシュは眠ったふりをして人を驚かせようとするような人間では決してない。つまりは、そういう事だ。はああ、とルークは大きく長く息を吐いた。

「アッシュが居眠りなんて……珍しいな……!」

俺とは違って、と考えたルークはいっそ感動さえ覚えていた。アッシュはその生真面目さ故か、昼寝の類をほとんどしない。寝坊もしないし、いつも夜更かしを頑張ろうとしてもいつのまにか寝てしまうルークより早く眠る事はほぼ皆無だ。まったくない訳ではないが、ルークがこうして完全に寝入るアッシュを見る機会はそうそうないのである。
そんな貴重な寝顔が今、目の前にある。ルークは喜びの声を上げるのを必死に我慢した。せっかくのアッシュの眠りを、些細なことで覚ましたくは無かった。

「……でも、もしかして疲れてんのかな」

ソファに凭れかかったアッシュの手には、開かれた本が握られたままだ。おそらく読書中に眠気に襲われてしまったのだろう。ルークはそっとアッシュの顔を覗き込んだ。顔色はどうやらそれほど悪くない。もし具合が悪そうならば、この喜びはとりあえず胸の奥にしまっておいて問答無用でベッドに放り込む所であったが。
とりあえずほっと安心したルークは、今度はじっくりとアッシュを観察する。いつも気難しそうにひそめられている眉はさすがに眠っている時は穏やかで、皺も寄っていない。出来心で人差し指を伸ばしたルークは、ていっとアッシュの眉間を突いていた。もちろん、出来るだけ優しくだ。今は深い眠りに入っているのか、幸いアッシュが起きる様子は無い。触れた指先からじんわりとアッシュの体温が伝わってくる。
ルークはそのまま、アッシュの額を見つめた。いつも上げられている前髪。髪型が違うだけで同じ顔でも結構印象が違うものなんだな、とルークはアッシュと並んで鏡を覗き込むたびに思う。……髪型のせい、のはずだ。同じ顔のはずなのに、アッシュの方がどこか大人っぽく見えて、ルークの方が幼く見えてしまうのは。ルークは日ごろからそう自分に言い聞かせている。アッシュの方は以前、精神年齢が顔に出るんだろうとバッサリ言ってくれていたが。

「くそー、アッシュも普段から前髪下ろせばいいのに」

眉間に当てた指先でそのまま額を柔らかく突きながら悔しそうに呟く。まあ寝る時なんかはさすがのアッシュも髪のセットは解くので同じ部屋で寝ているルークは最早見慣れたものなのだが。それでも同じ顔、同じ身長なのに見た目年齢に差が出てくるのが悔しくて、少しでもアッシュが自分に近づけばいいのにと思ってしまう。ただでさえいつもしっかりとしすぎていて、余計に大人に見えてしまうのだから。

「……そうだよ、アッシュは大人すぎるんだよ……」

まだ、この世界に二人でそろって帰ってくる事が出てから、日も浅い。それなのにアッシュは今までの二年間の遅れを取り戻すようにどんどんと仕事を覚えていく。……まだまだ、学ぶことの方が多いルークを置いて。
置いていかれるのも寂しいが、アッシュが日頃から無理をしているんじゃ無いかと思って、ルークの心情は複雑だった。もっと気を抜いていいのにといつも思っている。もっとゆっくり、取り戻していけばいいのに。ルークと一緒に、慌てる事も焦る事も無く、ゆっくりと学んで歩めばいいのに。
このまま一人で頑張り続ける必要なんて、ないのに。

「……アッシュ」

ルークはそっと、溢れ出る想いのままの衝動で、アッシュへと顔を近づけた。目の前に広がる愛しい額に、そのまま唇を寄せて……労わりと、慈しみの心のまま、柔らかく触れた。
長いようで、一瞬の時間。ぱっと顔を上げたルークは、慌てたように辺りを見回して、ばたばたと逃走した。今のはほぼ衝動的だった。我に返って、急に恥ずかしさがこみ上げてきたのだ。今自分は何をやったのか。これではまるで、寝込みを襲ったようなものじゃないか。

(うわああああ何やってんだ俺ええええ!)

心の中で悲鳴を上げながら逃げるのに必死だったルークは、だからこそ気付かなかった。立ち去る背後で、今まで確かに眠っていたはずの人物が、今のルークと同じような顔色をしていた事に。

「……っく……!不意打ちに何てことしてくれやがる、あの屑がっ……!」

額を抑えて打ち震えるアッシュの眠気はもちろん、どこかへ吹き飛んでいた。





   そのためのおでこ


15/02/01