今この部屋には、かつてない緊張感が漂っていた。中央に堂々と鎮座するのは冬の間に欠かせない頼りがいのある暖房器具、こたつ。その上に乗せられているのはカセットコンロと、熱い湯気を吹き出す土鍋だった。ぐつぐつと煮える中には、鮮やかに赤く色づく固くて長い腕が。その他の食材と共にほかほかに煮上がっているそれは、カニの足だった。今すぐにでも食べられる最高のカニ鍋がそこにあった。
見ているだけで体が暖まりそうな光景の中、その空気だけがぴんと固く張りつめている。ぬくもりにあふれるこたつに足を突っ込みながら、その背筋を伸ばして己の手元に集中しているアッシュのせいだった。向かいに座るルークは背中を丸めて表情も緩いまま、あつあつの豆腐を思う存分ほおばっているだけだ。あちあちっと呑気に呟くルークはお構いなしに、アッシュは周りの全ての雑音を遮断して目の前のそれと格闘していた。
真冬だというのに腕まくりをし、邪魔になるからと長い髪を後ろで束ね、眼光をいつもの何倍も鋭くしたアッシュは相手を睨み殺さんとするかのような迫力がある。そんな鬼気迫った姿を、しかしルークは真剣にお絵かきする子供を見守るかのような微笑ましい顔で見つめている。ちょうど皿に取った豆腐を全部食べきったそのタイミングで、アッシュの勝負も終わりを告げた。
「っどうだ見ろ!この無駄のない、ひとつの身も残さず取り出されたただの殻を!」
突然頭上に高く掲げられたカニの足。それは遠目から見ても中身が綺麗に抜き取られているのが分かるほどだった。箸を置いたルークも思わず拍手する。
「おおーすげー」
「ふっ……見ろ、この美しい姿……俺は見事、こいつに打ち勝ってみせたぞ……!」
満足げに薄く笑みを浮かべたアッシュが額の汗をぬぐう。そう、先ほどまでの極限の緊張状態は全て、アッシュとカニによる真剣勝負で作り出された空気だった。アッシュ曰く、どうしてもほじくり返せないような身が残ってしまえばカニの勝ち、そんなものも残さず全て抉り出して空っぽにしてしまえばアッシュの勝ち、となるらしい。理屈は分かるしその勝負に挑みたくなる気持ちも分からないでもないが、俺はめんどいから絶対にしたくないなあとルークは思っている。
「このカニの野郎、こんな細身の中にこれだけの身を溜めこんでやがった。この奥の部分なんかも取りにくかったが……ふっ、俺の前では悪あがきにしかならねえよ」
何だか邪悪な事をぶつぶつ呟いているアッシュを横目に、菜箸を手に取ったルークは鍋の中を探った。そうしてカニの身がこんもり乗った皿を見ていた頭に声を掛ける。
「なーアッシュ」
「あ?何だ」
「今度はこれ、これはどうよ?何かこの辺曲がってるし、さすがのアッシュも全部の身を取るのは無理なんじゃね?」
一本のカニの足を摘まんで持ち上げてみせれば、アッシュの目がぎらりと光った、ような気がした。あえて挑発するような言葉を選んだルークの作戦に、負けず嫌いの心がまんまと引っかかってしまう。
「ふん、俺を誰だと思っている、舐めるな!こんなちっぽけなカニの殻ごとき、ものの数分で丸裸にしてくれる!」
「きゃーすごーいアッシュかっこいいー」
棒読みのルークから足を取り上げたアッシュは、再びカニの身をほじくり返す作業に没頭し始める。カニを食べる時はいつもこうだった。どうしてもカニの身を残してしまう事が我慢ならない凝り性なアッシュが、ただひたすら身を掘り出していく勝負の場となるのだ。そんなアッシュを利用して、しめしめと楽をするのもルークのお決まりで。
そっと、アッシュに気付かれないように自分の空の皿とアッシュの皿を交換したルークは。必死こいて勝利したアッシュの戦利品を、何の苦労もなく美味しく頂くのだった。
「はいアッシュ、頑張れー」
「んぐ、……わかっている」
もちろんさすがに一人で全部は食べない。たまにアッシュの口元にカニを持っていき、夢中になっている為に素直に口を開けるその中に押し込んで食べさせてやりながら、二人のカニ鍋は緊張と和やかに過ぎていくのだった。
カニ鍋
14/12/04
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