ちょっと涼しくなり、もう来ないだろうと油断していた時に限って奴は現れるのである。
今夜そいつの餌食となったのはルークだった。一度寝付いたらなかなか起きない事で定評のあるルークだったが、さすがに体に異変を来した時ぐらいは夜中に目覚める事もある。ハッとルークがそれに気づいて身を起こし、暗闇の中手探りで確認すればやはりそれはあった。
ぷくりと。右腕に小さく腫れた所がある。それを手で触って確認して、ルークは愕然とした。
「嘘だろ……朝とかめちゃくちゃ寒くなってきたのに、まだ蚊がいるのかよ……!」
本当は叫びたいほどの衝撃だったが、真夜中なので最小限の声で驚く。気付いた途端に襲い掛かってくる痒みにルークは無言で悶絶した。バシバシ叩いて、それでもやっぱり収まらなくてつい指で引っ掻く。そこでルークは痒みが襲ってくるのは一か所だけでは無い事に気付いてしまった。左足のふくらはぎにも、奴は飛びついていたのだ。
「くっそ……!蚊の奴め往生際の悪い……!寒くなったんだから、おとなしく死んどけよ……!」
怒りのせいでわりと残酷な事を呟きながら、ルークは闇に慣れてきた目を部屋の中へと向ける。犯人がまだこの部屋の中にいる事は確かだ。そいつを始末しなければ、ルークの今夜の安眠はやって来ない。隣のベッドで身動ぎもせずに眠り込んでいるアッシュが大変恨めしいが、起こしたら蚊よりも恐ろしい事態になるので放っておく。
とその時、ルークの耳元に大変耳障りな高い音が突如やってきた。
「ひいっ!」
思わず声を上げてベッドから転げ落ち、手足をばたつかせる。なんて卑怯な奴だろうか。この暗闇とその小さな体をいかして、ルークの耳と心にダメージを与えてきたのだ。ただでさえ短気な方のルークの怒りが完全に振り切れる。立ち上がり、なんとしても仕留めてやると意気込んでじっと目を凝らす。もちろん手足は定期的にばたつかせたままだ。
きっとまだ近くにいるだろう。奴は小さくて素早い。勝負は一瞬で決まる。
ルークが勉強中の何倍もの集中力で気配を探っていた、瞬間。緑の目の先に蚊の小さな姿をとらえた。カーテンの隙間から漏れるわずかな月明かりの中、ベッドの上を漂う憎き敵がそこにいた。蚊の姿を確認した途端、ルークは形振り構わず飛び掛かっていた。
「覚悟ー!」
「ぐっはっ?!」
結果を言えば、ベッドから降りたルークがベッドの上にいる蚊目掛けて過剰に飛び込んだりすれば、その体は勢いのまま向かいのベッドまで飛んでいくのは目に見えていて。案の定静かに眠っていたアッシュの上にダイブしてしまう。
しかしルークはそれどころではなかった。アッシュの腹の上に己の腹で思いっきり着地した後、寝そべりながら蚊の姿を探して必死に自分の手の平を見る。
「蚊!蚊の奴!どこいった!やったか?!」
「やったか?!……じゃ、ねえーっ!」
「ぎゃあっ!」
アッシュが布団の中から蹴り上げたおかげでルークが強制的に床に転がり落ちる。その際ちょうど後頭部をベッドの足にぶつけ、今度は痛みに悶絶する事となる。ちなみにルークを蹴り落とした後アッシュもしばらくは腹に圧し掛かられた衝撃に身もだえする事となり、結局立ち直る事が出来たのはほぼ同時であった。
「っなーにすんだよアッシュ!こぶ!こぶ出来るだろ!」
「人の安眠邪魔していきなり腹の上に乗りやがった奴には当然の報いだ!むしろ足りねえ!」
「んだとー!こっちはその安眠を妨害されて腹立ってたところなんだぞ!むしろお前の眠りも守るために戦ってたと言っても過言じゃねーし!文句言う前に感謝しろよ!」
「それ以前に物理的に俺の眠りを邪魔したのはお前だお前!明日も早いってのに……覚悟はできてんのか、ああ?!」
「じょーとーだ、掛かってこいよ!」
眠気のために今の二人の沸点は限りなく低い。真夜中に戦闘態勢に入ったルークとアッシュは、こんなに暗い中良く相手の動きが分かるなと誰かが見ていたら感心していただろう動きで取っ組み合いの喧嘩を始めた。この調子で始まった争いが早期に収まる事はほぼ無く、数刻後に昇り始めた朝日の光を浴びて揃って後悔する事になるのかはまだ定かではないが。
部屋の隅っこを飛んでいた小さな虫は、二人のじゃれ合いに巻き込まれないように慌てて部屋から脱出したとか、しないとか。
蚊どころじゃない
14/10/21
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