「今日はあいにくの雨ですわね」

残念そうなナタリアの声につられて、アッシュも窓の外を見た。外はまだ日が落ちていないはずだというのに真っ暗で、いつも見えるはずの景色も雨のカーテンで薄くぼやけてしまっている。昼過ぎから降り出したこの雨は弱まることなく降り続いていて、おそらく明日まで止むことはないだろう。つまり今晩は、ここバチカルで夜空を見る事は出来ないという事だ。
アッシュは理由を聞く前に、ナタリアが何故雨を残念がっているのか分かっていた。今日が何の日か正確に知っていたからだ。

「せっかくの七夕だというのに、これでは織姫と彦星が会えそうにもありませんわ」

共に書類を片付けていた手を休めて、ナタリアがため息をつく。幼い頃誰もが聞かされたおとぎ話を、よもや心から信じている訳ではないだろうが、それでも気分というものがある。星に願いを託し夜空を見上げるこの日ぐらいは晴れてほしいと思うのが普通だろう。今年ははその願いも結局叶わなかったわけだが。
アッシュは窓から目を離し、心もち手を速めて最後の書類を片付ける。そうして席から立ち上がった背中に、ナタリアが目を丸くした。

「まあ、あれだけ溜まっていた分をもう捌いたのですか」
「ああ。……すまないナタリア、今から……」
「分かっておりますわ、毎年の事ですもの。お気をつけて」

微笑んで了承してくれたナタリアに、アッシュは詫びるように頭を下げてから部屋を後にした。ちょうどそこに居合わせたインゴベルトが首をかしげる。

「アッシュは毎年この日の夜に暇を貰っているが、一体どこに行っているのだ」
「さあ、わたくしも存じません」
「そうなのか」

てっきりナタリアは事情を知っていると思っていたのか、インゴベルトは軽く驚く。アッシュが立ち去ったドアを、青い瞳はどこか切なげに見つめていた。

「わたくしも気にしてはいます。ですが……何だか、聞いてはいけないような気がしますの。アッシュの大切な何かに、ぶしつけに触れてしまうようで……」

気遣いのこもった躊躇いの言葉は、雨の音に溶けて消えた。




他の場所がどんなに悪い天気になろうとも、ここだけは毎年、雲一つない澄み切った夜空を見せてくれる。もしかしたら何らかの力が働いているのかもしれない、とアッシュは考えている。そう思わせるような不思議な空気が、この日のタタル渓谷には満ちていた。毎年の事だった。アッシュが一年に一度通い詰めるようになってから、毎年。
頭上に広がる満天の星空は、おそらく今日ここでしか見る事の出来ない特別なステージだ。足元では白く輝くセレニアの花が咲き誇り、大地で輝くもう一つの星の海のようにも思える。アッシュは星に囲まれていた。普段はどう足掻いても届く事は無い空の向こうが、今夜だけは目の前に広がっている。
一人歩んでいたアッシュが白い花畑の中心で足を止める。沈んだ太陽に負けないほどの瑞々しい光が満ちるこの渓谷の奥地に、アッシュの目の前に、一際輝く存在があった。

『   』

ふわり、と。まるで宙を踊るように駆ける光。楽しそうな笑い声。アッシュの目には、その光が人の形を取って見えていた。世界中の清らかな光を集めて形作ったような儚く愛しい光に、自然と笑みが浮かぶ。アッシュが一年に一度ここでしか見せない、心から安らいだ笑顔だった。

「ああ。やっと、会えたな。また今年も晴れてよかった」
『   』
「はん、生意気な事言ってんじゃねえよ。お前にそれだけの力がある訳ねえだろ」
『   』
「何だと?……分かった分かった、そういう事にしておいてやる」
『   』
「いちいちうるせえ奴だ……ったく。ああ、毎年晴れてんのがお前の力っていうなら、感謝している。こうして会えて、会話が出来るんだからな」

穏やかに会話するアッシュの周りを、光は時に激しく、時に嬉しそうにくるくる回り、やがて隣にぴたりと寄り添った。ただの音素の塊でしかない光はしかしその時確かに、アッシュに触れていた。アッシュもまた、愛しげに眼を細めて触れられないはずの光を優しく撫でる。

『   』

アッシュにしか届かない声が、静かに星空へ響く。年に一度の邂逅。晴れた星空の下でのみこうして会う事を許された二人分の存在が、光の中で見つめ合う。
例え、普段はこうして会話が出来なくとも。姿を見る事も、存在を確認する事さえ出来なくても。アッシュの愛する存在はここにいる。毎年アッシュに会いに、空の彼方から星と共にやってくる。本来ならばアッシュに溶けて、こうして再び巡り合う事は二度と無かったはずの存在が。確かに、ここにいる。己の名を呼んで微笑んでいる。
だから。

「ルーク」

限られた時間の中で、確かにアッシュは幸せだった。





   星空の邂逅


14/07/09