その日は、とてもよく晴れた気持ちのいい天気だった。
「あーあずりぃーなー羨ましいなー何でお前は上手くて俺は下手なんだよ」
「俺はあんたじゃなくてあんたは俺じゃないからだろ」
隣で椅子の背もたれに顎を乗っけながら頬を膨らませるシロにルークは呆れたような視線を向けた。シロは確かに「ルーク」であるが、シロはルークではないしルークはシロではない。足をブラブラさせる未来の自分(一応)の姿に、こいつは本当に俺より長く生きているのかと心の中でつっこんだ。共に外見年齢より幼くルークは7歳だが、シロは実年齢も15ぐらいはいっていると思うのにこの子どもっぽい態度。俺は絶対こうはなるまいと固く誓うルークは、普段の己の行動がどっこいどっこいな事に気付いていない。
ルークが止めていた手を再び動かし始めると、それをじっと眺めていたシロが再びずるいと声を上げた。
「もーっうるせーなー!下手なら練習すりゃいいじゃねーか!」
「いくら練習したって上手くならねえからずるいって言ってんだろ!」
「大体、手伝いするっていってここに来たくせに全然手伝わねえじゃんか!」
「俺が手伝ったら料理が台無しになるだろ!」
ルークはシロの言葉にうっと押し黙ると同時に同情の視線を投げかけた。自分が料理が下手な事をよく自覚しているのがいっそ哀れだった。そう、ルークは只今絶賛料理中なのだった。ルークの家庭教師兼教育係兼父親みたいなクロが必要最低限の料理を教えてくれた賜物だった。一方基礎もまともに習った事も無いシロがまともな料理を作れるわけが無い。クロに教えてもらえと言っても意地張って断るし。そんなシロと半生を共にしたアッシュも道連れに料理が上手い方では無いようなので、ルークは常々本当に気の毒だと思っているのだ。
「……じゃあ何でここにいるんだよ」
「暇じゃん」
ルークが尋ねるとシロはあっさりとそう言った。思わず遠い目で窓の外を見る。
「まだやってんのかあの2人……」
「どうしても入れてもらえないんだよ。暇だー」
「じゃあせめて手伝えっ!ほら、それ入れるだけでいーんだから!」
「へいへい」
ルークに腕を引っ張られてシロがようやく椅子から立ち上がる。そんな厨房の外では、今激しいバトルが繰り広げられている最中であった。
目の端に紅色の残像が映る。それだけだった。アッシュは舌を打つと共にすぐさま地面を蹴って後ろへ下がる。そうしなければ、アッシュが渾身の力を込めて振り下ろした木刀を憎いほど易々と避けた相手からの一撃をこっちが食らってしまうからだ。さっきまでアッシュがいた場所に、果たして物凄い勢いで木刀が襲い掛かる。おいおいそれ本当に手加減しているんだろうなと頭の隅で思いながらアッシュはすでに動いていた。背後に回りこむようにすれ違い、そこに木刀を叩き込む。カァンと木と木がぶつかり合う音が中庭に響いた。受け止められた。すかさず蹴りを放つアッシュ。だがその足はしっかりがっしりと掴まれてしまった。
「しまっ……!」
た、の所で体が宙に浮く。自分が片手で放り投げられたのだと気付いたのは、地面に体が叩きつけられたときだった。仰向けに一瞬青空を見て、アッシュは痛みが響く背中に鞭打って飛び起き、ようとした。だが腹に足を容赦なく落とされて、思わず息を吐き出す。それで終わりだった。
「気合十分は結構だが、次が読まれすぎだ。もっと大人らしい戦い方を学ぶんだな」
「ぐっ……!」
アッシュは心底悔しそうに、自分を踏みつけ見下ろすクロを睨みつけた。さっきからこの2人はこの調子で戦い続けていた。最初は本当に気軽に木刀を打ちつけあっていたのだ。それがだんだんと勢いを増し、エスカレートしていって、最後にはさっきのように本気になっていた、という訳だ。どちらも一歩も引かない様子に成り行きを見守っていたシロが呆れて立ち去った事にも未だに気付いていない。しかし本気、といっても、この男はまだ本気ではなかったのだろうとアッシュは余計に悔しく思う。確かに体格も、経験の差もあるのだが、こうも簡単にあしらわれると屈辱で仕方が無い。せめてもと、精一杯の憎まれ口を叩く。
「ってめえだって途中から本気になってただろ、目が据わってたぞ。大人げねえとはこの事だな」
「ふん」
「ぐああああいだだだだ!」
腹に置かれていた足に力が入ってアッシュは痛みにもがいた。本当に大人げねえよこいつ!
「おいクロ!そんなにアッシュ苛めてやんなよ、可哀想だろ!」
そこに脇のほうから助け舟が出された。2人が屋敷から中庭に続く入口へと振り返ると、そこには手に何かを持ったルークが立っていた。クロがようやく足をどけてくれたので、アッシュは恥ずかしさと情けなさでいっぱいになりながら起き上がった。負ける瞬間も見られていたのだろうか、情けなさ過ぎる。
アッシュが心の中で身悶えながら俯き座り込んでいると、傍にルークが寄ってきた。傍らに立っていたクロがルークの持っているものを見て怪訝に眉を寄せる。
「それは何だ、ルーク」
「これ?さっき作ってたんだ、アッシュにっ!」
「……俺の分はないのか」
アッシュ、の部分に力を入れたルークの言葉にクロが少しだけ寂しそうに言う。まるっきり父親みたいじゃねえかと密かにアッシュが思っていれば、ルークがにやにやと笑いながら屋敷のどこかへ指を指し示した。確かあっちの方角には、厨房があったはずだ。
「あっちでクロの分を張り切って作ってた人が失敗に泣いてる所だから、慰めてこい!」
「………」
クロは額に手を合てて大きなため息をつきながら歩き出した。屋敷の中へ消えていくクロの背中を満足そうに見送ったルークは改めてアッシュの顔を覗き込む。心配そうな顔が見えて、アッシュはようやく顔を上げた。
「大丈夫か?全身満遍なく汚れてるぞ。怪我とかしてないか?」
「だっ大丈夫だっこれぐらい何とも無い!」
「そうか?それならいーんだけど……」
「……で、お前は何を作ってきたんだ?」
アッシュが尋ねると、ルークは心配そうな表情をぱっと笑顔に変えて手に持っていた何かを差し出してきた。少しはにかみながら、ぽかんとするアッシュの手に乗せてやる。
「……お菓子」
「マフィン!本見て美味しそうだから作ってみたんだ!なあ、食べてみてくれよ」
ルークは期待と不安が一緒になって揺れる瞳でじっとアッシュを見つめる。アッシュはゆっくりと、その初めて作ったというマフィンにかじりついた。味わうように噛み締めると、アッシュはルークに向き直った。
「美味い」
「ほ、本当か?変な味とかしないか?」
「ここで嘘ついてどうすんだ。自信を持て、美味い」
「やったーよかった!シロのがすごい事になったから心配してたんだ!」
喜びのあまり抱きついてきたルークに顔を赤くしながら、アッシュはすごい事になったというシロのマフィンは一体どんなものなのだろうかと考えて、すぐに考えない事にした。想像するのが怖いし、どうせ奴が食べてやるなり慰めるなりするのだろう。自分の目の前には美味しいマフィンがあって、ルークがいる。それだけでよかった。
「なーアッシュ、今度俺とも手合わせしようよ」
「それは絶対にごめんだ」
「何でだよー!」
「アホか!俺がお前を傷つけられるわけねえだろうが!」
「あっアッシュ……!」
「……ふん」
中庭で微笑ましく戯れる赤毛たち、それを窓越しに眺めながらクロは厨房へと足を踏み入れた。そして少しだけ後悔した。何だこの大惨事は。色んなものがひっくり返り汚れていて、以前の綺麗な厨房が見る形も無い。そんな中、机の上にちょこんと乗っかっている何やら黒い物体を見つけて、クロはため息をついた。
「おい」
クロは声を上げながら奥へと進み出た。机の影に、震える赤髪の尻尾が見えたのだ。背中を丸くして壁に向かってめそめそしているのは間違いなくシロだった。
「うっうっ俺は俺なりに頑張ったのに、何で爆発なんてするんだよぉーっ」
「爆発したのか……」
クロは思わず遠い目になる。だが爆発も可愛いものではないかと思ってしまうのは、もう1人絶望的に料理が下手(下手という次元でも無い気がするが)なお姫様を知っているからだろうか。それよりはマシだと慰めても最早慰めにもならないだろう。
「ほら、立て。めそめそしてても仕方ねえだろ」
「だって、せっかく頑張ったのに……」
クロが引っ張ってやれば、ブツブツ言いながらシロも立ち上がる。その様子を見ていたクロは仕方が無いという顔をしながら、机の上にあったマフィン(になるはずだったもの)へと手を伸ばした。シロが首をかしげながら見守る中、クロは躊躇いも無くそれを口の中へと入れた。びっくりしたのはシロだ。
「うわーっ?!なな何やってんだよクロー!」
「……苦いな……」
「当たり前だろ爆発したんだから!ほら吐き出せよ!」
1人ワタワタ慌てるシロの頭をクロはむんずと掴んだ。はたと見つめてくるシロの瞳を覗き込みながら、クロははっきりと言った。
「吐き出すわけねえだろ。お前がお前なりに頑張って作ったものを」
「なっ……!」
「……だがまあ不味いものは不味いからな。お前も味わえ」
「んむ?!」
顔を赤くしたシロは次の瞬間もっと赤くなっていた。唇と唇を通じて味わったものは苦くて不味くて最悪だったが、それもすぐに無くなってただ蕩けるような甘さだけが残る。この味は一体いつもどこからやってくるのだろうかと、シロはぼんやりする頭で考えていた。
しばらく、息が本気で苦しくなるまでキスは続いた。シロがクロの髪をぐいぐい引っ張ってようやく唇が離れれば、シロは涙の溜まった瞳で目の前のすました顔を睨みつけた。
「いいいきなり何すんだよこの変態っ!」
「変態とは何だ。ただの口直しだ」
「口直しって……」
「炭食ってこれだけじゃまだ足らんな……まだ口直しさせろ」
「ふざけんなー!っん」
叫び声が途中で途切れる。それが全部聞こえていても、中庭の2人はいつも通り華麗に無視している。
「平和だな……」
「うん、平和だ」
見上げた空は、平和なこの様子を祝福するように青く晴れ渡っていた。
もうひとつの平穏
06/09/30
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本館ブログでありがたくも10万打いきました時のお礼をありったけ込めたフリー小説です。
こんなものですが遠慮なく自由にもっさもさとお持ち帰りください。