松野おそ松、カラ松ガールになる






「何これ、ラムネ?」

おそ松は、デカパン宅で見つけた見慣れないものに興味を持った。用事もない平日の昼間にぶらぶらと暇つぶしで立ち寄ったデカパンの研究所、ただいま新作開発真っ最中の部屋にずかずかと上り込んで見つけたそれは、中央のテーブルに置かれた数個の錠剤だった。律儀にパンツの形をしているそれは、確かに子供受けを狙ったラムネにも見える。

「ラムネじゃないダス、それは研究に研究を重ねて生み出された、美女薬!……の試作品ダス」
「びじょぐすり?」
「その名の通り、飲めば誰でも可愛い女の子に変身できてしまう夢のような薬ダス」

デカパンが得意げに説明してくれる。何とも怪しいご都合主義満載な内容だったが、そんな事今更なのでおそ松はへえーと感心した声を上げて美女薬とやらを観察する。見た目には何の変哲もない。いや、パンツの形というのが変と言えば変だけど。それ以外はこれといって特徴も無い、飲みやすそうな大きさの錠剤でしかない。

「え、誰でもって事は、俺が飲んでも美女になれんの?」
「そのはずダス。色々まだ調整中なんダスが……言った通りまだ試作段階ダスから、無暗に飲んじゃだめダスよ」
「へー面白そう!あーん」
「って言ってる傍からー!」

デカパンの忠告も聞かずに、おそ松はひょいと一粒口の中に放って、飲み込んだ。さてどうなるかな、と呑気に考える、暇も無かった。たちまち辺りに光が満ちて、おそ松は自分の体が変化していくのをはっきりと感じた。

「お!お?!おおお?!なっ何だこれ!」
「眩しいダスー!」

光はすぐに収まった。ばさりと、何かが肩に垂れ下がる覚えのない感覚に違和感を持ちながら、おそ松はきつく瞑っていた目をおそるおそる開く。目の前で同じように目を開いたデカパンが、おそ松を見てほほおと声を上げた。

「これは、これは、思っていた以上の出来ダスなあ!」
「え、なに、どうなってんの?俺美女になったの?」

自分じゃ分からないが、デカパンはだらしのない笑顔でこちらを見ている。少なくとも見苦しい姿になってはいないらしい。戸惑いながら無意識に触れてみた頭は、確かにさっきまでとはまるきり違っていた。人生初の衝撃だった。だって今まで生きてきた中で、こうやって肩の下まで髪を伸ばした事など一度もなかったのだから。先ほど肩に感じた軽い重みはこれだったのか。

「うわ!髪が伸びてる!いてえ!本物だ!カツラじゃねえ!」
「落ち着くダス、今鏡を」
「う、うおおおお!!おっぱい!おっぱいあるぞ!本物!生おっぱい!やばい!」
「だから落ち着くダス!!」

とっさに胸にあてた手が、柔らかなふくらみを掴んだ時点でおそ松のテンションは最高潮に達した。童貞の悲しき性である。これ以上ヒートアップしてとんでもない事をし出す前に、デカパンが手鏡を持ってきてくれた。

「ほら、これが今のキミの姿ダス」
「……お、おお……これが、俺……」

鏡を覗き込んで、おそ松は思わず絶句した。目の前には困惑した顔でこちらを見つめる美女がいる。さらさらの黒髪ロングヘアーに、少し勝気そうな大きい瞳。あまり日に焼けていない白い肌が、興奮して淡く色付いた頬を際立たせている。ぽかんと微かに開いた紅い唇に、それが己のものだと思えなくてドキドキしてしまった。はく、とおそ松が口を開け閉めすれば、目の前の女の子も同じタイミングで口元を動かす。ああどうやら、これは確かに鏡のようだ。
少し落ち着いた頭でそろそろと自身を見下ろしてみれば、赤色パーカーを押し上げる二つの膨らみと、何故かジーンズから膝上スカートに変化した足が見えた。剥き出しの足もつるりと綺麗に伸びていて、その瑞々しさに思わず恥ずかしくなってしまう。ほんとにこれ、自分の足なのか。

「な、なあデカパン博士、これは幻覚とか夢とかじゃないんだよな」
「そうダス、現実ダス。美女薬の力でキミの身体は正真正銘美女になっているダスよ」
「すげえ……美女薬すげえ……!でも何で薬飲んで服まで変わってんだ」
「……そこ、つっこんじゃうダスか」

デカパンに静かな目で見つめられて、おそ松は頷いて何も尋ねなかった事にした。この世にはつっこんではいけない事というのがあるのだ。

「あー、でもさ、どうせ服まで変化させるならもうちょっとこう、女の子らしい可愛い服とかに出来なかったの?とってつけたようにスカートだけって適当すぎない?」
「スカートだけじゃないダス。パーカーの模様もほら、可愛らしいリボンに変わっているダス!」
「うわ地味!」

よくよく見てみれば、確かに兄弟お揃いの松模様がファンシーなリボン柄になっている。しかしそれだけだ。テレビやショーウインドウでよく見るオシャレな可愛らしい服などどこにもなく、あるのはもっさりとしたパーカーと簡素なスカート一枚だ。顔や体はこれだけ可愛らしく美しい女の子になっているというのに、何ともったいない。

「ほえほえ、なるほど、もっと大胆に服を変えてもいいダスなあ、キミが後先考えずに実験台になってくれて結果的に助かったダス。それに……顔の変化も調整が必要ダス」
「え、まだ調整すんの?もう十分可愛くね?」
「ワシが目指すのは、誰でも美女になれる薬ダス。今のキミの顔は、あくまでキミを元にして変化したもの。元がどうブサイクでも、ありとあらゆる美女になる事が出来るようにしなければいけないダス!」

確かに今の美女と化したおそ松は、伸びたとはいえ髪の色は通常時と同じ。色白なのも日々ゴロゴロしているニートの肌色を反映させたもの。整った顔の造形もじっと見てみれば辛うじて、おそ松の面影が無い事も無いと言えるかもしれない。それでも言われなきゃ元が俺だなんて微塵も気づけないレベルじゃねえかな、とおそ松は思うのだが。デカパンは思っていた以上にこの薬を真剣に開発していたらしい。握りしめた拳をぐっと突き上げ、高らかに宣言してみせた。

「目標は!イヤミも出っ歯の無い正真正銘の美人へ、ダス!」
「お、おお……それはまた途方もない目標を……」

だが、その情熱があれば遥か高みに到達できるような気がする。頑張れ、デカパン博士!イヤミの出っ歯に勝つんだ、デカパン博士!おそ松は心の中でエールを送った。ちなみに後日このエールでも効いたのか、宣言通りイヤミでも出っ歯のない美女に変身できる完璧な美女薬を作り上げてしまう事になるのだが、それはまた別の話である。
おそ松はそこでピーンと、思いつく。思いついてしまう。

「……なあ、デカパン博士。俺、役に立った?」
「立ったダス立ったダス。これはお礼をしなきゃいけないダスな」
「えーそんなのいいってーたまたま遊びに来てただけなんだしさーでもまあどうしてもお礼がしたいって言うなら、さ」

にこにこ上機嫌のデカパンに、さらりと長い黒髪を靡かせて振り返り、赤いパーカーの美女は片目を瞑って可憐に笑ってみせた。

「ここに残ってる美女薬の試作品全部、俺にちょーだい!」




1、一回一粒。
2、効果は一粒約一時間。
3、美女にふさわしい綺麗な心で使うダス。

去り際に念押しされた美女薬の用法用量を頭の中で反芻しながら、おそ松はニシシと笑った。分かってる、分かってる。生まれながらのこの輝かんばかりの心でもって、今日は良きお兄ちゃんとして弟に良い夢を見させてあげようじゃないの。あ、今はお姉ちゃんか?
わざわざ美女薬を貰ってきたおそ松の目的は、そう、この見た目麗しい姿を使って弟で……いやいや、弟と遊ぶ事だった。何せ世にも珍しい六つ子が六人そろって、この歳にもなって彼女がいないのである。足の引っ張り合いも日常茶飯事なのだから、可能性の芽も自分たちで潰しているようなものだ。そんなしょぼくれた弟たちが、中身が兄とも知らずにこんな美女に迫られでもしたら、一体どんな面白い反応を見せてくれるだろう。想像するだけでおそ松はウキウキワクワクしてくるのだった。有体に言えば、クズである。

「んで、一体誰を標的にするか、だけど」

おそ松は手の中で弄ぶ錠剤を見る。そこには元々六つあった内の、まだ飲んでいない五つのパンツ型の薬が転がっている。効果は一粒一時間、つまりこれだけの時間しか美女になる事は出来ない。本当ならば弟全員に夢(笑)を見させてあげたかったが、時間を考慮すれば一人に絞った方が得策だろう。なにせこの六つ子、揃う時はびっくりするぐらい全員揃う癖に昼間は大体単独行動をしているのだ。探し出す時間も移動している時間ももったいない。だから、残念ながら今回の標的は一人だ。
では、その一人を誰に絞るのかというと。

「トド松は女の子慣れしてそうでつまんなそうだし、十四松は……何かこういう方面でからかっちゃいけねえ気がする。一松はどんな反応見せるか未知数すぎて怖ぇしなー、チョロ松とかめちゃくちゃ面白い反応見せてくれそうだけどあいにく今日は行き先が分かんねえ。と、くれば、だ」

おそ松は足を止めた。そう、つらつらと兄弟たちの名前を上げていたが、デカパンの研究所から外に出た時点でおそ松は誰を狙うか、決めていた。反応が面白そうで、騙すのにちょろそうで、なおかつ行き先が特定できる奴。そういう好条件を満たしている弟が、一人いたのだった。
かくしておそ松は慣れないスカートを靡かせながらここまでやってきた。この、一見何の変哲もない橋の上に。

「おお、いたいた」

すっと目を細めたおそ松の目の前に、サングラスをかけた革ジャンの男が一人佇んでいる。常だったらば己と同じ顔をしている、松野家次男松野カラ松。普段から何かと痛い言動を取る彼は、今日も今日とて存在するかも疑わしいカラ松ガールとやらをああやってかっこつけながら待ち続けている。正直、自分から声を掛けに行かない所が最高にヘタレだと思う。もちろん周りに女の子らしき人物はいない。たまに通りすがっても、全力で引きながら遠ざかるだけだ。メンタル弱いくせによくあれでへこたれないなあと、逆に感心してしまいそうになる。
おそ松は鼻の下を擦って笑った。これからあの次男は、信じられない甘い夢を見る事になるだろう。それが後で、苦々しい悪夢に変わり果てるとしても。ああ、今からその顔を見るのが楽しみでならない。自分でも割とクズだと思った。思っていても、止められない。おそ松は軽い足取りで一つ下の弟の元へと向かった。
欄干に凭れながら水の流れを見つめるその背中側から、ぽんぽんと、華奢な手が肩を叩く。びくっと反応したカラ松はすぐに我に返って、きっと脳内で思い描いていた通りにかっこつけて振り返り、同時にサングラスを取ってこちらを向いた。

「フッ……やっと来たかい、カラ松ガール」
「うんっ!遅れてごめんね、カラ松くん!」

精一杯の笑顔で、媚を売るような可憐な声で、おそ松は小首を傾げて笑ってみせた。さすが試作品とはいえデカパン自信作の美女薬、声も鈴を転がすような可愛らしい女性のものになっていて、元のおそ松の男の声など面影すらなかった。そんな、自分でも聴いていて心地よい声が、カラ松の言葉を間髪入れずに肯定する。カッと目を見開いたカラ松のその時の表情は、はっきり言って期待以上のものだった。
幽霊でも見たかのような、驚愕した顔。限界まで見開かれた瞳。身体はピシリと石のように固まっている。あんぐりと開いた口だけが、ブリキのおもちゃみたいにかくかく動いて掠れた呻き声を上げた。

「……え……?おっ……?!」
「はーい、初めまして!カラ松ガールの……松子でーす!」

名前は超適当。二の句が継げないカラ松に、とびきりの笑顔を向けてみせる。多分、おそらく、史上初めての、自称カラ松ガールがここにいた。てへ、とピースを作ってみせるその仕草は、記憶の中の末っ子トド松を真似てみたものだ。真似て、よく分かった。あいつやっぱりあざとい。

「………、カラ松、ガール……?」
「んもーさっきからそうだって言ってんじゃないですかあ。ずっとここで、松子の事待っててくれたんでしょ?」
「いや、あの、」

もしかして健気にこうして待っていながら、実際にカラ松ガールとやらが現れるとは思っていなかったのだろうか。それほどまでに、カラ松は突然現れた松子を名乗るおそ松に驚愕しているようだった。何度も何度も、おそ松の姿を上から下まで眺めまわしている。その視線に下心は感じなかったが、あまりにもじろじろ見てくるのでおそ松はわざとらしく自分の肩を抱いて体をひねってみせた。

「やっだー!カラ松くんたら松子の事見すぎーっ!そんなに松子、魅力的に見えるー?」
「はっ!いやその、そうじゃなくてっ!」

途端に顔を赤くして慌て出したカラ松の反応は、完全に初心な男のもの。おそ松は内心微笑ましさとおかしさに笑った。あー、やっぱりカラ松選んでよかった。ほんと、弄りがいのある男だわ。
こんなに面白いのだから、こんな所で延々話しているだけというのももったいない。おそ松はまだあたふたしているカラ松に強制的に近づき、その腕を取って抱きついてみせた。残念ながら美女薬は身長までは女の子補正してくれなくて、同じ身長の腕に抱きつくために少々しな垂れかかる必要があった。

「さ!行きましょカラ松くん!」
「へ?!い、行くって、どこへ!?」
「そんなの決まってるじゃない、デートよ、で・え・と!せっかくこのカラ松ガール様が来てあげたんだから、せいぜい楽しませてねっ!もちろんカラ松くんの奢りで」
「なあっ!?」

カラ松は目を白黒させながらも、おそ松が強引に腕を引けば足を動かしてついてくる。上機嫌にふんふーんと鼻歌を歌うおそ松の横顔をしばらく穴が開くほど見つめたと思ったら、橋を渡りきったぐらいの所でふっと視線を外した。足取りも引き摺られるようなものからしっかりと地面を踏みしめはじめる。どうやら、覚悟を決めたらしい。ほくそ笑みながらおそ松は、カラ松に見えないようにこっそりと口の中に美女薬を一粒、放り込んだ。さて、お楽しみの本番は、これからだ。
薬は残り、四錠。





何か思ってたのと違う。
おそ松は悩んでいた。カラ松と共に歩きながら悩んでいた。腕を軽く組んで、橋の上から移動して、カラ松ガールを今か今かと待っていたくせにデートコースとか何も考えていなかったらしい脳みそ空っぽな弟を連れて、とりあえず賑やかな町の中心部へとやってきた所だった。道中歩きながら、何にもカラ松くんの事知らないから教えてー的なノリで色々と話をしてみたのだが、そのうえでおそ松は悩んでいた。
何か、思ってたのと違う。

「どうした?松子ちゃん」
「え?あ、ううん何でもない!」

突然黙り込んだこちらを怪訝そうに覗き込んでくるカラ松に、おそ松は慌てて取り繕ってみせる。ただ少し気になったので、何気ない風を装って尋ねてみる事にした。

「えーっと、あの、カラ松くん?」
「なんだ?」
「そのー、松子とあなたは今日初めて話す訳だけどー……あなたもうちょっと、喋り方、違うんじゃない?」
「は?」
「いや、松子の勘だと、カラ松くんはもう少し痛い……じゃなくて、かっこつけた、っていうかかっこいい喋り方なんじゃないかなー、って思ってたからぁ」

なるべく言葉を選んで伝える。いつもだったら思っていた事をズバズバ遠慮なく口にするが、今おそ松はカラ松ガールの松子なのである。なるべくカラ松を立てた表現を選ばなければならない。
そう、おそ松はもっと、カラ松が腹を押さえて転げまわりたくなるほどの痛々しい台詞を吐くものだと思っていた。だから覚悟もしていた。幸い一般人よりは耐性がついていたから、あまりの痛さに息絶える事はないだろうとは思っていたが、一応ちゃんと覚悟をしていた。どんな痛い異次元な台詞で口説かれようとも、笑顔を崩さずに受け止めてやろう、と。もちろん後日全力でからかうためだが。
しかしそんなおそ松の予想に反して、カラ松は思っていたほど、痛い台詞を連発しなかった。突然現れたこんなに可愛い女の子に、舞い上がってさらに痛々しくなるだろうと思っていた言動が、あまり変わらない。何故だ。さっき声を掛けられた時だって、「どうしたんだい俺のスイートキャット」とかキメ顔で言ってのけそうな場面だったじゃないか。

「……松子ちゃん」
「へ?あっ」

突然さっと肩を抱き寄せられて、おそ松はぱちと瞬きした。その横を、少々スピードの乗った車が通り過ぎていく。あのまま歩いていても当たったりはしなかっただろうが、風圧でよろける事はあったかもしれない。ほっと胸をなでおろしたおそ松の肩を抱いたまま、自分の反対側に移動させたカラ松が目を細めて笑う。ついでに歯も光る。

「大丈夫かい子猫ちゃん。この世は危険だらけだ……だが安心してくれ、君のナイトがこうしていつでも守ってやろう。遠慮する事無く、いつでもこの胸に飛び込んでおいで」
「いや、思い出したように痛い台詞吐かれても」

思わず素でつっこんでしまう。カラ松もカラ松で何やら焦るように笑顔のまま汗を流していた。少しの間、沈黙がその場を支配する。懸命に何かを考えていたカラ松は、どうやら何かしらの結論に至ったようで唐突にそうだ、と声を上げた。

「分かったぜ、松子ちゃん。俺がいつも被る煌びやかな王子様を上手く被る事が出来ないのは、君がこのカラ松の闇に覆われた心を溶かしてくれる光の女神だからさ……」
「あー、つまり松子の前だとカラ松くんは素のままでいられるって事っすか。何で?」
「何で、って……」

尋ねれば、ぱちぱちと瞬きをするカラ松。つい、と視線を逸らして、またおそ松の顔を見て、何故だか照れくさそうに笑った。それは本人の言うとおり、意識してかっこつけた仮面をかぶったりしていない、カラ松本来の笑顔だった。兄として共に20数年生きてきたおそ松にはよく分かった。

「松子ちゃんが、松子ちゃんだからだ」

何だ、それ。
おそ松はへーとかそうなんだーとか適当にもごもご答えながら、慌ててカラ松から視線を逸らして俯いた。ああいうカラ松の表情自体、別に初めて見るものではなかった。やる事なす事大体空回りしてしまうこの次男は、弟たちや女の子相手には無駄に頑張ってかっこつけては滑りまくっているが、唯一の兄であるおそ松相手には割と素の顔で接してくる。だから、今のカラ松の顔なんて珍しいものじゃない。おそ松にとっては何てことない、ただの同じ歳の弟の笑顔というだけだ。
それだけでしか、ないのに。

(何故俺の方が照れているんだ……)

一応、デートという名目で一緒にいる途中だからだろうか。自分が兄のおそ松ではなく別人に化けているからだろうか。何故だか、今のカラ松の顔を直視できない。顔に僅かに熱が集まるのを感じる。自称カラ松ガールの「松子」として向けられた視線が、何故だか気恥ずかしかった。同時に意味不明なもやもやとした思いも湧き上がってくる。
こいつ、知り合って間もない女の子にでも、こうやって笑うんだ。

「そういえば、この近くに新しくクレープ屋さんが出来たと昨日トド松が言っていたな。ちょうどいい時間だし行ってみないか……松子ちゃん?どうした?」
「ハッ!や、いやあ、何でもないのよ!おほほほほー!」

かなりワザとらしい笑い方だったと思う。それでもカラ松はそうか、と流してくれた。不自然に思われなくてよかったと、ほっと胸をなでおろす。そして、気付いた。

「……あの、カラ松くん?」
「うん?」
「松子、カラ松ガールだから別に嫌とかじゃないんだけどぉー……、そんなに常に傍にいられると、照れちゃうっていうかぁ」

くねくねと大げさに体を動かして、主張する。先ほど通り過ぎた車から助けたそのまま、肩を抱いた状態だったその手の存在を。え、とおそ松の顔と自分の腕を交互に見比べたカラ松は、数秒固まった後ようやく情けない声を上げて飛び退いた。

「ごごご、ごめんっ!無意識だったんだ!」
「んーん、いいの!カラ松くん男らしかったぁ!」

適当に褒めながら、今更慌てふためくその顔を内心笑ってやりながら、カラ松から視線を逸らして錠剤をぱくりと一粒。
頬に集まっていた熱が、未だ冷え切っていなかった事から目を逸らしながら。
薬は残り、三錠。




カラ松が末っ子から教えて貰ったというクレープ屋は、少し歩いた先にあった。町の広場に備えられたワゴン型の店で、休日ならばそれこそ何十分も並ばなければ食べられないほどの人気なのだという。幸い今日は平日、曜日の重要性なんてほぼ無い毎日が日曜日のニートにとってはありがたい事に、少し並べばすぐに順番は回ってきた。

「ね、今日はカラ松くんのおごりだよね?」
「え、」
「お・ご・り・だよね?」
「ハイそうです……」

普通こういう場面ならば男が女に奢ってあげるのがセオリーだろう。おそ松は何のためらいもなくカラ松にたかる事が出来た。例え元の男の姿だったとしても躊躇なくおねだりしていた事は言うまでもない。
財布の中身を確認しているカラ松を放っておいて、おそ松はカウンターに敷いてあるメニューを覗き込んだ。普段はめったに食べないようなハイカラなクレープがずらりと並んでいる。どれもこれも見るからに甘ったるそうだった。別に甘いものが苦手という訳ではないので、豊富な種類に目移りしてしまう。

「へえー、ホットクレープなんてもんもあるんだ。これなんてもう、デザートっていうよりおかずじゃん、おかず」
「どれが食べたいか、決まったか?」
「んーそうだなあ、何か小腹が空いてるし……このソーセージ入ってるのなんて美味そうじゃね?これにしよっかなあ」

くるりと振り返ってメニューを指してみれば、カラ松は微笑ましそうに笑っている。その顔を見て、ハッと気付いた。思い出したのだ、今の自分の姿を。今自分が何を名乗っているのかを。
し、しまったー!今、めちゃくちゃ可愛い女の子の姿をしているのに、思いっ切りがっつりしたやつ選んでたー!普通女の子ってフルーツ入ってたりクリーム一杯トッピングされてんの選ぶよなー!やべえー!クレープ屋なんてめったに来ないからメチャクチャ浮かれてたー!だって美味しそうなんだもん!男の子はすぐにお腹がすくんだもん!今俺女の子だけど!!

「……じゃなくって、松子こっちのイチゴがたーくさん入ってるのがいいなーっ!」
「ん、そっちの奴じゃなくていいのか?」
「いいから!松子女の子だから!こんな男らしいもの食べない乙女だから!」

必死に軌道修正すれば、カラ松は不思議そうに首を傾げながらも頷いた。自分も少しの間メニューを眺めて、にこにこ笑顔の店員さん指さしながら注文する。

「イチゴ生クリームを一つと、ソーセージツナを一つ」
「かしこまりました!」
「……へ?」

おそ松は思わずカラ松を見つめた。カラ松が注文したものは、今しがたおそ松が素で頼みかけてしまったものだった。視線に気付いたカラ松が、何でもないように笑ってみせる。

「俺も小腹が空いていたんだ。何せ、男だからな」
「あ……そっか、なるほど」

そりゃカラ松は男のまんまだもんな、お腹が空くよな、と納得して頷くおそ松。首を動かすごとにさらさらの黒髪が頬を流れる。それを眺めたカラ松が、数秒だけ黙った。

「……あ。見ていてごらん、この男カラ松がワイルドに肉を噛み千切る瞬間を。ダンディなカラ松フェロモンが全身から迸って君を虜にしちまうぜ……」
「あ、って何よ。思い出したように痛い事言わなくてもいいってば」

おそ松が呆れている間にクレープは出来上がった。広場に設置されている屋外の丸いテーブルはその大体が埋まっていたので、少し離れたベンチの方へ移動する。いただきまーす、とあえて可愛らしく声を上げてからいちごたっぷりのクレープに齧りついてみれば、口の中にぶわっと甘酸っぱい果物の味が広がった。胸焼けするような量の甘い甘いクリームともちもちクレープ生地と共に咀嚼すれば、なるほど確かに悪くない味だ。甘いもの好きな女の子が夢中になるのも分かる気がする。

「美味しいっ!」
「美味しいか」
「うん、思ってたよりかなり!」

小腹が空いていたのもあって、勢いでガツガツと食べ進めた。あんまり大口開けて食べるのもまた女らしくないかもしれないが、あまり時間をかけているとすぐにこの甘さに胃がやられてしまう気がしたのだ。背に腹は代えられない、見た目が上等なので多少は誤魔化されるだろうし。そういうおそ松の懸念は正しかった。さらに言えば、甘くも見ていた。限界は、思っていたより早く訪れてしまう。

(この量の生クリームを笑顔で全部食い切るとか、女の子マジ半端ねえ……!)

半分だ。まだ半分残っているというのに、おそ松の胃は限界を訴えていた。イチゴの爽やかな甘さは良いアクセントになったが、それでも生クリームの威力がやばい。姿は完璧な女性になっても、脳みそは男のせいか内臓が拒否してしまう。
松子もうお腹いっぱーい☆と小食アピールして逃げてしまおうか、でもせっかくタダで買ってもらったものだし、タダで、と食いかけのクレープをじっと見つめていると、隣から吹き出す声が聞こえた。ハッと顔を上げて見てみれば、肩を震わせて何故か笑っていたらしいカラ松が、自分のクレープをそっと差し出してくる。量はこちらのクレープと同じぐらいの半分ほどだ。

「こっち、食べてみるか?何なら交換しよう」
「えっ?」
「俺もそっちが食べてみたくてな。ずっと同じ味だと飽きるタイプなんだ」

にこにこと完全に好意で差し出されるツナとソーセージの入ったクレープは見るからに美味しそうで。迷った時間は僅かだった。おそ松も自分のクレープを差し出して、無事にトレードが成立する。齧り付いてみれば、お肉の味が温かいクレープ生地と相まってなかなか美味しかった。何よりあまりの甘さに辟易していた身体が、やったお肉だと喜んでいる気がした。
隣でおそ松がクレープを食べるまで見守っていたカラ松が、改めてイチゴと生クリームのクレープを口に含む。途端に肩がぴくりと跳ねた。

「甘っ」
「なー!甘いよなー!松子もびっくりの甘さ!」
「ん、まあこれはこれで美味い。はは、二人で半分ずつでちょうどよかったな」

うんうんと頷きながら口を動かすカラ松を、ちらと眺める。おそ松には最初から分かっていた。カラ松が何故このソーセージの入ったクレープを頼んだのか。元々そういう奴なのだ。数が足りない場合は除くが兄弟間でも、例えば六つ味の違うお菓子なんかがあった場合真っ先に自分が食べたい味を奪うおそ松とは正反対に、大体他の兄弟が選んだ一番最後に腕を伸ばすのがカラ松だ。それは貪欲な兄弟におされた結果でもあるのだが、後でやっぱり交換してと理不尽に訴えてもあっさり応じてくれる。こだわりがないだけなのかもしれない。それでも、嫌な顔一つせずにこちらの意見を通してくれるのはこいつの美徳だろう、とおそ松は思う。そんな弟の性格をおそ松は長男として、ずっと前から知っていた。
知っていた、はずなのに。今まで何度も恩恵にあずかってきているのに。今日はそんな気遣いが妙に胸に刺さる。やっぱりこれは美女薬で変身している弊害なのかもしれない。

「……ん?何かついてるか?」

新鮮な心地であまりにもまじまじと見つめすぎただろうか、カラ松が視線に気づいて、己の顔を指さしてみせた。そこでおそ松は、ようやく自分が考え込んでいる間カラ松を凝視していた事に気付いた。

「はっ!や、これは、その」
「フッ、やはりレディの視線を集めてしまうオーラが自然と出てしまっていたか」
「やはり、じゃねえよ。違う違う、別にオーラとか何かついてるとか、そういう事じゃなくて……って、」

あっ。改めてカラ松を見たおそ松は見つけてしまった。クレープをもごもごと食べるカラ松の口元に、生クリームがついている。本当に何かついていた。本人が全く気付いていない事と、言葉通りになってしまった展開に、思わず笑いがこみあげてくる。

「もー、カラ松くんたらほんとについてるしー!馬鹿なんだからー!」
「ば、馬鹿……?!え、ついてるって、何が?どこに?」
「ほら、ここ。まったくもー世話が焼ける男ねー」

慌てはじめるカラ松の口元に指を当て、くっついていた生クリームを取ってやる。こうして頬や顔にくっついた分を取ってやる事は慣れたものだった。十四松なんて毎日のようにほっぺたにご飯粒をくっつけている。その延長上の行為だった。何の違和感も無かった。おそ松は指についた生クリームを自分でぺろりと舐めとりながら、綺麗になったカラ松の口に満足して頷いた。

「ん!これでよし」
「ああ、ありがとう」

受けるカラ松も慣れたもの。二人はにこっと笑い合って、同時に残りのクレープを食べ始めて、そして、同時にブフゥと吹き出していた。

(うわあああああしまったーっ!!良く考えたら今の、客観的に見たらやばくね?!男女がやったら完全に恋人同士のそれじゃね?!違うから!今のは完全に兄心だったから!手のかかる弟に仕方ねえなーってやったやつだから!下心とかそういうんじゃないから!)

鏡で見た自分の今の可憐な姿で、さっきのカラ松にやった事を想像してみてしまった。おお、あざといあざとい。慌ててカラ松を見ると、カラ松も今更先ほどの行為を意識しているのか口元に手を当てて震えている。覗いた耳は赤く染まっていた。そこで気付く。そうだ、今はカラ松ガールとしてカラ松を煽りに煽って面白い顔を見るために動いているんだから、むしろ今のはカラ松ガール松子としてグッジョブな仕事だったのではないか。さっきから何故か自然体で接してくるこの男をここまで照れさせる事が出来たのだから、万々歳じゃないか。こっちが照れる必要など、何もない。
おそ松は急いで気を取り直した。ぱたぱたとこっそり顔を仰いで熱を覚まして、魔性の女を気取って声をかける。

「えへへ、どうかなーカラ松くーん、今のドキッとした?ねえねえ、ドキッとした?」
「っ……あ、ああ、この俺に不意打ちするなんて、とんだ小悪魔ちゃんだな。不覚にも俺のハートは君への愛のビートを刻んで」
「あ、ドキッとしたのならそれでいいです」

カラ松も何とか立ち直ったようだ。作戦成功、とガッツポーズを決めてみせたおそ松は、照れ隠しのようにクレープをガツガツ食べ始めたカラ松から見えないように、美女薬を一粒飲み込む。飲み込みながら、考えた。さっき自分が自然ととってしまった行動について。
今まで何の疑問も無くやってきた兄弟での行為を、これほどまでに恥ずかしく思うなんて。今までが異常だったのか、今この時の方が異常なのか、慣れきってしまったおそ松にはよく分からない。とにかく客観的に見て、相手についた食べ物をそのまま自分の口に運ぶ事が、実は恥ずかしい行為である事を学んでしまった。何故恥ずかしいと思ってしまうのかは……まだよく分からないままに。
薬は残り、二錠。




今更だが、おそ松は女の子の地味で些細だけど面倒なとある事を身を以て実感していた。女の子の、というより、初めて体験するこの髪型の憂鬱な所だ。正直、黒髪ロングは好きだ。清楚な感じがとても良い。変身したのが自分なのがもったいなく思うほど、今の顔も気に入っている。しかし、だがしかし、おそ松は知らなかったのだ。さらさらストレートの美しく長い黒髪が、こんなにも、邪魔でうっとおしいものだなんて。

「マジ、尊敬するわ……」
「ん?何をだ?」
「あー、えーっと、いつでも自分の道を突き進むカラ松くんはある意味尊敬するに値するよねーって話」
「え、お、俺?……フッ、やはり分かってしまうか、この俺のオンリーロンリネスロードの険しさ、そして孤高の輝きを……」

クレープを食べ終わって広場から出た後、適当にぶらついてみようと町中を並んで歩いている最中だった。素直に褒められたと受け取ったらしいカラ松がかっこつける横で、おそ松ははいはいと適当に相槌を打ちながら頬に垂れる髪を払いのける。しかし僅かな風でも靡いた髪は、すぐにおそ松の顔を襲った。これである。人生初長髪で気づいたのは、髪が思っていた以上に邪魔になるという事だった。
いくら後ろに流してもすぐに顔に掛かる。下を向けば容赦なく垂れ下がる。先ほどクレープを食べている時にも、油断していればすぐに口の中に入ってきてうっとおしかった。さらさらと手触りが良い分余計だった。最初は長髪をバッサと払いのける仕草も新鮮で楽しんでいたのだが、こうも四六時中ずっと気にしているとすぐに飽きる。女の子はこの苦行を乗り越えて日々生きているのかと思うと、溜息と共に尊敬の念が沸いてくるのだった。鏡でも見なきゃ可愛らしい自分の姿なんて見る事が出来ないし、己にとっては損しかないではないか。

「ねーねーカラ松くん」
「どうした?」
「松子の髪、見て。もっと見て。松子の分まで穴が開くほど見ろ」
「えっ」

突然の要求にカラ松が戸惑っている。自分が見る事が出来ないのなら、その分カラ松に見てもらおうと考えたおそ松の、ただの気まぐれである。ほら、女の子ってたまに理不尽なワガママ言ったりするじゃん、それが可愛かったりするじゃん、とはおそ松の心の中の言い訳。モデルはもちろんトト子ちゃんだ。しかしトト子があまり女の子の基準にしてはいけない逞しさを持っている事は、盲目的な六つ子の誰も気づいていない。
カラ松をからかうどころじゃなくなってしまったおそ松は、そっと溜息を吐いた。もう残りの美女薬は飲まないでおこっかなあ、とまで考えていると、突然軽く腕を引かれて立ち止まる。

「ぅえっ?」
「……松子ちゃん、あのワゴンを見てみようぜ」

今まで黙って隣を歩いていたカラ松が、珍しくどこかを指し示す。しかも手を握ってぐいぐい歩き出した。押しが弱くてすぐにヘタレるこの次男坊も、純粋な力だけは強いんだったとおそ松は慌ててついていく。何か妙案を思いついたような顔でカラ松が辿り着いた先は、青空の下で小物を一杯ぶら下げた小型のワゴンだった。男同士であればまず寄り付かない店だ。それほど値が張らないネックレスやイヤリングなどのアクセサリーに、髪を飾るゴムやリボンが色鮮やかに並べられている。おそ松はあまりにも煌びやかな品ぞろえに眩暈がした。

「ま、眩しっ!なになに、一体このお店に何の用があんのカラ松くん」
「君の心を永遠に縛り付けて、俺と言う名のディスティニーへ繋いでおきたい」
「は?」
「……あの、髪を縛るものを買ってはどうかと思いまして、はい」

あまりの意味不明さにおそ松が思わずガンを飛ばせば、途端にカラ松は体と声を縮こまらせてボソボソと自ら翻訳した。例え美女でもガラ悪く威圧感のある睨みが効き目ある事がこれで分かった。カラ松を大人しくさせてから、おそ松は改めてその言葉の意味を考える。
髪を縛るものを買えば、とカラ松は言った。思わず己の頭に手を持っていく。すぐに指をすり抜けていく慣れない長髪に触れた。なるほど確かに、後ろで髪を縛れば前に垂れ下がって邪魔をしてくることも無くなるだろう。こいつちゃんと俺の事見ていたんだなあと妙に感慨深い気持ちになった。

「……でも松子、お金ないしぃ」
「それぐらいこの俺に任せておきな、マイスウィートハニー」
「わーい発音ウザッ!じゃなくてかっこいいー!それじゃあどれにしよっかなー」

タダより高いものは無い、を地で行くおそ松である。かつて今まで選んだことのない品揃えを嬉々として眺めはじめた。ポニーテールもツインテールもその他の髪型も似合っていれば何でも大好きだったが、まさか髪ゴムだけでもこれだけの種類があるとは思わなかった。数えるのも馬鹿馬鹿しくなるほど種類豊富な飾り付きのものに、シンプルなものでも何種類もの色が用意されている。これらを使う舞台である髪は一人一つしか持ち合わせていないというのに、これほどの量が必要なのだろうか。正直どれを選べばいいのか、さっぱり分からない。

「うーん……カラ松くんはどれがいいと思う?今だったら松子をあなた色に染めてあげてもいいけど?」
「え、俺?そうだな、俺は……」

ふられたカラ松は眉間に皺を寄せて悩み始めた。あっちへこっちへ視線を彷徨わせてたっぷり数分悩んだ後、一つ手に取る。でっかい水玉模様のリボンがくっついた派手な赤い髪ゴムだった。

「これなんかどうだい?俺のハートを熱く燃やしてくれる美しい君にぴったりだと思うんだが」
「あー、カラ松くんにしては良すぎるチョイスだねえ」

もしドクロがついてる髪留めなんかを選ばれたらどうしようかと思っていた所だった。ほっと息を吐いたおそ松が差し出されたそれを手に取る、前にワゴンに目をやる。とある色が、目の端に刺さって視線を離せなかった。直感というものだろうか。カラ松の手元へ伸びていた腕をひっこめて、迷わずそれを拾い上げていた。

「だけど松子はこっちにするー!カラ松くんお金!くれ!」
「え?!いや、お金は出すけど……俺が選んだのは……」

カラ松が寂しそうにブツブツ言う事も聞かずに、おそ松は無事に手に取ったそれを買い与えられた。カラ松が残念がっているのはきっと、おそ松が選んだものがシンプルすぎるのもあるのだろう。飾りも何もない、ただのリボン。しかも、カラ松が選んだ赤とは全く違う色。青色。
それは、せっかく美女に変身しているんだから自分が普段身につけている色とは別なものを選びたかったというちょっぴりひねくれた考えからだったのか。
それとも。

「……カラ松くん超絶不器用そうだけど聞いてみていい?髪って、結んだことある?」
「ああ……えっと……無いけど……が、頑張ってみるさ。大丈夫、身を任せておいで……痛くないようにするから。ほんと。頑張る」

邪魔にならないように隅っこの方に移動して、痛い痛い髪そんなに引っ張るな、とか、ごめんだから動かないで動くな、とか、二人でぎゃーぎゃー言いながら何とか一つに束ねた長い黒髪。初めて経験するポニーテールにはしゃぎながら見つめた通りのディスプレイに、仄かに映る可憐な美女の頭に咲いた青いリボンの華。ほんの少しよれよれなそれを少しだけ見つめてから、満足そうに笑う隣の男に微笑んだ。

「ねえ見て見て、カラ松くん色のリボンー」

あなた色に染め上げてもいいって、言ったじゃない?とあざとく笑えば、途端におそ松色に染まるカラ松の顔。またしてもしてやったりと肩を震わせながら、おそ松はこっそりと美女薬を飲み込んだ。
ああ、やっぱりこの色選んでよかった。最初からこうやるつもりで選んだんだし。だから何も問題ないし。別に今思いついた訳じゃないし。ほんとだし。
最初これが目についたきっかけが、別に、あっカラ松色だー、だなんて、そんな訳ないんだし。
薬は残り、あと一錠。





この季節になると、日が落ちるのが早くなる。垂れ下がっていただけの髪が括られて涼しくなった首元もすぐに気にならなくなり、そのままウインドウショッピングを楽しんでいれば、詳しく言えばお金がないのでお店を冷やかしながら適当にぶらぶら歩いていれば、辺りはすぐに薄暗くなっていった。それだけの時間がすでに過ぎていた事に、内心おそ松はびっくりしていた。慌てて最後の美女薬を手に取る。
そう、最後だ。これで最後。これを飲んでしまえばもう美女薬は手元にない。「松子」としての最後の一時間が始まる。時計なんて持ち歩いていないから、正確な時間も測れない。飲んだら早めにネタ晴らしをするか逃げるかしなければならない。どこでネタ晴らしをして、カラ松を全力でからかってやるか、おそ松は決めていなかった。どうやって言おうか。キスでもする寸前で元に戻って、じゃーんお兄ちゃんでしたーとでもやれば、一週間は立ち直れない傷をつける事が出来るかもしれない。そうやってつらつら考えながら、おそ松は自分が自分で嫌になった。
ああ、何で考えてなかったんだろ。つまり今まで、最初からからかうつもりでこんな事をしていたのに、その後の事は一切思い浮かばないぐらい今の現状を楽しんでいたって事だ。カラ松ガールなんてふざけた立場の今を。痛いファッションの方に吸い寄せられるカラ松を親切心で妨害したり、これは無いわーとか好き勝手にショーウインドウ中のファッションにケチつけたり、ぶらぶら歩きながら他愛もない話で笑い合ったり、今思えば普段兄と弟である時と変わらない同じような事ばかりしていた。後でからかう目的ならもっとこう、思い返すとカラ松が恥ずか死ぬぐらいの事をしでかしてやればよかったのに。
まったく、俺は何をやってんだか。最後の美女薬を、おそ松はこくりと飲み込んだ。

「……あっ」

ふと、隣を歩いていたカラ松が声を上げた。突然立ち止まってしまったので、おそ松もすぐに歩いていた足を止める。結局今日サングラスをつける事は無かった瞳が、夜の帳が広がっていく空を見上げている。おそ松も後頭部に下がる髪を振りながら空を見上げて、すぐにカラ松に視線を戻した。

「どしたの?」
「いや、そういえばもうすぐこのあたりでいいものが見られる時間だと思って」
「いいもの?何それ」

辺りを見回しても、何の変哲もない街の中だ。学校や仕事が終わって繰り出してきた老若男女が、カップルだったりグループだったりを作って賑やかに横を通り過ぎていく。カラ松は少し声を潜めて、内緒話をするように語りかけてきた。

「この時期になるととある場所で、光の妖精が毎夜ダンスを踊っているのさ。そんな美しき舞台を見られる絶好のロケーションがあるんだが、どうだい?」

おそ松は少しだけ時間を気にした。何時にあるのか尋ねたら、あともう数分だと答えられた。それならさっき飲んだ薬だって切れたりはしないだろう。頷けば、手を取られて歩きはじめる。説明の仕方は痛かったが、何が見られるのかおそ松はちょっぴりドキドキした。夜に出歩くのは基本的に飲み屋かチビ太のおでん屋に行く時ぐらいしかなかったので、リア充溢れる夜の町に一体何が待ち受けているのか、よく知らなかった。ぎゅっと力を入れた手はよく知っているはずの弟のものだというのに、自分の手が華奢になっているせいかずいぶんと大きく熱く感じた。それがとても不思議だった。
少し歩いて辿り着いた先は、クレープを食べた広場だった。但し広場の中ではなく、広場を上から眺められる歩道橋の上だった。クレープ屋やテーブルがかたずけられた広場には黒々とした人の群れが敷き詰められていて、何かを今か今かと待ち続けている。少し離れたこの歩道橋の上にも、広場を注目する者たちが何人も集まっているようだ。人ごみから少し離れた場所で、二人は手すりに凭れかかる。複数の人々がちらちらと時計を気にしていた。いい加減気になったおそ松はカラ松を振り返った。

「ここ?」
「ああ、多分、もうすぐはじまると思うぜ」

一体何が始まるんだ。そうやって尋ねる前に、それは始まった。太陽が沈んで星が瞬き始めた空の下、光源が無ければ隣の顔も満足に見られなくなった暗闇が、一気にぱっと華やいだ。はっとおそ松が広場に目を向ければ、そこには光が洪水のように溢れかえっていた。どうやら無数の電球が広場のいたるところに取り付けられていて、それらが一斉に明かりをつけたらしい。白と青を基調としたイルミネーションショーが、今まさに始まったところだった。

「う、わ……!何だこれ!」
「この時期だけ、数十分おきにやっているショーらしい。ここだと少し離れている分、全てが見渡せるだろう?」

人々の歓声が上がる。広場に集まった人々を取り囲むように、微かに聞こえる音に合わせて点滅を繰り返す電球の全てが、確かにここからはよく見えた。美しかった。こんな輝かんばかりのショーを見ようとしたことも無かったので、初めて目にするものだった。おそ松は手すりにかじりついて、夢中になってそれを見つめた。

「すっげえ!綺麗だなー!テレビとかでこういうの見た事あったけど、実際に目で見るとこんなに違うんだな!なあ見てるかカラ松!ほら、今の!」
「ああ、見てる」
「な、めちゃくちゃ綺麗だなあ!」

自分が今どんな姿をしてどんな企み中かも一切忘れて、はしゃぎまくったおそ松は隣に立つカラ松を笑顔で振り返った。途端に合わさる視線と視線。おそ松を見ていたらしいカラ松は、目が合うと柔らかく微笑んだ。嬉しそうな、幸せそうなその笑顔は、カラ松が今を本当に楽しんでいる事を伝えてくる。お兄ちゃんに嘘など付けない。おそ松にはそれが本物の笑顔である事が分かっていた。ああカラ松は「松子」と過ごす美しい今の時間を心から楽しんでいるんだ。その事実を、おそ松は何故かほぼ呆然と悟っていた。
呆けた頬に、そっと手の平を添えられる。瞬きをすればカラ松の顔がさっきよりも近づいた。

「あ……」

辺りに溢れる美しい光。見つめ合う瞳。本日今まで同じ時を過ごしてきた男と、「女」。これから己に、己の唇に待ち受ける衝撃を、正確に把握する。止めなきゃと思った。何故?そりゃたしかに姿は女でも心は男ですし?まず兄弟ですし?さすがに抵抗ありますけど?ムードたっぷりにキスでもして、その後正体をバラしちゃったりしたら、最高の喜劇が出来上がっちゃうじゃありませんか。やーいやーいお前騙されて男と、しかも兄弟とキスしてやんの!なんてからかうにはちょうどいい。諸刃の剣すぎるかもしれないけど、面白さを追求するならそれすら目を瞑れる。松野おそ松とはそういう人間だ。そういう人間だったはずだ。じゃあ、何故今、これほどまでに嫌がってるの。止めたいと思ってるの。ねえ。
カラ松は今一体、誰とキスしようとしているの。

「……っわ?!」

ボフンと、突如音を立ててもくもくと煙が上がったのはその時だった。煙はおそ松の全身をあっという間に包んで、そしてすぐに薄れていく。頬に添えられた指がぎくりと止まった。おそ松もびっくりして目を瞑ってしまう。薄目を開けてみれば、目と鼻の先で驚きに見開くカラ松の瞳が合った。その瞳を覗き込んで、そこに映る己の姿を見て、おそ松は全てを悟った。
そこにいたのは、黒髪ロングで勝気な目で肌が白くて華奢で可愛らしい華奢な美女ではなかった。目の前の顔とまるで鏡写しのようにそっくりな、六つ子の長男であるただの男の姿が映るだけだ。どうして、さっき薬飲んだばかりなのに何で、と一瞬のうちに混乱するおそ松は、残念ながら知らなかった。この美女薬、飲み続けると体に耐性がついて、一時間未満で元に戻ってしまうようになる事を。

「あ、あの、からま」

つ、と、名を呼ぼうとした声は消えた。混乱していた頭で、それでも何とかフル回転させて、先ほどとっさに思いついたように、俺でしたーっとなるべく陽気に告げようと思った。カラ松ガールなんてどこにもいません、今までお前と一緒にいた女の子はただのお兄ちゃんでしたーと、怒られる事も殴られる事も覚悟で伝えようと思った。それらは全て、出来なかった。出しかけた声も、ぐるぐる回っていた思考も、ばくばく音を立てていた心も、丸ごとすべて、吸い付いてきた唇に全て、奪い取られてしまった。
至近距離すぎて何も見えなくなったおそ松の視界には、そうなる前に一瞬だけ、とある光景を見出していた。音を立てて美女から長男に変化してみせた光景を、余す事無く見つめていた瞳が、限界まで見開かれた後の姿を。声も無く驚いていたその顔が、おそ松の顔を見て、どんな表情を浮かべたのかを。何を呟いて、おそ松の唇に同じ形の唇を触れ合わせたのかを。その、全てを。

「……っ!?っぷは!か、らまつ……?」

甘く優しく重なっていた時間は、たったの数秒だったけれど。永遠に引き延ばしたかのような時間を感じていたおそ松が、唇を離してからぱちぱちと瞬きする。するりとその肩を、何かが滑り落ちていった。眼球だけ動かして追ってみれば、まだまだ続くイルミネーションの光に照らされた蒼いリボンが、とっかかりのなくなったおそ松の髪からはらりと地面に向かって落ちる軌道が見えた。それが落ち切る前に大事そうに拾い上げた指が、おそ松を見ながら笑う。それは先ほど、キスをされる直前に見た笑顔と寸分違わず同じものだった。
まるで心から安堵したような、幸せが喉につかえて泣き出す寸前のような、昼間に食べたクレープよりも甘い甘い、その笑顔で。

「あの、おれ、お前のおにいちゃんなんだけど」

見えてたよね?と確認するその真っ赤な顔に、同じ顔を近づけながらカラ松は。

「うん。知っていたよ」

もう一度同じ形の唇を確認するように、そっと、瞳を瞑るその人に吐息を寄せた。

辺りを彩る光の妖精が、燃えるような赤を纏って青に交わる、その瞬間であった。











あっ、おそ松兄さんだ。

それが、いつもの橋の上で声を掛けられるのを待つその肩を叩かれ、振り返った先にいた今まで見た事も無い美女を視界にとらえて、カラ松が真っ先に思った言葉だった。
理屈などではない。よく見れば見るほどその可憐な女性は実の兄とはまったくもって結びつかない。男が女の姿になんて、どういう原理なのかもわからない。現実では絶対にありえない。そう思うのに、カラ松はこの女性が兄だと信じて疑えなかった。一目見た瞬間に抱いた直感はどうしても捨てる事が出来なかった。おそ松兄さん、とびっくりしすぎて声も出せなかったカラ松を、美女に変身した兄はぐいぐいと引っ張ってきた。

「さ!行きましょカラ松くん!」

その楽しそうな笑顔は、やっぱりどうしても兄のものとしか思えなくて。引っ張られながら悩んだカラ松は、やがて考えるのを止めた。どうして、とか、何故、とか考えるのは最早不毛である。どうやらカラ松にとって唯一の兄は、自称カラ松ガールとなってこちらをからかい遊び倒すつもりらしい。こうなったおそ松を止められるものは六つ子の中に誰もいない。抵抗する事を早々に諦めて、カラ松は兄のお遊びに付き合ってやる事とした。抵抗すればするほど悪い方向へ転がる事は、今まで生きてきた二十数年の歳月によって身に染みている。ここは素直に従って、穏便におそ松をやり過ごそうと思ったのだった。

それに、例え姿がいつものおそ松から変わり果てていたとしても、カラ松にとっては共に過ごす時間が何よりも嬉しかった。
自覚してから数年、自覚する前から換算すると十数年、いやいやもしかしたらもっと前から。叶う事のない恋煩いを、少しでも慰める事が出来るのならば。



松子と名乗ったおそ松と過ごす一日は、思っていたよりずっと楽しくて、そして違和感を伴った。
目の前にいるのは絶世の美女。しかしカラ松にはあのぐーたらでクズニートな兄にしか思えない。大変アンバランスな衝撃が常に心に押し寄せていた。

最初共に歩きながら話していた時は、おそ松に対する気持ちの方が強くてつい普段通りに話してしまっていた。

クレープを食べていた時も、美味しそうに食べる顔が兄の微笑ましい姿にしか見えなくて困った。クリームを拭われ舐めとられた時も、そういえばこの人おそ松兄さんだと意識しちゃったら駄目だった。嬉しくて恥ずかしくてたまらなかった。

髪を結ぶリボンを買ってあげた時も、慣れない長髪を邪魔そうにしていたのが不憫で、そして髪型を変えればおそ松と言う意識も薄れるかもという思いもあって、買ったのに。普段は赤ばかり身につける人があなた色なんて言い出すから、本当にあの時はどうしようかと思った。


その後も一緒に歩いて語り合った時間も、何もかもが楽しくて。話している相手はどうしてもおそ松で。でも笑うその顔はおそ松なのにおそ松じゃなくて。大混乱を極める頭のまま、それでもからかうためとはいえ一日ずっとデートしてくれた兄を少しでも楽しませたくて、とっておきの場所に連れて行った。以前偶然知ったそのロマンチックなイベントに、いつか二人で行けたらな、なんて絶対に無理なことを考えていた場所に、二人で並んで立った。
すっげえ!とおそ松は小学生のように瞳をキラキラさせて喜んでくれた。きっと自分が今美女になっている事なんて忘れているんだろうな、と微笑ましさに自然と笑顔になっていた。例えいつものおそ松の姿でなくても、その笑顔は紛れもなくおそ松のものだ。それが見れただけでもよかった、だなんて思っていたのに。
綺麗だな、なんて元気いっぱいに振り返ってきたその笑顔が、向こうでチカチカ輝くイルミネーションなんかよりも何倍も綺麗に見えて。
今目の前にいるのは、男であり兄弟でもある人なんかではなく、自分を慕うカラ松ガールなのだと最低な事を己の心に言い聞かせながら、我慢できずに頬を取って顔を寄せれば。
その瞬間。
まるで、美しく魔法で着飾ったシンデレラが時間で真の姿を取り戻すかのように。
カラ松が恋い焦がれる心はそのままに、ずっと想い慕ってきた唯一の兄の姿が、目の前に帰ってきたから。

「……ああ、」

ずっとその姿を求めていた魂が、心から歓喜するそのままの笑顔を乗せて、カラ松は呟いたのだ。


「やっぱり俺の、おそ松だった」







15/12/17



|  |