きみがジャスティス!
『ふえっ……うえぇーん……ひっく……』
『あーもう、弟たちに怒られたからってそんなに泣くなよ、お前もお兄ちゃんだろ?もっとドーンと構えてりゃいいんだよ、この俺みたいに!』
『ひっく、ひっく……おそまつ兄さん、みたいに?』
『おう!いいか、長男っていうのは、兄弟の中で一番なんだよ。正義なんだよ!えーっと、そう、ジャスティス!お前はジャスティスなんだ!』
『じゃすてぃす?……なんかそれ、かっこいいね』
『だろぉ?だからな、お前はもっと偉そうに弟たち従えていいんだよ。お前にはちゃーんと弟引っ張っていける長男力があるって。何せ、かりすまれじぇんどな俺とおんなじ名前なんだからなっ!』
『おそまつ兄さんと、おんなじ……』
『そうそう!……それでもめちゃくちゃ悲しくなって、弟たちにも頼れなくて、しんどーいってなったときはさ、』
『うん』
『俺んとこおいで。俺がお前の秘密のお兄ちゃんになってやるよ、おそ松』
「ぎゃあーっ遅刻遅刻ー!」
朝っぱらから食パンを咥え全力疾走で学校への道を突っ走るその少年の名は、松野おそ松。どこにでもいる普通の高校三年生の男子だ。変わったところと言えば、世にも珍しい一卵性の六つ子の長男だという事ぐらいで、あとは平均的な身長体重に、どこまでも平凡な容姿。特筆すべきことは何もない。そんなおそ松は今、遅刻の危機を迎えていた。
「ちくしょーっあいつら先に登校しやがって!お兄ちゃんを置いてくなんて、恨んでやるぅー!」
走りながら器用に朝食の食パンを咀嚼しつつ、悔しそうに快晴に向かって叫ぶおそ松。あいつらとはもちろん彼の五人いる弟たちの事である。この場に三男がいれば「何度起こしても起きなかったお前が悪いんだこのクソ長男!」と元気よく返してくれただろう。昨晩こっそりゲームをして夜更かししていたツケが回ってきた当然の結果だった。
とにかく遅刻はまずい。今週の門番は遅刻常習犯のおそ松の天敵とも呼べる学年主任のおっそろしい先公なのである。すでに先週怒られまくって、来週こそは一回も遅刻するなと何度も何度も言い聞かせられているのだ。まずい。危険が危ない。最後に残ったパンの耳をもしゃもしゃ噛みながら、おそ松は勢いよく学校へと続く最後の角を曲がった。曲がろうとした。
「はあぁ、このままサボりたいけど我慢がま……うおっ?!」
曲がり角に足を踏み入れた途端、目の前に真っ赤な何かが広がっておそ松はぎょっと目を剥いた。目視した時には勢いを殺す事も出来ない位置にいて、その赤い何かに容赦なく激突してしまう。跳ね返されたのはおそ松の方だった。このままじゃ尻もちをつく、と一瞬のうちに判断しぎゅっと目を瞑ったそのすぐ後、腕を前に引っ張られて大きくて柔らかな何かに身体を受け止められた。すっぽりと収まるそこに妙な安堵感を覚えながら、おそるおそる目を開く。視界に広がったのはやっぱり赤だった。呆然と見つめてようやく、その赤が見覚えのある制服の色であることに気付く。同じ学校の、別の科に所属する生徒のみ着る事の出来る特別な赤だ。はっと顔をあげれば、そこにはびっくりするほどルックスの良い顔があった。
「ああ、びっくりした……ごめんなさい、怪我はないですか?」
甘く響く声に、物理的に輝いてさえ見える眩しい笑顔。朝日にも負けない鮮やかな真紅の髪をした、この奇跡を具現化したようなイケてるメンズを、おそ松は知っていた。あらゆる意味で。
全力で駆けていたおそ松の体当たりにも揺らぐことなく、とっさに倒れ掛かったおそ松を救い上げる余裕すらあり、その高身長で今も腰を抱いてしっかりとこちらを支えてくれている、どこまでもパーフェクトなこの男の名は。
松野おそ松。
おそ松と同姓同名で、何と六つ子の長男という信じられない共通点まで持つ、同じ学校の一年生だ。おそ松にとっては二つ年下の後輩にあたる。頭身は明らかにあちらの方がいくつか上であるが。
「あれ、あなたは……おそ松先輩、ですよね?僕と同じ名前の」
おそ松がぼけっと見つめていると、向こうのイケメンな方のおそ松もこちらの正体に気付いたらしい。校内で直接話した事のない後輩からの言葉に、おそ松はようやくビクリと反応した。
「へ、え、おっ俺の事知ってんの?」
「もちろんですよ。同じ名前で、同じ六つ子の長男をやっている人が同じ学校にいるんですから。ずっとお話したいと思っていたんです」
今日は朝から僥倖だなぁ、などとのんびり呟いて嬉しそうに笑う、イケメンな方のおそ松。そうして微笑む姿も絵になる美しさだった。正直、住む世界が違う造形をしていると思う。圧倒的な一軍オーラにぼけっと見とれていたおそ松は、にこにことした笑顔に見下ろされて数秒後、ようやく自分が未だに腰を支えられたままだという事に気が付いた。
「ハッ!わ、悪い、もう俺大丈夫だから!助けてくれてあんがとな!」
「いえ、僕もよく前を確認していなかったものですから。おそ松先輩が怪我なく無事ならよかったです」
慌てて離れれば、イケメンな方のおそ松もすぐに腰から手を離した。と、思ったら、流れるような動作でおそ松の右手を取り、甲に軽くチュッと唇を押し付けてくる。突然の事におそ松はぴえっとひっくり返った悲鳴を上げた。
「な、な、なっ?!」
「今日の出会いに感謝を。今度、またゆっくりとお話しましょう、先輩。それでは」
パチンと様になりすぎるウインクをして、優雅に踵を返したイケメンな方のおそ松はそのまま学校の方へと立ち去って行った。中途半端に右手を宙に浮かしたまま、おそ松はその背中を見送る事しか出来ない。ハッと我に返ったのは、目前に迫っていた登校先の校舎から無慈悲なチャイムが鳴り響き、校門がガラガラと閉まっていくのを目撃してからの事だった。
「あ、あああーっしまったー!ちっくしょうあのイケメンのせいでー!!」
おそ松の叫びは仁王立ちで待ち構えていた先生に届く事は無く、結局しこたま怒られる事となったのだった。
おそ松が五人の弟たちと通う赤塚学園は、校内が完全に二つの科に分かれている珍しい私立学校だ。
一方は、びっくりするほどルックスの良い男女のみが入学できる通称BL制を取り入れている芸能科で、美男美女が赤い制服を纏って設備の整った全寮制の校舎内で煌びやかな学園生活を送っている。そしてもう一方が、他の公立学校とほとんど変わらない設備の普通科だった。もちろんおそ松は弟たちと共にこちらに属している。制服は芸能科とデザインはほぼ同じだが色だけは地味な紺色で、寮は無いし一部の施設は除いて校舎は別だしと二つの科は同じ敷地内にあるにも関わらず明確に区別されているのだった。もちろん学費も雲泥の差がある。これだけはっきりと分けるのなら同じ学校の意味などなさそうだが、普通科の生徒も学食や中庭などの施設は共同で使えるし、校舎の行き来は禁止されている訳ではないので一軍と平凡な民の交流を図れるといった利点もある。おかげで学食が超高いのがたまにキズだ。
イケメンな方の松野おそ松は、そんな芸能科の中でも特に目立つ人間だ。向こうの六つ子はこの赤塚学園を創立した赤塚財閥の御曹司で、今をトキメク学生アイドル「F6」なんてものもやっている、正真正銘の有名人である。いくら世界でも珍しい一卵性の六つ子でも、同じ学校内にそんな大物すぎるキャラ被りがいれば、必然的に普通科の六つ子の影も薄くなるというものだ。別に有名になりたいわけではないので、おそ松はそれに関して気にした事は無かったが。
そんなイケメンな方のF6おそ松と偶然朝出会った結果遅刻してしまった経緯を、おそ松は昼休み弟たちにぐちぐちと話して聞かせていた。おかげで一時間目は後ろに立ったまま授業を受ける羽目になった、と泣き真似してみせながら語ってみせたのだが、同情や慰めの言葉は何一つとして返ってこなかった。
「はいはい、おそ松兄さんご愁傷さまー」
「食パン咥えてイケメンとドゥーン!タッチアウトー!おそ松兄さん少女マンガみたいだね!」
「ヒヒッ典型的ヒロインポジションじゃん。オメデトー」
「遅刻ギリギリの時間に前も良く見ずに走ってたお前の自業自得だろ。反省しろヒロイン」
「フッ……空腹を持て余すハングリーな、俺」
「うるっせ!カリスマレジェンドをヒロイン扱いすんなバーカ!あとお前はもうちょっとお兄ちゃんに興味持ってカラ松!」
全員で食堂へと移動しながらやいのやいのと会話する。普段は食費節約のために弁当な六つ子だったが、父親の給料日後なんかは母の負担軽減のために学食を言い渡されるのだった。兄弟の食費が入ったがま口財布をぽんぽんと手の平の上で弄びながら、おそ松は朝の出来事を想起する。
脳裏に浮かぶのはもちろん、己を楽に見下ろしてくれた二歳年下のはずのあの赤い頭である。
「それにしても、あいつ、でかくなったよなあ」
「……え、おそ松兄さん、もしかしてそれ、F6のおそ松君の事言ってる?同じ名前だからってその上から目線、一軍様に向かってどうかと思うなー」
「お前こそひどい言い草だなトド松!違うって、だって俺、昔のおそ松と会った事あるんだぜ、ちょっとだけな」
「「はあ?!」」
初耳な弟たちが揃って意外そうな声を上げる。おそ松の言葉に嘘はない。あれはまだ互いに小学生だった頃、近所に遊びに来ていた今ほど有名では無かったあのおそ松と、少しの間だけ共に遊んだことがあるのだった。本当に短い間だったため、向こうはおそらく覚えてはいないだろうが。背も自分より小さかったあの泣き虫なチビッ子が、こちらを見下ろしてくるほどの高身長イケメンに成長するとは、と、らしくもなく感傷に浸るおそ松である。
得意げにそうやって説明してやったおそ松だったが、弟たちは誰一人信じてはいないようだった。さっそく話題を切り替えて今日の昼食のメニューの話に移行した弟たちに、「お兄ちゃんを無視すんなー!」と憤慨したおそ松だったが。
大げさに手を振り上げた直後、その手から財布がすぽんと抜けてしまった。あ、と複数の声が重なる。あの中には大事な成長期男子の食費が詰まっている。しかも兄弟全員分。万が一盗られたり失くしたりしてしまえば、弟たちからの報復が間違いなく待っている。やべ、と視線で宙を飛ぶ財布を追いかけたおそ松は、何とか空中でキャッチしようと必死に腕を伸ばし、背筋を逸らした。このまま背中から床に倒れ込む事も辞さない覚悟で指を伸ばす。しかし財布は指先のわずか上を滑空し、そのまま周辺の生徒の中へ埋もれてしまう、と思われた、その時。
長く美しい指がしっかりとがま口財布をキャッチし、ついでに傾いたおそ松まで背後から肩を引き寄せて支えてみせた。
ぽかんと口を開けるおそ松の視界に入り込んだのは、今朝見たばかりの鮮やかな赤だった。
「これも運命の女神の思し召しかな。また、あなたを支える事が出来て良かったです、おそ松先輩」
ホッと安堵したように整った顔が笑顔に緩めば、途端に周りからキャアッと甲高い女子の悲鳴がいくつも上がった。F6だ、F6のおそ松くんよ、と周りにいた生徒たちが興奮気味に話している。普段は自分たちに与えられている屋上を含んだプライベートスペースで兄弟たちと食事をする事が多い彼が、何故か一人でこの場にやってきた事であっという間にちょっとした騒ぎが出来上がっていた。
そんな群衆の真ん中、台風の目のように丸い空間の中心に否応なく位置してしまったおそ松は、ひくりと口元を引きつらせた。視界の端では弟たちが突然の事にこちらを眺めながら呆然と立ちすくんでいたが、今はそれより手前にドアップで視界に映り込んでいるイケメンへの対処が先だ。
「よ、よぉ松野おそ松クン、今朝ぶりだねえ」
「はい。今日の僕はよほどついているみたいですね」
「そう?そりゃーよかった。あ、財布あんがとね、あと肩も。これ失くすと弟たちに殺される所だったからさ」
さりげなさを装って、おそ松はただちにF6のおそ松から身を離した。そうしなければ、周りを囲む女子たちからの視線で殺されそうだったからだ。女の嫉妬って怖い、俺男なのに。と心の中だけでへこんでいると、そんなあたりの殺気など感じていないかのような爽やかな笑顔でF6のおそ松はなおも語りかけてきた。
「おそ松先輩も食堂で昼食ですか?僕も今日は食堂で食べる気分になりまして」
「へーそうなんだ……で、何で一人?お前の弟たちは?」
「弟たちには断られてしまったんです。だから少し寂しく思っていた所なんですよ」
そっと寂しそうに笑ってみせた後、F6のおそ松はがま口財布をおそ松へ差し出し、条件反射的にそれを受け取った片手をガッシと両手で掴んでみせた。おそ松がびくっと背筋を伸ばすのと、再び黄色い悲鳴が沸き上がるのはほぼ同時であった。
ああ、嫌な予感がする。
「おそ松先輩。僕と一緒に昼食を食べませんか?もちろん、先輩が良ければ、なんですけど」
明るい悲鳴がどこか鬼気迫るものに変わる。あのF6松野おそ松と一緒にランチ!女子の羨望と嫉妬の視線が一気におそ松へと集まる。まるで肉食獣の檻の中に放り込まれた小動物のような気分だった。こんな居心地悪い視線の中一秒だっていたくなかったが、断る言葉は喉の奥に張り付いてどうしても出てきてくれなかった。
何故なら、目の前で祈る様におそ松の手を握りしめてくるその指先が、拒絶される事を恐れる様に震えていたからである。じっと見つめてくるその瞳もまるで縋るような切実な光を宿していて、これが普段堂々と世界中を魅了するアイドルのリーダーをしている男なのかと疑いたくなるほど、目の前に立つ人物が弱々しいもののように見えた。おそ松はそういう視線や態度に弱い。生まれた瞬間から六つ子の長男をしているせいか、頼られるとどうしても振りほどけないのだった。
しかも相手は、同じ名前の(一方的な)一応昔馴染みである。今日の昼休みは心休まる暇がないだろうと覚悟を決めて、おそ松はにっと笑ってみせた。
「しょーがねえなー、いいぜ!今日は六つ子の異文化交流といくか!なっお前ら!」
「「えっ?!」」
「わあよかった、嬉しいな。ありがとうございます」
蚊帳の外にいた弟たちに声を掛けて、無理矢理「暗黒大魔界クソ闇地獄カーストの住人のくせに羨ましい死ね」光線に晒される仲間へと引きずり込む。こうしてイケメン一人、凡人六人の奇妙な昼食会は表面上穏やかに、水面下では嫉妬の嵐に直撃されながらも何とか過ぎていったのだった。
今日のお昼は非常に疲れた、とやつれた顔の普通科六つ子は揃ってとぼとぼと放課後の廊下を歩いていた。F6おそ松とは何の問題も無く一緒に食堂でご飯を食べられたし、巧みに話を振ってくれたり真剣に話を聞いてくれたりと会話も意外と楽しく交わす事が出来た。昼休みの時間が終わってそれぞれの校舎に戻る際も、また一緒に食べましょうと嬉しそうに手を振ってくれた。F6おそ松本人との交流はあちら側の人間が出来ていた分とても充実したものだったのだ。ただそれが、無数の女子からの嫉妬の炎に焼かれながらのものでさえなければ。
おかげでせっかくの高級学食だったというのに、ろくに味わえもしなかった。最早部活にいそしむ元気もなく、六つ子は全員で揃って帰宅しようと下駄箱へ向かっている途中なのだった。
「なあ、お小遣いの残りもあるし、ちょっくら買い食いしていかね?」
「あーいいねえ、商店街のコロッケ食べてこうよ」
「買い食いは校則違反だろ!……と、言いたい所だけど、お昼を食べた気がしなくて妙にお腹空いてるんだよね……僕も賛成」
「わーいわーい、コロッケコロッケー!」
「俺はメンチカツだな」
「おれ野菜コロッケ」
弟たちと共に商店街のおばちゃんが作る出来立てコロッケに思いを馳せながら、靴を取り出しかけたおそ松だったが。突然背後から大きな声が聞こえて思わず手を止めていた。
「あっ!ほら見て兄さん、ターゲットのお姫様発見!」
「ふん、あいつか」
「……へっ?」
振り返れば、廊下の向こうに色鮮やかな黄色と青色の頭が見えた。と思ったら、黄色の方が軽やかな足取りで駆けてきて、あっという間におそ松の目の前まで迫ってくる。ザワッと周囲が色めき立つ中、何故自分に向かってやってこられたのか理解出来ないおそ松は、そのままカーディガンの長い腕の中にぎゅうっと閉じ込められていた。
「あははっ、僕らの兄さんのオードリー・ヘップバーン、みーつけたっ!」
「ぶふっ?!は、はあ?!」
言葉も行動も意味が分からず、おそ松はただ目を白黒させる。感じるのはイケメン特有のふわっと香る良い匂いだけだ。そうしている内に黄色の後ろから青色までひょっこり顔を覗かせて、おそ松をしっかりと見下ろしてきた。ぶしつけな視線がじろじろとおそ松を眺め回して、一つ頷く。
「まあまあのブスだが、兄さんのためだ、仕方ねえな。おら、行くぞ」
ブスとはなんだ、と反論する暇も無かった。青色が近づいてきたかと思えば、身体がいきなり心臓に悪い浮遊感に包まれておそ松はギャアッと悲鳴を上げた。気付けば青色の整った顔がさっきより近くにあって、足は宙に浮いていた。ざわめいていた周囲の歓声がキャーからギャーに変わる。おそ松は青色に背中と膝裏を何の予告も無く抱え上げられていたのだった。そのまま強制的なお姫様抱っこでいずこへか運ばれていく。最早声も出なかった。おそ松が取り落とした学生鞄を黄色が拾い上げ、またしてもぽかんと突っ立つのみの弟たちへ二本の指で挨拶してみせる。
「先輩たちのお兄さんを少しお借りします!大丈夫、大事に大事におもてなしするんで!それでは、チャオ!」
早歩きでさっさと歩いて行ってしまう青色の背中を、やはり軽やかな駆け足で黄色が追いかけていく。そうして芸能科からやってきた二つの嵐は、あっという間に普通科から立ち去って行った。ただ一人、驚きに固まるおそ松を連れて。
「……おそ松兄さんが、イケメンに誘拐されちゃった」
呆然と呟いたのは、はたしてどの弟だったか。これからしばらく、彼らは連れ去られた兄と一目も会う事の出来ない生活を強いられる事となる。
「急性プリンス症候群……?」
おそ松は、ふっかふかの金ぴか高級椅子に座りながら呆然と呟いた。
帰る直前におそ松が突然連れていかれた先は、今まで一度も足を踏み入れた事がなかった芸能科専用校舎の、しかも最上階だった。この場所の主の話は以前から耳にしていた。高等部からしか入学の出来ない普通科と違い、芸能科は中高一貫校となっており、その中等部時代からここは目の前に勢揃いしている、赤塚財閥の御曹司である六つ子、F6の住居となっているらしい、と。
そう、勢揃いしていた。より取り見取りのイケメンが、おそ松を取り囲んでにこやかに笑っているのである。女子なら鼻血を吹かして卒倒しそうなシチュエーションだった。女子ではないおそ松はただただ身を縮こまらせながら、ここに連れてこられた説明を大人しく聞く事しか出来ない。
「そう、我らが長男おそ松兄さんは、あなた、おそ松さんを対象に急性プリンス症候群を発症してしまったようなのです」
「えっと……何それ?病気?俺初めて聞くんだけど……」
説明してくれているのは、緑髪の秀才F6のチョロ松である。自分の弟のなんちゃって優等生なチョロ松とは雲泥の差がある、正真正銘の天才優等生だ。そんな彼の口から飛び出す言葉は、それが初耳な単語でもどこか真実味を帯びている気がしてくる。
「これは非常に珍しい病気ですから、あなたが知らないのも無理はありません。生まれ持ってプリンスの素質を持った者にしか発症しないこの病気は、誰か一人をプリンセスの対象として次々とプリンス的行動に巻き込みそのハートを奪い取ってしまう、恐ろしい病気なんです」
「……つまり?」
「つまり、発症したら自分が王子様になって、相手を世界中の女の子が憧れる様な少女漫画のヒロインにしちゃう病気なんだって。男女問わず、ねっ」
補足してくれたのは、桃色の髪を持つF6のトド松だ。ねっ、と小首を傾げるその物腰と動作は完全に女子のものだ。うちの末弟なんて屁に思うような本物の女子力だな、とおそ松は密かに舌を巻いた。
巻いてから今しがた説明された良く分からない言葉の意味を考えた。少女漫画のヒロインとは、お昼にちょうど弟たちから聞いた言葉である。まったく長男であるこのカリスマレジェンドに向かってか弱いヒロインなどとは失礼な奴らだった。
……あれ?
おそ松は考え始めてから数秒後、ようやく理解した。
「……は?まさかその、ぷりんせす?少女漫画のひろいん?に、俺が選ばれちゃったってこと?今まで俺に変に絡んできたのは、つまりそういう事?」
「そういう事です。早目に理解して下さって助かります」
「は、はああ?!何だよそれ!何で俺?!むしろ少年漫画の主人公、ヒーローの器を持った男なんですけど?!」
聞き捨てならない事実に猛然と抗議すれば、困ったように眉を顰めながらF6のチョロ松の横から、紫の髪をしたどこか愁いを帯びた顔の、F6の一松が静かな声で尋ねかけてくる。
「この病気が発症するのは、偶然でも何でも少女漫画のような胸のトキメク展開を起こしてしまった時だと言われている。……おそ松先輩、あんたは今朝方、おそ松兄さんと出会い頭に衝突したようだな。しかも、パンを咥えたまま……」
「うっ……そ、そうだけどぉ」
「どう見ても少女漫画の典型的な展開ですね。あまつさえパンを咥えたままだったんですから」
「急性プリンス症候群が発症してもおかしくないぐらいのお約束展開だね、パンを咥えてたんだし」
「そんなにパン咥えてたのが重要だったの?!」
口々に言うF6のチョロ松トド松に、おそ松をここへ連れてきた黄色と青色の二人、F6の十四松とカラ松も深刻そうにうんうん頷いている。しまった、家を飛び出す前母さんに「朝ご飯用意したんだからせめて食べなさい」って怒られて慌てて口に咥えて出てくるんじゃなかった。今更後悔しても遅かった。
椅子の上でシュンと肩を落とすおそ松に、それまで弟たちに説明を任せて沈黙を保っていた今朝から何度も見た顔、F6のおそ松がゆっくりと近づいてきた。
「おそらく今日の昼に急に食堂に行かなければならないような気になったのも、すでにこの急性プリンス症候群が発症してあなたに引き寄せられたからだと思います。おそ松先輩、すみません……こんな勝手な病気にあなたを巻き込んでしまって……」
その顔があまりにも申し訳なさそうな悲痛に歪められていたので、一つぐらい文句を言ってやりたかったおそ松の気持ちはみるみるうちに萎んでしまっていた。おそ松は完全な被害者であるが、F6のおそ松とて説明の通りならば不可抗力な状態なのだ。それなのにこんな、捨てられた子犬のような切ない瞳でキュウキュウ謝られれば、おそ松の小さな良心もちくちく痛むというものだ。
「あーもう、いいって!元はと言えば俺が不用意に飛び出してぶつかったのが悪いんだから。別に俺が痛い目に合わないっつーんならヘーキ。で、その病気っていつ治んの?」
「分かりません。ですが対象の相手、つまりおそ松先輩と四六時中一緒に過ごしてこの急性プリンス症候群の衝動を発散していけば、いつかは必ず治るものなんです。ですから先輩、しばらく僕と一緒に暮らしてくれませんか?」
「く、暮らすぅ?ここで?」
びっくりして尋ねれば、ハイ!という元気な返事。芸能科校舎の最上階を全て使う、絢爛豪華な御曹司の居住スペース。今おそ松たちがいるのは兄弟たちが全員自由に使う談話スペースらしいが、そこだけでおそ松の家の土地が丸ごと入りそうな広さだ。奥には兄弟それぞれの部屋がさらにあるらしい。あまりにも今まで暮らしてきた世界とは違う空間に、恐ろしくなったおそ松はガタガタと震え出したが。
「もちろん僕の病気が治まるまでのおそ松先輩の生活は責任を持って保障します。その他諸々の必要経費も僕がお出ししますので、どうか、」
「タダでここ住めるし養ってくれんの!?ひゃっほーそれならオールオッケー!よろしくお願いしまーっす!」
きらりと光る財布とカードをチラつかされた途端、尻尾振ってF6のおそ松に飛びつくおそ松だった。
こうして奇妙な病気に巻き込まれたおそ松が、同じ名前のイケメンに養われる生活はあっけなくスタートした。
おそ松の一時的な移住作業は、その日の夜に全ていつの間にか完了していた。曰く、「ご両親にはあらかじめ事情を話してしばらくの泊まりの了承は頂いています」「当面必要な私物も許可を貰って運び込んでるからね!」という事らしい。金持ちの行動力はすごい。言ってもおそ松の私物なんて、制服の替えや少ない私服とパジャマに、落書きだらけの教科書とごく僅かな筆記用具ぐらいで、後はほとんど兄弟共有のもので運び込むものなんてほぼ無かったのだが。
「ここが僕の部屋です。自分の部屋だと思って自由にくつろいでもらって構いませんから」
「ひええ……」
案内されたのは当たり前のようにF6のおそ松の部屋で、おそ松の少ない語彙で表現すれば「めっちゃ豪華なホテルのすいーとみたいな部屋」だった。先ほどの談話室よりは狭いだろうが、明らかにおそ松の兄弟共同部屋より倍以上広い。制服や私服やアイドル活動に使うらしい衣装が詰まっただだっ広いクローゼットに、ベッドにもなりそうなふかふかのソファ。正面の壁は一面がガラス窓になっているようで、テラスに出ると赤塚学院の整えられた美しい中庭が一望出来るようだ。よくよく見ればシャワールームも部屋に備え付けられているようで、常に新鮮なフルーツが備えられている中央のテーブルや煌びやかに部屋を飾るシャンデリアなんかもあって、ますますここはホテルかと錯覚しそうになる。部屋の隅に鎮座する本棚も真っ赤で毛の長いカーペットの敷かれた床も天蓋付きのキングサイズのベッドも、あまりにも綺麗に片づけられているので、生活感がほとんどないのも原因だろうと思った。
「すっご、広いし綺麗だし……お前、こんなに綺麗好きだったの?」
「大体はお手伝いさんがやってくれているんですよ。それに、僕たちこれでもアイドルですから、女の子たちの夢を壊さないようにいつでも麗しい王子様でいないと」
「うへぁ、マジかあ」
さっそくおそ松は息が詰まりそうになった。こんな四六時中気を張った状態でくつろげる訳がない。麗しの王子様作りに付き合ってやる義理もないので、この慣れなさすぎる空間でいかに気を抜く時間を作るか、おそ松は腕を組んで考えた。F6のおそ松はそんなおそ松を心配して、わざわざ屈んで顔を覗き込んでくる。
「おそ松先輩?一体どうし、」
「ハッ!それだ!」
「え、えっ?」
突然おそ松にぶしつけに指を突きつけられて、F6のおそ松はきょとんと眼を瞬かせた。驚いたようなその表情が今までの澄ました顔よりあどけない年相応のものに見えて、思わずにやりと笑う。
「おそ松先輩ってさあ、何か堅苦しくない?せっかくしばらく一緒に暮らすんだから、ここはおそ松兄さんって呼んでみてよ」
「えっ」
「いやー、普段おそ松兄さんおそ松兄さんって弟たちに呼ばれまくってるから、それが急に無くなると寂しいじゃん?ついでに敬語も取っ払おーぜ、俺堅苦しいのきらーい」
鼻下を擦りながらそうやって笑うと、目の前の顔はさらに驚いた顔で固まってしまう。おそ松としては出来る限り実家の雰囲気に近づけられる良いアイディアだと思ったのだが。F6のおそ松は見開いていた瞳をそっと閉じて、何かを思い出すように少しの間天井を見つめた後、すぐに顔を戻してくる。美しい赤い瞳は驚くほど真剣だった。
「……その、いいんでしょうか。僕が、あなたをそう呼んでも」
「え?いいに決まってんだろー!だって同じ名字で、同じ名前で、俺より歳下だろ?もー弟みたいなもんじゃん!お兄ちゃんを存分に敬うがいいぞ、おそ松坊ちゃん」
えへんとこれ見よがしに踏ん反り返れば、真剣な瞳を緩ませたF6のおそ松がくすりと笑う。途端に部屋の雰囲気まで華やぐ気がしたので、イケメンってずるいと思った。
「敬えって言いながら敬語は無しって、矛盾していませんか?」
「俺がそうしたいんだからいーんだよ!分かったか、弟よ」
「フフッ、はい、わかりました……ああいや、分かったよ、おそ松兄さん。それなら僕の事も、もっと砕けて呼んでもらってもいいよ」
「へっ?」
「だって、僕たち同じ名前でしょ?兄弟に同じ名前がいたらややこしいかなって」
綺麗な顎に手を掛けてちょっとだけ考えたイケメンの新しい弟は、何か眩しいものを見る様に瞳を細めて微笑んだ。
「……ジャスティス、とかどうかな」
「じゃすてぃす?」
「そう。爽やかジャスティス、これが僕のキャッチコピーみたいなものなんだ」
その名の通り爽やかに笑う顔を見て、どこかで聞いたような、とおぼろげに思いながらおそ松は頷いた。
「ジャスティスな、りょーかい。んじゃ今日から俺ジャスって呼ぶわ。そういう訳で、よろしくな、ジャス!」
「うん。迷惑かけるけど、よろしくね、おそ松兄さん」
おそ松が手を差し伸べれば、F6のおそ松改め、ジャスティスがぎゅっと握りしめてくれる。つい今朝方まで遥か遠くの別の世界の住民のように感じていたびっくりするほどルックスが良い後輩が、今はこんなにも近くでおそ松に親しげに笑いかけている。このままなんとかやっていけそう、とおそ松は密かに胸をなでおろした。
次の日、ベッドは落ち着かないからと運び込んでもらった真新しい布団の中で目覚めた時、何故か別々に寝たはずのジャスティスが同じ布団の中に、しかも全裸ですやすや眠っていたおかげで朝っぱらから叫び声をあげる事になろうとは、その時はまだ思いもしていなかった。
「裸で寝ると解放感があって気持ちがいいよ?おそ松兄さんもどう?」
「無駄に整った体で迫ってくんのやめろぉー!金持ちの習慣に俺を巻き込むなー!せめてパンツぐらい履けよぉ!助けて赤塚せんせー!!」
そうしておそ松の怒涛のヒロイン生活は幕を開けた。
まずおそ松は、ジャスティスとずっと共にいなくてはならないために、一時的に芸能科高等部一年の同じ教室へと編入させられる事になった。科はともかく学年まで繰り下げていいのかよ、と思ったが、万年赤点常習犯の松野一号にはちょうどいいと教師たちは諸手を上げて歓迎していた。解せぬ。
席はもちろん隣同士で、机を常にくっつけ教科書をジャスティスから見せてもらう事になった。イケメンと机をくっつけて同じ教科書を使う、とは、確かに女の子憧れのシチュエーションかもしれない。さらにジャスティスは「どうせなら膝の上に乗る?」とにこやかに提案してきたが、全力でお断りしておいた。
食事もジャスティスとその弟たちと共に朝昼晩取る事となる。一流シェフが作る和洋中の料理はどれもこれもが普段食べる事の出来ないフルコースで、おそ松は存分に舌鼓を打つ事が出来た。ただ、横に陣取ったジャスティスがにこにこと笑顔で「おそ松兄さん、はい、あーん」と最初から最後まで食べさせてこようとするのには多少困った。何でも病気のせいでそうやって食べさせてやらないと気が済まないらしい。食べされられっぱなしも楽だが癪なので、おそ松もお返しにジャスティスへ「ほいジャスも、あーん」と食べさせてやる事でこの問題は解決した。それ解決してるかなあ?!という脳内のチョロ松のツッコミは余所へやった。
風呂も当然一緒だった。部屋に備え付けられていたシャワーではなく、普段おそ松が行っていた銭湯よりも大きくて黄金のライオン像がお湯を吐き出しているタイプの豪華な風呂に、ジャスティスの弟たちと皆で毎日一緒に入る事になった。この事実を他の生徒たちに知られたら俺は女子の群れに殺されるに違いない、とおそ松は密かに恐れている。F6はどいつもこいつも美形で美しい肉体を持っているが、同性のおそ松は同じ男として少々見惚れはするがドキドキしたりはしない。ただ、おそ松がいつもの癖でジャスティスの背中を流してやってからは、最初はびっくりしてたジャスティスがかわりにおそ松の全身を洗いたがって断るのに苦労した。背中は嬉しいがさすがに全身はやめてほしい。
他にもジャスティスの「急性プリンス症候群」は次々とおそ松を襲ってきた。
ジャスティスに付き合って普段は行かない図書館に行けば取ろうとした本が偶然同じもので手がぶつかって見つめ合う事になったり、そのまま手が届かない場所にある本を取ってもらう羽目になったり。
体育の授業の際は不意に飛んできたボールからジャスティスが体を張って守ってくれたり、うっかり転んだらすりむいてもいないのにお姫様抱っこで保健室に連行されたり。
調理実習でちょっとだけ包丁で指の先を切ってしまったら、間髪入れずにジャスティスが咥えて舐めて「消毒できた」とにっこり笑われたり、出来上がったダークマターを食べてもらって安らかな笑顔で倒れたジャスティスに「兄さーん!」と弟たちが騒然としたり。
何故か突然授業の一環だとスキーに連れて行かれたと思ったら遭難して、ジャスティスと一緒に山小屋に逃げ込み濡れた服を脱いで肩を寄せ合い毛布一枚で一晩過ごす事になったり。
校内で突然一昔前の不良に絡まれた時は、ジャスティスが大急ぎで駆けつける前に自分でぶちのめしてやったり。
美術の授業の際も絵を上手く描く方法を手取り足取り教えてもらったが、目の前の景色から直接色を筆にとってキャンバスに写す芸当はさすがに真似できそうにない。
全て上げていたらきりがない。一日に何度もそうして、女の子であればとっくの昔に恋に落ちていそうな出来事に巻き込まれるおそ松は、芸能科での暮らしを飽きる事無く過ごすことが出来ていた。何だかんだおそ松も楽しんでいたし、ジャスティスもいつも嬉しそうな笑顔で構ってくれるし、案外この生活も悪くないよなあ、とさえ思い始めていた。家に帰れないために、弟たちに会う事が出来ていないのが唯一の懸念事項だ。それさえ解決出来ればジャスティスは気の合う良い奴だし、その弟たちも何だかんだと良くしてくれる。おそ松は充実した毎日を過ごしていた。
本日は、F6のコンサート練習を観客のいない客席から見学させてもらった。最近は学業に集中してアイドル業を抑えているらしいが、歌やダンスの練習だけは定期的に行っているらしい。アイドルに興味が無かったおそ松はこれが本物の「F6」というものを見る機会であったが、なるほど、ステージ上の彼らは本物の王子様のような衣装を纏って普段よりも輝いて見えた。何よりも本人たちも楽しんで歌って踊っている事が良く分かる。こういうのもたまにはいいものだ。普段から馬鹿にしていた三男の地下アイドル趣味について今なら少しぐらい理解してやれる気がした。
ジャスティスが定期的におそ松に視線を送ってはウインクしたり、恋の歌の時は腕を差し出しておそ松に向けて歌ったりするなど、アピールを欠かさないので手を振って答えてやった。そうすれば本当に嬉しそうに笑うので、おそ松はこっそり苦笑する。
おそ松に答えてもらって、くすぐったそうに笑う顔が幼く見える。あの反応が病気のせいなのか何なのか分からないが、まるで本当に弟を応援しているような気分だ。キラキラと汗を散らしながら懸命に振り付けを踊るジャスティスの姿が、あんなにも微笑ましく、眩しい。おそ松は組んだ膝に肘を立ててそれを眺めながら、湧き上がる懐かしさに目を細めた。
年上だからって無駄に偉ぶっていたおそ松の相手をしてくれていた、あの可愛い弟分だった子供の笑顔がステージ上のジャスティスと重なった。
当時の会話を詳しく覚えちゃいないが、昔僅かな時に顔を合わせていた時も、こうして見守っていたような気がする。同じ六つ子の長男で、自分よりもしっかりした自分よりも年下の彼を。
「F6っての、よく知らなかったけどお前らすっごいんだなあ!俺、アイドル舐めてたわ」
その夜、寝る前におそ松は思い出したようにジャスティスへ昼間の練習見学の時の事を切り出した。目を瞑れば今にも昼間の腹の奥が痺れるような心地が蘇ってくるようだ。たった一人だけの見物であれだけの熱が生み出されるのだから、満杯になった観客席の中ではどれだけの熱量となるのだろう。
ジャスティスは、わざわざおそ松と同じデザインに誂えた真新しいパジャマで嬉しそうに笑ってみせた。裸で過ごせないなら、とその日のうちに特注したらしい。金持ちってすごい。
「フフッありがとう。おそ松兄さんにそう言ってもらえるのが誰よりも一番嬉しいよ」
「誰よりも、って、俺を口説いてどーすんだよぉジャス。それともそれがお前の標準なの?あ、きゅーせいプリンス何とかって病気のせいか」
どっちにしたって、こりゃ女の子が皆メロメロになる訳だわ、とおそ松はくすくす笑う。確かF6ファンだったトト子に今のおそ松の状況を話して聞かせたら、きっと鳩尾に一発どころではない騒ぎになるだろう。それぐらい、女の子の夢が詰まった立場でいる事を一応自覚していた。
「にしても、こんだけ俺の事口説いても治んないねえ、その病気。ジャスもかわいそーにな、相手選べる病気だったら今頃好みの女の子とお前がうはうは薔薇色の毎日だったろーに」
にししとからかい気味に笑ってみせれば、少しの沈黙が降りた。おや、と思って顔を上げる前に、ぽつりと、静かな声が転がり落ちてくる。
「……もし、すでに相手を選んだって言ったら、おそ松兄さんはどうする?」
あまりにも抑揚のない静かな声だったために、それはするりとおそ松の耳の中を通り抜けて行った。言葉の意味を考える前に、ジャスティスが大股で歩み寄ってくる。慌てて見上げれば、そこに乗っている表情は笑顔のはずなのに何故だか今にも泣き出しそうに見えた。いつもにこやかに微笑んでいるジャスティスにとって、とても珍しい表情だった。
「おそ松兄さん。今まで僕は、急性プリンス症候群のせいであなたを様々な衝動に巻き込んできた。それは病気のために抗えないものであったけど……そこに、心が無かった訳じゃないんだよ」
「え……」
「僕は、相手があなたでよかったと、心から思っている」
見つめてくる瞳は真摯な光を湛えるルビーだ。美形が真剣な表情を作るだけでこれほどまでに圧倒されるとは、今の今までおそ松は知らなかった。冗談はやめろと茶化す事も出来ない。ごくり、と唾を飲み込み緊張に背筋を強張らせていれば、途端にジャスティスはぱっと柔らかな笑みを浮かべた。
「……さて、そろそろ寝ようか。授業中に居眠りして僕の肩に凭れかかったりしたら、また先生に怒られちゃうよ?おやすみ、おそ松兄さん」
「お、お、おお、おやすみ……」
あっけなく踵を返したジャスティスは、さっさとベッドの中へと滑り込んでしまう。おそ松も慌てて布団に潜り込めば、すぐに照明が落とされてしまった。
今のは何だったのだろう。ジャスティスはどういうつもりであんな事を言ったのか。おそ松を気遣った慰め?それとも天然?それとも……。真っ暗な未だ見慣れぬ天井を眺めながら、おそ松はしばらく悶々と考え込んでいた。普段は布団に入って約五秒で夢の世界へ旅立てる人間だったはずなのに、弟たちが見れば病気かと慌てられるぐらい滅多にない事だった。
そうして、非常に珍しくいつまでも起きていたお蔭だろうか。闇夜に紛れてしまうぐらい小さな小さな声を、おそ松は確かに拾い上げた。電気を消してからしばらく経った後、いつものおそ松であれば深い眠りの中にいるはずの時間だった。
(……ジャス?)
闇の中でも色鮮やかな赤のベッドへ顔を向ければ、盛り上がった人の塊が見える。よくよく目を凝らしてみると、僅かな星の光がカーテンの隙間から差し込む部屋の中、塊が小刻みに震えているのが分かった。また、声が聞こえる。誰かに聞かれる事を恐れる様にそれはあまりにも小さな声だったので、何を呟いているのかはここからでは分からない。おそ松は物音を立てないように慎重に布団から抜け出し、ズリズリと床を這いずってベッドのそばまで移動した。床には毛の長いカーペットが敷き詰められているので、這いつくばる事に何の苦も無い。そのまま足元までやってきて、ようやくか細い声の紡ぐ言葉を聞き取る事が出来た。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
確かにそう言っている。繰り返している。長い手足をベッドの中でぎゅっと丸めながら、まるで自分に言い聞かせるように。大丈夫、大丈夫、と。昼間の堂々とした佇まいが嘘のように、弱々しく。たった一人で。ジャスティスは吐息のような声で呟いていた。
おそ松はしばらくそれを聞きながら呆然として、そしてその後すぐ、溜息を吐き出した。小さく震える大丈夫に紛れたその息は、どこまでも柔らかかった。
「ジャースーくんっ」
「え、うわっ……?!お、おそまつ、にいさん?」
にじり寄ってきた体勢から一気に背を伸ばし、ベッドの上に顔を覗かせてニッと笑いかければ、目を丸くして横たわるジャスティスの顔があった。おそ松がそのままベッドの上へと膝を掛けて上がれば、慌てた様子で身を起こしてくる。実を言うと、朝起きた時ジャスティスがおそ松の布団の中に潜り込んでいる確率は三日に一度ぐらいとわりとよくある事だったのだが、おそ松の方からジャスティスのベッドへ近づいたのはこれが初めての事であった。
戸惑うジャスティスに、おそ松は極力軽く見えるようにへらっと笑ってみせた。
「何か今日一人で寝られる気しなくってさあ、一緒に寝てくんね?」
「え……い、いいの?」
「いや、俺が聞いてるんだけど」
ジャスティスは呆けた顔のまま、それでもこくこくと頷いてくれた。それじゃ遠慮なくぅ、とおそ松はごそごそとジャスティスの隣に潜り込む。人一人の体温が移ったふかふかのベッドの中はとても暖かかった。ここ最近ずっと一人寝していたおかげで、ひどく懐かしく感じてほうと安堵の息を吐く。今にも眠ってしまいそうな心地だったが、おそ松にはまだやり遂げなければならない使命が残っていた。
年頃の成長期男子が二人並んで寝転がっても余裕な大きさのベッドの上、憂いを帯びた表情のジャスティスと向き合ったおそ松は、片手を伸ばしてさらさらの赤毛を撫でてやった。
「んで、ジャスはこんな真夜中に何してたの?」
「え、い、いや……別に、何も」
「嘘つけ。お兄ちゃんにはそんな嘘通用しませんよーっと。誰にも言わないから、白状しちゃえよ」
なおも優しく頭を撫でてやっていると、瞳を潤ませたジャスティスがやがて観念したように薄く唇を開く。
「……笑わないでね」
「笑わないよ」
「僕は……僕は普段、F6のリーダーとして、六つ子の長男として、出来うる限り相応しい人間であろうと努力しているんだけれど、それがたまに、本当に出来ているのか不安に思う事があるんだ。考え出すとどうしようもなくなって、怖くなって、震えが止まらなくなって……そういう時は、いつもこうしてる」
こう、と、ジャスティスは胸の上で両手をぎゅっと握りしめた。胎児のように身を丸めて、心の内から溢れだそうとする何かを、自分の中だけに必死に閉じ込める。
そうして繰り返すのだ。大丈夫、と。
「大丈夫。僕は、大丈夫。僕は松野おそ松。カラ松とチョロ松と一松と十四松とトド松のお兄ちゃん。大丈夫。僕はお兄ちゃん。僕は大丈夫。僕はジャスティス。誰にも負けない、爽やかジャスティス。だから大丈夫。大丈夫。大丈夫……」
目を瞑って只管に唱えるジャスティスを、おそ松は痛ましいものを見る目で見つめた。暗がりでも僅かな光で瞬く瞳が、ぱち、と笑みを取り繕う。綺麗だけれど、見ていたくはない強さだった。
「ね。こうしていれば、じきに落ち着いて、眠気がやってくる。そうして寝て起きたらいつもの自信にあふれた僕が戻ってくるんだ。だからこれは、今だけだよ。心配しないでおそ松兄さん。僕は、大丈夫だから」
起こしてしまってごめんね、と謝られる。かぶりを振ったおそ松は、さっきよりも強めにジャスティスの頭をがしがし撫でた。
「なぁにが大丈夫なんだよ。全然大丈夫じゃねーじゃん。お前って、相変わらず一人で我慢しちゃうんだなー」
「え……?」
「そんな気負わなくていいよ、お前ちゃんとやれてるよ。おんなじ長男としてそこ保証する!弟たちだってあんなにお前の事慕ってるじゃん、俺んちなんてひでーよ?あいつら俺の事一欠けらも尊敬してないんだぜ!ひどくね?!俺めっちゃ長男なのに!」
俺が遊びに誘っても最近付き合い悪いし、お小遣いちょっと黙って借りただけでめちゃくちゃ怒るし、何かあるとすぐクソ長男って罵倒してくるんだぜ!と、おそ松はいかに弟たちが兄不孝者であるかをいくつもつらつらと並べ立てた。あっけにとられたような顔をするジャスティスと見つめ合って、しかしそれでも楽しそうにニッと笑ってみせる。それがどうしたと言わんばかりの、大胆不敵な笑顔になっていただろう。
「それでもさ、こんなんでも、一応あいつら俺についてきてくれてるし。な?別に長男って、お前が思うほど難しいもんじゃないよ。俺にだって出来てるし。どんなジャスでも長男にかわりはない。ありのままのジャスが長男でいーんだよ。むしろ、俺が長男だーって踏ん反り返ってろよ。お前は少しぐらい偉ぶった方がいいと思う。なんてったって長男っていうのは兄弟の中で一番で、それに、」
「………、正義、だから?」
「ん、そう!よく分かってんじゃん!まあいきなりやれって言われても無理なもんは無理だろうから、そうやって割り切れるようになるまでは……」
普段よりも水分の多いジャスティスの瞳に、おそ松は微笑みかける。遠い昔、この端正な顔が幼い涙をこぼしていたあの頃、同じように笑いかけた兄ぶった顔を、脳裏に思い描きながら。
唯一覚えていたあの時の言葉を、記憶の通りになぞった。
「俺んとこおいで。俺がお前の秘密のお兄ちゃんになってやるよ、おそ松。……そうやって、約束してたしな」
へへっと鼻を擦れば、ジャスティスの瞳が限界まで見開かれる。呆然と開かれた唇は信じられないとばかりに震えていた。
「……おそ松兄さん、それ……」
「お前は覚えてないかもしんないけどさ、俺達、昔一緒に遊んでた事あるんだぜ?そん時にめそめそ泣いてたお前をこうやって慰めてやってたんだからなー。お前が覚えてなくても俺、一応約束守るつもりだったし、遠慮なくお兄ちゃんを頼ってくれよなぁ」
「お、ぼえて、る」
「あっほんと?それなら良かっ……うおっ?!」
「覚えてる……忘れる訳、ないじゃないか……!」
突然ジャスティスが腕を伸ばし、おそ松にしがみついてきた。腰と頭を抱かれ顔を思いきり胸に押し付けられ、ふがもがと変な声が出てしまう。驚いたが、触れた手の平が震えている事に気付いて抜け出す事はすぐに諦めた。
ジャスティスは身体だけでなく声まで震えていた。
「あの頃の事を、おそ松兄さんが覚えてくれているなんて、思わなかった……あなたにとってはきっと、一時期に知り合った弱虫の子供を慰めてやった、ただそれだけの出来事だっただろうから……」
「い、いや、そんな事……」
「僕は……僕にとっては、何よりも大事な時間だった……周りの圧力に押しつぶされそうだったあの時の僕にとって、あなたはまさしく、世界一眩い救いの光だったんだ」
ぎゅうぎゅうと押さえつけてくる腕の力が僅かに弱まったので、おそ松はぷはっと顔を上げた。そこで驚いて固まってしまう。目と鼻の先にある顔が、とうとう涙をこぼしていたからだ。しかしその雫は決して悲しみや苦しみのものではなく、嬉しくてたまらないと表情が語っていた。
「今の僕があるのは、おそ松兄さんのおかげなんだよ……。あの時、おそ松兄さんが僕だけの「秘密のお兄ちゃん」になってくれたから、僕は、長男という重荷から少しでも解放されて、息をすることが出来るようになった。おそ松兄さんが僕を、生かしてくれたんだ。おそ松兄さんだけが、僕を、救ってくれた……」
「ジャス……んな大げさな……」
「おそ松兄さんは知らないんだ、あの時僕が、どれほど救われていたのか」
ジャスティスの瞳に熱が篭る。歓喜の雨に濡れながら紅く燃える熱情が、戸惑うおそ松を視界に、腕の中に囲って、惜しげも無く見つめてくる。何だか気恥ずかしくなって、おそ松は誤魔化すように片手を上げて、今なお流れる涙の筋を袖を引っ張って拭ってやった。
「お前、相変わらず泣き虫だなあ」
「おそ松兄さんの前だけだよ」
「そうなの?もったいないねぇ、こんな綺麗な泣き顔で縋られちゃ、どんな女の子でも一発でコロッと落ちてくるだろうに」
「そんなの意味が無いよ。おそ松兄さんが相手じゃなきゃ」
降り注ぐ視線からの熱がだんだんと温度を上げているようだった。おそ松はジャスティスの顔を直視できなくなり、うろうろと視線を彷徨わせる。
「だ、だから、そういうのは女子に言えって……」
「……さっき言ったはずだよ。僕は、あなたが良い。他のどんな老若男女が相手でも、この気持ちを抱くのはおそ松兄さんだけだ」
後頭部に回っていた手がそっと頬に添えられて、顔をそむけることが出来なくなる。ジャスティスからの視線の熱が伝わったのか、おそ松は自分の顔が徐々に赤みを帯びているのを感じた。足元がむずむずして仕方がないが、抱え込まれている状況では逃げ出す事も出来なかった。
何故俺は口説かれているのだろう。何故こんなにも恥ずかしくなっているのだろう。頭の中がぐるぐる回って、まともに思考できない。
「僕はあの時誓ったんだ。僕を救ってくれたおそ松兄さんを、今度は僕が支えてみせると。同じ長男として、もっと大きな人間になって、遥か高みにいるあなたに追い付きその背に並び立てる存在になろうと。現状はまだこんな、おそ松兄さんに頼ってしまう情けない僕だけれど……」
する、と頬を指先で撫でられて、体が緊張で硬直する。慣れない感情を向けられて頬を赤らめるおそ松に、愛しさを込めてジャスティスが笑った。瞳を涙で揺らし、興奮で口元を朱く染めた壮絶に妖艶な笑みであった。
「だから、おそ松兄さん。すぐに僕が追い付いてみせるから、それまで待っていてね?」
「え、あ、」
「あなたにふさわしい男になって、必ず迎えに行くから。……約束だよ」
チュッ、と。とっさに目を瞑ったおそ松の額に、誓いのキスが落とされる。艶やかで柔らかい感触を受けて、耐性の無い顔が一気に赤く染まった。相手が同じ名前の男の後輩だろうが関係ない。相手はそういう壁を超越しきった宇宙を揺らがすイケメンである。そんな男に熱く口説かれ抱き締められながらキスなんてされれば、誰だって心臓が爆発しそうな気持ちを抱くだろう。おそ松とて例外ではなかった。
ジャスティスはというと、身の内に猛っていた想いを少しでも伝えられたことですっきりしたのか、爽やかな笑顔に戻っていた。そのまま抱き枕よろしくぎゅっとおそ松を抱きしめたまま、体を動かして眠る体勢を取る。
「それじゃ、いい加減本当に寝ようか。夜更かしはお肌の大敵だし、おそ松兄さんのこのマシュマロほっぺを守るためにも睡眠は大事だよ。おやすみ、今日は良い夢が見られそうだね」
「えっ……」
顔をくっつけすりすり頬擦りしたと思ったら、目を瞑ったジャスティスから数回瞬く間にスヤァと気持ちよさそうな寝息が聞こえてきた。赤面するおそ松を放って一瞬のうちに眠ってしまったらしい。憎たらしいほど寝つきが良い所がまた俺に似てるなあ、と現実逃避気味に考えたおそ松は、すぐにハッと我に返った。
「……は?!え、マジで寝たの?おーいジャス……くっそこいつ寝てるくせに腕の力強ぇ!」
どれだけじたばたもがこうとも、抱きしめるジャスティスの腕からは逃れられなかった。熱の冷めない顔と落ち着かない心臓を鎮めるために、一旦ジャスティスの傍から離れたかった所なのだが、これでは朝になるまで無理そうだ。はあ、と零した溜息まで熱っぽいような気がする。困り果てたおそ松はしばらく往生際悪くもぞもぞ動いていたが、やがて全てを諦めた。
「もー、何なんだよジャスぅ……お前一体、俺をどうしたい訳?」
弱った声で問いかけても、返ってくるのは健やかな寝息だけ。すっかり涙の乾いた目元にほっと安堵してから、おそ松は自分も寝ようと押し付けられたままの胸元へ顔を伏せる。人肌にぽかぽかと温められても、ざわつく心はしばらく収まりそうにない。額をぐりぐり押し付けながら、まだまだ眠気の来そうにない瞼を強引にでも瞑らせた。
「待っててね、なんて……お前の方が生まれも育ちもずーっと俺の上をいってる殿上人だろぉ?」
何でそんな奴が俺なんかに懐いちゃったかねえ。などと呟いても、答えが降ってくるはずも無く。おそ松はこの日、生まれて初めて、考え過ぎて眠られない悶々とした夜を過ごしたのだった。
その日おそ松は、浅い眠りの中で束の間の夢を見た。懐かしい夢であった。
小学校高学年のある日、たまたま一人で帰っていたおそ松は、上等そうなランドセルを背負った赤髪の男の子が上級生に絡まれている所に出くわした。喧嘩だ!と軽い気持ちで割って入っていじめっ子どもを蹴散らした後、感謝の言葉を何度も述べる赤髪の男の子と話をし、そこで同じ名前の同じ六つ子の長男だったという事が分かる。それから男の子は同じ曜日の同じ時間、初めて出会った路地裏の片隅でおそ松を待つようになった。おそ松も、自分を兄のように慕って懐いてくれる男の子が可愛く思えて、兄弟たちに内緒で欠かさず会いに行った。
期間で言えば、一年にも満たない時間だった。男の子が家の都合で忙しくなり、もうここに来られないと涙目で別れを切り出されるまでの、僅かな邂逅だった。どんな話をしたのか、もう夢の中でもほとんど思い出すことが出来ない。男の子がよく泣いて、それをあの手この手で慰めてやっていた光景が、夢の中におぼろげに浮かび上がる。
苦では無かった。その後の男の子の涙にぬれた太陽のような笑顔が、何よりも眩しくて嬉しかったから。
『おそまつ兄さん。ぼく、じゃすてぃすになるよ』
色褪せた記憶の中、ふと、懐かしい声が蘇る。今、弟たちとダンスの練習をしているんだ、と話してくれた男の子が、誇るように笑う。
『おそまつ兄さんがくれたじゃすてぃす、ぼく、だいじにするね』
ああ、そうか。
だからジャス、お前は。
何かに納得出来たはずなのに、次に目を覚ましたおそ松は、隣に眠るジャスティスに驚いて「何でお前寝る前パジャマ着てたはずなのに今全裸なんだよおお!!!」と叫んでいたら、いつの間にか夢の内容を忘れてしまっていた。
「おはようおそ松兄さん、おそ松先輩!あれ、おそ松兄さんなんだかご機嫌だね?」
「ふふっ分かるかいトド松?実は昨晩、おそ松兄さんに僕のこの想いを少しだけ伝える事が出来たんだ。まだまだこれからだけど、それが嬉しくてね」
「ワァオ!二人とも熱い夜を過ごしたのかな?おめでとう!」
「ふん、やっとかよ。おそ松兄さん、あんた意外と奥手なんだな」
「意地悪を言うもんじゃありませんよ、カラ松兄さん。おそ松兄さんは慎重派な紳士なんです」
「……それで、おそ松先輩はどうして無駄に眠そうなんだ」
「うるせえ……寝不足で頭回らないんだよ……ふわぁ……」
ずらずらとイケメンたちを伴って今日も始まったおそ松の一日。しかしそこで、事件が起きた。
ぽやぽやと寝ぼけ眼を擦りながら最後尾をついていっていたおそ松は気付くのが遅れてしまった。誰もが道を開けて拝むF6の行く先に、ざっと五人分の人影が立ちはだかったのだ。
「あのー。朝早くにすみませんけどー。……うちの長男、そろそろ返してくれませんかねえ?」
それは普通科の六つ子のうちの五人、つまりはおそ松の弟たちであった。聞き覚えありすぎる声におそ松がはっと眠気を振り払っている間に、目の前の大きな背中たちがまるで壁のようにおそ松を背後に隠して並ぶ。
「これはこれは、松野先輩たちじゃないですか。わざわざ芸能科までお越しくださってすみませんが、まだおそ松先輩をお返しするわけにはいかないんですよ。うちの長男の病気がまだ治っていなくてですね」
「いや、病気とか知らねえし。あんな馬鹿でもいないと母さんたちが寂しがっていますし?俺たちにとっても唯一の長男ですし?いい加減一度返してくれって言ってんだよ」
二人のチョロ松が前に進み出て、正面から睨み合う。チョロちゃんなんでそんな不機嫌マックスの声出してんの?とおそ松が隙間から向こうを覗けば、そこには一様に目つきが悪い弟たちが揃ってガンを飛ばしている光景があった。思わずヒエッと後ずさる。全員で大喧嘩した時にも滅多に見られない怒りの表情だった。
「病気の事なら、日中だけ一緒にいればいいだろう。あいつは俺達の兄貴だ、あんたたちに自由に独占される謂れは無い」
「そうだそうだ!いきなり誘拐みたいに連れてったかと思えば、ずーっと返さないとかありえないし!おそ松兄さんがいないと、寝る時僕の隣隙間空いてて寒いんだから!」
「そっちの病気とか知らねえし、こっちがおそ松兄さんいなくて気分沈んで病みそうだし……早く返せよ」
「おそ松にーさんいないと寂しい!僕らのにーさん返してよー!」
口々に訴える弟たちに、おそ松は胸の内がじいんと暖かくなる思いがした。普段は全員塩対応かますくせに、何だかんだ兄離れの出来ない弟たちなのだ。生まれた時からの六つ子、突然離されて寂しいのは当たり前だった。おそ松は懐かしさも相まって、思わずイケメンの壁の隙間から顔を覗かせていた。
「お前らぁ!そんなにお兄ちゃんの事が恋しくなるなら普段から構ってくれよお!」
「あっ、おそ松兄さん!」
「おそ松!くそっお前ら、そこをどけ!」
「うわーんおそ松兄さぁん!無事でよかったー!」
「十四松、おそ松兄さん確保だ」
「あいあいさー!おそ松兄さーん!」
おそ松の顔を見て、途端に色めき立つ弟たち。おそ松もとっさに駆け寄ろうとするが、それより早く長い腕がおそ松を捕まえ、引き寄せて閉じ込めてしまった。昨晩味わったばかりの体温と匂いに、見上げずともそれがジャスティスの腕である事に気付く。
「すみません先輩方、あなたたちの寂しいお気持ちはとてもよく分かります……しかし、僕にもう少しおそ松兄さんの時間を貸して頂けませんか」
「あぁん?!おそ松兄さんだぁ?!そう呼んでいいのは俺たち弟だけなんだよ!」
「いけない。おそ松兄さんたち、下がって!」
ジャスティスがなるべく柔らかくそう訴えても、弟たちはすでに手の付けられない暴徒と化していた。おそ松を取り返すべく向かってくる弟と、兄とその想い人を守るために立ちふさがるF6の弟たち。学校の廊下の真ん中で、周りに集まってきた生徒などお構いなくぶつかり合った。あまりの勢いにたたらを踏んだおそ松は、しかし寝不足のためか足を縺れさせ、ぐらりと後ろへ倒れかけてしまう。
「あ、やべっ、うわあ?!」
「おそ松兄さん!」
慌てて支えようとしたジャスティスにも、弟の誰かが後ろからぶつかる。結局二人は縺れ合いながら地面へと倒れ込んでしまった。おそ松は仰向けで、ジャスティスは俯せの体勢で。ぶつけないように何とかおそ松の頭を掌で庇いながら、ジャスティスの赤い背中がそれより小柄な紺色の制服に覆い被さる。
おそ松は、これまでで一番近くにジャスティスの顔を見た。こんなに間近で見開いたジャスティスの瞳は、ルビーよりも綺麗だと思った。唇に、昨晩額に受けた感触と同じものが押し付けられている事には、それからしばらく経ってから気付いた。
「おそ松兄さんたち!大丈……夫……?」
誰かの焦った声が、不自然に途切れる。辺りを支配していた地鳴りがするほどの騒ぎが、水を打ったように引いていった。どれぐらいの間、同じ体勢で固まっていただろうか。長い睫毛が目の前でぱち、と瞬いたのを合図に、ジャスティスがばっと身を起こす。頬を朱に染めた、初めて見る恥じ入った顔であった。その顔を見て、おそ松もようやく思い知った。
今、今のは、キスだ。完全に事故によるものだったが、唇と唇を合わせてキスをしてしまった。……キス!ジャスティスと、キス!世界的アイドルと、キスをしてしまった!
うわーどうしよう!これヤバいやつ!良く考えたらこれも急性プリンス症候群とかいう病気のせいなのかもしれないけど、女の子憧れのアイドルをキズモノ?にしてしまった!殺される!トト子ちゃんにも念入りに5回ぐらい殺される!所属事務所に存在を抹消されてしまう!
「う、うわあああ!じゃ、ジャス、ごめん、おれ、」
「おそ松兄さんっ!!」
命の危険を感じ、何とか弁明を試みようとしたおそ松の両手を、それ以上の勢いでジャスティスがガッと掴む。ジャスティスはめちゃくちゃ必死な様子でおそ松に詰め寄った。
「今の、初めて?!」
「……は?」
「今の、き、キス、おそ松兄さんのファーストキスだったかな?!」
ジャスティスのあまりの剣幕に、おそ松は何も考えずに素直に答えていた。彼女いない歴イコール年齢なおそ松が出す事の出来る答えなんて、イエスしかない。
「う……うん……」
「ほ、本当?!嘘じゃないよね!」
「う、嘘じゃない」
「僕が!おそ松兄さんの初めて?!マジの話?!」
「マジもマジ」
かくかくと頷くおそ松に、ジャスティスは恥も外見も無く破顔した。
「そ、そっか……よかったぁ……!」
本来ならアイドル活動している自分の唇の心配をすべきだろうに。たかが、平凡などこにでもいる男のファーストキスに、何故それほどまでに心から喜ぶのか。訳が分からなかったが、その表情が、あまりにも無邪気に、嬉しそうに笑うので。
頬を染めたおそ松の心は、きゅん、と切ない痛みに疼き始めてしまう。
……あれ、これは、一体……?
「……ねえ、今のもおそ松兄さんが仕掛けた『病気』?」
「いいえ、あの慌て振りを見るに、あれは完全に事故でしたね」
「さすがはおそ松兄さん……王国の末裔の血を引くだけあって、運命の女神に愛された人だ」
「フン、まどろっこしい。変に嘘ついて囲ってねえで、さっさとこうしときゃよかったんだ」
「まあまあ。おそ松先輩もほら、赤い顔して満更でもなさそうだし、これからだよこれから、アハハ!」
「……え、『嘘』……?」
押し倒し押し倒された状態のまま、赤面した顔で見つめあう二人の松野おそ松を見守る二組の弟たち。呆然と、答えを求める様に立ち尽くす普通科の兄弟に、芸術科の兄弟の一人は眼鏡を押し上げながら、では一つだけヒントを、と口を開いた。
「そもそも、我々はこの学校の敷地内で寮生活をしています。それなのに朝の登校中、敷地の外で『偶然』ぶつかるなんて、普通に考えてあると思いますか?」
「「…………あっ」」
赤塚学園ではこれからもしばらくは、昔からの片恋相手を何としてでも落とさんと策を巡らす一途な兄と、最近胸の疼きが止まらない初心な兄をめぐる、両者兄想いな弟たちの仁義なき攻防が続きそうである。
17/03/11
| □ |