天狗の山では晴れの日に雨が降る





昔々、ある所におそ松という狐がいた。おそ松は新米妖狐だった。人里の近い山の中で一匹、まだ一本しかないふさふさの尻尾で毎日人間に化ける練習をしていた。ドロンと人間の子供に化けては傍らの池を覗き込み、そこに映し出された自分の姿を見ては溜息を吐いていた。
今日もまた、いつものように練習を繰り返していると、やがて頭上からカラカラカラと何者かの鳴き声が響いてきた。おそ松は耳をぴんと立て、慌てて辺りを見回した。

「狐の子、そこで一体何をしているんだ」
「だ、だれだ!どこにいる!」
「俺はここさ、ここにいる」

ばさっと風を切る音が聞こえたかと思えば、おそ松の頭の上に僅かな重みが加わった。池を覗いてみると、おそ松の頭の上から二つの瞳に見つめられていた。水面を通してみても良く分かる、小柄な真っ黒い姿。ばさりと翼を広げ、とがったくちばしでカラカラと笑うそいつは、通りすがりの烏だった。

「お前はカラスか!」
「いかにも、俺は烏。黒曜の如き翼を使いこの大空を自在に舞う風の流浪鳥さ。お前は一体何をしていたんだ、狐の子よ」
「狐の子、狐の子ってうるせえな、俺にはおそ松って立派な名前があんだぞ!」

おそ松が首を振って烏を振るい落とせば、黒い翼で逃れてから目の前の地面に着地した。ここから去るつもりはないらしい。烏は真っ黒の癖に、太陽の光を反射するとどことなく青みを感じる不思議な瞳でおそ松をじっと見上げてきた。

「そうか、おそ松。お前は今人の姿に化けているが、もしかして修行中か?」
「おう、そのとーり!見ろよこれ、俺はまだ妖狐になって日は浅いけど、それでもこれだけ完璧に人間の子供に化けられるんだぜ、すげーだろ!」
「ふーむ」

えへんと胸を張るおそ松の姿を、頭の先から爪先までじっくりと眺めた烏は、またしてもカラカラと笑った。

「そうだな、確かにその身体は人間の子供そのものだ。ただし、頭の耳とお尻の尻尾を除けばだがな」
「う、ううっ、うるせーな、分かってるよっ」

おそ松は烏に反論が出来なかった。薄い着物を纏った体は人間の子供のそれであったが、頭の上にぴょんと立ったままの黄色い耳と、尻の上にふさっと生えた黄色い尻尾は明らかに人間のものではない、狐の耳と尻尾だ。おそ松は毎日人間に化ける練習を続けているが、どうしてもこの耳と尻尾を消すことが出来ないでいた。改めてそれを指摘されて、おそ松の尻尾が苛立ちを紛らわせるようにぶんぶん振られる。

「俺は今からちょー完璧に人間に化けられるようになんの!んで、人間に化けられるようになったら……」
「なったら?」
「山のふもとの人里に下りて、人間と一緒に遊んでもらうんだ!」

きらきらと瞳を輝かせて語るおそ松。おそ松は昔から、人間に憧れを持っていた。人の住む里をこっそりと覗いては、楽しそうにきゃっきゃと遊ぶ子供たちを羨ましい目で眺めていた。人間に化けられるようになればあそこに混ぜて貰えるだろうと、そればかりを楽しみに毎日練習に明け暮れていたのだった。
烏はそれを聞いて驚いたように宙へと浮いた。ばたばたと翼を振り回して、おそ松の足元をうろついた。

「人間と、遊ぶ?!人間に化けて脅かしたりするのでなく?」
「そんな事しねーよ?だって俺、人間大好きだもん!一緒に遊びたいってずーっと思ってたんだ!」

えへへ、と鼻の下を擦って照れたように笑うおそ松に、烏は余計に慌てたようだった。おそ松には何故烏がこれほどまでに慌てるのか、さっぱり見当がつかない。

「なんだよお、何か悪いのか?」
「悪いに決まっているだろう!狐とは人間を騙して驚かせるもののはずだ」
「それ、ヘンケンってゆーんだぞ!俺は人間を騙して驚かせない狐なの!一緒に楽しく遊ぶ狐なの!」
「どうしてそんなに人間と遊びたいんだ」

烏からの質問に、おそ松はそっと目を伏せた。心なしか消えてくれない耳が少しだけ垂れ下がったように思えた。おそ松の頭の中には、これまでの自分の姿がぼんやりと思い出されていた。
たった一匹で、人里を羨ましそうに眺める、小さな寂しい子狐の背中が。

「……俺、ずっと一匹で暮らしてきた。仲間の狐がどこにいるかなんてわからない。そんな時、いつも何人かで群れて遊ぶ子供たちを見て、めちゃくちゃ楽しそうで羨ましくてさ。一回でいいから俺も、一緒に遊びたいなってずっと思ってたんだ。俺、寂しいの嫌い。沢山の笑顔に囲まれて、俺も一緒に笑ってみたい」

おそ松の言葉には切実な響きが込められていた。ひたむきな願いを口にした狐の小さなその姿を、烏はしばらく黙って眺めていた。やがて、低く響く心地良い声が静かにおそ松に向けられる。

「人間はそこまで良いものじゃない。仲間に入れてもらえるどころか、いじめられてしまうかもしれないぞ」
「そんなの、やってみなきゃわかんねーじゃん」
「狐だとばれたら鍋に入れられて煮て食われてしまうかもしれない」
「ええっそれはやだなあ……でも、そうならないために今練習してるんだし!」

烏がいくら説得をしようとしても、おそ松は決して折れなかった。烏は良くしゃべるくちばしで、人間がいかに恐ろしい生き物であるかをつらつらとおそ松に語る。しかしどんなに語られてもおそ松はけろっとした表情を変える事が無く、反対に不思議そうに烏へと尋ねかけていた。

「なあなあカラス、おまえ人間嫌いなの?」
「……そうだな。あまり、好きではない」

烏は気まずそうに顔をそむける。聞いた話によると、烏はその真っ黒すぎる外見で人間に忌み嫌われる事があるらしい。もしかしたら烏は人間に嫌なことをされた経験があるのかもしれない、とおそ松は思った。こうして山の中で人間に化ける修行を続けるおそ松も他の生き物と出会う事がたびたびあったが、皆人間に対して恐れや嫌悪を抱いている事が多かった。関わらない方が良いと説得されたことも多い。しかしそれでも、おそ松の考えは変わらなかった。

「ふーん、でもそれでも俺、人間が好きだからさぁ」
「……それではどうしても、人間と遊びたいんだな」
「うん!だから練習の邪魔すんなよ、カラス!」

大抵のものはここで諦めておそ松の元を去っていく。しかし烏はじっとおそ松の傍から離れなかった。やれやれ、とでも言いたげにくちばしを振ってみせると、翼を広げて飛び上がり、おそ松の周りをぐるぐると飛んだ。

「ふっ、それでは仕方ない、俺がその練習に付き合ってやろう」
「え、カラスが?」
「ああ、お前の化け方は下手くそだからな、このまま上達を待っていれば人の世がどんどんと移り変わっていくばかりだ」
「むっ!そんなことねえもん!」

そのままぶーぶー文句を言いかけたおそ松は、目の前に突然トンと降りてきた人影にびくりと毛を逆立てた。辛うじて人の姿のままでいる事が出来たが、もう少しで狐の姿に戻ってしまう所だった。そうやっておそ松を驚かせた人影とは……同じ背丈ぐらいの、山伏の格好をした少年だった。
きりりと特徴的な眉毛をきゅっと上げて、初めて見た少年がおそ松へと微笑みかけてくる。

「どうだ、おそ松。俺はお前よりもずっと人間の姿に化けるのが上手いだろう?」
「え?……あ、お前カラス!?」
「その通り!この整った顔だち、いくら子供の姿と言えど際立っているだろう?さすが俺!」

自画自賛する少年の声は、確かに烏と同じものだった。烏の声は低く通るような声だったので幼い子供姿には少々違和感が付きまとう。それでもどこにも綻びのないただの子供へと変化してみせた烏に、おそ松は驚いてパタパタと駆け寄った。

「すげー!すっげー!カラスおまえすっごいな!なあなあ、どうやんのどうやんの!」
「どーどー。落ち着け、落ち着け。ちゃんと教えてやるから」
「やったあ!あんがとカラス!……あ、」

待ちきれないとばかりに耳をぴくぴく尻尾をぱたぱた動かすおそ松は、ふと気が付いた。どうした、と首を傾げてくる少年姿の烏へと向きなおす。

「なあなあカラス、おまえ名前なんてーの?せっかく一緒に練習できるんだから名前で呼びたい」
「名前?フッ……俺にそんなものは無い。時には俺のこの身から溢れる神々しさに畏怖の念を抱いた民草から神などと言われる事もあるが、」
「名前無いのぉ?それじゃ不便だよ、俺が名前つけたげる!」
「えっ」

烏の名前、烏の名前。うんうん考えたおそ松はすぐにぽんと手を打った。あっけにとられる烏の手を取って、思いついた名前をとびきりの笑顔で伝える。

「カラ松!お前はカラカラ笑うから、カラ松な!俺とお揃いの松だよ、いいでしょー」

烏……カラ松は、ぱちぱちと瞬きをしておそ松を見ていた。その瞳はやっぱり瞬きするたびにちかちかと蒼く輝いているように見えて、綺麗だなあとおそ松は少しだけ見とれた。我に返ったカラ松がさっと顔をそむけてしまったので、すぐにその瞳も隠れてしまったが。

「し……仕方ない。おそ松がそこまで言うならその名を貰ってやろう。この俺にはもっと相応しい偉大な名前が本来ならば似合うはずなのだが」
「よっしゃカラ松!早く人間に上手に化ける方法教えて!早く早くはーやーくー!」
「わったた、う、腕をそんなに引っ張るんじゃない……!」

その日からおそ松はカラ松に何日も練習に付き合ってもらった。おそ松が山の中の池の傍で化ける練習をしていると、どこからともなくすぐにカラ松もやってきてくれて、あーだこーだと言われながら練習を見てくれた。カラ松は薄々感づいていたが独特の喋り方をする烏で、化け方の助言も回りくどくて分かりづらい事もあったがおそ松は辛抱強く言う事を聞いて練習した。時には練習を休んで、池で遊んだり木の実や山菜を取ったりおしゃべりをしたりと、息抜きもたくさんした。その時間はおそ松にとっても、予想以上に楽しい時間となった。
そうしてカラ松と出会ってどれほど経っただろうか。どんどんと上達していったおそ松はついに、狐の耳も尻尾も少しも出す事無く人間の子供の姿に化ける事が出来るようになった。

「見て見てカラ松!耳も出てない!尻尾も出てない!これちょー完璧に人間じゃない?!」
「ああ、ちゃんと寸分違わず人間の姿になっているな。やったじゃないか、おそ松!」

おそ松は喜びのあまりカラ松に飛びついていた。カラ松は元が烏のくせして妙に力が強く、この時もおそ松を難なく受け止めてくれた。わーいわーいと体をくっつけたまま喜んでいたが、やがてカラ松にペンと軽く尻を叩かれてしまった。

「あいた!なっ何すんだよカラ松ぅ!」
「こら、おそ松、今もう少しで尻尾が出てくる所だったぞ。人間に化けている間はもっと集中しておかないと、すぐに耳と尻尾が出てきてしまうぞ」
「あ、ああっそっか……!」

おそ松は指摘されて慌てて身体に力を込めた。今、嬉しさのあまりふさふさの尻尾が出かかっていたらしい。ちゃんと人間の姿を維持できるように集中し直して、さっそくおそ松は駆け出そうとした。

「これで人間たちと遊べる!俺、さっそく行ってくるな!」
「あ!ちょ、ちょっと待ておそ松!」

しかしすぐにカラ松に止められてしまう。何だよ、とすぐに掴まれた腕を振りほどこうとしたが、振り返った先にあった顔が想像以上に真剣な表情をしていたために、とりあえずその場に立ち止まる。カラ松はおそ松を自分へと向き直らせて、しっかりと肩を掴んで顔を覗き込んできた。

「いいか、おそ松。人間と遊ぶのはいいが、あまり深入りしすぎないようにな。あと、自分の正体が狐だと絶対に気付かれないようにするんだ。バレてしまえば何をされるか分からないんだからな」
「んなの分かってるって。カラ松は心配性だなあ」
「分かっているように見えないから言い聞かせているんだが……」

おそ松と同じように人間に化けたままのカラ松は、その本人曰くかっこよすぎる眉毛を情けなく垂れさせながら、何度も何度も気を付けるようにとおそ松に言い聞かせてきた。それにいちいちうんうんと頷き返してやっていれば、しばらくしてからようやく解放される。

「はあ……助けが必要になったら俺を呼べよ、おそ松。俺は何にも囚われない自由な烏だ、お前が俺を必要とするならばいつでも、どこからでも駆けつけてやるから」
「えー?別にいらねえけど、ま、いざとなったら呼んでやるかもね」

飄々と答えたおそ松は、カラ松の手が離れたのを見てさっさと駆け出した。人里までは少し走ればすぐに辿り着ける。はやる気持ちを押さえながら、おそ松は最後に振り返りもせずにカラ松へと手を振った。

「そんじゃー俺行ってくるねー!今まで練習に付き合ってくれてあんがとなーカラ松ー!」
「ああ……気を付けてな」

カラ松はその場に立ったまま、手を振っておそ松を見送った。おそ松は早く早くと一生懸命に走っていたので、背後でカラ松がどんな顔をしていたのか、とうとう見る事も無く森の中へと消えて行った。
カラ松はおそ松の背中を見送ったまま、しばらく立ち尽くしていた。

「……おそ松、出来るならばあの子が、傷つくような事が無ければ良いが……」

そうやって呟いたカラ松の姿は一瞬、黒い大きな何かに覆われ、そしてすぐにその場からざあっと吹いた風と共に消え去った。




おそ松がドキドキしながら人里へと降りると、ちょうど集落の外れで何人かの子供が遊んでいるのを見つけた。木陰からそれを眺めたおそ松は、意を決して子供たちの前に躍り出る。姿を現せる前に、ちゃんと頭の上に耳が出ていないか、背中側に尻尾が出ていないか、確認する事を忘れなかった。

「な、なあっ!俺も一緒に遊んでくれない?!」

子供たちは突然現れた見知らぬ子供姿のおそ松に、不思議そうな顔をしながらも周りに集まってきてくれた。

「お前、誰?」
「俺おそ松!近くに一人で住んでるんだけど、寂しくて仕方ないんだ。だから一緒に遊んで!」
「一人で住んでるの?すっげー!」
「いいよ、一緒にあそぼ!」

子供たちは特に警戒する事無く、おそ松を仲間に入れてくれた。念願が叶ったおそ松は嬉しくてたまらなかったが、頭の中にとっさに浮かんだカラ松がコラッと叱ってくれたために、辛うじて耳も尻尾も出す事無く耐えられた。いけない、いけない。どんなに嬉しくても楽しくても、頑張って人間に化け続けなければ。
その日からおそ松は毎日人里に下りて子供たちと遊んだ。子供たちは陽気なおそ松の事を気に入ってくれて、姿を見せれば我先にと集まって共に遊んでくれた。やがておそ松の存在は村の大人たちの目にも止まるようになったが、子供たちが懐いている事もあって無事に受け入れてもらう事が出来た。たまに山から人間でも食べられるような山菜を摘んでおすそ分けに持っていけば、大人たちは喜んで余計におそ松を可愛がってくれた。どんなに尋ねられてもどこに住んでいるのかは答えられなかったが、それでもおそ松の存在は人間に違和感なく受け入れられた。
そうして人間たちと何度も遊ぶようになってからも、カラ松は時々おそ松の元へとやってきてくれた。人里へとおそ松が下りる前に山の中で、ばさばさと真っ黒い烏がやってきては小言を漏らしていくのだった。

「おそ松、人間たちと遊ぶのは楽しいか?嫌なことをされてはいないか?」
「楽しいよ、嫌な事なんてされたことないし!今日はさ、川のほとりで遊ぶ約束してるんだ!楽しみ!」
「そうか、気を付けるんだぞ。決して正体がばれないようにな」
「わーかってるって!」

何度かカラ松も一緒に行こうよ、と誘っているが、人間に化けれるはずのカラ松は一度もおそ松についてきてはくれなかった。ただ最後に必ず、こうやって声をかけてくれるのだった。

「助けが必要な時はすぐに俺を呼ぶんだぞ。俺はいつだってこの山からお前を見守っているからな」
「んーあんがとあんがと。覚えてたらなー!」

いつも適当に返事をしてその場を去るおそ松だったが、内心は嬉しがっていたりする。今は人間たちと遊ぶのに夢中だが、落ち着いて来たらまたカラ松と一緒に過ごす時間を作りたいと思った。カラ松は木の枝の上から、駆けていくおそ松の姿をじっと見つめていた。

約束した通り、今日は子供たちみんなで川のほとりへとやってきた。そこで落ちている石を拾ってなるべく綺麗なものを集めたり、水面を眺めて魚を探してみたり、川に向かって石を投げていくつ跳ねるか競争したり、全員で楽しく遊んだ。ただ、溺れてしまうかもしれないから川の中には入らないようにと大人たちに言われていたので、水遊びが出来ない事だけが少々の不満だった。
その不満をどの子供たちも少なからず抱いていたのか。遊び場所はどんどんと川の淵へと近づいていた。それが、いけなかった。
とある瞬間だった。一緒に遊んでいた子供たちの中から一人の男の子が、バランスを崩して川の中へと落ちてしまったのだ。激しい音と共に川に落ちた男の子は、意外と深かったらしい川の中で足をつける事も出来ずに慌てて手足をばたつかせている。あの様子ではすぐに溺れてしまうだろう。女の子たちが悲鳴と共に男の子の名前を呼ぶ。

「どっどうしよう!早く大人を呼んでこなくちゃ……!」
「待って!俺が助ける!」
「おそ松くん?!」

おそ松は考える暇もなく水の中に飛び込んでいた。泳ぎには自信があった。人間の姿で泳ぐのはさすがに初めてだったが、幸い川の流れはそんなに早くも無く、すぐに溺れかけの男の子を捕まえる事が出来た。必死にしがみついてくる体を水中で引き摺って、おそ松は死に物狂いで男の子を岸へと引き上げた。
すぐに助けに入ったおかげか、男の子は少々水を飲んだぐらいで無事であった。おそ松も全身がぐっしょりと濡れてしまったが、被害と言えばそのぐらいだ。よかった、本当に良かった。安堵と共に顔を上げたおそ松が出会ったのは、しかし今の自分の心境とは全く逆の視線をこちらへと向ける子供たちであった。

「ゲホッゲホ……あれ、みんな?どうしたの……」
「お、おそ松、くん……それ……なに……?」

震える指で己を指さされる。いや、子供たちが指を差しているのは、見つめているのは、恐れているのは、おそ松の頭と、背中にあった。ハッとなって頭と尻に手をやると、そこにはずぶぬれの毛皮の感触が合った。明らかに、狐の耳と尻尾が出てきてしまっている。男の子を助ける事に必死になりすぎて、自分の姿をまったく考慮していなかった。
おそ松が何か弁明する前に、子供たちから悲鳴が上がった。

「狐だ!狐の耳と尻尾だ!化け狐だ!」
「怖いよぉ!お父さん!お母さん!」
「ま、待って!俺、何にもしないよ!ほんとだから……!」

おそ松の声は子供たちには届かなかった。混乱に陥った子供たちが泣いたり叫んだりしている声にやがて大人たちが集まってきて、おそ松はそのまま捕らえられてしまった。大きな大人の男の手に捕まえられて、逃げ出す事も出来ないまま村の中心へと引き摺られてしまう。

「痛い!痛いってば!尻尾引っ張んないで!」
「うるさいこの狐め!俺たちの事を騙しやがって!一体何を企んでやがる!」
「おっ俺、何も企んでなんかないよ!ただ皆と遊びたかっただけで……」
「嘘つけ!化け狐め!」

必死にもがくおそ松を、これ以上何かしでかさないようにと大人たちは寄ってたかって痛めつけはじめた。まだまだ小さな妖狐で人間に化ける事ぐらいしか出来ないおそ松に逃れる術は無い。人間たちが囲む輪の中で、おそ松はただひたすら小さく身を縮こまらせて、振り下ろされる拳や足からの痛みをやり過ごす事しか出来なかった。今まで仲良く遊んでいた数名の子供たちが泣きながら止めて止めてとおそ松を助けようとする声が聞こえたが、それも大人たちに宥められて聞こえなくなった。
やがて大人たちからの暴力が落ち着いた頃、おそ松は地面に倒れ伏してぐったりと動けなくなっていた。身体を守っていた手足は傷だらけで、柔らかな毛並みだった黄色い耳も尻尾も汚れてみすぼらしい姿となってしまっている。異質なものを同じ人間として受け入れていた事実を認められない人間たちの恐怖は、それでもまだ治まらなかった。

「このまま逃がせば、今度はまたどんな事で騙してくるかわからんぞ……」
「次は村の誰かが犠牲になってしまうかもしれん……そうなる前に、息の根を止めるべきだ」
「子供たちが全員無事なうちに正体が分かってよかった……」

大人たちは得体のしれない狐からどんな反撃が来てもいいように身構えながら、斧を手に取ってじりじりとおそ松に近づいた。全身の痛みでぼんやりしながらおそ松は、恐ろしげに光る刃が己に近づいてくるのを見た。逃げようと思っても、もう尻尾の毛先も動かせない。
こんなはずじゃなかったのになあ。
ぽろり、とその眼から涙を零しながら、おそ松は己の死期を悟る。最後に頭の中に浮かんだその顔は、勇ましい眉毛を情けなく歪めた心配性な烏のものだった。

「……からまつ……」

会う度に口癖のように言われていた言葉を思い出して、おそ松は無意識にぽつりと口を動かしていた。

「たすけて」


突然、里中をごうと凄まじい風が駆け抜けた。それは小さな子供であれば簡単に吹き飛んでしまえるぐらいの巨大な風のかたまりだった。訳も分からないまま慌てて身を固める人間たちは、いったい何人、村の中央だけが台風の目のように無風であった事に気付いただろう。それはまるで風で出来た巨大な壁のようであった。大きな壁が中央に囲んだ存在を全てのものから守るように、穏やかに揺蕩う空間を人間たちから遮断していた。そんな不思議な中心に倒れているのは、傷だらけの小さな狐が一匹。そこへ空からばさりと、大きな羽音を立てて黒い翼が舞い降りてきた。風は徐々に止んでいった。
風がおさまりようやく周りに目を向けられるようになった人間たちは、村の中央にそれを見た。鋭く光る蒼の瞳で人間を睨み付ける、山伏姿の大男。背中から生える黒い翼は大きく、一つ羽ばたくだけで空を自在に飛んでみせるような力強さを感じる。腰には何かの葉で出来た団扇が差さっており、それが妙に目についた。男が履いた一本下駄がカランと鳴る。翼を畳み、地面へと降り立った男は真っ先に地面へと手を伸ばし、その腕に小さな子狐を抱いた。

「ああ……ああ、やはり……だから人間は好かないんだ……」

おどろおどろしい低い声が響く。人間たちは恐れ戦いた。黒い翼の男の姿は、村の伝承で語られる恐るべき存在とほぼ同じであったのだ。
「天狗だ」と誰かが叫んだ。あの男こそが、このあたりの山を統べる神である、と。

「天狗だ、実在したんだ!」
「おお、山神様が……山神様がお怒りだ……!」
「おっお許しください天狗様……!」

その場に腰を落とし、必死に頭を下げてくる人間たちを男……山の神である烏天狗カラ松は、どこまでも冷ややかな瞳で見下ろした。

「自分たちの都合の良い時だけこちらを崇めたてる人間め……この子が一体、どんな想いでお前たちに近づいたのか。まだ何もしていない、抵抗も何もしない小さなこの子をこれほどまでに痛めつけた罰、よもや償う気が無いとは言わせないぞ」

再びごうと風が鳴る。人間たちの悲鳴が里に木霊した。辺りをカラ松の山に囲まれたこんなちっぽけな人里一つ、この場で潰してしまう事など造作も無かった。しかし実際にそうしてみせようと振り上げかけた逞しい腕を、傷ついた小さな腕がちょんと引っ張って止めてみせた。

「からまつ……だめ」
「おそ松……」

腕の中から必死に手を伸ばしてくるおそ松の姿に、カラ松は手を止めてそっと眉を寄せた。その心配そうな表情を見て、おそ松は確信する。人間の子供に化けてみせていた時の姿とは全く違う、大きな男の顔をしているが、目の前にいるのは確かにあの優しい烏で間違いはない、と。だからおそ松は、安心して微笑んで見せた。

「へへ……からまつはやさしーから、にんげんきずつけちゃ、だめ、な?」

ふにゃふにゃと笑うおそ松の顔をしばらく見下ろして、やがてカラ松は細く息を吐いた。里に鋭く吹く風は全て止んだ。人間たちがおそるおそる顔を上げる中、バサッと黒い翼が空に広がる。

「おそ松に免じて、今日は見逃してやろう。……二度は無いぞ、人間」

思い知らせるように一人一人睨み付けた後、カラ松はおそ松を大事に腕の中に抱いたまま、さっと空に羽ばたいていった。大きいはずだったその姿は風に乗って、すぐに山の向こうへ見えなくなってしまう。何の姿も見えなくなった空を見上げた人間たちは、それでもしばらく誰も動く事が出来なかった。


「おそ松、おそ松すまない、遅くなってしまって……もっと早く助けに入る事が出来れば、お前がこんなにも傷つけられることは無かったというのに」
「そんなのいいよぉ、助けてくれてあんがとなあ、カラ松」

カラ松、お前、実はそんなにおっきかったんだねえ。ぐったりとその身を預けながら、それでも笑ってみせるおそ松の姿にカラ松はたまらない気持になった。慕っていた人間たちに罵られ痛めつけられ、その身も心も傷ついているだろうに。そう考えると、もう止まらなかった。

「おそ松、これからは俺と暮らそう。この山で、俺の住処で、一緒に暮らそう」
「……カラ松と?」
「ああ。もうお前を寂しい気持ちになんてさせない。人間にも誰にも傷付けさせない。俺の傍で、ずっと一緒にいてくれ。その太陽のような笑顔で、俺の隣で笑っていてくれ。俺が必ず、お前を守るから」

ただ一緒に遊びたいだけだとひたむきに頑張り、虐げられてもなお人間を憎もうとはしないどこまでも純粋な小さな子狐に、烏天狗はとっくの昔に、すっかりと惚れ込んでいた。真っ赤な顔で、大きな体には似合わない必死さでそうやっておそ松を口説いてくるカラ松に、ぽかんと口を開けたおそ松。やがておなかを抱えてけらけらと笑い声をあげた。

「あははは!カラ松ぅ、それってまるで、愛の告白みたいだな!」
「……まるでじゃなくて、そのものなんだが」
「えーっうそぉ!偉大な山の神様が、俺なんかにそんなに真っ赤になって、本気の愛の告白ぅ?!」

あいたたた!と笑うおそ松。傷が痛むのか?!と慌てるカラ松。高い高い、青く晴れた空の上で、天狗の腕に抱かれながら狐はぽろりと、その紅い瞳から涙を零した。

「……嬉しい」

太陽の輝く空の下、ぽつんと落ちた雨のような雫に、狐の嫁入りだと言い出したのはさて、誰だったのだろうか。


一方、山のふもとの人里では、人間たちが山の神の怒りを鎮めるために大慌てで社をこしらえた。それは珍しい、天狗と狐両方を祀る神社であったという。
そのお社は、人間たちに畏怖されながらも長い間、何十年も何百年も祀られ続け、そして。

今もなお、山の神とその伴侶を祀る神社として存在し続けているのだ。




「……めでたし、めでたし」

周りに集まる子供たちは、青年がそうやって穏やかな声で締めくくった物語を今まで固唾を飲んで聞き入っていた。町の集落から外れて山を少し上った先にあるこの小さなお社。そこにたまに現れる青年は、やってきた子供たちにいろんな話を聞かせて遊んでくれた。今日はこの神社の成り立ちを、数百年も前の出来事だとして語ってくれたのである。子供たちはパチパチと拍手をしてみせて、お社の縁側に座る青年へと詰め寄った。

「つまり、山神様って天狗の事なんだ!天狗って強いんだね!」
「ねえねえ狐は?天狗にそのまま連れてかれた狐はどうなったの?」
「これってずっとずーっと前のお話なんでしょ?まだ天狗様って生きてるの?」
「山の神とその伴侶って、つまり狐と天狗って結婚したの?!夫婦?!」

矢継ぎ早に質問されながら、青年はにこにこと楽しそうに子供たちを眺めていた。鮮やかな真っ赤な着流しが良く似合うごく普通の青年だ。ただ目ざとい子どもたちの幾数人かは、青年の瞳が時折チカッと紅く光って見える事があるのに気付いているかもしれない。それでも、何度尋ねられてもどこから来たのか、普段何をしているのか、名前さえも教えてはくれない不思議な青年は、それを除けばただの人にしか見えない。とても人懐っこい青年で、時たま神社へと遊びに来る子供たちの前に現れては共に遊んでくれる貴重な存在であった。
きゃらきゃらとかしましい子供たちを微笑ましそうに眺めていた青年は、ふと空を見上げた。もうすぐ日が沈み、夕闇がやってきそうな時間帯であった。カラカラカラ、と、どこからともなく烏の鳴き声が空に響く。それを合図にするかのように、青年は立ち上がった。

「ほーら、そろそろ家に帰んねえと父さん母さんに怒られるぞお前らー。質問の続きは、また今度な?」

えーっと不満げな声を上げる子供たち。鼻の下を擦って笑って見せた青年は、それじゃあ最後に一つだけ、と片目を瞑ってみせた。

「この土地では、晴れてるのに雨が降るって不思議な天気が多いのは知ってるよな?それ、何でだと思う?」
「えー、知らなーい」
「何で何でー?」
「答えは……天狗様だけが知ってまーす!はい、今日はここまで!お前ら気を付けて帰るんだぞー!」

何それ!と散々ぶーたれた子供たちも、答える気が無い青年が促せばしぶしぶと石段を下りて町へと帰って行った。軽く手を振ってそれを見送る青年は、赤い着流しの腕を振ってにこにこと笑っていた。
やがて、青年以外誰もいなくなった境内。鳥居の向こうに見える空をぼおっと眺めていた青年の背後に、ざあっと風が渦巻く。カラン、と涼やかな下駄の音を響かせて空から舞い降りてきたのは、黒い翼をもつ何百年も変わらない山伏姿の男。勇ましい眉を愛しそうに垂らしながら、青年の隣へとやってきた。

「随分と懐かしい話をしていたな」
「だよねえ。俺も話しててめちゃくちゃ懐かしかった。あの時の天狗様は随分とかっこよかったよなあって」
「フッ、俺はいつでもかっこいいだろう?」
「はいはいかっこいいかっこいい」

青年は天狗を振り返る。その頭にはいつの間にか、黄色い三角の耳がぴょんと生えていた。その背後にも、ふさっと柔らかな狐の尾が、合計四本。長い年月をかけて尾の数を増やした妖狐が、幼いころの面影を残しながらも妖艶に微笑む。

「……いや、本当に思ってっからね?俺を貰ってくれた愛しい天狗様は、いつだってかっこいいって思ってるよぉ」
「そっそうか?そうだろう!可愛い事を言ってくれるじゃないか……そういうお前は、あれだけ愛らしかった子狐がよくぞここまで美しく成長してくれたな」

天狗の腕がそっと狐の腰を抱き寄せる。四本の尻尾全てを使って天狗へと寄り添って、狐は幸せそうに微笑んだ。

「小さかった俺がここまで生きてこられたのは、お前のおかげだよ、カラ松」
「当たり前だ。お前の事は俺が必ず守ると、あの時誓っただろう、おそ松」

チカッと、あのころと変わらない蒼い瞳がおそ松を見て瞬く。カラ松を視界に入れてより一層紅く瞳を輝かせたおそ松は、静かに瞼を閉じた。心得たように降ってきた唇は、しばらくの間互いに吐く息さえも取りこぼす事無く重なる。ふは、と息継ぎをするように微かに離れた間を縫って、狐が笑った。

「お前さあ、俺を何度嫁入りさせるつもり?接吻するたびに雨なんか降らせてさあ」
「これはお前の仕業だろう?俺への愛を再確認するたびに、初心な新婚気分が蘇って降らせてしまうんだよな?照れ屋な俺の花嫁は」
「うひゃー!俺何百年花嫁やってりゃいいのー!そろそろ熟年夫婦でいさせてー旦那様ー!」

けらけらと笑いながら再び愛しい口付けを交わす両者の頭の上からは、鮮やかな夕焼け色からぽつりぽつりと雨が降り始める。真相はさて、どちらの言い分が正しいものやら。
とにもかくにも、この烏天狗が狐と共に治める山。天気雨の日が異常なほどに多いと、何百年も前から変わらず全国で語り継がれているのである。






16/08/01



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