お前は俺が守るから





カラ松の旅は、故郷を埋め尽くす真っ赤な炎から始まった。
ちょうど、騎士としての任務で町を離れている時だった。知らせを聞いて飛んで帰った時にはすでに焔の海が全てを飲み込んだ後で、カラ松自身も恐ろしい影に襲われ深い傷を負った。無我夢中で剣を振るった相手の顔は覚えていなくとも、意識を失う直前まで目に焼き付けていた犯人の後ろ姿だけは、とてもよく覚えている。
全てを焼き尽くす火の明かりによって黒々と浮かび上がったあの背中には、確かに禍々しい悪魔の羽が生えていた。カラ松の故郷を奪ったのは間違いなく悪魔だった。
カラ松の頭には、心には、未だあの時の炎が燻っている。今日もまた、あの日の絶望を鮮明に思い出していた。決して忘れないように、思い知らせるように、己から己へ旅の目的を夢の中で突きつける。
仇討のはずの旅が、何よりも心安らぐものと成り果てているために。


「……ら松……カラ松……かーらーまーつー!」

名を呼ぶ声に、ハッとカラ松は目を覚ましていた。朝を迎えた淡い青空が、木々の間から爽やかに覗いている。日の出直後なのだろう。旅を始めてからカラ松の目覚ましは、毎朝正確に幼さの残る声で揺り起こしてくれる。この声の主こそが、今は復讐をするためだけに生きているはずのカラ松を、その存在一つで救い上げてしまう恐るべき癒し生物なのだった。

「お、カラ松起きた?おっはよー!腹減ったー!」
「……ああ、おはようおそ松。朝飯は昨日と同じパンだけになるが、我慢してくれよ」
「えーっまたあの固いパン?早くどっか町についてふかふかの出来たてパンが食べたーい」

木陰に横たわっていたカラ松の胸の上にうつぶせに転がってぷうと頬を膨らませているのは、手の平サイズの人間だった。……いいや、姿は人間に近くとも、それは決して人間ではない。頭の両側には巻き角、尻には光沢のある太い尻尾、そして背中には黒い羽の生えたこの姿は、悪魔以外の何者でもなかった。おそ松、と声をかけられた悪魔は、しかし悪魔らしからぬ無邪気な笑顔でばたばたとカラ松の胸の上で手足をばたつかせる。

「ま、いいや!予定ではもうすぐ次の町につくんだもんな!早くごはんごはーん!」
「分かった、分かった。まずは顔を洗ってからだ」

カラ松が身を起こせば、胸の上にいたおそ松はころんと地面に転がってしまう。しかしすぐに背中の羽でぱたぱたと宙へ飛んで、立ち上がったカラ松の肩の上へと戻ってきた。

「川はあっち!早くぅー俺お腹空いて死にそうだよぉー」

ぺちぺちと竜のものにも似ている尻尾を肩に叩きつけてくる堪え性のない悪魔を、しかしカラ松は微笑ましげに一瞥しただけだった。そこには仇と同族である事への憎悪や戸惑いは一切無い。何故ならこの小さな悪魔は、カラ松がこの手で卵から孵した存在だったからだ。
故郷を失くし全てを失ったカラ松がたった一つだけ、新たに手に入れられたのが温かい小さな卵であった。不思議と体に受けたはずの致命傷が癒えた状態で目を覚ましたカラ松が、いつどこで入手したのかその手の平に大事に包み込んでいたのがそれだった。呆然自失としたカラ松が焼け落ちた町の跡を燃え残った何かが無いか探し回り、それでも生き物も何も見つける事が出来ずにふらふらとその場を離れ、生きる屍のように数日を過ごしたのちに卵はカラ松の懐で孵った。コツコツとしばらく揺れた後に中から元気に飛び出してきたのが、この悪魔のおそ松だった。

「いただきます」
「いっただっきまーす!」

顔を洗い、簡単に身支度を整え、パンと水だけの簡素な朝ご飯が始まる。食欲旺盛なおそ松は、小さな体には大きなパンを両手で抱え込んで、もぐもぐと口いっぱいに頬張っている。文句を言っていたくせにその顔は美味しそうに蕩けていて、見ているこちらまで固いパンが美味しく感じる。一度は生きる気力を失ったカラ松を、復讐のためとはいえ旅に出るまでに回復させたのは間違いなくおそ松だ。パカリと開いた卵の殻を頭にくっつけながらおそ松が、「俺の事孵してくれてあんがとー!」と明るい顔で飛びついてきたあの時、死に絶えていたカラ松の世界は息を吹き返したのだ。
人間にだって良い奴がいれば悪い奴もいる。悪魔にもそれが当てはまるという事だ。カラ松が追い求める憎き悪魔と、目の前で幸せそうにパンを頬張っている悪魔は別物なのだ。それが分かっていればよかった。

質素な朝ご飯を食べ終え、装備を整え、忘れ物が無いか確認をしたのち一晩野宿した場所を離れ、カラ松はおそ松を連れて街道を歩いていた。時折馬車が横を通り抜けるが、悉く反対方向へ向かうものであったことと元々金欠気味なため、辻馬車を拾う事ははなから諦めてマイペースに舗装された地面を踏みしめる。歩きやすく幅も広めな道は、もうすぐ人の住まう集落がある証拠だった。どうやら今夜は野宿せずに済みそうだと、一人安堵の溜息を吐き出す。

「なんかざわざわしてきた!もうすぐ町につく?」

青色のマントの陰からひょっこりとおそ松が顔を出してくる。先ほど横を通り過ぎた馬車から身を隠していたのだ。周りに誰も居ない事を確認してひょいと宙に飛び上がったおそ松は、カラ松の周りをちょこまかと飛び回る。暇しているらしい。「ざわざわしてきた」というのは、たくさんの人の気配を向かう先に感じたためだろう。悪魔であるおそ松は、そういう人間からするとちょっとびっくりするような能力を持っていたりする。

「ああ、あともう少しで見えてくるはずだ。町に着いたらちゃんと道具袋の中に隠れるんだぞ」
「ええー?あの中狭いし退屈だし俺きらいなんだけどー」
「おそ松」
「……はぁい」

尻尾を摘まんでじっと見つめれば、おそ松はしぶしぶ頷いた。この小さな生き物が、ただの人懐っこく寂しがり屋な無害の悪魔である事を、手ずから孵して今まで共に生きてきたカラ松には分かりきった事であるが、他の人間にとってはそうはいかない。悪魔というだけで迫害されたり、排除されたりしてしまう恐れがある。だから人前では極力隠れているように言い聞かせているのだ。おそ松も文句は言いながら、カラ松の心配する気持ちは伝わっているのか逆らったことは無い。
よしよし、と指先でつるっとした巻き角を撫でてやれば、照れたように尻尾で叩き落された。そっぽを向いてしまったが、赤くなった顔は決してカラ松の手の届かない所まで逃げたりはしないのだ。可愛いなあ、と思う。
そうしてじゃれ合っていると、カラ松にも人の集まる独特な気配を感じる事が出来た。良く動くおそ松ばかりを見ていた視線を前へ向ければ、いくつも連なる赤茶色の屋根と簡易的な門が見えた。前の町を旅立って約三日、ようやくの目的地到着だった。おそ松もそれに気づいて、カラ松の頭の上でぴょんぴょんと跳ねた。

「わーいわーい!着いたー!ふっかふかパンーあったかいスープー焼き立てお肉ーあっつあつおでんー」
「フッ、相変わらず食いしん坊さんだなおそ松……コラ、飛び上がるな、着いたらちゃんと隠れると言っただろう」
「ひゃっ!い、いきなり掴むなってば!」

ぴーぴー騒ぐおそ松を肩にかけていた袋の中に突っ込んで、カラ松は初めての町へと足を踏み入れていった。




「ばばんばばんばんばん、はーびばびば」

日の暮れた町の中。一軒の宿屋の一室で、ご機嫌で呑気な歌が目の前のカップの中から聞こえる。中に満たしてあるのは程よい熱さのお湯で、そこにすっぽり浸かってふんふん歌っているのはおそ松だ。カラ松がシャワーを浴びる時、必ずと言っていいほどおそ松はこうして湯に浸かりたがるのである。

「いつも思うが、随分と気持ちよさそうだな」
「そりゃもー!不便な事も多いけど、この時ばかりは俺の身体がこのサイズで良かったーって心底思うもん。今日はずーっと袋ん中だったから余計に気持ちいいー」

ぐっと伸びをしたおそ松は、背中の羽を動かしてぱしゃぱしゃと水面を叩く。カラ松には湯に浸かる習慣なんて無いし、この宿にも湯船なんてものはない。一部の地域で温泉とやらに浸かる事もあるとは聞いたことがあるが、それも人間の世界では一般的では無かった。それを初めて知った時のおそ松は「マジかよ……人間は人生の80%ぐらいを損してる……」と大げさに嘆いていた事を思い出す。悪魔の生態は知らないしあまり聞いた事も無いが、卵から産まれてずっとカラ松にべったりくっついているおそ松はどうやって湯に浸かる極楽感を知ったのだろうか。悪魔の本能なのか。

「……そろそろ上がるぞおそ松。あんまり長いとまたのぼせるぞ」
「えーもうー?まだもうちょっと……ってギャー!摘まむな!出来る!一人で出来るから……ぶほっ」

カップの中からほかほかの悪魔を摘まみ上げて、逃げ出される前にタオルで包み込む。以前好きなだけ湯の中に入れていたら顔を真っ赤にしてふらふらになっていたし、体を濡らしたまま部屋の中を飛び回って雫を撒き散らした事だってある。それを未然に防ぐためにも、カラ松は甲斐甲斐しくおそ松の世話を焼くのだった。傷つかないように細心の注意を払って柔らかく水分を拭っていれば、タオルに包まれたおそ松も大人しくされるがままだ。ちょっとでも痛くしたら炎を吐かれるのは経験済みである。
角の付け根から尻尾の先まで、風邪を引かない様に完璧に拭き取ればあとは自分で着替えさせるだけだ。おそ松を見下ろして満足げに微笑めば、じとりとした目を返された。

「……俺の事より先に自分の方済ませちまえばいいのに。風邪引いてもしらねーぞ」

ようやく自分の番だ、と大きめのタオルを手に取ったカラ松は頭からずぶ濡れのままだ。呆れたような顔をしながらも、その視線の中に気遣う光が含まれている事を敏感に感じ取ったカラ松は途端に嬉しくなる。素直では無いが、おそ松はとても心優しい悪魔なのだ。

「ノープロブレムだ。どうだ、水も滴るいい男だろう?」
「あーはいはい」
「それに、俺が水に濡れて風邪を引く訳がないだろう」
「そりゃそうなんだけども」

ぶつくさ文句を言うおそ松の横で身なりを整え、宛がわれた部屋の中へと戻る。一人用の宿の一室は狭かったが、野宿を繰り返していた身としては整えられたベッドさえあれば何でもよかった。しかもシャワー付きだなんて贅沢ものである。カラ松がベッドに腰掛ければ、おそ松は膝の上に着地した。

「ねえねえ、そういや俺袋ん中で寝っぱなしだったから聞いてなかったんだけど、この町では何か仕事あった?」

足と尻尾をぱたぱた揺らしながら尋ねかけられる。旅に必要な賃金は、立ち寄った町で主に頼まれごとを引き受けて稼ぐのがカラ松のやり方だった。他には、道中で見つけた売れそうなものを売って金にしたり、それでも間に合わないときは趣味で持ち歩いているハープで弾き語りをして小銭を稼いだりもする。ちなみにその弾き語り、カラ松自身は吟遊詩人を夢見る程度には気に入っているのだが、「声や歌はともかく顔がうるさい」とおそ松にはすこぶる評判が悪い。

「ああ、魔物退治の依頼を受けた。最近この近辺の作物を荒らしまわっているんだそうだ」
「へえ。一番得意な内容で良かったじゃん?騎士様」

にやりと笑ったおそ松の視線が、傍に立てかけてあるカラ松の剣を見た。全て燃え尽きた故郷からカラ松が持ってこれた数少ない物の一つだ。肌身離さず持って大事に手入れしていたこの剣は、騎士になったその日に贈られてからずっとカラ松と共にあり、仇にトドメを刺せなかった無念を抱き続けている。ぽつんと脳内に落ちてきた暗い気持ちを、まるで読み取ったように明るい声が尋ねてきた。

「それで?故郷の仇の悪魔さんの噂話は聞けた?」

カラ松の旅の目的の全てを知っている小さな悪魔の瞳がにんまりと笑ったまま射抜いてくる。本人にそういう意図があったのかは分からないが、まるでこれ以上薄暗い気持ちに引きずられないようにと引き止めるような笑顔だった。内心でおそ松に感謝しながらカラ松はかぶりを振った。

「残念ながら何も。まあ、この町を旅立つ前にもう一度声を掛けてみるさ」
「ふーん、そっか」
「さあ、明日に備えて今日はもう休もう。……フ、お前を安らかなドリームランドへ誘うために、子守唄でも歌おうか」
「アバラ折れて永眠しかねないからいらない」
「えっ」

カラ松がベッドへ横たわれば、枕元におそ松がころりと寝転がる。寝相が良い方でよかった、と、おそ松と寝起きを共にするようになってカラ松は毎晩実感していた。うっかり踏みつぶしてしまいそうな寝相を持っていれば、こうして目と鼻の先で眠れるようにはなれなかっただろう。逆におそ松の方がどこにでもごろごろ転がっていってしまう寝相の持ち主ではあるのだが。
枕の上に寝そべったおそ松が、にっと笑って腹這いのままにじり寄ってくる。カラ松も笑顔でそれを受け入れた。毎晩の習慣のようなものであった。横を向くカラ松の鼻先に、ちょんとおそ松が唇を寄せた。

「おやすみ、カラ松。良い夢を」
「ああ、おやすみおそ松」

まだ旅を始めたばかりの頃、魘されて満足に眠れないカラ松を見かねたおそ松からのおまじないだった。悪魔からのキスで悪夢を追い払うなんておかしなものだ、と思いながら、胸の内には温かい何かが満ちて瞼が自然と重くなる。寝つきの良いおそ松の小さな寝息に誘われるように、今日もカラ松はゆっくりと眠りの世界へ落ちて行った。




翌日。朝を少し過ぎた時間。カラ松はおそ松と共に町の周辺に生い茂る森の中を突き進んでいた。この森の奥地に住み着いた魔物が時折町近くまでやってきて、畑に実った作物を荒らしまわっているのだそうだ。その内町の中にまで襲い掛かってくるのでは、と困っていた所にカラ松がやって来たのだと言う。この話を持ってきたのは町長で、魔物退治が完遂出来ればそれなりの報酬を貰えそうだ。俄然張り切って、草木の生い茂る地面を踏みしめずんずんと前へ進む。

「おはよーお前ら、元気?この先におっかない魔物がいるってほんと?……へーそっか、あんがとなー」

肩に乗っていたおそ松がふわりと宙に浮いて、頭上の木の枝に止まっていた小鳥たちへと話しかける。動物と言葉を交わせる事もおそ松の能力のうちの一つだ。およそ悪魔らしくないが、指摘すると「俺だって立派な悪魔だもん!」とプンスカ怒り出すので何も言わない。怒らせるのがもったいないほど、小鳥とお話しているおそ松の姿というものは大変微笑ましいものだった。

「なあ、そういや標的の魔物って、一体どんなやつなの?」

突然逆さまになったおそ松が頭の上からひょいとカラ松を覗き込んできた。言ってなかったか、と思わず目をぱちくりさせる。

「さっきのリトルバードたちに聞かなかったのか」
「ビビッて教えてくんなかったんだよぉ。そんなに怖いやつなの?」
「ああ、なるほど。それはそうかもしれないな。バードたちにとってはボスみたいなものなのかもしれない」
「んー?どういう意味?」
「つまりその魔物は、全長が2メートル以上もあるらしい怪鳥で……」

説明している途中で、目の前からヒュンッとおそ松の顔が消えた。え、と一瞬呆けている間に、情けない悲鳴が鼓膜を叩いてくる。

「ぎゃあああーーっ?!かかかカラ松ー助けてえぇぇぇー!」
「お、おそまぁぁぁぁぁつっ?!」

おそ松がものすごい速さで遠ざかっていく。じたばたもがく小さな体は、大きな鉤爪に鷲掴みされていた。黒々とした大きな翼を広げて空を飛ぶその姿は、今しがた話して聞かせていた怪鳥の特徴と寸分違わず同じものだ。良いのか悪いのか、ものすごいタイミングでおそ松は鳥型の魔物に目をつけられ、攫われてしまったようだ。

「くそ、待ってろおそ松!今このカラ松オブナイトが助けてやるからな!」

慌てて駆け出すが、鳥が空を飛ぶ速度に人間が地面を駆ける速度で追いつける訳がない。せめて見失わないようにと大きな鳥のシルエットを視界から外れないよう必死に森の中を走れば、魔物はぐんと滑空する速度を緩めた。一本だけ、遠くからでも良く見える大木が森の中に生えていて、その周りをゆっくりぐるぐる旋回しているようだ。もしかしたらあそこに奴の巣があるのかもしれない。もしおそ松がそのまま巣に持ち帰られたら、一体何をされるか。瞬時に嫌なことを色々と想像してしまって、カラ松は青い顔で巨大な木の根元へと駆け寄った。
息を整えぐっと頭上を見上げれば、ギャアという醜い鳴き声と共に宙を飛ぶ魔物の姿が確認できた。小さなおそ松の姿は目視出来なかったが、微かに離せー助けてーとか細い声が聞こえるような気がする。まだ元気に悲鳴を上げられる程度には無事であることにホッと息を吐き出しながら、カラ松は空へと拳を突き出した。

「俺の目の前でリトルスウィートデビルを攫うとは良い度胸だ……手加減はしないぞ」

力の入れられたまま広げられた手の平には、あっという間に空気中の水分がかき集められた水の球が浮かび上がる。ただの水の塊ではない、そこにはカラ松の魔力がこれでもかと込められていた。カラ松が生まれつき身につけていた能力だ。水の加護を受けた高い魔力は、故郷の騎士に選ばれる時にも大いに役立ってくれた。そんな能力を惜しげも無く使い、カラ松は頭上を飛ぶ不届きものへと力を解放した。
人間の頭よりも大きくなった水の球は鋭く真っ直ぐ怪鳥へと突き刺さった。本来ならもっと多く水を集める事も出来たのだが、あまり大きなものをぶつけてしまえばおそ松まで巻き込んでしまう。今はただ、あの魔物の隙をついてバランスを崩せられればそれでよかった。かくしてカラ松の思惑通り、翼に魔力の込められた水の塊を受けた魔物はギャアと悲鳴を上げて空中をよろめいた。握られていたその足が、力を失って捕えていたものを解放する。

「うわああああっ!」
「おそ松っ!」

本当なら空を飛べるはずのおそ松は、驚きかショックのためかそのまま地面へと落下した。カラ松が慌てて手を広げれば、その中に小さな体はストンと収まった。目を回すおそ松を目の前に掲げて、カラ松は大慌てで傷などが無いか確認した。

「だ、大丈夫かおそ松、どこか痛い所は?何もされていないか?」
「ふぁー、びっくりした……大丈夫だよぉ、まだどこもつつかれてないし、食われてもないから」
「よかった、無事でよかった……!おそ松、すまない、俺が油断していたばかりにお前をこんな目に合わせてしまって……!」

安心のあまりぎゅうと抱きしめれば、頬にくっついたおそ松が「ばか!苦しい!」と抗議しながらぺしぺし叩いてくる。出来る事ならこのままずっと頬擦りしていたい気分だったが、それより先にやる事があった。水を受けた事で上手く飛ぶことが出来なくなり、ふらふらとこちらへ降りてきた誘拐犯への制裁だ。
左手でおそ松を抱きしめたまま、右手ですらりと腰の剣を抜いたカラ松の目は清く正しい騎士にあるまじき据わった目であった。寝起きと怒った時の表情を「俺より悪魔っぽい」とおそ松に評された事のある顔を魔物に向けて、カラ松は地を蹴った。その頭には魔物討伐の依頼の事など欠片も無かった。ただひたすら、カラ松の大切で愛らしい小さな命を脅かしたことへの怒りのみを乗せた剣で、悲鳴を上げる魔物を上から下へ斬り落とす。それを察したおそ松がこっそり呆れていたが、結果的に依頼を遂行出来たので何も言わなかった。
断末魔の叫び声を上げた怪鳥は真っ二つに裂かれた体をどうと地面に落とし、ぴくりとも動かなくなった。他愛もない。憎き敵がもう二度と動き出さない事を確認したカラ松は、改めて腕の中のおそ松を心配そうに見つめた。

「おそ松、本当にすまなかった……」
「もういいって!油断してたのは俺もそうだし、こうして無事に助けてもらえたんだしさぁ」

じたばたともがいたおそ松は、カラ松の手の中からあっさりと抜け出してしまう。名残惜しそうにああと呟いたその頬に、離れたと思ったおそ松がすぐにふわりと体を寄せてきて。

「えへへ、助けてくれてありがとな。かっこよかったぜ、俺の騎士様っ」

チュッ。頬に感じる小さな小さな濡れた感触。寝る前にちょんと貰うおまじないよりも長くはっきりとした悪魔からの可愛らしいキスだった。呆然としていれば、照れたように鼻を擦ってみせるおそ松の赤に染まった頬が見える。恥ずかしさを誤魔化すようにふらふら揺れる光沢のある尻尾がいやに目についた。カラ松は数秒間たっぷり静止した後、油断していたおそ松の体をがっと掴んで、歓喜の声を上げていた。

「っ世界一プリティなデビルと共にある我が人生、セラヴィーっ!」
「ぎゃわっ?!か、カラ松落ち着けって……わーっ!やめろー!お前からのちゅーは俺にはおっきすぎるのーっ!」

お返しとばかりに唇を寄せるカラ松に、わたわたと大慌てなおそ松。どこまでも平和すぎる白銀の騎士と小さな悪魔のこの取り合わせを見て、仇討の旅の途中だとは誰も思わないだろう。張本人でさえ、肩の上で笑う笑顔にすぐ深刻な目的を忘れ去ってしまうほどなのだから。

「安心しろ、おそ松。これからも俺がお前を守るからな!」

至極嬉しそうに顔を綻ばせ、愛しげに目を細めるカラ松に、悪魔は同じだけの愛を込めて、微笑み返すのだ。





町に現れた騎士は、無事に件の魔物を仕留めて町民たちに大いに喜ばれた。町長から報酬を受け取り、今日までどうか泊まって行ってくれと乞われるがまま、今夜も宿屋に宿泊しているはずだ。そんな闇夜の中、下品な笑みを浮かべた男たちが町に侵入し、騎士の泊まる宿を目指して音も無く蠢いていた。この辺りで活動する卑しい盗賊の男たちである。

「どうやらそいつ、たった一人らしいぜ?この人数で寝込みを襲えばどんな野郎でも仕留める事が出来るだろうよ」
「ご立派な剣と鎧を携えていたらしいなあ、どこかの名のある騎士様かもしれねえぞ」
「知った事か!今日受け取ったはずの報酬も全部頂かせてもらうぜ。抵抗されれば……その時はその時よ」

ギラリ。弓張月の光を反射して男たちの持つ刃物が輝く。ろくに手入れされていない刃には赤黒い汚れが目立った。数多の命を脅し奪い去ってきたそれで、今日も盗賊の本分を全うしようと息巻く。狙いは本日、たんまりと報酬を頂いたはずの騎士一人。町の端に建つこの宿屋は、誰にも見つかる事無く茂みから窓の中へ侵入するにはうってつけであった。宿の主人に少しばかり金を握らせれば口封じも楽になされる。目くばせし合った男たちが、今まさに窓枠に手を掛けた、その時だった。

「おこんばんはぁ。こんな時間に何してんの、おっさんたち」

背後から突然かけられた声に、男たちは一斉に振り返った。今まで一切気配が無かったはずのそこに、何者かが立っている。……いや、浮かんでいる。一人の男が、背中に生えた漆黒の翼をはためかせてこちらを見つめていたのだ。何人かがヒッと抑えた悲鳴を上げた。

「あ、悪魔……?!」

細い月の光を受けて、厳かに宙へ浮かぶその姿を見て取れた。とぐろを巻く炎のように月夜に浮かぶ二本の巻き角、古の生物を思わせる太く長い焔色の尾、そして夜の明かりの中でもばさりと広げられたシルエットを目に焼き付けさせる、漆黒の翼。ニイ、と細められた瞳には、この世のものとは思えぬような美しい緋の色が燃え上がっていた。
ああ、間違いない。悪魔だ。男たちの目の前で嗤っているのは、人間の青年ほどの見た目をした悪魔そのものだった。

「ねえ。何してんのって聞いてんだけど」

ふわり、と空中を滑るように移動する悪魔が男たちに近寄る。恐慌状態に陥った男たちは青ざめた顔で後ずさる事しか出来ない。数多の修羅場を潜り抜けてきたはずの男たちからは、すでに戦意が喪失されていた。悟ってしまったのだ。己たちと、目の前にいる無慈悲な悪魔との間には、一生かかっても埋められない圧倒的な力の差がある事を。

「……その窓の向こうに、侵入しようとしていたんだよな?」

いっそ無邪気ともとれる様な笑顔を、悪魔は浮かべた。問いかけられたその言葉は、すでにほぼ確信しているようなもの。肯定しか返事を許さないその眼は……笑っていなかった。

「俺のもんに触れようとした罪……地獄で償ってもらおうか」

パキ、と悪魔が指を鳴らした瞬間。町の一角には一瞬だけ業火が月夜の空を染め、命乞いをする無様な悲鳴をその命ごと飲み込み、そして消えた。


「はあー、よっわ。剣出すまでも無かったじゃん。結局数だけだったかあ」

チリチリとあたりの草木が微かに熱を持つ中心に浮かぶ悪魔、おそ松が溜息を吐く。迷惑そうに木陰からこちらを窺う梟の目玉に「騒がしくしてごめんなー」と軽く手を振り、視線を静かに佇む宿へと向けた。ここからでも良く分かる、健やかな寝息を感じ取って、自然と口元には笑みが浮かんでいた。
まったく、町中だからって無防備に寝こけちゃって。同じ人間相手だからこそ用心する事はしておかないと、命がいくつあっても足りやしないのに。

「……ま、お前はそのままでいいんだよカラ松。こうやって俺が傍にいるんだから」

けぷ、と炎の名残を月に向かって吐き出してから、尻尾をゆらゆら揺らしておそ松はご機嫌に空を飛ぶ。向かうのはもちろん、愛しい騎士様の眠る枕元。早く寝なければ、明日の朝いつも通りに起こしてやれなくなってしまう。体に行き渡る魔力をぎゅっと抑え込んで、体を縮める準備をしながらおそ松は窓から部屋の中を覗き込んだ。外でいくつかの命が悪魔に刈り取られた事など露ほども知らない寝顔がそこにあった。悪魔であるおそ松を傍に置いて、全身で愛してくれる唯一無二の存在。穏やかに眠るカラ松を見下ろすその表情は、炎で全てを焼き尽くす悪魔とは程遠い慈愛に溢れた笑みだった。

「大丈夫だよ、カラ松」

小さな小さなおそ松に戻る一瞬前に、悪魔は騎士に「おまじない」を落とす。
故郷を失くした哀れな子が悪夢に苛まれませんように。
この幸福に満ちる復讐の旅が、まだもう少し続きますように。

あの日見た仇の悪魔が誰よりも傍で共に笑い合っている事に、どうかいつまでも気づきませんように。


「あの時から、これからも、ずっとずっと。お前は俺が守るから」






16/05/17



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