三男は見た





チョロ松はその日、平日の昼間だというのに自宅の居間でタオルケットを腹に乗せ惰眠を貪っていた。ニートとはいえ、あまり不規則な生活を送っていては本当にクズ人間になってしまうからと、他の兄弟はともかくチョロ松は滅多にこうして真昼間から無駄にゴロゴロしたりはしない。いつもなら求人情報誌を捲ったりハロワに出かけたりしているはずの時間に、今日はどうしてぐーすか眠っているのかと言うと、何てことは無い。昨日は敬愛するアイドル「ニャーちゃん」の限定ライブがあった日で、素晴らしいライブが終わった後もオタク仲間とファミレスで長い間語り合い、帰ってきてからも興奮でなかなか眠れなかったせいだ。朝は何とか皆と一緒に起きて朝飯をかき込んだが、その後から今までこうして居間の隅で丸くなっていたのである。本当なら布団に戻って寝直したかった所なのだが、母親がさっさと布団を干してしまったために仕方なく、ここで昨日の余韻に浸りながらゴロゴロしている所なのだった。

「じゃ、いってきます」

ぼそぼそとしたすぐ下の弟の声が、それでもしっかりと耳に入ってきたおかげで、チョロ松はふと目を覚ました。まだまだ眠気を訴える重い頭を持て余しながら天井を見上げる。視界の端では、いつもの紫色のパーカーを着た一松が居間から玄関へと出ていく姿がちょうど見えた。

「ええー、ほんとにいっちゃうのかよ一松ぅー!お兄ちゃんをかまえよぉー!」

後を追うようにうっとおしい声が聞こえて、眠り被りながらチョロ松はイラッとした。声の主など姿を見ないでもわかる、そもそもこの六つ子の兄弟の中で、自分の事をお兄ちゃんなどと呼ぶのは一人しかいないのだから。大方この声の調子のまま長男に絡まれた四男が、逃げるように外出する所なのだろう。僅かに頭を動かせば、畳の上に転がったまま大袈裟な動きで腕を伸ばす赤色のパーカーが見えた。やっぱりな。
一松はしつこく声をかける一番上の兄を振り返らずにビニール袋を手に家を出ていった。あの中身はきっと猫缶だろう。昼飯時かな、と時計に目をやれば、予想通り12時より少し前を指していた。確認して大きく欠伸をしたチョロ松は、しかし起き上がる事はせずに再びタオルケットを深く被って眠りの体勢を取る。普段ならここで飯を調達するために起き上がっていただろう。しかし今は、まだまだ眠り足りない。昨日のステージ上で輝かんばかりに新曲を歌い上げていたニャーちゃんの姿を思い出しながら、幸せな気持ちで微睡んでいたかった。

「くうっ薄情者め、お兄様がこんなに退屈してるんだからかまってくれたっていいだろー!」
「おそ松兄さんうるさい。十四松兄さん、代わりにかまってあげてよ」
「おう!おそ松兄さーん、ドゥーン!!」
「ぐっほっ?!おま、やめ、十四松、くるしっ」

薄目を開けた視界の中で、じたばたと駄々をこねる成人男性の腹の上に、同じ大きさの成人男性の身体が勢いよくダイブしている。本気で苦しそうな声がするが、誰も見向きもしない。ちゃぶ台に肘をついてスマホを操るトド松も、その向かいで何やら熱心に雑誌を読んでるカラ松も、隅っこでこうして転がっているチョロ松も、わほーいと楽しそうに暴れる十四松とそれに巻き込まれるおそ松の事を、何事も無かったかのようにスルーしていた。お前ら助けろーと聞こえてくる声も当たり前のようにさらっとスルーするのが、松野家の六つ子の日常である。
兄に兄をけしかけた張本人の末っ子は、夢中に操作していたスマホから顔を上げて正面のカラ松を見た。

「カラ松兄さん、雑誌なんて読んでるの珍しいね。一体どんな……いや、いい、やっぱりいい」

覗き込みかけて、すぐにトド松はうんざりした顔で座り直す。薄目で見ていただけのチョロ松にも、トド松が何故そんな反応をしたのか分かるような気がした。ふっと笑ったカラ松が、わざわざ雑誌を見せびらかすように掲げた事で確信する。ああ、あれはガイアが俺に囁いてくるタイプの痛々しい雑誌だ。

「この俺のバイブルだ……どうだ、一緒に読んでカラ松流コーディネートを極めないか」
「あ、ごめん、生理的に無理」
「せっ?!」
「さーてと、僕も約束があるし、そろそろ出かけよっと」

軽く、そして固く兄を拒絶したトド松が立ち上がる。パーカーや作業着ではなくお出かけ用の服を着ていたのは約束があったかららしい。傍に置いてあった鞄と帽子を手に取ると、ショックを受けてちゃぶ台に突っ伏すカラ松の事など気にもかけずに玄関へと歩いて行く。

「おいトド松、もしかしてまた女の子とデートかよ!俺にも紹介しろ!」

いつの間にか十四松と一緒に転がって漫画を読んでいたおそ松がまた絡み始めた。じっとりと半目で振り返ってきたトド松が溜息を吐く。

「今日は女友達とショッピングするだけだから。それに、ニートの兄弟なんて紹介できるわけないでしょ」
「おま、自分の事は棚に上げて……!いいじゃねえかよー、俺だって可愛い子とお知り合いになりたいー!」
「はいはい、今度ねー」

図体のでかい駄々っ子を適当にあしらって、トド松もあっさり出かけて行った。さすがに慣れてるなあと感心しながら、チョロ松もいい加減目を閉じる。どうやら今まで全員家にいたらしい六つ子も、数が減れば静かになっていくだろう。もう一回眠ろうとしていたチョロ松の耳に、ぐえ、と誰かの潰されたような声が聞こえた。多分、いってらっしゃーいと伸びた袖を大きく振って見送った十四松が、隣に寝転ぶおそ松に再び覆い被さったのだろう。

「おそ松兄さん、野球!暇なら野球しよ!」
「えー野球ぅー?今俺そんな気分じゃないのよ、悪いな」
「えええー」

片目を開ければ、うつ伏せで漫画を開いたおそ松の上に十四松が容赦なく重なっているのが見えた。暇なら野球してやればいいのにと思いながら再び閉じる。どうせ自分たちは六人揃ってニートだ、余程の事が無い限り予定なんて埋まっていないだろうに。この間はバッドやグローブを手に持って二人で意気揚々と出掛けていたから、本当に気分の問題なのだろう。やきゅうーやきゅうーと十四松は未練がましそうに連呼している。

「それならチョロ松を誘えよ、ほら、あそこで虫みたいに転がってんじゃん」
「だってチョロ松兄さん、今日は絶対に起こすなって昨日言ってたから」
「ちぇー、要領良いやつ」

槍玉にあげられてギクリとするが、十四松は昨日言い聞かせた事を忠実に守ってくれているらしい。というか虫ってなんだ長男、失礼な。少々ムカついたが、向こうはチョロ松をまだ完全に眠っているものだと思っているようなので我慢した。下手に起きれば暇を持て余した兄弟たちの遊び道具にされてしまう。不自然に思われないような動きで、そっとタオルケットを被り直した。
目を閉ざしても耳にはいくらでも部屋の中の声が届く。十四松は今度はカラ松へとくっついているようだ。

「カラ松兄さん!野球しよ!」
「ブラザー、昨日あれだけ情熱的にボールを投げ合ったというのに、まだ足りないと言うのか」
「うん!カラ松兄さん、顔で10回ぐらいボール受け止めてたよね!すっげー!!」
「ま、まあ、この俺の実力をもってすればたやすい事だ……素人には危険だから十四松は真似するなよ」
「わかった!!」

そう言えば昨日、カラ松は十四松と出掛けて、顔を赤く腫らしておまけに鼻血まで出して帰って来ていたような気がする。前日に十四松の手加減無い球を顔面に何発も受けながら、今日は平然とした顔をしているのだからそのタフさを少しは誇ってもいい事なのかもしれない。その前に顔をもっとガードしとけよとつっこみたい心境ではあるが。
つっこみたい、というか弄りたいのはおそ松も同じだったらしい。にやにやとからかうように笑う声が聞こえてくる。

「昨日は随分と勇ましい顔つきになっていらしたものねー玄人なカラ松君は」
「に、兄さん……!ゴホン、そういう訳でだ、十四松。昨日俺とお前の運命を賭けたキャッチボールに全力を出したおかげで今日は休息日、というかなんというか」
「えーっ、そうなんだぁ」
「代わりと言っては何だが、これを共に読んで、お前にも尾崎の極意というものを教え」
「そんじゃー俺一人で野球いってきまーす!!」

カラ松の話を最後まで聞く事無く、どたどたと騒がしい足音が移動してあっという間に外へ飛び出していく。あ、という切なそうな次男の声は聞かなかった事にした。「一人で野球」という矛盾しかない言葉にも最早つっこみを入れる者は誰もいない。
こうしてあっという間に居間に残るのは三人だけとなった。すぐに、残ったお前がかまえーとおそ松がカラ松に絡みに行くか、それじゃあ兄さん見てくれと空気を読まずにカラ松がおそ松にウザい誘いをかけるか、何かしら騒がしい展開が来るだろうと予想していた空間は途端に静寂に包まれる。どちらが吐いたか分からないやれやれといったため息が聞こえたっきり、後はページをめくる断続的な音しか聞こえなくなった。静か、だった。
チョロ松は目を閉じたまま意外に思った。確かにカラ松は普段あまり積極的に喋る奴ではないが、おそ松まで一緒に黙りこくるとは思わなかった。さっきまであれだけ騒いでいたのに。しかも居間に満ちる空気は話題の無い気まずい冷えたものでも何でもなく、会話が無くても自然体でいられるような、そんな穏やかな時間が流れている気がするのだ。昼寝には最高の環境となったが、それ故にチョロ松は何だか馴染みが無くて落ち着けなかった。兄二人だけの空気というのは、こういうものだったのか。
実際にこの部屋にはおそ松とカラ松だけでなくチョロ松自身も存在しているが、完全に眠っているものと思われているのだから、この部屋の雰囲気は間違いなく二人だけのものだ。だってチョロ松は知らない。カラ松と二人の時も、おそ松と二人の時も、三人一緒にいる時も今まで生きてきた二十数年の間もちろん何回もあったが、今日のような感覚に陥ったのは初めての事だった。そりゃあ、長男と次男が二人だけの時どんな会話をしてどんな空気を作り出しているのかなんて、長男でも次男でもないチョロ松には分かりっこなど無かったのだ。

「一松がさあ」

内心戸惑っていたチョロ松の耳にその時、前触れもなくおそ松ののんびりとした声が入り込んだ。まるで今の今までその事について話していましたといったような気軽な調子だった。

「新しい猫のたまり場見つけたみたいなんだよね」
「ああ、だから今日は缶詰の量が増えていたのか。どこだ?」
「お前知ってる?駅前のパチンコ屋から右にいった先にあるコンビニの路地。あの辺り」

唐突に話しかけられても、カラ松はごく普通に受け答えしている。おそ松の言葉を聞いて、少しだけ考えるような間があった。

「……最近、ガラの悪いのがうろついてる辺りか」
「そ、そ。昨日たまたま鉢合わせたから、一松本人にも軽く言ってはおいたんだけどな」
「そうか。なら大丈夫だろうが……しばらく俺も気にかけておく」
「ん、頼むな」

再び訪れる無言の時間。その雰囲気はやっぱりほっこりとした居心地のいいもの。しかしチョロ松にとっては、あれだけ苛まれていた眠気がぶっ飛んでしまうほどの違和感が伴うものだった。目を必死に瞑りながら、チョロ松はこっそり震えた。
今の何。今の何か、慈愛に満ちるような声と会話は何。あんたらそんな、弟を心配するようなキャラだったっけ。百万歩譲っておそ松兄さんはともかく、カラ松お前、いつもなら「大事なブラザーのためにこの俺のファイナル奥義の封印を解く日が来たか……」とか何とか訳の分からない痛い事を言ってかっこつける場面じゃなかったか。何だ今の受け答えは、お前は兄さんか。そういや兄さんだった。
怒涛の勢いでつらつらと考え込みながら、思わずそっと薄目を開けた。見えた居間の景色は、先ほどとは少しだけ変化している。ちゃぶ台で雑誌を読むカラ松の位置は変わっていないが、ゴロゴロと寝転がって漫画を読んでいたおそ松の位置が変わっていた。いつの間にかぴったりと、カラ松の背中に寄り掛かってだらけていたのだった。
……何故!

「なあカラ松ぅ、その雑誌面白い?」
「ああ。読むか?」
「いやー、趣味が丸っきり合わねえしなあ」

ずるりと寄り掛かった背中からずり落ちたおそ松が、ぐりぐりと後頭部を押し付ける。ちょうど脇腹あたりだったのでくすぐったかったのか、雑誌のページをめくりながらカラ松は身動ぎして背中からの攻撃から逃れようとした。青い背中から外れた頭は、しかし諦める事無く移動して「とうっ」と胡坐をかいた膝の上に着地する。しつこくちょっかいを出されたカラ松が、雑誌から顔を上げて呆れたようにおそ松を見下ろした。

「おそ松」
「いーじゃん、膝ぐらい貸せよ」

悪気など一切ない笑顔でそうのたまったおそ松は、ちょうど落ち着いたのかそのまま漫画を読み始めた。やれやれと溜息を吐いたカラ松は、膝の上の額をぺちんと軽くはたいた後、退かす事無く再び雑誌を読み始める。その口元は薄く笑みを浮かべていて、叱るように呼んだ名前も柔らかく響いた事から別に気分を害している訳では無かった事は丸わかりだ。受け入れられる事を微塵も疑っていない様子のおそ松も、笑顔でそのまま体重を預け続ける。二人の間には穏やかな時間が流れていた。
……それを傍から目撃してしまったチョロ松の心中は、まったく穏やかではない。

(いやいやいやいや、明らかにおかしいでしょ!何この空気!今まで見た事ないんですけど!おそ松兄さんは普段からどうしようもない甘えただけどカラ松!あいつの空気何!いつもの痛々しいお前はどこいった!さっきから何兄っぽい顔してんの、相手はあの長男だよ!兄の前で兄の顔が出るって何!どういう事!呼び捨てだったし!今呼び捨てだったし!!ついさっきは兄さんとか言ってたくせに!何これ!!!)

声を上げて叫びたい衝動を必死に堪えるチョロ松の目の前で、カラ松がとうとう雑誌を閉じた。時計をちらと見上げて、己のお腹を擦る。

「お昼か。腹が減ったな」
「そーだなー」
「冷蔵庫には確か、玉ねぎや人参が入っていたな。炊飯器にはご飯も何合か残っていたはずだ」
「へー」
「チャーハンとかを作るにはちょうどいいな」
「そーねー」
「チャーハンが食べたい」
「作ればー?」
「きっと、二人ぐらいで作ればすぐに出来立てのチャーハンが食べられるだろう」
「ふーん」
「ああ、早く食べたいな。二人で作れば楽なんだがな」
「………」
「二人で、」
「っあーもー分かったって!回りくどく主張すんな!」

痺れを切らしたおそ松がガバッと起き上がる。カラ松も嬉しそうに笑いながら立ち上がった。

「やった」
「カラ松、お前ね、作って欲しかったらはっきり言えよ、甘え下手か」
「おそ松の味付けが好きなんだ。俺も何か手伝うから」
「あ。それならスープ的なもん作ってくれよ。ワカメ入った奴とか、よく一緒に出てくるだろ」
「わかめスープか、いいな」
「卵、卵もー」
「はいはい」

おそ松がカラ松の肩を抱いて、カラ松がおそ松の頭にぽんと触れ、昼飯の話をしながら並んで居間から出ていく。しんと静まり返る、とうとうチョロ松一人となった居間。畳の上に転がったまま、チョロ松の忙しない思考は止まる事が無かった。

(だから何でそんな和気藹々としてんだよ、良く考えたらやっぱりおそ松兄さんもいつもと何か違う気がする!何だろう、何が違……あっそうだ、お兄ちゃんとか言ってない!あいつ普段はお願い事ある時とかかまって欲しい時なんかしつこいぐらい自分の事お兄ちゃんとか言って弟共かまえーってしてくんのに、今はそれがない!何で!あのぐーたらが下手くそなおねだりで昼飯作るって!しかもおねだり返しって!結果仲良く一緒に台所って!何これ!!!!)

一人色んな衝撃と衝動でプルプル震えていると、台所から響いてくる声が自然と届いてくる。これ使えるかな、とか、もうちょっとそっちいけ、とか、笑い声交じりのやりとりは聞いているだけで大変楽しげで。限界だった。
何であいつら、他の兄弟たちといる時とまったく違う顔してんの!?
ガバッと起き上がったチョロ松は、その勢いのまま居間を駆け、台所に飛び込んで大声を上げた。

「くぉらあぁ長男次男!!その、いつもと違いすぎる態度の理由を、しっかりじっくり教えやがれぇ!!」

突然乱入してきたチョロ松の姿に、冷蔵庫を覗いていたおそ松も鍋を手にしていたカラ松も驚いた顔で見つめてくる。何度か瞬きを繰り返した後、互いにぽかんとした顔を見合わせた、と思ったら。次に振り返ってきた時すでに、そこにはいつもの「長男」と「次男」しかいなかった。

「びっくりするじゃねえかチョロ松、そういやお前もいたんだったなあ。なに、お前もこのお兄ちゃんお手製のチャーハン食いたいの?ん?可愛いやつめ!」
「ふっ、そんなに慌てなくても俺はどこにも逃げやしないぜ。お前のために至高の腕を振ってやろう」
「違う!!!」
「「えっ」」

弟に激しく拒絶されて、おそ松もカラ松も戸惑った声を上げる。チョロ松は頭を抱えて膝をつき、あっという間にいつもの調子に戻ってしまった二人を嘆いた。

「俺が知りたいのは違う兄さんたちなんだよおお!!」

どれだけチョロ松が叫んでも、どうやら無自覚らしい長男と次男は首を傾げるばかり。知ってしまった兄二人だけの心地よい空気は、少し遅れて食べたチャーハンとスープの昼食と共に、とりあえずは一人飲み込むしかなかったのである。





15/12/17



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