通りすがりのメイドに雑用を押し付けられ、重い荷物を抱え廊下を歩いている時、離れの部屋から子どもの泣き声が響いてきた。ああ、まただ。俺のご主人様が何かヘソを曲げて泣いてらっしゃる。俺は急いで荷物を運び終え、(本当はあまり走っちゃいけないんだけど)廊下を中庭を駆け抜けて件の部屋へと向かった。その部屋は俺にとって馴染みの深い部屋。その真ん中に置かれたベッド、の下で地べたに座り込んで赤い髪の子どもが泣いている。誘拐され記憶を失い赤子同然となってしまったルーク・フォン・ファブレ。ぶっちゃけ昔の俺。
俺は何の因果か、己が消えたと思った瞬間過去のここに立っていて、生まれたばかりの俺に何故か懐かれ、さらに何故だか使用人になっていた。不思議だ。多分ローレライのせいだ(それしかない)。なので、俺は毎日一回は空を、ローレライを睨む事にしている。まあ、この世界のローレライはまだ空にいないんだけど。
そんなこと考えてる場合じゃない。俺は小さな俺、ルークに近づいた。多分ベッドから転がり落ちたんだろうな。ルークはまだ喋れないから真相は分からないけど。
「ルーク、ルーク、大丈夫か」
「うー、うあーっ」
言葉にも満たない声を上げてルークが両手をまっすぐ俺へと伸ばしてきた。人というものは、「信じる」心というものを持って生まれてくるらしい事を俺はルークを通じて知る事ができた。それほどこの俺へと伸ばされた手は、俺を信頼しきっている。俺はその真っ直ぐ信じる両手を取って、ルークの体を抱え上げた。10歳の子どもにしては驚くほど軽い。
「ベッドから落ちたのか?びっくりしたんだろ。怪我はないか?」
「ううーっ」
背中を優しく叩いてやると、ルークは目に涙をためながらもようやく泣き止んだ。怪我はないはず。ベッドから落ちても大丈夫なように下にはふかふかの絨毯が敷いてあるのだ。それでも一応何も無いか、ルークの体を触って確かめる。痛がる素振りも見せないから、大丈夫のようだ。俺はルークをベッドの上へ降ろしてやった。
「あんまり転がるなって。このベッド普通のより大きいけど、10歳の体には別に大きくないんだからな」
俺は返事が返ってこない事を知りながらもルークに話しかける。少しでも早く言葉を覚えてくれたらいいと思って。今の所まだ成果は、見られないけど。
ルークはうーとかあーとか言いながら再びベッドの上で転がり始めた。俺の言葉少しも分かってねーし。もういっそ、毛布を床に敷いてそこで寝かせようか、と近頃よく考えている。でも仮にも公爵子息を床で寝させている現場を見られでもしたら俺の首は確実に飛んでしまうので、まだ実行したことは無い。この部屋に訪れる者がほとんどいないと知っていても。ま、用心だ。
なおも転がるルークを見下ろして、俺は深くため息をついてベッドの端に腰を下ろした。何が悲しくて自分の世話をしなければならないのだろうか。いや、自分で自分の面倒を見るってとても大切な事だと思うけど、でもこれは違うだろ?俺が間違ってる?ますますため息は重くなるばかりだ。
大体俺は何でここにいるんだろう。俺は生きているといってもいいのだろうか。だって俺は音素乖離で消えて死ぬはずだったんだ。それがローレライを解放したと同時に実際に起こって、俺は消えたはずだった。でも俺はここにいる。ここに立ってここで息をしここで働きここで生きている。どうしようもなくて成り行きで使用人なんてやってるけど、俺は俺がこれから何をすればいいのか分からない。絶望的だった。何度呼びかけても答えないローレライが悪い。答えが見つからないまま、俺はここにいる。
ふと、腰掛けた俺の背中にぬくもりを感じた。振り返ってみるとそこにはルークがいた。俺の背中にしがみついて、俺を見上げている。その濁りの無い純粋で真っ直ぐな瞳にただただ俺は心を打たれた。昔の俺もこんな瞳をしていたというのか。こんな、こんな綺麗な瞳を、俺が。
「あーう、むうー」
小さな手が俺へと伸ばされる。振り返った俺の頬にその手は触れた。その手のあまりの温かさに俺は驚く。体が温かい何かに縛り付けられているかのように動かせない。その間に、ルークは俺の体を支えにして体を起こし、俺の目線に合わせてきた。そしてペタペタと躊躇い無く俺に触れながら、言った。
「うー、っく」
それは言葉のようだった。ルークはまだ今まで喋った事が無い。俺は聞き逃さぬようじっとルークの顔を見つめた。ルークも俺を見つめてきていた。
「うーく」
俺は目を見開いた。ルークが何を言おうとしているのか、分かってしまった。
「る、く。るーく」
ああ喋った。ルークが喋った。ルークが「るーく」と喋った!俺は溢れる嬉しさを抑えきれずにルークの肩を掴んだ。そして嬉々としてその顔を覗き込む。
「ルーク!お前喋ったな今!生まれて初めて!自分の名前を!」
「んやーっ!」
するとルークは何故だか嫌がるように身を捩ってきたので俺は首をかしげた。ルークは褒めれば素直に喜ぶ。こんな風に嫌がったりなんてしない。しかもその仕草が別に照れ隠しでもなんでもなく本気で何かを嫌がっているような感じだったので俺は困惑した。ルークは俺の手から逃れると、俺をじっと見つめて叫ぶように言った。
「るーく!」
そのまま飛び掛ってきた体を抱きとめながら、ようやく気がつく。ルークは俺を呼んでいたのだ。「るーく」と、俺を呼んでくれたのだ。ルークの目の前で「ルーク」だと名乗った事なんて無いのに(それどころかこの世界で「ルーク」を名乗った事も無いのに)ルークはその真っ直ぐな目で俺を見つめながら「るーく」と呼んだ。
どうして。どうして。どうしてルークは知っているのだろう。どうしてルークは気付いたのだろう。
ルークは喋れないので真相は分からない。まだ「るーく」としか喋れないので分からない。それでもルークは笑う。満面の笑顔で、俺に微笑みかける。「るーく」と俺を呼ぶ。
俺はたまらずルークを抱きしめた。その小さな体は温かかった。耳元でルークの楽しそうな笑い声が響く。俺も笑おうとした。笑えなかった。引きつった喉が俺の笑いの邪魔をする。そのせいで目の奥に溢れてくるものをとめることも出来なかった。
俺は許された。存在する事を許された。目の前にいる、俺自身によって。
「……ルーク」
「るーく!」
俺は今、「ルーク」は今、ここにいる。互いに自分自身を抱きしめながら。
深愛なる
07/01/24
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