1204.11.28
徐々に冬へと近づく星の空は静かだった。帝都へ向けて飛行するパンタグリュエルもまた、最低限の人員を残して寝静まっている。この内戦中に呑気なものだと思うが、貴族側が圧倒的有利な状況が覆る事が無い限り、この巨大な艦内も切羽詰まる事は無いだろう。そんないつもの夜だった。
甲板を足音ひとつ立てずに歩く人影があった。向かう先は奥に鎮座する巨大な蒼き騎士人形。主が近づいた事により、オルディーネの核が光る。何も言わずとも立ち上がった彼は、彼の起動者が乗り込むのを心得たとばかりに待っていた。足元までやってきた人影、クロウは、オルディーネに乗り込む手前で足を止めた。
「夜遊びに出るなんて、いけない子ね。クロウ」
タイミングを見計らったように掛けられる声。咎める様な言葉であったが、その聞き慣れた声にはからかいが存分に含まれていて、クロウは溜息を吐いて背後を振り返る。
「別に遊びに出るんじゃねえよ。ただの散歩だ」
「そう?今日も戦場に出ていたのに、随分と元気だこと。若いってやっぱり良いわねえ」
すぐ後ろでくすくすと笑っていたのはクロチルダだった。闇の中から現れたとしか思えない程の突拍子もない登場に、しかし慣れきっているクロウは肩を竦めるだけだ。
「若さを羨むにはまだ一応早いだろ、魔女殿」
「うふふ、一応は余計ね」
「はいはい悪かったって。それじゃあ、」
「どこへ行くの?」
間髪入れずに柔らかく尋ねられるそれは、しかし下手な言い訳は許さない圧力が込められている。クロウが気まずい思いをしていると、涼しげに笑っていたクロチルダはぱたぱたと手を振った。
「別に夜遊びを止めようと思って来た訳じゃないのよ。出会ったばかりの頃のあなたと違ってもう自己管理もちゃんと出来るようになったし。それでもお姉さんとしては、小言を言いたくなるぐらい心配しているだけって事」
わざとらしく茶目っ気たっぷりに笑ってみせる年上の魔女。その瞳は言葉通りの茶化したものではない。彼女が自分の事を存外気に入っていて、何かと世話を焼こうとしてくれているのは良く分かっていた。少し照れくさくなって、クロウは頬を掻く。
「その、姉貴面すんのはやめろって。そもそも遊びに行くんじゃねえって言っただろ」
「それじゃあ本当に散歩?伝説の騎神で空のお散歩だなんて、贅沢ね。最近ハマっているのかしら」
「あー、まあそんなもんだ」
ここ最近こうして夜に人知れず抜け出しているのもバレているらしい。まったく気づかれていないとはさすがに思ってはいなかったが。何しろ彼女は神出鬼没で、いつどこでこちらを見ているのか分かったものじゃない。それでも今まではまだ、何とか煙に巻けていたはずだ。今日はとうとう尻尾を掴まれてしまった訳だ。
しかしクロチルダに本気でクロウを止めようとする意志は無いように思える。ただ純粋に、何をしに出ているのか気になっているようだ。クロウは視線をずらして、誤魔化すように空を見た。
「ま、強いて言うなら……癒されに行っているというか」
「癒されに?」
「それとまあ、とある確認に、な。今日で最後のつもりだし、そんなに時間もかからねえよ。今夜だけ見逃してくれや」
「あら、あなたにそんなお願いされるなんて、珍しいわね」
興味津々に輝く瞳を向けてくるクロチルダだったが、これ以上踏み込んでくる気配はない。クロチルダに身体を向けたまま一歩下がったクロウは、感謝するようにぴっと、片手を上げた。
「そういう事で、頼んだぜヴィータ」
おまけとばかりにウインクした体が光に包まれ、騎神へと吸い込まれていく。オルディーネはクロウが乗り込んだすぐにその場から飛び立った。あっという間に遠ざかる蒼い機体を、クロチルダは一歩も動かずにただ見送った。困ったように眉を寄せたその口元には、ゆるく笑みが浮かんでいる。
「まったく、しょうがない子。一体どこに逢引しにいっているのかしら」
探そうと思えば、追おうと思えば今からでも出来る。しかしあえてそのままクロウを逃がした彼女は、手のかかる弟を見守る姉のような顔をしていた。
オルディーネを森の中に隠してから歩みを進めるクロウが今いるのは、切り立った岩肌が天へと続く険しい土地、アイゼンガルド連峰の一角だった。慣れた足取りで真っ直ぐどこかへと進む道中にはなかなか凶暴な魔物も徘徊しているのだが、それらをダブルセイバーで次々に片づけていく。こちらの姿を見つけた途端逃げ出すような弱いものは放っておいた。襲い掛かってくる手ごわい魔物だけを排除し、危険を取り除いていく。その手には一つの荷物が握られていた。数日おきにこの土地に通いながら、あちこちに散らばって落ちていたものを拾い集めた袋だった。全てをかき集める事は出来なかったが、これだけ揃っていれば十分だろうと考える。その少々の荷物を、クロウはおもむろに道の端へ置いた。魔物に持って行かれないように隅の方へ、しかしこの道を歩いていればおのずと見つかるような絶妙な場所へ。うん、と満足げに頷いた後は、目的地へ向かうだけだ。
クロウが徒歩で訪れたのは、固い岩の上にクレーターが作られた場所だ。真ん中には明らかにこの荒涼とした光景に似つかわしくない巨大な物体が、星の光が瞬く中鈍い光を放って鎮座している。この場所に来るのはほとんどこんな夜の時間だったが、クロウはその機体が灰の色を持っている事を知っていた。オルディーネと同じ古より伝わる騎神、ヴァリマール。片膝をついて沈黙する彼に、クロウは音も無く近づく。
発見できたのは、今日からおよそ二週間ほど前。それからずっとクロウは、こうして定期的に様子を見に来ていた。何もしない。ただ本当に様子を見るだけだ。こちらに敵意が無い事が分かっているのか、ヴァリマールが起きた事は一度も無い。その中に眠る傷ついた起動者の修復に精一杯なだけかもしれないが。
「……よお」
返事が無い事を分かっていながら声を掛け、機体に触れる。もちろん温度は感じない。それなのにクロウは、中から響く鼓動の音が届いてくるような気がしていた。起動者同士の繋がりなのか分からないが、確かに感じる。身体を丸めて、傷ついた精神と心を癒すためにただひたすらこんこんと眠る、あの後輩の息遣いを。
だからこそクロウには分かる。この眠り姫の目覚めの時が、もうすぐそこまで来ている事が。
「明日、か」
手を添えたまま額を硬質な騎神の身体にくっつけ、瞳を閉じる。そうすればより近くにその存在を感じた。息を吸って吐く音まで聞こえてくるようだった。
この手にぬくもりさえ、感じるような。
「今日が、最後だ」
癒されに行くとクロチルダに言った言葉は嘘ではない。ここに来れば落ち着いた。この鼓動を感じるたびに安心する。静かに息づく存在に救われる。戦いの連続に疲労した魂が、同じ起動者の魂に惹かれあうように、連日訪れてしまっていた。……しかしそれも、今日で終わりだ。
体を離し、ヴァリマールを見上げるクロウ。はっと吐く息は白い。星空の下、その瞳に乗せる想いはどれほどのものか。
最後だ。自分に言い聞かせるように呟いたクロウは、まるで別れを口にするかのようにその言葉を吐いた。
「おはよう、リィン」
次にこの目でその姿を見る時こそ、俺とお前は敵同士だ。
14/12/03
戻る