「にいに」





クロウは目の前の光景に頭を悩ませた。
前後左右上下、360度、どこを見回しても何もない真っ白で不可思議な空間の中に、いつの間にか立ち尽くしていた。今がいつでここがどこだかさっぱり分からない。そんな謎の状況に悩むのは当たり前の事だったが、クロウが今一番戸惑い悩んでいる事柄は別にあった。
他には何も存在しないこの空間には、クロウの他にもう一人別な人間がいた。首を痛めるんじゃないかと心配になるほどこちらを見上げたまま、じいっと強い視線を向けてきているほんの小さな生き物。推定三歳ほどの子供が、クロウと向かい合って立っていたのだ。
この子供が見知らぬ誰かなら、ただ単純に悩むことが出来た。しかし今クロウを複雑な心境で悩ませているのは、先ほどから一言も発さずこちらを見続けるその姿に覚えがありまくるせいだ。
ぴょんぴょん跳ねたくせっ毛の黒髪、どこか面影を残すふっくらとした頬、まあるい薄紫の瞳に、これだけは変わらない真っ直ぐで強い眼差し。残念ながらクロウには、この己の半分の身長もない子供に心当たりがあった。ありすぎた。
ああこいつ絶対リィンだわ。証拠も何もなく確信する。

「これは、夢か」

同時にこの不可思議な空間にも勝手に決着をつけた。夢ならば、全てが納得だ。だって何でもアリだ。たとえ景色も何もない空間に放り出されようが、後輩の年齢が縮まろうが、その子供と二人っきりだろうが、全てが夢だから、で片づけられる。後はこの夢が覚めて現実世界に戻るのを待つだけで良い。万々歳だ。
……もしこの夢が覚める事のない悪夢だったら、なんて縁起でもない事は考えないようにする。

「はあ、しかしそうだとしても、随分変な夢を見るな俺……そんなに疲れてたか?」

憂鬱な息を吐いて、今まであえて逸らしていた目を子供のリィンと合わせてみた。ずっとこちらを一心不乱に見つめ続けていた視線が合えば、大きな目をさらに大きく見開いた後、リィンは。
にぱっと、満面の笑みでこう言った。

「にいに!」


………。


「……はっ!いや、違うからな?!」

鍛え抜かれた鋼の精神で辛うじて「こちら」へ戻って来れた魂で、何とか否定する。何だ今の笑顔は。何だ今の呼び方は。一瞬でこちらの精神を昇天させかけたこの破壊力は一体何なんだ。
決死の思いで首を横に振ったクロウだったが、小さなリィンはさっぱりわかっていないようで、こてんと首を傾げた後再び繰り返す。

「にいに?」
「……いやだから違うっつーの、俺はお前のにいにじゃねえって」

二撃目も何とか耐えた。というか何故クロウが「にいに」なのか。確かリィンには義理の妹はいても兄はいなかったはずだ。それがどこをどうしてこうなったのか。
好奇心旺盛な目でにこにことクロウを見つめるリィン。その笑顔に陰りは一切ない。もしかしたら本来のリィンは、捨てられる前の素直なリィンはこうしてどこまでも人懐っこい子供だったのかもしれない。そう思うと何だかたまらなくなり、警戒心のないそのふくふくした頬にそっと手を――

「ってこんな事してる場合じゃねえ!」

いつの間にか近づいてしゃがみ込んで小さなリィンに伸ばしていた手を勢いよくひっこめて、クロウは断腸の思いで立ち上がった。今この柔らかい生き物に触ったら戻って来れない気がする。色んな意味で。
何も見えない空間を見回してから、本当に何もないのか確かめるために適当な方角へ歩き出す。危険な子供の前から逃げ出したとも言う。どうせここにはクロウと小さなリィン以外誰も何もいないのだから、放っておいても危険は無いだろう。
そう、思っていたのだが。

「!!」

背後で息を飲む音。次に幼い声が、必死にクロウへ追い縋ってきた。

「にいに!まってぇ」

さっきまで笑っていたはずのその声が、途端に涙にぬれている。はっと思わず振り返って、クロウはリアルに「うわっ」と声を出して動きを止めていた。
ぷくぷくの小さな手を一生懸命にこちらへ伸ばし、今にも零れ落ちそうなほど涙を湛えて潤ませた瞳で、短い足を精一杯動かして駆けてくるリィン。トテトテと懸命にクロウへ追い縋ってきたもみじのような手の平が、止まっていた足に辿り着いてきゅっとしがみついてくる。

「にいにぃ」

心細いと訴えるようにスリ、と頬を押し付けて。涙で揺れていながらもぬくもりにくっついているおかげか、安堵するように呼ばれたその声に。
あっもう駄目だ、と思った。

「うおおおおおりゃあああああ!!」
「ひゃあっ?!」

足にしがみつく小さな体を両手で掴み、勢いよく持ち上げて、壊さないように力いっぱい抱きしめる。驚きに涙をひっこめたリィンは突然のクロウの行動にきょとんとしていたが、やがて嬉しそうに首元をギュッと抱き締め返してきた。こんな小さな子供の力では苦しくもなんともない。そんな非力な腕がこんなにもクロウを求め、しがみついてくる姿がただただ愛おしい。

「あーもーちくしょう!こんな姿のこいつと俺を二人きりにした奴はどこのどいつだ!もう離さねえし二度と返さねえぞ!ここが夢の世界だろうが現実に持って帰るぞコラ!いいのか、おい!」

その手にしっかりとリィンを抱っこしたままクロウはやけっぱちのように叫ぶ。温かい。抵抗する事無く全てを預けてくるこの子供は、クロウの体温に安心しきっている。至近距離で横顔を見つめてくるリィンに視線を合わせれば、にっこり微笑んだ後頬を摺り寄せてきた。

「えへへ、にいに!」

その瞬間クロウは、己の心が完全に降伏した音を聞いた。

ああ、はい。
もう君の「にいに」でいいです。





14/12/03


戻る