わんこ先輩とリィン君
雨と闇が全てを支配する夜の帰り道。
誰ともすれ違わず、帰り着いても一人暮らしの家には待つ者もいない現状に、まるで世界にたった一人きりで生きているような錯覚まで起こしかけた、そんな寂しがり屋の薄紫の瞳は、その日。
路地裏の片隅に落ちていた、大きな銀色の犬を拾った。
あの運命の日から、数日が経った。
夕飯の材料とその他諸々の品物を買い込んで、リィンは家路を急いでいた。今日は日が落ちる前に何とか帰り着けそうだ。今までは一人で暮らしていたために、こうして家に帰る足をあえて速めた事などなかった。帰りを待っている誰かのために駆け足になるのは、実家に住んでいた時以来だ。
僅かに息を乱しながら辿り着いたのは、馴染みの三階建てマンション。一階分だけ階段を登り、二階のすぐ手前の部屋がリィンの住まいだ。呼吸を整えるために軽く深呼吸をしてから鍵を取り出したリィンは、慣れた手つきで鍵穴に差し込み、ガチャリと回す。そうして塞がり気味だった腕を何とか伸ばして回そうとしたドアノブは、リィンが触れる前に回転し内側からドアが開けられた。あっけに取られる暇も無く、正面から大きくてあたたかい何かに全身を包まれる。
「わぷっ?!」
「おかえり、リィン」
耳元で甘く響いたその声に、うっかりこちらも呑気に挨拶を返そうとしてリィンはすぐに我に返った。
「ただいま……じゃない!外では抱きつかないようにって言っただろ……しかもこのタイミング、もしかしてずっと待ち構えていたのか?」
「いや?お前が帰ってくる気配がしたからちょうど今待ち伏せただけだぜ?こんな短期間で気配が分かっちまうなんて、やっぱ愛の成せる業って奴かねえ」
「馬鹿な事言ってないで離せってば、こういうスキンシップは部屋に入ってからだ、クロウ」
「ちぇっ、仕方ねえなー」
しぶしぶとリィンから離れたのは銀髪の青年だった。名残惜しそうな紅色の目に見つめられると何故だか全てを許してやりたくなるような心地さえするが、それでは駄目だと必死に思い直す。大体戻るべき部屋なんてここから一歩二歩進んだだけの先にあるのだから名残惜しむ事も何もないのだ。
リィンの手からさりげなくかつしっかりと買い物袋を奪い取った手は、口笛を吹きながら踵を返す。その際リィンの腕を、くすぐるように触れて離れていった銀色のふさふさ。彼の髪と同じ色の、夕日の光を浴びて一瞬輝く美しいそれが尻の所でご機嫌に揺れている。ああ触りたいな、と無意識に考えた自分の思考に溜息を吐いて、リィンも後に続いた。
この銀色の尾と、頭の上に機嫌よさそうにぴくぴく動く銀色の獣耳を持った彼こそが、先日リィンが道端に落ちていた所を拾った「捨て犬」であった。
自らをクロウと名乗ったその自称捨て犬は、あの時ひどい怪我をして路地裏の隅にうずくまっていた。今は綺麗にふさふさしている耳も尻尾も汚れてドロドロになっていて、物陰に隠れるように座り込んでいたクロウをその時リィンが見つけられたのは奇跡としか言いようがない。他に誰も通行人のいない夜、雨が降りしきる中、傘を差して視界が悪い中を真っ直ぐ我が家へと向かっていたはずなのに、ふと普段は目にもかけないような細い路地裏が、その日に限って妙に気になったのだ。思わず足を止めて、広げていた傘を閉じなければ入り込めないような隙間に何とか踏み入れ、光がほぼ届かない真っ暗闇の中を進んだ奥でようやく彼を見つけた。
どうしてあんな暗闇の中でうずくまるクロウを見つける事が出来たのか、リィン自身も不思議で仕方がない。しかし足音に気付いてゆるりと向けられたあの緋の目は確かに、何も見えない闇の中でリィンと正面から合わさった。そこから読み取れたのは、全てを拒絶し敵意をむき出しにした凶暴な光。それに、その奥底で傷つき打ちひしがれ、絶望に沈み弱り切った心だった。
気付けばリィンは、誰かも分からない青年に向かって手を差し伸べていた。
『……おいで』
信じられないものを見るような瞳で凝視されたまま、どれだけの時間そうしていただろう。そっと、震える手がリィンの手に重ねられた瞬間、この奇妙な一人と一匹?の暮らしが始まったのだ。
……あれから引きずるように家に連れて帰り、ずぶ濡れの体を温め、傷の手当てをし、栄養あるものを食べさせて寝かしつけた翌日には、今のようなべったりくっついてくる大型犬となっていた訳である。拾った当日はほとんど一言も発さなかったのにどういう事だろうか。クロウという名を聞いたのも、翌朝起き抜けに思いっ切り抱き締められてからの事だった。
あんな所でどうして傷だらけでいたのか、その理由だけは笑顔でかわされ答えてもらえなかったが、傷が治るまではとりあえずうちにいればいい、と言い出したのはリィンだった。その日からリィンの一人部屋には、包帯をあちこちに巻いた銀色の番犬が住み着いている。盗みに入られるようなものも特に無いのだが。
「なあ、肉は?今日の夕飯用の肉は?」
「今日は魚だ、そこに入ってるだろ?」
「はあ?!今日は俺が夕飯作ってやるって言っただろー何で肉じゃねえんだよー」
「昨日しょうが焼きだったんだから、バランス的に今日は魚の日だってその時一緒に言った……って、くっつくなってば、歩きにくい」
袋を無事にテーブルに置いて背後からぎゅっと抱きしめてくる腕をぺちんと叩く。犬とか名乗りながらクロウは随分と器用な男で、家事全般ならいともたやすくこなしてみせる。料理にいたってはリィンよりも上手に美味しく作ってくれることも多々あった。それが何となく悔しい。不満げな顔でちらりと振り返れば、文句を言っていたはずの顔は笑顔で尻尾を揺らしている。
ふと、体に巻きついた長い腕を見下ろす。痛々しく包帯が巻かれたままの姿は、しかし出会った当日に比べれば大分数が少なかった。きちんとクロウの傷が癒えてきている証だった。その事に安堵し嬉しく思っているのは確かなのに、一抹の寂しさまで覚えてしまっているのは気のせいだろうか。
「さっき、部屋ん中入ればどれだけ触ってもいいって言っただろーが」
そんなリィンの気も知らずに、クロウは後頭部に頬を押し付けぐりぐりしてくる。どれだけ触ってもいいとは言っていないが、そうやって伝えても無駄だろう。くすぐったい。そして暑い。何とか移動し、椅子に座って落ち着く頃には若干疲れていた。
「クロウ……どうしてそんなに俺にくっついてくるんだ」
「そりゃー俺がお前に懐いてるからだよ、犬らしく」
「いや、懐いてくれるのは嬉しいんだけど……度を越してないか?こうやって抱き着いてくる他にもたまに、舐めたり甘噛みしてきたりするじゃないか。い、犬っぽいと言えばそうなんだけどさ……」
犬だ、こいつは犬だと思い込めば確かに懐かれているが故の好意からくる行動だと辛うじて理解は出来るが、そうやってしてくる相手の顔がこれまた良いものだから心臓に悪い。垂れ気味の綺麗な赤が優しく細められて限界まで近づいてくるのにはいつまでたっても慣れないし、そのままふいに頬なんかを舐められたら飛び上がるほどびっくりするし、後ろに回って首元辺りをガジガジ軽く噛まれれば心臓が跳ね回って身体が熱くなってくるし……うん、やっぱり度を越してる気がする。
己の脳内で納得して頷いていたリィンは隙だらけで、いつの間にか椅子に座り込んだ正面に立つクロウに気付くのが遅れた。はた、と気付いた時には右手を取られ、ひざまづいていたクロウの口元に運ばれていた。
「当たり前だろ、言葉じゃ伝えきれない愛情表現って奴だ。何せお前は俺にとって、命の恩人であると同時に――」
手の甲に口付けを落とした後、ちらとリィンを見上げたクロウは、そのままぺろりと味見をするかのように舐めた。牙を覗かせた口がにやりと笑う。
「やっと出会えた、運命の人、だからな」
その瞬間。
ぞくりと感じたものは恐怖からの寒気だったのか。
それとも別な何かだったのか。
どちらにせよリィンは、頬を赤らめながら漠然と思ったのだった。
ああ、俺、このでっかい犬にいつか喰われるかもしれない、と。
14/12/03
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