耐えがたい結末を見た。誰も望んでいなかった、悲しすぎる結末を。
何もできなかった。この時ほど己の無力さを感じたことは無かった。常人とは違う特別な力を持っていても所詮はこの程度なのだと思い知らされる。自分とは桁違いに強い力を持ち、何でも出来ると思っていた姉ですら、悲しげに首を横に振るだけだった。
その時の光景を生涯忘れられる事はないだろう。到底受け入れる事が出来ない目の前の非情な現実にただただ言葉を失い、力の抜ける体を震える腕で支える事しか出来なかった男の子。その子の頭に優しく触れ、困ったように儚く微笑みながら慈愛に満ちた瞳を向けたもう一人の男の子。その腕が力尽きて地面に落ちる瞬間まで、ただ見ている事しかできなかった。涙を湛えた薄紫の瞳がその時感じた絶望など、自分が抱いたものとは比べ物にならないほどの大きさであることは見ているだけで分かった。分かっていたのに、何も出来なかった。
大きな運命の渦に巻き込まれ、翻弄されながらも真っ直ぐ想いの刃を撃ちつけ合った二人の道がその時、途絶えたのだ。
こんな悲しいだけの結末を、誰も望んでなどいなかったのに。
そうして次々と明らかになる、隠された真実。何が正しくて、何が間違っているのかも最早分からなくなる中、一つだけ確かな事がある。
眩いほどの輝きに満ちていた学院生活、その中で笑い合っていた二人の幸せな姿はもう、二度と見る事が出来ないのだ。
「エマさん……何かあったのですか?」
ドロテに気遣わしげな目を向けられて、エマは俯いた。ドロテが何を言いたいのかは分かっている。今二人は卒業文集を作るために毎日執筆活動中で、今日はちょうど書き上がったものをドロテに推敲してもらっている所だった。しかしエマは、そうやってドロテに自分の書いた小説を見せる前から、この物語では駄目だと分かっていた。
エマが想像していた通り、ドロテは原稿を手に困惑するように首を横に振る。
「あれだけ輝いていたはずのエマさんのパッションがこの文章からは伝わってきません。それどころか感情を全てそぎ落としたような平坦な文章で……まるで、無理矢理書いた、大切な何かを失くしてしまったようなお話じゃないですか」
「……やっぱり、分かりますよね」
膝の上に揃えていた拳をぎゅっと握りしめる。エマはこみ上げてくるものをこらえながら、震える声で打ち明けた。
「部長……もしかしたら私は、もう二度と物語が書けないかもしれません」
「えっ?」
「私は今まで、とある人たちに元気と力を貰いながらお話を書いてきました。部長に褒めて頂けるような文章を書けるようになったのは、その人たちのおかげなんです」
でも、と。呟いたエマの目からはとうとう涙が零れ落ちる。悔しくて、遣る瀬無くて、悲しくて、無理矢理楽しく幸せな話を書こうと思っても、どうしても出来なかった。およそ一ケ月前に見たあの喪失は、未だにエマの心に真新しい傷を作り続けている。それほどまでにショックで打ちのめされる出来事であったが、それ以上にエマの心を抉る姿を、ここ数日毎日のように目撃してしまうからだ。
約一ヶ月ぶりに帰ってきてくれた、Z組の大事な仲間。気丈に振舞うその人がふと見せる表情が。教室のもう誰も座らない一番後ろの席を見て、夕焼けの中一人佇む姿が。見つけてしまうたびにエマはたまらなくなる。この世界を呪いたくなる。どうしてあの人から、大事な人を奪ったのか。見た事もない女神に問い詰めたくなるのだ。
そんな気持ちで書く文章など、エマが書きたいものではない。
「その人たちが離れ離れになって、もう二度と会えなくなってしまったんです。残った男の子の、悲しそうな姿を見るだけで私、涙が止まらなくなって……上手く文章が、書けなくなってっ」
「エマさん……」
「思い知ったんです。私はあの人たちの幸せな姿を見て、その幸せをおすそ分けしてもらってお話を書いていたんだって。あの人たちが幸せでなければ、私はお話を書けない……書く意味が無いんです……!」
最初は認められなかったこの想いを、今ようやく認める事が出来る。エマに見ているだけで幸福を与えてくれた二人、未知の情熱とパワーを教えてくれた大事な人たち、そんなクラスメイトだった……リィンと、クロウ。二人が笑い合う姿を見てエマは、溢れてくる熱い想いを込めて物語を書けていたのだと。
一人残されたリィンのどこか虚ろな表情を思い出して、エマに更なる悲しみが訪れる。嗚咽を殺して泣き続けるエマの肩を支えたドロテは、痛ましげに優しく撫でてくれた。
「そうですか……悲しい思いをしましたね、エマさん。原作での最愛の推しカプの片割れが亡くなってしまうような展開は本当に、悲しいですよね……」
……どうやら何か紙上での物語の話だと勘違いしているドロテだったが、涙を零して悲しみに暮れるエマは気付けない。
「私も覚えがありますよ、その悲しみ……」
「えっ……、部長にも、そんな悲しい過去があったのですか……?」
「ええ。決戦に赴いた私の愛する男の子二人が、一人しか帰ってこなかったことがありました。あの時程運命を呪った事はありません……あんなに愛し合っていた二人が永遠に離されるなんて、私もしばらく何も手につかない状態になりましたよ」
「そんな……部長もそんな悲しい体験をされていたなんて……」
共に心を傷つけられた者同士、エマとドロテは視線を交わす。互いの間に二次元と三次元を隔てる高い壁がある事にはどちらも気づいていない。
「部長は強いですね……それでも物語を書き続けられるなんて。私は、駄目そうです……もう何も思い浮かばないんです。前みたいな熱に浮かされるほどの気持ちが蘇る事はきっともう、ありません……」
「エマさん……違いますよ。私も、とても弱い人間なんです」
「え……?」
エマが涙でぬれた瞳で見上げれば、ドロテは優しい笑顔で頷いた。
「あの時は私も今のエマさんのように、全てが受け入れられませんでした。しばらく自暴自棄になり、落ち込む毎日でしたが……ある日ふと、とある想いが私の中に溢れてきたんです。それは、例え現実で永遠に分たれたとしても……二人が一緒にいる事が大好きな、私の気持ちでした」
二人が、一緒にいる事。エマがはっと見つめる中、ドロテは力強く拳を握りしめる。その目には闘志が燃え上がっていた。
「そうなったらもう、止まりませんでした……!現実なんてどうでもいい、私がこの子たちを幸せにしてやるんだという熱意でいっぱいになりましたっ!今までたくさんの萌えをくれたあの子たちを、今度は私が幸せにする番だったんです!どんな手段を使っても構わない、あの子たちが幸せであれば何でもいい!!そのためならば世界だって書き換えてやると!そうやって誓ったんです!!」
「……っ!」
「現実なんてクソくらえ!原作がなんだ!乙女の妄想力を舐めんな!!!……はっ、当時の情熱を思い出して思わず鼻血が……落ち着いて私、すでに一度原作改変してハッピーエンドのお話を書いたじゃないですか、落ち着くのです私……!」
慌てて鼻を抑えてブツブツ呟き始めるドロテの、後半部分をエマはよく聞いていなかった。それほどまでに、与えられた言葉に衝撃を受けていた。
「……今度は、私が、幸せにする番……?」
何も出来なかった。何も出来ていない。そこで立ち止まってしまっていた。ただ見ているだけだった。
「どんな手段を使っても……」
胸に手を当てる。この身体に流れる血。魔女の力。普通の人には無い特別なもの。……もしかしたら。何か出来るのではないか。通常では考えられない、しかしエマならば出来るような、何かが。リィンとクロウの二人の幸せを願うエマだけが出来る事が。
「あの人たちが幸せであれば、何だっていい……」
いいや。
出来るか、出来ないか、ではない。
「そのためならば……世界だって、書き換えてみせる……!」
やらなければならないのだ。
二人が二人でいる事を愛したのは、エマなのだから。
「部長……ありがとうございます」
「エマさん?」
立ち上がったエマの様子が先ほどと違う気がして、ドロテが鼻にティッシュを詰めながら首をかしげる。エマはもう泣いてはいなかった。赤く腫らした目からはさっきまでの悲壮で弱弱しい光は消えている。代わりに映るのは……どこまでも真っ直ぐ前を見据える、強い意志であった。
「さっきの部長の言葉で、心を定める事が出来ました。本当に、ありがとうございます」
「い、いえいえ、大したことは別に……」
「それで私、やらなければいけない事が出来たんです。すみません……このお話の続きはきっと、私のやるべきことを終えたその時に、書かせて頂きます」
「え、あ、そっそうですか」
急にはきはきと話し出したエマにドロテが戸惑う。背筋を伸ばし、何かの決意に満ちるその姿に圧倒される。颯爽と部室から立ち去りかけたエマは、その前にもう一度だけ振り返った。
「部長」
「は、はい?」
「この、胸の内から次々と溢れてくる、愛しい気持ち……萌えとは、偉大なものですね」
にっこりと、慈母の様に微笑み。エマは歩き去っていった。残されたドロテはぽかんと部室の中立ちつくす。急な展開にようやく頭が追いついてきた頃、眼鏡を押し上げながらやや呆然と呟く。
「……エマさんが今抱く萌えは、果たして私の萌えと同じものなのでしょうか……」
上手く言葉で言えないが、何か、萌えに対しての覚悟が違う気がする。もちろんドロテだって生涯萌えに萌えて生きるつもりではあるが。エマのそれは本当に、全身全霊で立ち向かっているというか。その魂を燃やして、命の限り彼女の萌えのために生きているというか。とにかく、眩しかった。
最早誰もいないドアの向こうへ、ドロテは思わず敬礼した。その姿はさながら、世界を救うために旅立つ歴戦の勇者を見送る戦友のような、信頼と親愛が篭った清々しいものだった。
「エマさん……どこへ行くのか知りませんが、あなたの尊い萌えのために、頑張ってきてくださいね……!」
「セリーヌ」
「エマ?一体どうしたのよ」
「私、ヴィータ姉さんを探し出すわ、必ず……生涯をかけても」
「そ、それは分かってるけど……何かあった訳?あんた何か、鬼気迫ったものを感じるわよ」
「姉さんに教えてもらわなければならない事が出来たの。もし姉さんでも分からない事だったら……私一人ででも見つけ出すわ、何としても……!」
「う、うん……?それって一体、何なの……?」
「運命を捻じ曲げる魔法よ」
七耀暦1204年12月19日。
満天の星空が広がる雪里ユミル。白い息を吐き出しながらリィンは寒空の下一人で佇んでいた。物思いにふけるその薄紫の瞳が見つめるのは、輝く星々でも明かりを灯す家々でもなく、己の広げた掌の上だった。そこにたった一枚だけ乗せられた何かをじっと見つめ、やがてぽつりと呟く。
「……後は、お前だけだ」
その言葉はもちろん誰に伝えようと発したものでもなく、ただの独り言であった。しかしそれを拾い上げた何者かが静かに雪を踏みしめてリィンへと近づく。
「リィンさん」
「えっ?あ……委員長か」
突然呼ばれて慌てたように拳を隠すように握りしめ、振り返るリィン。気配に敏い彼がここまで油断していたのはおそらく、考え事に没頭していたせいだろう。宿から抜け出しリィンの隣に立ったエマは、にこりと微笑みかける。
「せっかく暖かい露天風呂に入った後に、こんな所で過ごしていたら湯冷めしてしまいますよ」
「ああ、すまない……ちょっと長く入りすぎた気がして、熱を冷まそうと少し外に出た所だったんだが……ぼーっとしている内に結構時間が経っていたんだな」
心配かけた事を謝るリィンにいいえと首を振ってから、エマはそっとリィンの手元を見る。何も言わずともリィンはエマの視線を察して、少々照れくさそうにこっそり、手の中のものを見せてくれた。
そこにあったのは……きっと事情を知らないものが見れば目を丸くし、何の特別性も見いだせないであろう、ちっぽけなただの50ミラ硬貨一枚。
具体的にどんなやり取りがあったのか、エマも詳しくは知らない。しかしこれだけは分かる。この硬貨が、リィンにとって何よりも意味があり、価値のあるアイテムなのだと。あのお調子者の、ここにはいない先輩との間をつなぐ、かけがえのないものなのだと。
「考えていたんだ。あいつ以外のZ組の皆とようやく再会できて……あとはあいつを、クロウを取り戻すだけだって」
「リィンさん……」
「きっとすごく困難な道のりになると思う。でも俺は諦めない……諦めたくないんだ。きっと追いついてみせる。あの背中を捕まえてみせる。そういう決意を今、一人でしていた所だったんだ」
照れたように笑うその顔は、どこか希望に満ち溢れている。その表情をエマはじっと見つめていた。リィンが次第に戸惑うほどただただ見つめ、やがてその手を取って持ち上げた。小さな硬貨を証のように握りしめたリィンの手を優しく両手で包み、エマは微笑む。
「リィンさん。大丈夫、きっと届きます。リィンさんならきっと……いいえ、必ず出来ます。私が保証します」
「委員長……?」
「安心してください。私、頑張りますから。もう二度とあなたにあんな顔をさせはしない。そのために私は、ここにいるんです」
エマの瞳には炎が灯っていた。並々ならぬ決意がそこにあった。リィンが戸惑うように首を傾げるが、エマはにこにこ微笑むだけで何も言わなかった。
そう、これは私の戦い。
私の身勝手な想いひとつで、世界の全てを書き換えようとしている。
それでも後悔はない。
目の前のこの人が、愛しい人と笑い合える未来を見られるならば。
そのために私は、過去へとやってきたのだから!
この時から、己に湧き上がる「萌え」のために時を越えたエマの戦いが、人知れず始まったのだった。
全ては彼女の、愛しい二人のために。
■パンタグリュエルでの救出劇後
移動するカレイジャスの中、慌ただしい船内の中で一人休息するリィンの元に、エマが静かに近づいた。怒涛の展開であったが、リィンの表情は明るい。きっとパンタグリュエルで悪くない出来事があったのだろう。
「リィンさん、大丈夫ですか?」
「委員長か。心配をかけてすまない、この通り大丈夫だよ」
「本当ですか?本当に、誰にも何もされていないんですね?」
「ああ」
脱出する際に戦闘は起こったが、それぐらいだ。そうやって笑顔で答えるリィンに、エマはもう一度だけ、念を押して尋ねる。
「あの、本当に何もなかったんですね……?その、クロウ先輩とも」
「クロウ……」
一瞬だけ言葉に詰まるリィン。しかし気を取り直して、素直に答えてくれた。
「クロウと二人で話はしたよ。あいつの過去の事も、色々聞いた。でもそれぐらいだ。最後は戦って俺の方が辛うじて勝ったし……何もなかったし、されてない」
「そう、ですか。それなら良かったです!」
「心配してくれてありがとう、委員長」
「いえいえ、そんな!」
ははは、うふふ、と和やかに笑い合うリィンとエマ。ふとエマがリィンから離れ、艦内の隅っこへ向かう。突然歩きはじめたエマを不思議に思ってリィンが見つめる中、エマは。
両手をつき、ガンッと音が鳴り響くほどその頭を一回、壁に打ち付けた。
「いっ?!委員長?!」
「ごめんなさい!リィンさん、本当にごめんなさい……!私は、私はっ……!」
「いや委員長、一体何に謝ってるんだ?!突然そんなっ」
「リィンさんが無事に何事もなく戻ってきたことを喜ぶべきなのに!それは仲間として当然の事なのに!私はっ……何も無かった事を残念にも思ってしまったんです!」
「へ?え、っと?それは、どういう……」
「特にクロウ先輩!二人きりでそんな深い話をしたにも係わらず何もしなかったなんて!がっかりとか残念とかそういう邪念をつい私は、私は……!ああこれが!これが目覚めた者の罪なんですね、ドロテ部長っ!」
「委員長、落ち着こう!とりあえず一回落ち着こう!な!」
事情は分からずとも必死にリィンに宥められ、エマが持ち直したのはしばらく経った後の事であった。
■カレイジャスにて移動中
カレイジャス二階、通路の横に供えられたテーブルとイスによって休憩所のようになっている場所に、たむろしているZ組の仲間たちを見つけてエマは歩み寄った。話しているのはアリサとミリアム、それにエリオットとユーシスだ。近づいて聞こえてきた会話を聞いてみるとどうやら、リィンとの再会時のそれぞれの様子について話をしていたらしい。
「でねー、アリサってば涙目でこうリィンにぎゅーって抱き着いちゃったんだよ!あれはアッツアツだったよねー」
「ほう?」
「も、もう!そんなにぎゅーっとなんて抱き着いてないわよ!ミリアム、あなたの方が勢いよく飛びついていたじゃない!」
「だってそれぐらい嬉しかったんだもーん。アリサも素直になりなよー、あれだけ嬉しそうだったじゃん!」
「そっそんな事……!」
「ま、まあまあ、二人とも落ち着いて」
赤面するアリサとからかうミリアムの話を聞いているだけで、どんな様子だったのかが手に取るようにわかる。エマは微笑ましそうにくすりと笑った。皆それぞれリィンの身を案じ、再会できる日を信じて待ち望んでいたのだ。それぞれさぞかし感動的な再会を果たしたのだろう。エマはほっこりした気持ちのまま、その脇を通り過ぎようとした。
エリオットが爆弾を落とす、その前までは。
「あはは、でもある意味リィンと一番熱い再会を果たしたのは最初だったマキアスじゃないかな。何でも、感極まったリィンに抱き締められちゃったらしいし」
「何?それは、」
バンッ
聞きとがめたユーシスが何か言うよりも先に、光の如き速さで四人の中央にあったテーブルをエマが両手で叩いていた。いきなりの迫力に全員が目を丸くする中、エマの静かな声が響く。
「エリオットさん……」
「は、はいぃっ?!」
「その話……詳しく話して聞かせてもらっても良いでしょうか」
何か委員長が怖い。声が静かな分余計に怖い。エリオットが思わず涙目になって口を開け閉めする中、ミリアムが場違いなほど明るい声を上げた。
「あ、噂をすればマキアスだ。おーい!」
「マキアスさん!」
「うわあっ?!い、いきなり何だエマ君?!」
偶然背後を通りかかったマキアスに、エマが瞬時に詰め寄る。今来たばかりのマキアスが皆でどんな話をしていたのかなんて分かるはずもないが、お構いなしにエマがその肩を両手でガッシと掴む。
「マキアスさん、再会した時リィンさんに抱き締められたというのは本当ですか?」
「なっ?!何故その話を……はっ、エリオット、君だな?!」
「いや、その、隠す話でも無いと思って……」
「そんな……マキアスさんの時だけ、そんなの……」
マキアスの肩を掴む手が震えている。俯いたまま首を横に振って、エマは心底悔しそうに叫んだ。
「ずるいです!」
「「えっ?!」」
その場にいたエマ以外のZ組メンバー全員が驚愕の声を上げる。ずるいって、リィンに抱き締められたのがずるいって、つまりそういう事?特にアリサが激しく反応して思わず立ち上がる。それぞれ驚きを露わにする面々に気付く事なく、エマは言葉をつづけた。
「どうして、どうしてそんな一番最初の抱擁を……クロウ先輩に譲ってくれなかったんですか!」
「……はっ?」
「そもそもクロウ先輩も、リィンさんのいる場所を知っているならどうして顔を合わせてくれなかったんですか……!一番最初に見た顔が先輩だったら、きっともっとこう、何かがあったはずなのに!あの人は焦らしすぎです!あれだけリィンさんの事をいちいち気にかけてるのならいっそ一思いに戻ってくればいいのにっ!」
「いや、その、エマ君?それを僕に言われてもどうしようもないんだが……」
内容はともかく、いつの間にかクロウへの愚痴になっていたエマの独り言をぶつけられ続けるマキアスが戸惑っている。その光景をミリアム以外の全員で、遠い目をして眺めた。
「エマ……この間から色々と様子がおかしいけど、どうしたのかしら……」
「まさかあの、文芸部の部長さんみたいに……いや、まさかだよね……」
「んー?なになに?何の話?」
「お前にはまだ早い」
「えーっ?!ずるいよー皆だけで分かってるなんてー!」
一人蚊帳の外にされたミリアムがぶーぶー文句をいう中、エマのクロウへの文句もまた、まだまだ続きそうである。
■ドロテとの再会
次々とトールズ士官学院の生徒たちが集まるカレイジャス。今日その搭乗員となった生徒は二人いた。そのうちの一人はエマにとってとてもなじみ深い人、何も知らなかった昔のエマを今のエマへと導いたある意味罪深い人物である。そう、文芸部部長のドロテであった。彼女の大切な乙女の本を巡るとても彼女らしいハプニングを解決して、ようやくエマはカレイジャスの一室で二人、向かい合っていた。
「いやー、エマさんが元気そうで本当に良かったですよ」
「ふふっ部長こそ。そういえば執筆活動はされていたんですか?」
「潜伏中はさすがに時間が取れませんでしたね……これから是非再開させたいと思っている所です。エマさんはどうですか?」
「私は……」
一度言葉を切ったエマは、己の胸に手を当て、大切な秘め事をそっと打ち明けるように声を潜めて答える。
「約束、ですから」
「えっ?」
「この内戦が終わり、私の熱い何かが溢れてきた時……その時こそ、筆を取らせてもらおうと思っています。それまでは、私のやるべきことがまだありますから」
「はあ……」
今目の前で首を傾げるドロテには理解できない言葉だっただろう。それを承知でエマは「約束」と口にした。それは己に改めて言い聞かせる意味合いが大きかった。あの日ドロテの言葉で胸に抱いた誓いを、決して違わぬための確認。だから理解してもらうつもりはなかった。
内容は理解出来なくとも、ドロテは何かを感じ取ったらしい。微笑むエマの顔を見て、彼女もにこりと微笑んだ。
「エマさんのやるべきことが何なのか、具体的な事は知りませんが……これだけは分かりますよ」
「えっ?」
「……あなたの尊い萌えのために、頑張ってくださいね!」
ぐっと。親指を立ててみせたドロテにハッとなったエマは。泣き笑いのような表情でしっかりと頷く。
そう、同じ目覚めてしまった者同士、分かってしまうのだ。己の抱く理想の萌えのためにエマが戦っている事を。だからこそ応援してくれる。内容が何なのか分からなくとも、その愛するものに対しての真っ直ぐな気持ちはいつだって分かり合えるから。
「ドロテ部長!私、頑張りますっ!」
「エマさんっ!」
「いやあ、友情っていいものですねえ」
「……何故でしょう、あの二人の間にはただの友情では生まれない何かがありそうな気がするんですが……」
固く熱く握手する二人の乙女の姿を、同室に居合わせたトマスが微笑ましそうににこにこと、エマを探してやってきたけど声を掛けるタイミングを失ったリィンが何かの予感に若干肩をすくめながら、それぞれ見守っていたのだった。
■12月22日、ルーレ寄航日
「……では殿下、俺はこの辺で」
「ええ。楽しいお話をありがとうございました、リィンさん」
アリサ宅の書斎で交わしたブレードUの勝負と、会話。何故かとても嬉しそうに微笑むアルフィンに曖昧な笑顔を返してから、リィンは部屋のドアノブに手をかけた。そのまま扉を引いて何事もなくこの場を立ち去ろうとしたのだが。
部屋の前にうつ伏せで倒れるエマを目撃してしまい、とっさに悲鳴を上げる事となる。
「う、うわああああっ!!いっいいい委員長っ?!」
「リィンさん、どうされたのですか?!」
「ああ殿下、いきなり大声を出してすみません、しかし委員長が、委員長が!」
「……リィン、さん……」
「委員長!しっかりするんだ!」
リィンが慌てて抱き起こせば、エマはまるで何かに生気を吸い取られたかのような顔色をしていた。しかしその表情だけは、極上の幸せを手にしたかのような満ち足りたもので。
「どうしてこんな所に倒れて……一体何があったんだ!」
「リィンさん……安心してください、鼻血だけは……鼻血だけは出しませんでした……その一線だけは超えてはならないと思いまして……」
「いや、今は鼻血とかそういう心配をしている場合じゃないだろう?!」
リィンが取り乱す中、エマは安心させるようにふわりと笑ってみせた。その顔は言葉よりもずっと、己が幸せであると語っている。リィンがあっけに取られる目の前で、エマは……ぐっと、親指を立ててみせた。
「大丈夫です……一字一句逃すことなくメモしました……!」
「何を?!」
「ありがとうございますリィンさん、本当にありがとうございます……」
「いや、俺は何もしていないんだが……!」
「エマさん!大丈夫ですか?」
そこへ駆け寄ってきたアルフィンが脇から覗き込む。エマは視線をアルフィンに移し、やはり感謝するように笑った。
「アルフィン殿下も、ありがとうございます……大変素晴らしい乙女な話を、本当に……」
「……!まあ!」
さっぱり分からないリィンはよそに、どうやらアルフィンはエマが何に対して礼を述べているのか合点がいったらしい。ぽんと両手を合わせ、きらきらした瞳でエマを見た。
「でしたらエマさん、その事についてもう少しわたくしとお話いたしませんか?こういった乙女の嗜みをおしゃべり出来るような方が今身近にいなくって!」
床に倒れていた人をおしゃべりに誘うのか、とギョッとしたリィンだったが。すぐにもっとギョッとする事となる。
「はい喜んで!」
「ええっ?!」
さっきまでぐったりしていたエマが急にしゃっきり元気になって飛び起きた。ぽかんと動けないリィンを尻目に、エマとアルフィンは仲睦ましい様子で書斎へ入っていく。一体今の短期間でどうしてこれほどまでに仲良くなったのか。
「それではリィンさん、またあとで」
「リィンさんも今日はゆっくり体を休めて下さいね、では」
「あ、ああ……」
とりあえず頷いたリィンの目の前で扉が閉められる。よろよろと立ち上がった後、一人やや呆然と呟いた。
「……何だったんだ、今のは……」
きっとあれは、知らない方が良い。本能とも呼べる胸の内で白い獣が、肩をすくめながらそう言っているような気がした。
■12月26日、バリアハート寄航日
……とても温かくて柔らかいものを枕にしている。それに気づいてリィンは眠りから意識を浮上させた。確かさっきまでベンチに座り、エマと並んで他愛もない話をしていたはずだが。どうやら転寝をしてしまったらしい。いくら緊張と戦闘の連続で疲れていようとも、外で眠ってしまうとは不覚だった。そうやって反省しかけた所でようやく違和感を覚える。
ベンチに腰かけてうとうとしていたはずなのに横になっているのは何故か。そしてこの頭の下にある柔らかなものは一体。訳が分からないでいたリィンは、己の頭上からくすくすと笑うエマの声によってようやくその膝枕状態に気付いたのだった。
「……それにしても委員長、足が痺れたりはしていないか?」
「いいえ、大丈夫ですよ」
ひとしきりやり取りをした後にもなお心配そうな視線を向ける優しい瞳に、エマは微笑む。いつでも変わらぬリィンの気遣いに心が温かくなる。同時にとある想いも胸中に去来し、思わず俯いた。
「それよりリィンさん、ごめんなさい……」
「えっ?どうして委員長が謝るんだ」
戸惑うリィンにエマは、ギュッと握りしめた手を膝の上に揃えて心から申し訳なさそうに口を開く。
「私の代わりにクロウ先輩が膝枕をして下さればどれだけよかったことか……!本当にごめんなさいっ」
「……いや、そこまで求めてないから」
冷静に返したリィンもだいぶエマの突拍子もない言葉に慣れてきたようだ。柔らかくため息をついた後、困ったように笑いながら首を振ってみせる。
「委員長、気持ちは嬉しいけどそこまで気を遣ってくれなくていいんだ。確かに、ここにクロウがいてくれれば、とか、たまに女々しい事を思ったりもするけどさ……皆と過ごす時間まで全てを取り換えたいだなんて思わないよ」
「あっ……」
「今のだって、委員長が俺を休ませようと思ってしてくれた事だろう?それを他の誰かだったらよかったなんて思わないさ。委員長だったからこんなに嬉しいんだ」
「リィン、さん……」
「ありがとう。おかげで気持ち良く眠れたよ。疲れもだいぶとれた気分だ」
笑うリィンを見てエマは己を恥じた。そして同時にリィンを恐ろしく思った。何という口説き文句だろう。これをさらっと何の含みもなく素面で言ってのけるのだ。目覚めてしまったエマでさえ頬を染めざるを得ないのだから、普通の女の子であれば一発で惹かれてしまうだろう。エマはぱたぱたと手で仰いで、熱を冷まそうとした。
「まあそれに、クロウとだったら以前たまに膝枕をした事もされた事もあったしな」
ガタタッ!
完全に油断していた所に突然の爆弾。思わず音を立ててベンチから立ち上がる。驚いた顔のエマに見つめられて、何か変な事でも言ったかなと首をかしげるリィン。
「り、リィンさん、それは一体、どういう、」
「?いや、俺が学院内のベンチで休んだりしていると、どこからともなくクロウがやってきて勝手に膝の上に頭を預けてきたり、逆に休め休めって言って無理矢理寝転がされたりしたんだ。今思えば男の膝なんだし、あいつもそんなに気持ち良いものじゃなかったと思うんだけど……」
そこでリィンは空を見た。薄紫の瞳は晴れた空を見ているようで見ていない。見ているのはきっと、今話した過去の出来事たち。懐かしそうに、愛おしそうにそれらを思い出して、リィンはくすりと笑った。
「でも俺は、何故だか安心したんだよな……。カワイコちゃんじゃなくて悪かったなとか軽口叩くクロウの目が、優しく見下ろしてくれたからかもしれない。そういう時はいつの間にか、起こされるまで眠ってしまっていたっけ」
胸の内に大事にしまっていた宝石のような思い出を打ち明けて、照れたように振り返ったリィンの視界にエマの姿は無かった。びっくりして視線を下におろせば、ようやくしゃがみ込んでプルプル震える彼女の姿が目に入る。
「委員長?!」
「……くっ……!公式が最大手とはこの事……!」
「こ、コウシキガサイオオテ……?ええと、何かの呪文か?」
常人には理解し得ない時を越えてここに立つエマ。どうやら随分久方ぶりの本人たちからの供給に、心が上手く制御できないほどの衝撃を受けたらしい。
バリアハートの片隅で、しばらく動けなくなったエマとそんな彼女に慌てて付き添うリィンの面白い姿が見られた、とは、偶然二人を遠くから目撃したらしい目の良いフィーの話。
■12月30日、夜。帝国の空のどこか
真冬の空の上は当たり前のように寒い。パンタグリュエルの甲板は特に凍えるような寒さであったが、満天の星空の中気温など意に介さず一人立ち続ける人影があった。吐き出す白い息がすぐに空気に溶けて消えていくのを眺めながら、緋の目が物思いに沈んでいる。脇には彼の相棒であるオルディーネが静かに鎮座していた。
静かな夜。きっと、こんな夜を過ごすのはこれが最後になるだろう。そうやって考えながら彼、クロウは、視界いっぱいに輝く星々を眺めながら小さく笑った。様々な覚悟を胸の内に秘め、まるでこれから見ることになる走馬灯を一つ一つ前もって確認するかのように過去を思い出し、そっと噛み締める。そうやってクロウは、激動が訪れるはずの明日を静かに待っていた。
「……静かな夜、ですね」
「ああ。最後の夜にしてはおあつらえ向きってもんだ。……あ?」
自然に掛けられた穏やかな言葉に、思わず頷き返して一瞬後。クロウは獲物を手に取りながら飛び退くと共に背後を振り返っていた。そこに立っていた人物はクロウのダブルセイバーの切っ先を突き付けられても、にこにこと微笑みながら微動だにしない。そこで初めて相手の正体を知って、クロウが目を丸くする。
「は?……委員長ちゃん?」
「はい、クロウ先輩」
律義に返事をしたのは、間違いなくエマであった。導力杖を手に、しかしアーツを放つ様子など微塵も見せないまま、ただ微笑んだまま立っている。クロウは驚きを通り越して呆れた声を上げた。
「おいおい、いつの間にヴィータみたいな技を身につけたんだ?魔女ってやっぱこえーな」
「ふふっ、それはもう修行を積みましたから。何年も、何年も。今、この時のために」
クロウはすぐにエマの様子が普通ではない事に気付いていた。そもそも気配を絶ってこのパンタグリュエルの甲板に音も無く現れた事こそが異常事態だ。以前からこの兆候はあった。上手く言えないが、学院にいた頃のエマと今のエマは、根本的に何かが違う気がする。クロウの直感が告げていた。
「それで?いきなりこんな所に現れて、目的は何なんだ?まさか俺の事を連れ戻すとか言わねえよな」
「ええ、それはまだ。私の役目でもありませんから」
首を横に振ったエマは、懐から何かを取り出した。それは掌にすっかり収まるほどの小さなもののようで、クロウからは良く見えない。何をするつもりだ、と警戒たっぷりに身構える。
そう、身構えていたはず、だった。
「クロウ先輩……覚悟!」
「っぐはっ?!」
しかし今、一瞬よりももっと短い時間でエマはクロウの懐に入り込み、その胸の部分を掌で思いっ切り叩いていた。予想していなかった事と予想以上の力の衝撃に息が漏れる。クロウは慌てて飛び退くが、それ以上エマは追ってこなかった。まるで一仕事終えたような晴れ晴れとした表情をしている。
「ふう。ご協力ありがとうございました」
「いや、何もしてねえし?!つーか今何した!何しやがった!」
「何でもありませんよ。そうですね、あえて言うなら……願掛けです」
「はあ?」
「これで私の目的も達成しました。今日はこれで帰ります。先輩、明日はよろしくお願いしますね」
「お、おう……?」
まるで明日何が起こるか予期しているような口ぶりでぺこりとお辞儀をしたエマは、踵を返してどこかへ立ち去ろうとする。しかし何かを思い出したように足を止め、一度だけ振り返ってきた。
「クロウ先輩、最後に一つだけ、いいですか?」
「な、何だよ」
すっかりエマのペースに乗せられている事に気付きながらも抗えずにクロウは怯む。そんなクロウをじっと見つめた後、星空の下、新米魔女は儚く笑った。
「絶対に、諦めないでくださいね」
それは一体、何に対しての言葉だったのか。
クロウが口を開きかけた時にはすでにもうエマの姿は無かった。この場に現れた事が幻だったのかと錯覚するぐらい、その三つ編み姿は忽然と姿を消した。一人取り残された甲板の上で、クロウが己の胸に手を当てる。幻覚だったのだ、と思わせないじくじくとした痛みがそこにあった。
空を仰ぐ。変わらずそこに広がる星空を呆然と眺め、傍にいたオルディーネに語りかけるようにクロウは、ぽつりと零す。
「……魔女ってやっぱり、おっかねーな……」
表面はどこまでも穏やかだったくせに、その瞳には限りなく熱い炎があった。そのギャップがまた怖い。エマが何を考えているのか分からなくて、クロウは一度だけブルリと震えた。
クロウは後で知る事となる。エマが何のために動いていたのか。たった一つ、どんな目的のためだけに世界をも巻き込んであそこに立っていたのかを。
七耀暦1204年12月31日。
帝都に突如として現れた禍々しい城、煌魔城。そこでは今、一つの大きな戦いが終わりを告げたところだった。
カイエン公の暴走により顕現した緋の騎神、エンド・オブ・ヴァーミリオン。度重なる戦闘に何とか勝利し、核を抜き取り、取り込まれていたセドリックを救出する事で巨大な敵は光の中に消えていった。助け出すことが出来たセドリックは気を失っているものの無事のようだった。ほっと安心する間もなく、リィンの目の前には、緋の騎神に貫かれ穴をあけたオルディーネの姿があった。
リィンに道を示してくれた。お前にしか出来ない事をやれと、道を開けて背を押してくれた。かの敵を打ち倒すことが出来たのは、間違いなくあの時クロウが手を貸してくれたからだ。
その彼の機体に、穴があいている。崩れ落ちるように膝をついたオルディーネ。その胸からまるで零れ落ちるように光が降りて、足元にクロウが蹲った。呆然と立ち尽くしていたリィンが真っ先に駆け寄る。
「クロウ!」
「っごほっ……!」
咳き込むクロウの肩を支えて仰向けにする。周りを仲間たちが取り囲む。クロチルダでさえも顔色を青くして見守る。
己の胸を抑えるクロウ。オルディーネの穴は、核、起動者が乗り込む位置を真っ直ぐ貫いていた。理解したくない現実をリィンは見ていた。信じられない思いでクロウを見る。言葉は何も出てこない。ただ頭の中にはクロウの名前ばかりが思い浮かんで、意味のある言葉など紡げない。信じられなかった。信じたくなった。その手はすでに震えている。誰よりも近い位置でリィンが見つめる中、クロウは。
こほっともう一つ咳を吐いてから、一度だけ目を閉じて。
「……ったく、」
ゆっくりと、胸にあてがっていた腕を上げる。そこには……何も、ない。
血の跡も、貫かれた穴も、何もない。
「――、えっ?」
リィンが、呆けたように目を見開く。クロウが上げた指の先に摘まんでいたものを、全員で見た。静まり返る緋の玉座で、場違いなほど輝く小さな銀色。多くの人にとっては何の意味も無い、ただのちっぽけな……割れた50ミラ硬貨。
「一体、どんな魔法だよ……マジ、魔女ってこえーのな」
リィンの腕の中で笑うクロウ。その言葉の意味は分からなくとも、クロウが持つ砕けた硬貨が今までその懐にあった事は、誰もが分かった。本来ならばその命ごと貫かれていたはずの、その場所に。代わりの様にそれが潜んでいた事を。
普通に考えれば、あれだけの衝撃をこんな50ミラ硬貨が防げる訳がない。訳がないのに、クロウは貫かれる事無くここにいる。息をして、何事も無く、ここにいる。さすがに全ての衝撃を防げた訳でもなさそうで若干苦しそうではあったが、それでも。
生きている。
「……っはは、これはまるで、まだ利子返し終わってねーぞって言われてるみてえだな」
あまりにいつも通りの軽口をたたくクロウ。その笑顔を穴があくほど凝視したリィンの瞳からその時、ぼろりと。一つの雫が零れる。
「……っ!そんなの、当たり前だっ!」
堰を切ったように次々と溢れる涙。堪える事もせずに、リィンは腕の中の温かな体を思い切り抱き締めた。
「まだ全然、全然返してもらって、ないんだからな!まだまだいっぱい、お前が一生かけても返せないぐらいあるんだからな!」
「ああ、そうだな」
「だからっ!だからクロウ……ずっと返せよ!俺と、一緒に生きて、ずっとずっと一緒にいて、返してくれよ!約束、してくれよ……!」
「ああ。こうなったらもう、そうするしかねえな」
まったく、恐ろしい高利貸しに捕まっちまったもんだぜと、幸せそうに呟きながら。クロウもリィンに腕を伸ばし、その頭を抱えた。ボロボロ落ちるその涙をすべて受け入れるように。どこか困ったように、それでもこの自分のために泣いてくれる人が愛しいのだと語るように微笑みながら。
リィンもまた、止まらない涙を零しながらも笑う。ようやく捕まえる事が出来た身体をもう二度と離さないようにしっかりと掴みながら、目の前のバンダナに己の額をくっつけて、笑った。
「……おかえり、クロウ」
「……ああ、ただいま、リィン」
二人の姿を、その場にいた誰もが笑顔で見守っていた。ふとセリーヌが、仲間たちから離れるように一番後ろに控えていた隣の彼女の様子に気付く。
「エマ……?」
エマは泣いていた。声を上げる事無く、蹲りもせず、ただただリィンとクロウを見て泣いていた。その胸に去来する想いが、どれほどのものなのか。それは誰にも分からない。どうしたのかと心配そうに見つめてくるセリーヌに、エマは小さく口を開いた。
「……これが、見たかったんです」
「えっ?」
「このために、私は……この、お二人の笑顔を見るために私は、ここにいるんです」
両手をきゅっと握りしめた彼女は。涙を流しながら、極上の笑顔で二人を見ていた。
「私は、今、世界一幸せです……!」
たった二人のためだけに、違う未来を望んだ魔女。
彼女に書き換えられた世界は今。
少なくともこの時だけは、愛の力に光り輝いていた。
委員長、覚醒する。
のちの帝国で、密かに出版された小説『灰の騎士と蒼の騎士』という内戦の中戦う運命にありながらも必死で抗い相手を想い最後にはめでたく結ばれた男の子同士の物語が話題となり社会現象にまで発展し、各地で次々と乙女の嗜みに目覚めてしまう者が大量発生する事になるのだが、それはまた別のお話。
14/10/23
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