これはハグハグとわんわんの呪い



その日、クロウが目覚めてまず最初に感じたのはその暑さだった。一人用のベッドで一人で眠っているだけならばまず感じるはずの無い蒸し暑さは、今朝がいつもと違う一日の始まりである事を悟らざるを得ない。仰向けで天井を見上げたまま、一人静かにあらゆる覚悟を決めたクロウは、意を決して己の右側を見た。この熱源は明らかに視線を向けたそこにあった。
かくしてクロウの目の前には、若いながらいくつも修羅場を潜ってきた彼が立てた予想や決めた覚悟のことごとくを上回る現実が突きつけられる事となる。正確に言えば、半分は覚悟していたがもう半分はさすがに予想外過ぎたのだった。だって、そりゃあ、いくら寝起きだからと言ってここ半月ほどほぼずっとこの第三学生寮という同じ屋根の下で暮らしてきた見知った気配であれば、姿を見ずともそれが誰であるかなど頭で理解するより先に感覚で気付いていた。それが最近一番つるんでいる相手であれば尚更だ。では何が予想外だったのかというと、その体勢と姿である。
まだ日が昇りかけた早朝の時間、すやすやと安らかに眠る童顔は、あの印象的な薄紫の瞳を閉じていれば余計に幼さを感じさせる。ここまでは良い。その顔が何故かクロウのベッドに潜り込んでクロウの隣で眠っている。それもまあ良いだろう。本当は全く良くないが相対的に見れば些細な事だ、部屋も目の前で誰よりも近いし寝ぼけたという可能性もゼロではない。そんなくせ毛頭の左右両側に垂れるふさふさの、動物の耳のようなもの。これが良くない。毛布に顔半分隠れているにも関わらずその存在を主張してくるもふもふしたそれは、人間の頭に生えているという点を除けば何の変哲もない犬の耳に見えた。恐る恐る腕を上げて、起こさぬようそっと耳のようなものを持ち上げてみれば、人肌程度に温かい。血が通っているのだ。つまり、にゃんにゃんセットみたいな単純な作り物では無いという事。それではきっと、視界の端に見える毛布からはみ出た黒くて長いもふっとしたものも気のせいでは無いのだろう。ぱたぱた動いてるし。耳を指先で撫でてみれば余計に嬉しそうに動くし。
一番良くないのは、そんな犬の耳と尻尾を生やして眠る元後輩現クラスメイトなリィン・シュバルツァーが、がっちりクロウの右腕に抱きついて擦り寄っているこの構図な訳で。

「……突っ込みどころ、色々ありすぎんだろ……」

訳が分からな過ぎて朝っぱらから途方に暮れたクロウがそうやって呆然とつぶやいた後、目を覚ましたリィンがパニックを起こしてZ組全員を巻き込んだ大騒ぎに発展するまで、あと十数分の時を要する。





「呪いを感じます」

ずれた眼鏡を押し上げて、おもむろにエマがそう言った。何で、どうしてと一向に答えが導き出されない疑問を全員で気の済むまで叫びまくった後、さすがの教官力でいち早く我に返ったサラに宥められ(武器を振りかぶられて脅されたとも言う)、ひとまず今までの騒ぎの中で判明した数少ない分かった事をまとめ終わった時の事だった。ちなみに分かった事とは、今日の朝何故か垂れ耳とふさふさ尻尾を生やしてクロウの部屋で目覚めたリィンが、見た目以外は至って健康体である事。犬の耳と尻尾はどうやら本物でリィンから直に生えている事。リィンにこうなってしまった心当たりは全く無い事。それに、クロウの腕に両腕を絡めて抱きつくリィンがどういう訳か、くっついたまま離れる事が出来ないらしい事、だ。

「……あ、いえ、その、私は霊感が強い方で、何となくそんな気がするってだけなんですけど……!」

一斉に注目されて、慌ててエマが手を振る。犬の耳と尻尾が生えた事もくっついて離れる事が出来ない事も突拍子が無さすぎて、どうやって解決すればいいのかと全員で困り果てていた所の言葉だったので余計に視線を集めてしまったのだった。アリサが恐れるように二の腕を摩りながらまず初めに声を上げた。

「呪い、だなんて物騒ね……どうしてそう思ったの、エマ?」
「ええと……そう、昔おばあさんに似たような話を聞いたことがあるんです」

エマは咳払いをして、改めてリィンを見た。垂れた耳と同じように黒い尻尾も元気なく垂れ下げたまま、クロウの腕にしがみつくリィンは不安げな表情を返す。

「未練のようなおどろおどろしい呪いの念がリィンさんに降りかかっているのだと思います。ああしたかった、こうしたかったという強い念が。こうやって具現化するほどですから、よほど強い念だったのでしょうね。今回は、そうですね……誰かに抱きつきたかった、抱きつきたかったという念でしょうか」

まじまじと、抱きつかれているクロウと抱きついているリィンを見つめたエマは、首を横に振って言い直した。

「いいえ、これはむしろ、抱きついて欲しかった、抱きつかせたかった、という第三者の目線からのもの……?」
「な、何だそれは、訳が分からないな……自分じゃなくて他人がこうしているのを見たかった誰かの呪いという事か」
「そうですね。私にははっきりとこう、怨霊からの呪詛の言葉が伝わってくるような気がするんです」

理解しがたいと呆れ顔のマキアスに頷いてから、エマははっきりと断言する。

「『ああ、本人たちに是非はぐはぐさせたかった』と!」
「……意味が分からん」

呆れを通り越して無表情のユーシスがため息と共に一刀両断した。この場にいる全員の気持ちを代弁したようなものだった。とにかく身勝手な呪いのせいでこんな事態に陥っている事だけは把握して、クロウがぺろっとリィンの垂れ耳を持ち上げる。

「んじゃ、この耳と尻尾も呪いって訳か?」
「そうですね。『犬耳と尻尾も欲しかった、何故もっと早くわんわんセットを出さなかったのか』という未練がましい呪いを感じます」
「うっうわあああんやだよー!リィンがおばけに呪い殺されちゃうーっ!」

恐ろしさの限界に達したのか、ミリアムが縁起でも無い事を言いながら半泣きでリィンに抱きついた。クロウに抱きつくリィンに抱きつくミリアムという団子状態が出来上がる。エマが慌てて涙目のミリアムへフォローを入れた。

「大丈夫ですよミリアムちゃん、この呪いには粘っこいものを感じますが、殺意はないものですから。きっと一日このままでいれば気が済んで呪いも解けると思います」
「そ、そうなんだ……よかったあ」
「なんだ、一日だけで解けるんだ」

ほっと胸をなでおろすエリオットの横で、とても残念そうにフィーが呟いている。その頭をこつんと小突いてやってから、ふとラウラが小首を傾げた。

「……つまり、今日一日はこのままリィンはクロウにくっついていなければならぬという訳か」
「はい、そうなりますね……」
「……えっ!」

驚きの声を上げたのはリィンだった。思わずクロウを振り仰いで、それから皆を順番に見回して、もう一度クロウを見る。助けを求めるような視線に、しかし救いの手を差し伸べてやれる存在はここにいない。リィンが言葉に表す事が出来なかった事実を、なるほどと頷いたガイウスが代わりに呟いた。

「つまり授業中も離れる事が出来ない、という事か」

そう、今日は平日。騒ぎが朝早かった事もありまだ時間はあるが、この後普通にトールズ士官学院の方で学生らしく授業を受けなければならない日だ。クロウの腕にしがみつきながら、リィンは絶望したような声を上げた。

「そ、そんな……こんな体勢で、一体どうやってノートを取ればいいんだよ……!」
「そこか?!君の心配はそこなのか?!」
「……隣の男に責任持って取らせればいいだろう」

思わずつっこんだマキアスの横から、溜息交じりのユーシスの助言。その声色は語尾に「面倒くさい」と付いてもおかしくないほど呆れ返っている。付き合いきれないと言いたげだった。同じような表情をしていたサラが、パンパンと手を叩いて混乱から幾分か脱したこの場を締める。

「はいはい、それじゃ今日一日あんたたち二人が教室内でどんな格好でいようと咎めないから、呪いの元の誰かさんを満足させるために思う存分いちゃついてなさいな。ハイ解決。そういう訳でさっさと朝ご飯食べるわよー」
「皆様、今日はお時間があまりありませんから、手早く食べられるメニューをご用意しました。遅れないように支度を済ませて下さいませね」

今までにこにこと成り行きを見守っていたシャロンが、完璧なタイミングで皆を促す。時間を思い出した全員が、そうだそうだとあわただしく動き始めた。こうして、普通もっと騒がれても良さそうな奇妙不可思議な出来事は、日常の中へと溶け込んでいったのだった。





「やっぱりおかしい」

神妙な顔でリィンが呟いた。その横顔を眺めながら、クロウが首を傾げる。

「何がおかしいって?」
「何もかもがおかしいが、強いて言うならこの体勢がおかしい」

ぱたりと犬の尻尾を揺らしながらのリィンの心からの言葉に、クロウは改めて今現在の己の姿を見下ろす。現在は授業中なのでひそひそと小声で言葉を交わしている最中であるが、つまり普通に自分の席に座っているだけだ。クロウ自身には何も変な所は無い。左手にペンを握っているのもいつも通りで、違う所と言えばリィンを支えるために右手を腰に添えてやっている事ぐらいだ。クロウの首に腕を回し、膝の上に腰掛けているリィンの腰へ。
……ここまで来るのにも紆余曲折あった。せめてどうにか離れる事は出来ないかと二人であらゆる恰好や方法を試してみた結果、どうやらリィンは腕でなくともクロウの体のどこかにしがみついていれば落ち着くらしい事が分かった。少しの間であれば片手だけでも掴んでいれば大丈夫という事も。おかげで制服にも一人で無事に着替える事が出来たし朝食も誰かに食べさせてもらわずに片づける事が出来た。しかしそれまでだった。両手を一度に離す事は不可思議な力で結局出来ず、授業中どうやって過ごせばいいのかと議論を重ねた結果がこれだった。いいや議論と言うより、「この体勢しかねえだろ」と提案したクロウに「無理、絶対無理」と顔を赤らめて拒否したリィンを何とか説き伏せた時間だった。
だってクロウにはこの体勢しか思いつかなかった。首元に抱きついていればリィンの呪いとやらも大丈夫だし、二人で椅子に座る事も出来るし、クロウだってノートを取る事が出来る(出来るからと言って真面目に取るとは限らないが)。細身だが鍛えてある体を軽いとは決して言えないが、この程度の重さであればクロウにとって何でもなかった。しかも相手はリィンである。少なからず、こっそりと想う相手をこうして膝の上に乗せてはべらせている今の現状は、むしろご褒美と言っても過言では無い。リィンにとってはたまったものではないかもしれないが。

「いいから大人しくしとけって。それとも、向かい合わせで座りたかったか?」
「なっばっそっそんな訳ないだろ!」

膝の上で向かい合せに座る光景をまざまざと想像してしまったのか、リィンの赤らんでいた顔色が一気にぶわっと染まる。一緒に尻尾も毛を逆立てているのが可愛らしい。本当に犬だなあと感慨深く思いながら、クロウは腰に添えていた手を持ち上げてリィンの頭を宥めるように撫でた。

「おら、あんま暴れると前が見えねえだろ?お前の分までちゃんと真面目にノート取るって約束してんだから邪魔すんなって」
「うっ。わ、分かったよ……」

別にこの不可抗力な呪いはリィンのせいでは無いのに、本人はくっついて離れない挙句自分の代わりにノートを取らせている事を後ろめたく思っているらしい。ペンを軽く振ってみれば、歯噛みしながらも大人しくなった。約束した手前、少しは取らざるを得ないとクロウも前を向く。ちなみに今は歴史の授業中で、己の話に夢中になっているトマスは綺麗に二人の事をスルーしてくれていた。サラから説明はされているとはいえ、ありがたい放任っぷりである。
それから数分だけ、二人の間に無言の時間が訪れた。授業中だから当然ではある。一度同じ範囲を習っているクロウにとっては、そうでなくとも退屈な時間だったが苦痛ではない。リィン効果ってすげえなあこれからもちょくちょく膝に乗せて授業出来ねえかな、とか何とか不毛な事を考えていると、首に回された腕にきゅっと力が入ったのを感じ取る。疑問に思っていると、耳元で小さく囁かれた。

「……く、クロウ」
「ん?」
「その……それ、嫌じゃないんだが、何だか落ち着かなくなってくるから、ええと……や、止めてくれないか、せめて授業中は……」
「はい?それって、一体何の事……あ、あー」

俯いてぼそぼそと恥ずかしそうに訴えてくるリィンに最初は本気で訳が分からなかったクロウだったが、すぐに思い当たった。右手だ。さっきリィンの頭を落ち着かせるために撫でた手の平が、クロウも無意識のうちに繰り返し繰り返し撫で続けていたらしい。ゆっくりと、頭のてっぺんから癖のある黒髪を辿って垂れる耳まで指先と手の平が優しく触れて、耳の先まで来るとまたてっぺんに戻っていく。そうして飽く事無く膝の上のリィンを撫でまくっていたのだった。リィンが戸惑うのも仕方の無い事だろう。

「悪ぃ悪ぃ、完全に無意識だったわ。なんか撫で心地が良くてよ」
「な、撫で心地って……」

正直に伝えればリィンは呆れたようだ。何か文句を言おうとして口をはくはく開け閉めし、結局何も言わずにそっぽを向いてしまう。完全に呆れたとか、怒った訳では無い事は一目瞭然だった。明後日を向いているその頬が赤らんだままであるし、何より足元にぱたぱた当たるそれが物語っていた。多分リィンは気付いていないのだろう。今までの人生でそんな器官が生えた事が無いのだから、尻尾が無意識に嬉しそうにぱたぱた揺れていてもなかなか気付けないのだ。指摘したらもっと恥ずかしがって暴れ出しそうだったので、己だけの秘密にしておく事にする。
そっぽを向いても決して離さない腕の存在ににやにや笑いながら、クロウはリィンの腰を取ってさらに引き寄せた。

「ほら、落ちないようにしっかり掴まっとけよ」
「っ?!じゅ、十分しっかり掴まっているだろ!」
「えーそうか?可愛い可愛い後輩が俺の上から落ちて怪我でもしたらと思うと不安でたまらなくてよお」
「嘘つけ、完全にただ楽しんでいるだけだろう……!」

至近距離からギリリと睨まれても痛くもかゆくもない。口笛を吹きかねない勢いでクロウは上機嫌だった。朝はさすがに戸惑いが勝ってしまったが、今日だけならばと開き直れば何て楽しい時間なのだろうか。こっそりと、朝ズボンを履くのに苦労していた尻尾を掴みたくなってくる。ちなみに着替える際に出来心で一回掴んでしまったのだが、とても自分以外の人間に聞かせられないというか聞かせたくないような声で鳴いてくれてそれはもう楽しかった。その後軽く殴られたが。
ご機嫌のクロウを、リィンはとうとう無視する事にしたらしい。つんと不機嫌顔を作って、クロウを振り返る事無く前ばかりを見始めた。しかし尻の尻尾はやっぱりぱたぱたとまんざらでもなさそうな動きを見せつけてくれるので、クロウの気分はちっとも下向きにならないのであった。
リィンが前を向けば、必然と斜め後ろに顔があるクロウの目の前にはリィンの横顔が曝け出される事となる。リィンの顔の横、つまりは耳である。ふっさりとした犬の耳がリィンの髪と同じ色でクロウの目の前にぶら下がっている。先ほど撫でまくっていた時に判明した事だが、さすがに髪と感触は違っていた。人間の髪と違う触感なのに、確かに生きた体温を感じ取る事が出来る。不思議な心地だった。引っ張れば当然のように痛む事も、朝リィンが自分で実証済みだった。
そこでふと、クロウの胸に去来してきたとある欲求があった。おそらく、別に昼飯前だからという訳ではないはずだ。空腹を感じていないはずなのに、しかしひどく喉が渇いているような気もする。ごくり、とクロウは喉を鳴らした。
何故だろうか、リィンの垂れ犬耳が、何だか、美味しそうに見える。

「………」

クロウは一応少しだけ迷った。しかしそれは僅かな時間だった。朝めいっぱい驚かされた分、さらに言えば被害者はむしろこっちなのに日ごろの行いのせいか「眠っているリィンをベッドへ連れ込んだのではないか」というあらぬ疑いを掛けられかけた腹いせのためにも、今日はこのくっつき虫と化したわんこなリィンで遊びまくる事に決めていたのだ。迷う必要は端からなかった。よしと軽く決意したクロウは、気付かれないように静かにリィンへと顔を寄せる。そして。
ぱくっと。ぺろっと。愛らしいリィンのわんこな垂れ耳を、舐めて咥え込んでいた。

「ひゃんっ?!……っっ?!くくく、クロウっ?!」

体をびくつかせ、とっさに振り返ろうとしたリィンは振り返れない。頭に生えてる耳を食まれているのだから当たり前だ。漏れ出た声も反応もクロウの期待を上回る極上のもので、つい頬がにやついてしまう。

「んー?どうした?」
「どうした、はこっちのセリフだっ……!なっ何をやっているんだっ」
「んな過剰に反応するなって、毛づくろいだ毛づくろい」
「毛づくろい?!」

予想していなかった返しだったのか、リィンが素っ頓狂な声を上げる。その間にもクロウはぺろぺろと敏感な耳を舐めてやる。

「動物といえば毛づくろいだろ?耳なんて自分じゃ出来ねえだろうから、俺が代わりにしてやってんじゃねえか。どうだー?気持ちいいか―?」
「きっ気持ちいいとかっそういうのじゃなくてっ……!へ、変な気持ちになるからやめっんっ」

耳の内側をぺろりと舐めれば、リィンの全身にきゅっと力が入る。膝の上でびくびくとつぶさに反応を返す体はいっそ毒のようだった。麻薬によく似た、飲まれればもう抜け出せない甘い甘い毒。ここが教室である事を忘れていないにも関わらず、このままイケナイ事をしてしまいたくなる。そんな、堪らない反応と漏れ出る声。思わず舌なめずりしてしまった自分は悪くない、とクロウは思った。
そんな、今を全力で楽しむクロウにも誤算があった。他の誰でもないリィンの事だ。ついつい反応が可愛くて遊ぶのに夢中になって、リィンがこれでも意外と負けず嫌いな所がある一人の男である事を失念していたのだった。結果、好き勝手弄ばれるその頭の中の何かがぷっつんと切れた音を、聞き漏らしてしまった。

「………っっ!!!」
「うおっ」

意を決したように、突然頭をぷるぷる振ったリィン。柔く食んでいただけの耳は簡単にクロウの口内から逃げていってしまう。あーあ、とクロウが残念がったのは一瞬だった。すぐにそんな暇など無くなってしまったからだ。
首元に抱き着く腕がぐいと引き寄せられ、リィンの頭が肩へともたれ掛ってくる。わざわざ身を乗り出してまで顔をクロウの肩口に寄せてくるその意図が分からず、戸惑っていれば。答えはすぐに寄越された。言葉ではなく、濡れた感触によって。
ぱくっと、咥えられた。間違いない。クロウの視界では見えないが、この感触を間違える訳がない。耳を、食われている。リィンに食われている。震える舌で遠慮がちに耳朶をぺろっと舐めているのだ。リィンが。あのリィンが。臆病な犬のような仕草で。クロウの耳を。

「り、リィンっ……?!」

ぴちゃ、と耳孔に響いた音でようやく我に返ったクロウが肩をびくつかせて裏返った声を上げれば、リィンはようやく顔を放した。それでも首にしがみつく腕の分しか離れられない中、目と鼻の先で唇を尖らせた顔が、赤面しながらクロウを睨み付けた。

「……お、お返し、だ」

クロウは納得した。なるほど、目には目を、歯には歯を、耳舐めには耳舐めを、か。負けず嫌いが考えそうなお返しだった。参った。やられた。今ぎゃふんと言えと言われたらぎゃふんと返すしかないほどクロウはコテンパンに負けていた。認めるしかない。そしてそうやって敗北する事によって、余計にスイッチが入ってしまう。リィンと同じ、負けず嫌いのスイッチだ。

「やったな、こいつ……!」
「ひっ?!なっ何するつもりだっ!」
「やられたらさらにやり返してやらねえと済まねえ性質なんだよ、何倍にもしてな」
「わっ、やっやめろっ……!し、尻尾は、尻尾は触るなって、あっ」

ズドン

一つの椅子の上で器用に縺れ合っていると、突然何かを鋭く破壊する音が響き渡る。びくりと飛び上がり、二人で見つめた先には、穴の開いたクロウの机があった。綺麗に矢が刺さった机である。恐る恐る、矢が飛んできたと思える方向を見てみると……そこには、導力弓を手に椅子から立ち上がり焔のような怒りを立ち上らせながらこちらを睨み付ける、アリサの姿があった。

「あなたたち……イチャイチャするなら余所でやってもらえないかしら?」

にっこり笑顔と共に告げられた言葉は、しかし声色も目もまったく笑っていない。そこで二人は、特にリィンはようやくここが一年Z組の教室内である事を思い出した。周りを見回してみれば、呆れた視線が次々と突き刺さる。今が授業中であったことも、ここで続けて思い出せた。

「……はい」
「すみませんでした……」

震える声で何とか頷く。おやおやと注意も何もせずただにこにこと見守っていたトマスが肩をすくめた。こうしてクロウの膝の上で顔を真っ赤にして縮こまるリィンと、これ以上弄ったら本気で怒られるなと自重したクロウの二人は、ようやく静かになった。
そしてとうとう、Z組全員が授業開始時からずっと思っていた、「膝に乗せるより、隣に椅子を置いて並んで座った方が楽なのでは?」というつっこみがなされる事はなかった。








15/10/22


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