「雪?」

下から聞こえてきた声に、クロウは頭上へ向けていた視線を前へ戻した。枝中を真っ白に染めた街路樹が立ち並ぶ並木道。ゆっくり、ゆっくりと歩みを進めていた目の前にひらりと、儚い雪の結晶のような花弁がひとひら目の前を横切った。風に乗って自由に宙を舞うその白に、車椅子の上から細い腕が伸ばされる。花弁は指先に掠る事すら無く、そのまま視界から消えていった。くすり、とクロウは喉を震わせた。

「こんな季節に雪なんて降る訳ねえだろ」
「分かってるよ。でも、だって、そう見えたんだ」

拗ねたような口ぶりのその声色は、言葉ほど拗ねてはいない。またふわりと、小さな花弁が空から降ってくる。音も無くちらちらと降るそれは、確かにリィンの言う通り冬の始まりに見る仄かな粉雪が降る様によく似ていた。今の季節がうららかな春の日々でなければクロウも一瞬勘違いしていたかもしれない。今度落ちてきた花弁は座ったまま前に進み続けるリィンの視界に入ることなく、濡れ羽色の頭の上にそっと引っかかった。すでに己が受け止めている事に気付かないまま、飽く事無く雪のような花弁が目の前にやって来る事を待ち続けるその漆黒の頭に、可憐な純白の花はよく映えた。指先で摘まんで取ってやりながら、もっと大きな花を飾ってやりたいと思った。
そんなクロウの視界に一本の枝が映り込む。腕を伸ばすだけで十分届くだろう位置にある事を確認して、喜びに口の端を持ち上げた。クロウが楽しげな表情を浮かべている事を気配で感じ取ったのか、不思議そうに振り返ってくる薄紫。

「クロウ?」
「ちょっとそこで待ってろ」

押していた車椅子を勝手に動き出さないように操作して、クロウは前方へ駆けた。見つけた枝の下で立ち止まり腕を伸ばせば、思った通り簡単に手が届いた。花弁がこんもりと咲き誇る先の方を掴んで、小さな一房をちょいと手折る事で理想の塊を手に入れる。クロウは振り返った。一瞬だけ息を飲んだ。
真っ白な花びらが舞い落ちる景色の中に、一つだけぽつんと置かれた車椅子。その上にリィンが座っている。立ち上がる事無く不満そうな顔をする事も無く、ただクロウが戻ってくるのを純粋な瞳で待ち続けている。クロウが選んで着せてやった服を身に着け、クロウが押すままにここまで来て、クロウの待っていろという言葉を純真に信じてじっとクロウだけを見つめ続ける。当たり前だろう。クロウはそっと微笑む。
だってリィンはもう、自分の足で歩く事は出来ない。

「……ほら」

リィンの目の前まで戻り、屈んで同じ目線に合わせてから、手に入れた花を右側頭部へそっと添える。耳の上に挿してやれば落ちる事無く未だ跳ね気味の黒髪に寄り添って咲いた。思った通り、いや思っていた以上によく似合う。クロウは満足げな笑みを浮かべた。

「よし、完璧!」
「完璧、じゃないだろ……何してるんだよ」

呆れた視線を向けてくるその白い頬が、鮮やかに桃色に染まる。綺麗だった。青白い、と表現した方が良いような顔色に紅が咲くと、それだけで健康的な表情に見えてより愛らしさが増す。クロウは目を細めてリィンの頬を撫でた。以前よりやはり、弾力がなくなったように感じた。それでもくすぐったそうに首をすくめて、嬉しそうにより頬を染めるその様子は、昔から変わる事のないクロウの愛しいリィンそのままだ。

――とうに限界を超えていたのだろうと、医者は言った。
数年前、帝国のみならず西ゼムリア大陸全土を巻き込んだ大騒動の中で、リィンは灰色の騎士として愛刀を手に常に戦い続けた、のだと言う。相次ぐ死闘の連続で、一日中あの「鬼」の力を使い続けた日さえあったのだ、と。その言葉にし尽せない凄まじい激動の時間を、クロウはほとんどその身で体験する事は無かった。全ては後で色んな当事者に聞いただけの知識だ。一度はこの世界から命を散らせた魂が何の因果か蘇ったのは、ほとんどが終わりを迎えた頃だった。クロウの第二の命の初めの記憶は、全身を赤黒い血で濡らしながらこちらを見下ろして涙を落とすリィンの泣き笑いの表情だ。血の色よりも鮮やかな真紅から落ちる雫だけが透明で、美しいと感じた事をよく覚えている。クロウが目をあけたのを確認して震える息を吐き出したのち、リィンが倒れたのは真紅の瞳が優しい薄紫に戻ったすぐ後の事だった。
あの日からリィンは太刀を振う力も、自力で立ち上がる力さえも失ってしまった。強靭な力を与えてくれた白銀と真紅の鬼は、その代償にリィンの命を悉く削り取って、そして消えた。かつて毎日の鍛錬で鍛え上げていた引き締まった腕や脚は、全ての運動を他人に依存する今では少し力を加えるだけで折れてしまいそうなほど細く痩せてしまっている。昔のリィンの姿を知る者は決まって痛々しそうに表情をゆがめるほどだった。定期的に見舞いに訪れる仲間たちの顔を思い浮かべながら、しかし毎日共にいるクロウは表情を変える事なくリィンを見つめ続ける。

「きれいだな」

ふと、眩しそうに目を細めたリィンが再び腕を伸ばした。今度その細い指が辿り着いたのは空中では無くクロウの頭の上で、さっきクロウがそうしてやったように銀髪の上から淡い花弁を摘まみ取った。よく見れば仄かにピンクがかって見えない事も無いほど薄い花の色より、もしかしたらリィンの肌の方がより白いのではないだろうか。ふわりと浮かべるその笑顔が、まるで今にも消えてしまいそうだと一瞬でも感じた己の思考を、クロウはすぐに踏みにじった。

「ライノの花を思い出すよ」
「……ああ、そういやあれもこの時期咲いたっけか」
「入学式とか、卒業式の時期にな。今頃トリスタも、ライノが満開なのかな」

声色に懐かしさが滲み出る。今は遠く離れてしまった、たくさんの思い出が詰まった町。二人が出会った運命の場所。初めてこの横顔を見つめたのも、直接話しかけたのも、町の中をライノの花が美しく舞い散る季節であった。クロウがそうやって思い出している同じ時間を、リィンも頭に浮かべていたのだろう。互いにそれが分かって、目を合わせて笑い声を漏らした。
もう帰る事の出来ない輝かしい日々を、こうして穏やかに思い出して共有して笑い合える事が、何よりも尊いものだと感じた。

「クロウ。俺もあれが取りたい」

リィンが無邪気に指を差した。さっきクロウがリィンにプレゼントした花が咲いていた枝。車椅子の上からではもちろん手が届くはずのない頭上である。今のリィンでは一人で届かない場所へのおねだりは、つまり笑顔で手助けを要求している。たったそれだけの事実にクロウの胸の内には例えようもない喜びが広がるのだった。

「おっし、じっとしとけよ」
「うん」

腰を浮かせたクロウが座ったままのリィンに覆いかぶされば、ごく自然な流れで首に腕が回される。弱い力ながらもしっかりと掴まった事を確認して、クロウは肩と膝裏を支えた腕を持ち上げた。掬い上げられた身体は、いとも簡単に車椅子から持ち上がった。
また軽くなったな、と抱える度に感じる不毛な思いは捨てて、こちらへ垂れ下がる枝の前へとリィンを連れて行く。

「届くか?」
「ちょっと待ってくれ」

抱きついた手を片方外して、腕の中からリィンが背を伸ばす。ただ立っただけのクロウが対して苦労もせずに掴む事の出来た枝だ、リィンにも難なく触れる事が出来た。ただし千切るには少々力がいるので、それにしばらく悪戦苦闘した。震える腕で懸命に細い枝を掴み手に入れようともがくリィンを、クロウは何も言わずに待った。やがてプチリと、ようやくリィンの手の中に一房の花が落ちてくる。

「はあー、やっと取れた」
「ん、ご苦労さん」

伸ばしていた背筋から力を抜いて、すとんと腕の中に戻ってきた額に労わりのキスを落とす。たったこれだけの運動で汗が浮かんでいた。ようやく手に入れる事が出来た小さな花を嬉しそうに眺めたリィンが、すぐにそれをクロウへ差し向けてくる。さっきクロウがリィンにそうしてやったように、左の米神あたりにそっと淡い花を固定した。クロウの目の前で、ぱっと満面の笑顔が咲いた。

「ほら見ろ、クロウの方が似合ってるじゃないか」

これがどうしてもしたかったらしい。クロウは呆れて笑った。

「あー?んな訳ねえだろ、お前のがぜってー綺麗だし似合ってるから」
「そんな事ない、クロウの方が綺麗だ」
「言ったな?後で帰ったら鏡の前で勝負すんぞ。俺のリィンの優勝だろうけどな」
「っはは、誰が審査するんだ、それ」

二人きりで暮らす家に他に審査できる者がいるはずがない。引き分けで終わる事が決定している勝負に、それでもこだわるクロウの様子にリィンはおかしそうに笑った。己に全体重を預けたまま安心しきった様子で肩を震わせるその笑顔に、唐突に喉を塞ぐほどの愛しさが沸き起こる。預けてくれているのは体重だけではない、身体が思い通りに動かなくなったあの時から、リィンは残った時間を全てクロウにやると言った。
おそらくクロウの命をこの世に戻したのはリィンだ。本人は決して認めないし詳しく語らないし方法も分からない、確証のない考えだったがクロウは半ば確信していた。それはきっと、リィンの痛ましい現状の原因に少なからずなっているのだろう、とも。何故、などと問い詰めた事は無い。死の世界から目をさまし、リィンの命が後ほんの僅かしか残っていない事を聞いたクロウが望んだ事は、たった二つだけであった。
その内の一つ、まず最初にリィンに伝えた言葉、「残ったお前の全てを俺にくれ」に、リィンは心底幸せそうに頷いたのだ。

「リィン」

名を呼べば、すぐに合わせられる視線。生きた薄紫に己の姿が映り込むことが、こんなにも幸福だった。そのまま吸い込まれるようにこつんと額と額を合わせたクロウが、かつて口にしたもう一つの望みを再び、何よりも大事な命に告げる。

「ちゃんと、俺も連れてけよ」

一日一日、緩やかに死へと向かうリィン。恐らく遠くない未来の日に、いつものように安らかに夜眠り、そのまま目覚めない朝がやってくる。そうやって迎えた永遠の旅路に、俺も連れて行けと、クロウはそう言い続けているのだった。
最初はもちろん、駄目に決まっているだろうと憤慨されたり、せっかくの命を粗末に扱うなと泣かれたり、散々揉めたが。
今クロウの目の前に存在するリィンはただ、静かに頷いた。

「いいよ」

クロウの頬に手を寄せて、淡く咲く慈愛の笑み。

「甘えん坊だからな、クロウは」

仕方ないな、と。己の運命も、クロウの命も全てを受け入れた表情が、全てを許して笑う。
そう、甘えであった。リィンから受け取った命が、リィンを失って生きる事など出来ないという、我儘だった。それをクロウは、リィンの残りの時間を知った瞬間から悟っていて、未だ決意は変わらない。リィンが死ぬ時クロウも命を絶つ。その必ず待ち受ける未来は、考えるだけで甘美だった。安らぎであった。
心から嬉しくなったクロウは、腕の中で笑う、目の前の唇にキスをした。久しぶりに長時間外を出歩いたせいか、柔らかいそれは少し冷たかった。早く帰って温めてやらなければと考えながら、もっと冷たいキスでも平気だろうとも思った。
だってきっと、死ぬ間際に触れる唇は、もっとずっと冷たいものになるだろうから。
だってまだ、死後に交わすキスがどれほどの温度になるのか、生きている今は分からないから。

(……見てろよ)

笑うリィンを抱き締めたまま、クロウは挑むように花の向こうに広がる空を見上げる。すぐにリィンを追いかけて、捕まえて、今度こそ何にも邪魔をされない二人だけの世界に向かうのだ。この思考が狂っていると称されるものでも最早クロウに何の感慨も抱かせない。リィンに生かされた命が、リィンの事だけを考えて、リィンの生死に己の命を任せる事の、何が悪いのか。
空を見上げ、喧嘩を売るのは空の女神か、はたまた運命そのものか。クロウに負けるつもりは、一切無かった。
それは勝負であり、誓いでもあった。腕の中の細くなった温もりをさらに抱き締めて、クロウは目を瞑った。




例え死でも、





(ふたりを分かたせない)






15/06/07


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