――花の香りがする。
まるで呼ばれるようにクロウは目を覚ました。
視界に入る天井に懐かしさと違和感を同時に強く覚えたのは、それがまぎれもなくトリスタにある第三学生寮、206号室の天井であるからだとすぐに気付く。あれだけ短い期間の自室であったのにもかかわらず、これだけの懐かしさを感じる事に驚いた。どうして自分がこの部屋で目覚める事になったのか疑問に思ったのは、その後の事だった。
もう二度と見る事が無いだろうと覚悟して出たはずの己の元部屋は、記憶にある雑多とした見慣れた風景に他なく、それが逆に異常事態であることをクロウは知っていた。とうの昔にこの部屋のものはほぼ全てが片づけられているはずだ。他ならぬクロウの手によって。どういう事だと室内を見回しながら無意識に手を胸の所にやって、指先の見知った感触にはたと体を見下ろす。そこにもまた、もうこの制服に袖を通すことは無いだろうと思っていた緋色があった。まるで記憶だけが過去に飛んできてしまったような心地だった。
目を覚ます前は何をしていただろうかと考え始めたクロウの視界の端にその時、一瞬ちらりと何かが映る。窓の外だった。目に刺さるほどの眩い光を湛えた空が、カーテン越しにこちらを照らしている。どうやら先ほどの一瞬見えた白い何かは、このカーテンの隙間から見えたようだが。
ベッドから身を起こして覗き込めば、目の前をさっきと同じ何かが掠める。それを目で追う必要は無かった。ひとつ、またひとつと晴れた空を舞うそれは、次々とクロウの目の前に現れた。
雪だ、と思った。とっさにそう考えたのは、今の季節を考慮したからだ。空は不自然なほど蒼く晴れ渡っているが、こんな年の瀬に空から降ってくる白い小さな何かといえば雪しかない。しかしそんなクロウの予想はすぐに打ち砕かれる。どうやら開いていたらしい窓の隙間から器用に部屋の中へと入りこんできた雪らしきものが、差し伸べたクロウの手の平に降り立っても溶けもせず、冷たい温度を与える事もなくそこに存在し続けたためだ。

「……嘘だろ」

寝起きの第一声としては間抜けた言葉だったが仕方がない。それは花びらだった。純白に輝くこの花びらの正体を、そういう物の類にあまり縁のないクロウでさえ知っている。おそらくトリスタに住んでいて知らない者はいないだろう。春に淡く花を咲かせるライノの木の花に違いなかった。
この場所がトリスタであるならばそこまで物珍しいものではない。問題は季節だ。さっき考えた通り、今はこの花が蕾を開かせる柔らかな気候とは真逆の季節のはずだ。それがどうして、こんなにも空を彩るほどの花を咲かせているのか。
儚い小さな花びらを無造作に手放し、クロウはベッドから立ち上がり歩き出した。常に一歩先を考えながら歩んできた今までの人生とは相反する行動を今クロウはとっている。現状を考えるより先に、まるで導かれるように部屋を出、寮の出口へと向かっていた。
予感がしたのだ。
この先に、己を待つ者がいると。


もしもライノの花が冷気を帯びるような花であったら、クロウはこの光景に足を踏み入れた今でも雪景色であると錯覚しただろう。寮から一歩外に出たトリスタの町は、隙間なく一面真っ白に覆われていた。その白ひとつひとつが花びらである事は、目を凝らせば何とか認識できる。足元も細かな花びらが敷き詰められている為、降り積もった雪のように足を取られる。そんな白い世界の中を、クロウは足跡を残しながらゆっくりと歩き始めた。
当たり前のように人っ子一人いない異常な光景をのんびり眺めながら、辿り着いたのは町の中心にある公園。その真ん中にこの世界で唯一、花びらで覆われていない誰かがいた。ここわずか半年で見慣れたその黒髪の背中を見つけて、クロウはようやく悟る事が出来た。

(ああ、夢か)

こんなにも穏やかな気持ちであの後輩の姿を見る事はもう無かったはずだ。そんな邂逅はもう二度と出来ない道にそれぞれ違えてしまった。それなのにクロウは、常に内側に持っていたはずの激情をどこかへ置き忘れてきてしまったように凪いだ心で緋い制服の背中を見つめている。この現状が夢以外のものであるはずがない。クロウは知らず知らず、ほっと息をついていた。
夢、ならば。この背中に声を掛ける事を許されるだろうか。
夢の中だけならば。

「よお。んな所に突っ立って何やってんだ?」

努めていつもの、以前日常的に交わしていた軽い口調で話しかける。ライノの花が次々と舞い落ちる中、公園の中心で空を見上げていたくせっ毛の頭が声に反応し、ゆっくりと振り返ってくる。今までひたすら白い花びらばかりを見つめていたせいか、少々ぼんやりとした視線がぱちりと、クロウと合った。薄紫の瞳がわずかに見開かれる。

「クロウ」

その声で、こうして己の名前を純粋に呼ばれる事が何故だかひどく懐かしい。笑みを深めて答えれば、相手はうろたえるように何度か瞬いた。夢の中のリィンも今は敵であるはずの先輩の出現に大いに戸惑っているようだ。
そう、リィン。リィン・シュバルツァー。士官学院の後輩であり、一時的な同級生であり、Z組の仲間であり、悪友であり、
そして。

「……どうしてお前が、ここにいるんだ」

クロウの思考を困惑いっぱいの声が遮る。どうしてと言われてもそう尋ねたいのはクロウだって同じだった。自分がここにいる理由と、リィンがここにいる理由。きっと誰に聞いたって分からないだろうと思ったので、欠伸混じりにこう答えた。

「さあなあ。ま、細かい事はいいんじゃねえの、どうせこれ夢だし」
「……ゆ、め?」

身体ごとクロウに向き直ったリィンの困惑した表情がさらに深まる。やはり夢の中の住人にこの世界は夢だと伝えても、理解できないものなのかと考えかけた所で。

「そう、か、夢……これは夢、なのか」
「おっ」

どうやらリィンは最終的に納得できたらしい。少し意外に思っていれば、正面からひたと薄紫の瞳で見据えられる。その視線には何かが込められているような気がした。こちらに伝えたい事、言いたい事があるらしい。夢の中の生き物だというのにやけに積極的だ。こうして夢の中でこれが夢だと認識したのは初めての事なので、クロウは内心少しだけ戸惑う。

「……クロウ」
「何だ?」

答えれば、リィンは無言を返してきた。正確に言えば、無言だけを返してきた訳ではない。まずクロウに突き付けられたのは……殺気、だった。

「はあっ!」
「っとお?!」

一瞬でも遅ければ、その真正面から飛んできた拳を避けきれなかっただろう。後ろに跳んで慌てて向き直れば、リィンは先ほど飛ばしてきた殺気を隠そうともしないまま、ギッとこちらを睨み付けていた。右手は力強く握りしめられていて、避けられた今もまだこちらにそれを叩きつける気満々なのが見ただけで分かる。思わず頬をひきつらせた。

「り、リィンさん?いきなり何してくれんの?」
「クロウ、お願いがあるんだ」

クロウの問いはさらっと流し、鋭い視線を飛ばしたままリィンが言う。

「殴らせてくれ」
「はっ?」
「俺の気が済むまで、全力で。もしかしたら気が済むことは無いかもしれないけど、それでもいいから頼む」
「い、いやいや、それじゃオレ様永遠に殴られ続けなきゃならないって事になるんですけど?そもそも、頼むって言いながら頼んでないからな、それ!ただの脅しだから!」
「細かい事はいいだろう、夢なんだから」
「細かくねーし、いくら夢でも許容できっかんなもん!」

じりっ。リィンが一歩踏み出してくるので、クロウも一歩後ずさる。足を動かすたびに地面から無数の花びらが舞いあがる。ライノの花は尽きる事無く空から降り続けているが、クロウの姿をリィンから隠す事は出来ない。緊張に張り詰める空間の中、クロウが悲鳴のような声を上げた。

「ちょ、タンマタンマ!せめて殴られる理由ぐらい教えてくれてもいいんじゃねーの?!」
「理由、分からないか?」

逆に尋ねられて、ちょっと考えてみる。すぐさま溢れ出てくる様々な事柄に一人、うん、と納得したように頷いて。

「……心当たりがありすぎましたー!」
「あ、こら待て、クロウ!」

踵を返して一気にダッシュした。敷き詰められる花びらに滑らないように注意を払って駆け出せば、背後からすぐに怒りの気配が追いかけてくる。殺気もまだ消えない。あいつは本気だ、と全力で走りながらクロウは悟った。背筋を嫌な汗が伝い落ちる。
どうせここは夢の中だし、一発ぐらいなら、殴られても仕方ないと思う気持ちもある。しかしそれだけでは済まない予感がひしひしと迫りくる。条件反射の様に逃げを打った足はもう止まらない。
こうしてクロウとリィンの、割と必死な鬼ごっこが始まった。


正直クロウは、リィンを甘く見ていた。体力には自信があったし、相手を煙に巻く事は得意中の得意だ。誰かに一対一で追いかけられて捕まえられる事など、子供の頃はともかく今ならあり得ないだろうと自負していた。
だから今回のおいかけっこも、捕まる気は一切なかった。相手が諦めるまで逃げ切って、悔しそうに肩で息するリィンを散々からかって、そして最後に一発ぐらい殴られてやってもいいと、そう考えていた。それが大変甘い考えであった事には、すぐに気付く事となる。
その足の速さもさることながら、とにかくしつこいのだ、この後輩は。

ズベシャッ
「いっつ!」

ああ、また背後で転んだ。この溢れんばかりのライノの花びらはトリスタの町中、そしてトールズ士官学院まで全てを埋め尽くしていた。どこにいっても花の香りが辺りを包み、白い絨毯が石畳やグラウンド、室内や廊下にまで分厚く伸びていた。今の所なんとかクロウは一度も転んではいなかったが、リィンは何度も身体を花びらの海にダイブさせていた。おかげで振り返るたびにあちこちくっついた花びらのせいで白く染まっている。地面に倒れるならばこの足を取る絨毯が逆にクッションになってくれているだろうが、たまに滑らせて壁なんかに激突しているときはさすがに痛そうだ。例え夢の中だとしても。
それでもリィンは睨み上げる瞳と握りしめる拳から力を抜く瞬間は一度もなく、何度も再び立ち上がってクロウを追いかけてくる。大した執念だった。何を犠牲にしても成し遂げなければならないという想いはクロウも理解できるが、その対象がどうして自分なのかと頭を抱えたくなる。

「お前なあ……俺ばっかり追いかけてどうすんだよ。その情熱をもっと他の事に向けてみろよ」

場所は士官学院の校舎内、ちょうど一年Z組の教室前の廊下だった。十分な距離を取って立ち止まり、花びらの中に埋まってもがく頭へ思わず声を掛ける。大人しく捕まる気は今も無いが、その必死な様子が少々不憫だ。夢中でこちらの背中を追いかけるせいで余計に転んでいるだろうから特に。
ぷはっと顔を上げたリィンは、その頭にも頬にもライノの花びらをつけたままクロウを見上げた。そして、

「……っ!うるさいっ!!」

鋭く叫んだ。クロウが驚いたのはその声の大きさと響きだ。リィンが今ほどまでに吐き出すような大声を上げたのは初めて聞いたし、言葉はまるで泣き出す寸前の様に不安定に揺れていた。向けられた表情をよく見れば、噴き上がる怒りに隠れるように心を裂かれたような痛みを耐える顔をしている。今まで内側に必死に押し込めていたものが、とうとう顔を出したのか。純白の花びらを握りしめる手が細かに震えている様を見て、クロウは言葉を失う。
どうしてリィンはこんなにも必死に、後を追いかけてくるのか。

「お前がっ……!大人しく殴らせてくれないのが、悪いんだ……!」
「お、おい?」

思わず手を伸ばしかけた先で、いきなりリィンの姿が見えなくなった。理由は二つある。一つは、地面に静かに降り積もっていた白がリィンの周りだけ一度にぶわりと舞い上がったから。もう一つは、そんな白に紛れたリィンが保護色の様に色を変えたからだ。かろうじて一瞬後にその姿を認識できたのはひとえにその制服の色と、燃えるような緋の目のおかげである。とてつもない怒りに身を焦がしている者はきっとこんな瞳の色をしているのだろうと、呆ける頭で思った。
花びらがいきなり宙に踊った理由が、白髪と緋の目に姿を変えたリィンの鬼の力によるものであると理解した瞬間、クロウは横に跳んでいた。

「ここでその力かよっ?!」
「はあぁっ!」

驚異のスピードでリィンが地面を蹴る一瞬前に、窓ガラスを割ってクロウは外へと逃げ出す事に成功した。とっさに行動を起こした己の判断力に頭の中で拍手を送りながら、受け身を取って中庭に着地する。安堵する間もなく花びらを蹴散らしながら駆け出せば、背後からもう一回ガラスの割れる音。やっぱりそのままついてくるのか!

「その力まで使うなんて卑怯だろーがっ!」
「卑怯なのは、どっちだ!!」

文句に訳の分からぬ文句で返され、苛烈さを増した鬼ごっこは続く。繰り出される腕を紙一重でかわしていく危うい攻防の中、しかしクロウは勝利を見据えていた。リィンのこの力が長続きしない事は知っている。ここはいわば何でもありの夢の中だが、今までの様子を見るに身体能力は現実とほぼ同じように備わっているようだ。だからきっとこの猛攻撃も終わりを迎える時が来るだろう。そうなったら今度こそクロウの勝ちだ。
いい加減こちらも息が切れてきた頃、クロウの思惑通りひっきりなしに続いていた背後からの攻撃がふと止んだ。振り返れば、白き獣の姿は見えなくなっていた。振り切ったのか。

「へ、へへ、ほら見ろ俺の勝ちだ。先輩舐めんなよ」

膝に手を置いてぜーぜー息を吐く情けない姿ではあったが、一応勝利宣言でもしておく。未だ雪の様にライノがはらはら降り落ちる中、雲一つなく抜けきった青空が大きな影で隠されたのは、その時だった。

「……は?」

見上げた時には何もかも遅かった。日の光を受けて鈍く光る灰色の機体。その手には彼のために作られた特別な太刀を携えたまま、いっそ優雅に空を飛ぶこの巨体は。頭上から振り上げられる大きすぎる刃に、もはやクロウは悲鳴を上げる事しかできなかった。

「おっま……いくら夢の中だからって、生身相手にヴァリマールは卑怯すぎんだろおおおお!」
『問答無用!』

その時発生した豪快な破壊音は、花に覆われた町の隅々にまで響き渡った。






「……はあ。騎神の圧倒的な力をまさかこの身で味わう日が来ようとはな……」

見上げた空の青さが目に染みる。クロウは花びらの山に埋もれながら仰向けで倒れていた。視界の端にはちらりと、あの不可思議な旧校舎の姿が見える。逃げ回るうちにいつの間にか学院の奥地まで来ていたようだ。花まみれの世界でそこだけが、淡い光を放ちながらライノの花に染まる事無く佇んでいる。それをぼんやりと眺めながら、さっきのひどすぎる一撃を思い出す。
ヴァリーマールから先ほど身体に受けた衝撃には一瞬で「あっ死んだ」と思わされたが、夢の中でさすがに存在を抹消されることは無かったらしい。それなら夢の中であんなにリアルな衝撃を与えてくれなくてもよかっただろうと、愚痴でも垂れたい気分だ。
あれだけの一撃に襲われたのにも関わらず、周囲を埋めるライノの花は飛び散ることなくクロウを取り囲んでいる。それどころか空から舞う白い欠片は、最初見た時よりも量を増やして次々と降り注いでくる。このまま横たわっていればあっという間に花の中に全身埋もれる事が出来るだろう。それでも体を起こす気になれなくてそのまま転がっていれば、花びらを静かに踏みしめながら近づいてくる足音を拾う。
やがて真上を向くクロウの視界に現れたのは、静かな表情を張りつかせたリィンだった。もう白い髪も赤い目もしておらず、口元を引き結んだままこちらを見下ろしてくる。その拳はまだ、固く握りしめられたままだ。

「……何だよ、まだ満足しねえのか?」
「ああ、まだだ」

即答されて、ああ何て強欲な後輩だと大げさに嘆く。リィンはそれに付き合わずに、ただクロウを見下ろした。そのままゆっくりと傍らに膝をつき、握りしめた右手を振り上げる。クロウは動かなかった。
そうして振り下ろされた右手は――あまりにも弱弱しい力で静かに、クロウの胸元に落ちた。

「……リィン?」

名前を呼んでも返事はない。その間にもぽん、ぽんと断続的にリィンの拳はクロウに振り下ろされ続ける。屈むリィンの肩にもかかる花びらの方がまだ落ちてくる力があるのではないかと思わされるほど、それらは全て力のないものだった。

「……、まだ、まだ足りない。殴り足りない。俺の一生をかけて殴ってもまだ、足りないんだ」

俯く口から独白が零れ落ちる。今クロウに降り落ちるものはライノの花びらと、か細い呟きと、弱弱しい拳と、それと。
ぽつりと落ちる、小さな雫。

「足りないんだよ、クロウ……まだまだ、足りなかったんだ。伝えたかった事も、交わしたかった言葉も、知りたかった気持ちも、知って欲しかった想いも、共に生きる時間も、何もかも、足りなかったんだよ」

いつの間にか振り下ろされる拳は止んでいた。解かれた指はクロウの胸元を握りしめ、代わりに落ちるのは数を増やしたあたたかな雫だった。

「こうして夢の中でなら触れられるのに、俺は結局一度も、お前を捕まえる事が出来なかった……まだ何も、返せていないのに」

ぼろぼろと零れ落ちる雫は止まらない。肩をしゃくり上げながらリィンは身を屈め、額をクロウに押し付けたまま、悲痛に濡れた声を上げる。

「なんでだよ、クロウ……なんでお前はいつも、俺の手の届かない所に行ってしまうんだよ……!もう二度と俺は、お前に触れられないじゃないかッ……!!」

聞いている方が心を裂かれるような悲鳴。クロウの胸に顔を埋めて涙をこぼすリィンの姿に、クロウはようやく気が付いた。
今までの事全てを思い出して、気が付いた。

(ああ、なんだ)

貫かれた心臓。
急速に失われていく力と意識。
ここまで追いかけてきた、馬鹿で大切なクラスメイトたちに贈った言葉。

最期に見た大事な子の泣き顔。

納得した。

(夢の中の住人はこいつじゃなくて、俺の方だったのか)

だって、死人が夢を見るはずが無いのだ。


「……ったく、お前はほんとに甘ったれだなあ」

ゆっくりと身を起こし、項垂れる黒髪へ手を伸ばす。夢の中の生き物に意識があるなんて初耳だった。この夢の世界の本当の主はクロウが頭に手を乗せれば、濡れた瞳で見上げてくる。その服はいつの間にか制服から、クロウが最期に見たリィンの姿に代わっていた。相変わらず赤の似合う奴。一番最初にその姿を見た時に思った事だ。とすれば自分も最期のあの時の恰好をしているのだ。
胸に風穴が空いた、あの時のままで。

「……ああ、俺は本当に、どこまでも甘ったれだったみたいだ」

クロウが優しく撫でてやる感触を確かめるように目を細めるリィン。声は震えたままだった。その手も相変わらずクロウに縋り付いたまま離そうとしない。どれだけこの夢の中のクロウに縋っても、そこには何の意味も無い。そんな事、自分自身が一番分かっているだろうに。

「なんだ、俺が最期に言った事、忘れたのか?」
「……っ忘れる、わけがっ……!」
「ああ、分かってるよ」

直接見なくても分かる。このいつだって真摯に慕ってきた愛し子が、どれだけの想いでクロウの言葉を受け止め、歩もうとしているか。本当はこれだけ甘えたなくせに、きっと今まで以上に気を張って、一人で、何とか歩もうと足掻いているのだろう。
そんなリィンにクロウがしてやれることは最早、何もない。こうして夢の中で出会う事でさえ、こんなにもリィンを苦しめる。
それでも。

「仕方ねえな」

撫でていた頭を引き寄せ、腕の中に閉じ込める。夢の世界に温度というものは存在するのだろうか。少なくともクロウは今、胸の内にそれを感じていた。この肩を震わせしがみついてくる身体からあたたかな体温を感じ取れること、鼓動が伝わってくることに、何よりの幸福を感じる。残してしまった事への罪悪感と、この命が未来へ続く手助けが出来た事への喜びが、同時に胸をついて出る。
後悔はしていない。だから謝らない。その代わりに、腕の中で泣き続けるリィンの髪に頬を寄せ、力を込めて抱き締めた。

「今だけだ」

ここは夢の中だから。リィンだけの幻の世界だから。

「帰ったらちゃんと、前を向くんだぞ」

言い聞かせるように呟いて、あやすように背中を叩く。腕の中で身じろぎをした頭は、聞き分けた良い子の様に頷いたのか、駄々を捏ねて首を振ったのか。確かめるなんて野暮なことはせずに。
ライノの花の海の中。ただその体を、抱き締め続けた。


願わくばこの子供にも。

今の自分が味わっている幸福がいつか、訪れますように。



その時隣に立てない事が、夢の住人のくせにほんの少しだけ、悔しかった。




花の邂逅

























ゴーン

ゴーン

どこか遠くの方で、鐘のなる音が聞こえる。

まるで呼ぶように。

戻すように。

鐘の音が。







14/10/17


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