騎士たちの休日



エレボニア帝国市民に尋ねれば、十中八九そこが帝国の中心だと答えるだろう。帝都ヘイムダルに鎮座する緋の王宮、バルフレイム宮。皇帝陛下が住まうその要塞とも見紛う堅牢な赤の城には、皇族や政治関係者、帝都市民、いやエレボニア帝国という国そのものを守るために多くの兵士が務めている。彼らの宿舎や訓練施設などは、ドライケルス広場から見渡す事の出来る悠然とした紅き城の裏側、外からは見る事の出来ない奥まった場所に位置していた。一般市民には決して公開されることが無い舞台裏が、それ故に今まで注目される事などなかった。しかし、ここ最近は練習風景などを見てみたいという民衆たちからの無邪気な意見が多く上がるようになっている。
理由は、明白だった。誰もが「英雄」の姿を少しでも多く目にしたいと願っているためだ。数年前帝国の窮地を救った、今は皇族の武官として名を馳せる二人の若き騎士を。



普段は兵士たちの気合が入った声や剣の打ち合う音が勇ましく響く訓練場が今、奇妙に静まり返っている。まったく音が鳴らない訳では無い。数人から発せられる必要最低限の金属の音と、何故か潜められた掛け声が断続的に聞こえるだけだ。昼間非番の兵士が自由に使えるように開放されている訓練場に、平常時より多くの人数が詰めかけているとは思えないほどの静寂。入口から程近い壁際に、息ごと声を飲み込んで数多の視線が釘付けになっている人物がいた。彼こそがこの、たった一人の姿を見るためだけに男たちを集まらせた原因その人であった。
からりと晴れた天気によって熱が篭った室内の、その一角だけが涼しささえ感じるほどの凛然とした空気を纏う姿。一定の間隔で振られる刀身が奏でる空気を裂く小気味よい音と、規則正しく吐き出される呼吸音。青みの強い薄紫の瞳はただ真っ直ぐ前を見据えていて、外野など気にもせずにただひたすら、己の体に染みついた型を恐ろしいほどの正確さでなぞっていく。この辺りじゃ珍しい東方由来の片刃の太刀、跳ね癖のある濡れ羽色の髪、意志の強さを感じさせる青紫の瞳、いつでもぴんと真っ直ぐ伸びた細身の体に、見つめる者たち全てが知る彼の輝かしい正体が合わさり、ただ一人素振りをしているだけの姿を何よりも崇高なものに見せている。もちろん、本人に注目されるようなつもりは一切無い。いつもは早朝などに行っている鍛錬を、久しぶりに空いた時間を使って現在励んでいるだけだ。
人通りの型を慣らし終わり、額に滲んだ汗を左手の甲で拭う様子にさえはっと息を飲まれるある意味緊張した空間の中に、遠慮なしに声が割り込んできたのはその時だった。

「よっ。相変わらずどこでも注目されてんなあ色男」

普段はなかなかこの場所で見られない武官殿が作り出す神聖な空気を容赦なく壊したその声に、しかし文句をつける者は誰もいなかった。むしろ遠巻きに見ていた群衆から抜け出しあっさりと近づいていくその姿に、一瞬その場がざわついた。驚きと、憧れによる歓喜に染まったどよめきだった。
バンダナで押さえられた白に近い銀の髪と、真紅よりも柔らかな赤紫の瞳。鍛え上げられた腕が無造作に握るのは、普通あれほどまでに軽々しく持ち運べるものではない重量の武器。自らが骨董品だと揶揄するそれは、今では扱う者もほとんどいない大きな双刃剣だった。肩に抱えて軽い足取りの姿にはしかし、軽薄そうな笑みとは裏腹にどこにも隙は無い。
ひょいと目の前に現れた男に、答えた声はどこか不服そうだった。

「クロウにだけは色男なんて言われたくないんだが?」
「お?なに?つまりオレ様が眉目秀麗の美男子だって?そんなに褒めても何も出ないぜリィン君」
「いや、そこまでは言ってないから」

その呆れた言葉にもふざけた言葉にも、変わらず込められているものは隠しきれない親愛の情。合わさる視線も柔らかい。当たり前だろう。その理由をこの場にいる全員が例外なく知っていた。少なくとも、この二人の事を知らないエレボニア兵士は存在しないだろうし、エレボニア帝国市民にまで広げても恐るべき知名度に違いない。
リィン・シュバルツァーとクロウ・アームブラスト。目の前にいるこの二人こそが、今は皇族の武官として活躍する二対の騎士で、帝国の英雄と呼ばれるその人達なのだから。

「それにしても、久しぶりの非番の日に稽古かよ。相変わらず真面目だなあお前は」
「クロウだっていつもはあんまり訓練場に来ないのに、今日はどうしたんだ?」
「そりゃま、誰かさんがここにいるって風の噂で聞いたもんでな」

聞き耳立てていなくてもお前の噂話はよく聞こえるな、と笑いながらクロウが双刃剣を肩に担ぐ。それはお互い様な話なのだが特に口を挟む事無く、リィンも笑みを浮かべた。クロウが何をしにここまで来たのか、正確に読み取ったからだ。

「珍しいな」
「たまには公衆の面前でお稽古ってのも悪くねえだろ」
「いつもは、練習してる所見せるなんて英雄っぽくないって無駄に隠してるくせに」
「おい、言うなっての。……ま、そういう事で」

とんとんと、肩に乗せた双刃剣を弾ませたクロウは、言葉を切って二対の刃を閃かせた。軽く振るだけでも風を切る音が聞こえるその重量を、そのままあっけなく構えてみせる。クロウが構えきる前に、リィンも鞘に戻していなかった太刀を構え直していた。どよどよとざわめいていた周囲から音が消える。その場にいる誰もが目の前の光景に集中していた。
そんな静寂など無いもののように扱いながら、クロウは空いていた右手をリィンへと掲げて、ちょいちょいと手招きしてみせた。

「ちょっくら相手してくれや、灰色の騎士様?」

不敵な笑みを浮かべるその顔に、答えたリィンも感化されたように挑むような笑顔で。

「こっちこそ。胸を借りるぞ、蒼の騎士殿」

訪れた沈黙の間は僅か。明確な合図があった訳ではないのに、足を踏み出し武器を振りかぶったのは二人ともほぼ同時であった。熱が籠り重い空気が満ちる訓練場に、刃が打ち鳴らされる澄んだ音が鳴り響く。一度きりではない。何度も何度も、繰り返し空中で交差する刃。傍から見るその様子は、両名とても手を抜いているように見えない。実際普段から扱っている殺傷能力のある愛用の武器で、本気を出し合いながら、手加減無しに刃を打ち合っているのだ。普通なら目を覆いたくなるほど危険な光景だが、先ほどから釘付けの無数の視線が外される事は無い。それは、滅多に見る事の出来ない二人の騎士たちの稽古姿だからという事と、真剣に試合を行う二人にまったく不安感が無かったからだ。
ARCUSによるリンクが繋がっている訳では無い。それなのに何か、明確な線で通じ合っているのではと錯覚させられる息の合った動きは、さながら精練された剣舞を見ているかのようだった。一際高く鋭く太刀と双刃剣が合わさった時なんかは、歓声と拍手が起こりかねない熱狂が辺りを包む。拳を握りしめた兵士たちが見守る中、リィンとクロウが発する音以外何も聞こえなくなってしまった訓練場は今、騎士たちによる即興の舞台へと変化していた。

「っふふ、お二人ともさすがですわ。見ているだけで惚れ惚れするような息の合いようなんですもの」

思いきり踏み込んでから刃が弾かれる反動のままに二人の距離が開き、僅かに出来た息をつく合間に突然、鈴を転がしたような声が飛び込んできたのはその時であった。
見入っていた兵士たちだけでなく夢中で稽古を行っていたリィンとクロウもハッと我に返り、大量の視線が一度に動いてある一点に集中する。訓練場の入口に立ち、くすくすと可憐に笑う少女の姿に、誰もが息を飲んだ。一つは味気のない部屋に突如現れた優美なその姿に眩しささえ感じたため。もう一つは、その人物が第一に守るべき存在であるバルフレイム宮の主の一人であらせられたためだ。

「アルフィン殿下!どうしてこんな所に……」

代表してリィンがその名を呼んだ。答えるようににこりと微笑んだアルフィンが、何の躊躇いもなく室内に入り込んで二人に歩み寄ってくる。慌てて武器を仕舞い込んで、さすがのクロウも困った顔で傍に来たアルフィンを見下ろした。

「おいおい姫さん、こんなむさ苦しい所に一体何の用だ?」
「あら、私の騎士様が城内で実しやかに噂されているんですもの、気になって様子を見に来てしまうのも仕方がないと思いませんか?」
「あー」
「噂?」

仕方なく納得の声を上げるクロウと、まったく心当たりが無さそうに首を傾げるリィン。クロウと、アルフィンにまで生暖かい目で見つめられて、急いで考え込む。そうしてリィンはすぐに答えを導き出した。

「あ、そうか!クロウが珍しく訓練場にいるぞって噂になって、それで?!」
「おめーもだよ!」
「リィンさんもです!」
「え、ええっ?!何故!」

本気で分かっていない顔は、そもそも自分がまずこの人数を呼び寄せた事にまったく気づいていない。今までの経験と現在の役職上、敵意や悪意が少しでも含まれている視線には敏感に気付くくせに、純粋な好意等にはとんと疎い所が相変わらずのリィンだった。

「ったく、仕方ねえ奴だなー」
「ですわねー」

顔を見合わせてまるで普通の友達同士のようにねーと首を傾け合う、とても主従関係とは思えないクロウとアルフィンの姿もまた、ここではありふれた日常風景である。最初はクロウにきつく注意していたリィンも、楽しそうなアルフィンの姿もあって最近では苦笑いで済ませている。公式の場では二人ともちゃんと立場を弁えた振る舞いをしてくれるので大目に見ているのだった。

「それにしても本当に、リィンさんもクロウさんも人気者ですわね。皆さんこんなに釘付けになっているんですもの」

気を取り直したアルフィンが、事の成り行きをただ見守っていた兵士たちを見回し、ぱちりとウインクする。それだけで一気に顔色を青くさせた群衆は、蜘蛛の子を散らすように解散して動き始めた。訓練場にいつもの活気ある声が響き始める。今まで自分たちの訓練の手を止め、完全に見惚れていた事を誤魔化すように少々大げさな動きと声が溢れかえるが、ちょんと肩を竦めただけでアルフィンは何も咎めることは無かった。

「皆さんのお気持ちはとても良く分かりますわ。私も噂を聞いてつい、部屋から抜け出してここまで来てしまったぐらいですから」
「殿下……」

可愛らしく微笑む帝国の至宝に、リィンが思わずため息をつく。本日皇族の方々は珍しく誰も外遊などの用事がなく、だからこそ皇族付きの武官であるリィンとクロウもこうしてバルフレイム宮内で待機している状態だった。アルフィンは確か自室で書類等の整理をしていたはずだが。

「私、一日中じっとしていられる性分ではないんです。机に齧りつくぐらいなら休みなしで各国を外遊していた方が何倍もマシです!ああ、お兄様みたいに私もいつかお忍びでリベール一周とかしてみたいですわ……!」
「そ、そんな、アルフィン殿下が確実にオリヴァルト殿下に染まっている……!ミュラーさんが見たら泣くか倒れるかしてしまいそうだ……」
「いや、あの人の事だからオリヴァルト殿下にお前のせいだとか何とか言って腹いせで一撃ぐらい食らわせたりすんじゃね?」
「それはさすがに……いや、ミュラーさんならしそうだな、限りなく……」

手を合わせてどこか遠くを見て瞳を輝かせるアルフィンの姿に、将来に一抹の不安が過ぎる二人であった。脳内ではあの良い歳して皇族一の問題児かつ、今まで散々世話になってきてしまった人のムカつくような笑顔がウインク付きで写し出されている。彼にはすでに幼少の頃からミュラーというつっこみ役……いや、守護役がついているので二人が護衛の任に就く事はあまりないが、それでも十分あの破天荒さは身に染みている。どうかこれ以上アルフィンがオリヴァルトに似ませんようにと祈る事で精一杯だ。手遅れかもしれないが。
一通りお喋りが落ち着けば、アルフィンは気が済んだのか、良い笑顔で踵を返した。

「さて、良い気分転換になりましたので私は部屋に戻ります。メイドたちに内緒で隠れて抜け出してきてしまいましたので」
「またそんな無茶を……」
「たまに俺らが手引きしてんじゃねーかって疑われんだから、ほどほどにしとけよー」
「うふふ、なるべく頑張ります。では、お二人もせっかくのお休みなんですから、もっとゆっくり休まれて下さいね」

スカートの端を摘まんで優雅にお辞儀をしてみせたアルフィンは、そうして颯爽と訓練場を出て行った。思えば嵐のような時間であった。リィンとクロウは互いに顔を見合わせ、思わず同時に息を吐き出す。

「……はは、殿下にああやって言われてしまったし、今日はこれくらいにしておこうか」
「おお、そうしようぜ。しっかしここはあっちいな……リィン、お前も汗まみれだろ?ちょっとあそこ寄ってこうぜ」
「あそこ?それより本当に汗だくだから、早く着替えたいんだが」
「だからー、その前に文字通り汗を洗い流そうぜって事だよ。いいからほら、行くぞ」
「わ、っとと。待てよ、クロウ!」

手を取って強引に歩き出したクロウに、一度はよろけながらもすぐに足を動かして後につくリィン。振り返る事無くあっさりと訓練場から出て行って、そのまま去っていくかと思われた二人分の頭の、一人だけがひょっこりと顔を覗かせて戻ってくる。完全に見送る体勢でいた兵士たちが疑問に思う中、紅の瞳がにやりと口を歪めさせた。

「……お前らさ、気持ちは分かるが……あまり見てくれるなよ?「俺の」相方をよ」

その言葉だけを言い残して、音もなく消えた銀髪の頭。熱気で汗が噴き出すほどだった室内の温度が、一気にガッと下がったような錯覚。中にはその場にへたり込む者までいた。それほどまでにあの一瞬で放たれた、穏やかな声と表情に隠された鋭い何かの威力は凄まじかった。
近くにいた者にはおそらく見えていただろう。一人牽制するように戻ってきた蒼の騎士のその瞳だけが、笑っていなかった事を。



エレボニア帝国という国を表しているような重厚な城壁の向こう側にも、憩いの場というものは存在する。城の規模にしては小さいそこは、整えられた木々や植えられた花々が目を楽しませ、心を癒してくれる緑溢れる中庭であった。天井は無く、日の光が眩いほどに降り注ぐ青空の下にクロウとリィンがやってきた時、そこには他に誰もいなかった。

「中庭にまで来て、一体何をするつもりだよ」

導かれるまま黙ってついてきたリィンがとうとう口を開く。じっと薄紫の瞳に見つめられる中、調子の外れた鼻歌を歌いながらクロウが向かったのは中庭の隅。しゃがみ込んで何かをごそごそと漁り始めた。一体何をたくらんでいるんだ、と若干嫌な予感がしながらもそろそろと歩み寄ったリィンの、その顔に。
前触れもなく冷たい何かが正面から勢いよく襲い掛かり、全身をびくつかせて飛び退いていた。

「っぶわっ?!」
「ックク、おーっとすまねえ、勢い良すぎて掛かっちまったな!」

まったくすまないなどと思っていないであろう声を聞きながら、リィンは目を瞑ってぶるぶると顔を振る。犬みてえ、と微笑ましそうに呟く声の主が振り返る直前その手に持っていたものを、リィンはとっさに目を瞑る寸前で視界に入れていた。あれは間違いない、この瑞々しい植物たちを育て上げるためには必需品の、水を振りまく細長いあれ。そう、ホースだった。

「っクロウ!いきなり何するんだっ!」
「これだけ暑い日なんだ、こいつで水を被ればさぞかし気持ちいいだろうなーと思ってよ。体も冷やせて、汗も洗い流せて一石二鳥、な!」
「いや、それなら普通にシャワーでも浴びれば済む事だし、不意打ちで水を掛ける事への言い訳にはなってな……うわっ!」

ようやく目をあけたリィンが楽しそうに笑うクロウを睨み付けながら小言を言い終わらないうちに、再び向けられたホースから水が飛び出してくる。今度は顔面に直撃することを避けられたが、身体に思いっきり掛かってしまった。ホースを手に立ち上がったクロウがケラケラと笑う。

「どうせ着替えるんだからシャワーでもホースの水でも同じ事だろー?ほれほれ、諦めて濡れ鼠になっちまえー」
「つっ冷た……!や、やめろって!」

オフだし稽古だし、と、二人とも動きやすいシャツとズボンという簡単な服装をしてはいた。いたが、だからといって体ごと濡らしていい道理はない。リィンが飛び退けば飛び退くほど、クロウはホースの端を摘まんで水の行く先を巧みに操りいつまでも後を追いかけてくる。そのしつこさと心底楽しそうなにやにや笑いに、いい加減リィンの堪忍袋の緒が切れた。そもそもこの袋の緒、クロウ相手には遠慮のないリィンにとってとても切れやすいものなのだ。
すでにぐっしょり濡れてしまった靴をおもむろに脱ぎ去り、逃げを打っていた体勢から一転、相手の懐目掛けて地面を蹴り、飛び込む。急に突撃されたクロウがうおっと驚きの声を上げている隙にリィンは手を伸ばした。目的はもちろんホースだった。

「おまっ相変わらず速っ!今一瞬白髪になってなかったか?!」
「知らない!それを寄越せ!クロウだって汗まみれじゃないか、俺が頭から水ぶっかけてやるから!」
「ハハハ、エンリョシマス。俺がこれ以上水も滴るいい男になっちまったら、眩しすぎて見えなくなっちまうだろうが!」
「アホな事言ってないで早くそれを渡せ!」

手加減なしにリィンが強奪を狙ってくるので、クロウも力一杯抵抗する。そうすると、間に挟まれたホースは二人の手によって圧迫されて、吐き出していた水をやむを得なく止めていた。その矛先は揉め合ううちにいつの間にか地面から空へ。ぐねぐねと曲がるホースの中では勢いの衰えない水が荒れ狂っていて、僅かに二人の手が緩んだ隙をついて出口へと向かう。その結果、どうなるか。
上に向けられていたホースから噴射された水は、二人の頭上に容赦なく降り注いでいた。

「ぐあっ!つめてえ!」
「し、しまった!」

後悔してももう遅い。リィンもクロウも頭の先から濡れてしまっていた。焦るあまり揃って手を放してしまったせいで、空中でうねったホースからの追撃をもまともに受けてしまう。地面に落ちて水を吐き出し続けるホースを呆然と眺め、顔を上げて互いの濡れた姿を見つめ、二人は。
同時に笑っていた。

「っはは!何だこれ、まるで子供みたいじゃないか」
「ククッいーじゃねえか。たまには童心に返る事も若い精神を保つには必要だぜ、リィンおじいちゃん」
「おじいちゃん言うな。クロウは普段から返りすぎだろ、まったく」

呆れた物言いながらも、リィンはくすくすと肩を震わせながら楽しげだった。クロウもさらに笑みを深める。普段は、特に灰色の騎士と呼ばれるようになってからは何の憂いもない笑顔を見せる事が少なくなってしまったリィンの、こうした無邪気な笑みを引き出す事がクロウにとって日常における楽しみの一つでもあった。リィンがこうしてむき出しの感情のままの表情を見せるのはクロウだけだ。リィン自身もそれに気づいていて、だからこそ壁も何もない対応が出来る。
今もまた遠慮など一切無く、足元に落ちたホースをいち早くリィンの手が掴んだ。げ、と頬をひきつらせたクロウににやりと口の端を持ち上げた表情は、どこかで見た事のある誰かさんそっくりの笑顔で。

「待て、リィン君、少し落ち着こう。な」
「くらえ!」
「ガボゴボッ?!……っぺっぺっ!く、口の中をピンポイントで狙う奴があるか?!いくらなんでも意地悪すゴボゴボッ!?」
「あはははっ」

高い高い壁に覆われた小さな中庭に響く笑い声。水の音はそれからしばらく止む事はなかった。どうせだからこのまま水やりをしようと、ふざけるためだけに水を出しっぱなしには良心がとがめて出来なかったリィンからの提案で、辺りを囲む緑に二人掛かりで水をやり始めたからだ。その間にも互いに水を掛け合いまくったので、全身濡れていない場所なんて無いと言い切れるほど揃ってびしょ濡れになってしまう。このまま建物内に入る訳にはいかなくなってしまったので、誰かが通り掛かったらタオルか何かを持ってきてもらうように頼むつもりだった。
しかし不思議な事に誰も来ない。一度はリィンも中庭への入口を通り掛かった兵士と目が合ったのだが、途端に顔を青ざめさせて逃げるように走り去ってしまったのである。訓練場で見た顔だった気がしたが、あの時は熱心に見てきたくせにどうして、と首を傾げるリィン。口笛を吹くクロウから真実が話されることは無かった。

「っはー、ようやく涼しくなってきやがったなー。無駄に水撒きを頑張った甲斐があるってもんだ」

ようやく蛇口をひねり、水を止めた頃には二人ともぐっしょりと完全に濡れそぼってしまったシャツを脱ぎ捨てていた。本当は下まで全て取り払いたいぐらいの気持ちなのだがさすがにそれは出来ず。きつく絞ったシャツを肩に引っかけて、クロウは満足げに周囲を見回す。良く晴れた空の下、水滴を浮かび上がらせて瑞々しく輝く景色は心が洗われるほど美しかった。
ホースを丁寧に片づけて元の位置に戻したリィンが立ち上がり、クロウへと歩み寄る。その顔は少しだけ恥ずかしそうだった。

「年甲斐もなくはしゃいでしまった……クロウのせいだからな」
「んだとーあれだけ楽しそうに人に水ぶっかけまくったくせに」

こつんとクロウが軽く額を小突いてやれば、頬を少しだけ染めながらもその顔はすぐに笑った。
さて、そろそろ本格的に誰かを捕まえてこのびしょ濡れの状態から助けてもらわなければ、と頭を切り替えかけた所で、クロウはその視線に気付く。いつの間にか真剣な光を帯びていた薄紫が、己の腕とクロウの腕をしきりに見比べていた。何故だか悔しそうに歪んだ口元を見てこれ見よがしに溜息を吐いた腕が、もう一度リィンの頭を小突く。

「いてっ。な、何だよ」
「まーたお前は、事あるごとに比べやがって。人間には生まれつき持った体格ってもんがあんだから、いくら俺とお前を比べても不毛だっての」
「……それでも、少しは近づきたいじゃないか、男として。何でこんなに厚さが違うんだろう……」

納得のいかない声で、リィンがぺたぺたと剥き出しの腕や体に触れる。別に見慣れないものでもないくせに、リィンはたまにこうして諦めきれない様子で穴があくほど熱心に体つきを見比べてくる事があった。別に見られても触れられても困る事は無いのだが、いや時と場合によっては困る場合もあるのだが、とりあえずクロウはその度に懇々と言い聞かせてやっている。生まれ持ったものだけでなく扱う武器さえ違うのだから、必要になる筋肉や力がそれぞれ違っていて当然なのだ。ただ鍛え上げれば良いというものではない。それを自分でもわかっているくせに、リィンは羨ましがる心を抑えきれないようだった。
そりゃ同じ男として気持ちは分からんでもないし、憧れてもらえるのは素直に嬉しいけどなあ、と、クロウが内心で一人ごちている間に。突くように触れていたくすぐったい指先が、とある地点に辿り着いて動きを止めた。ちょうどクロウの正面、胸の上。見下ろしてすぐにその理由が分かる。無視できないほどの大きな「痕」が、そこにはあった。

「……いつ見ても、痛ましいな」

囁くようなリィンのそれは独り言。話しかけた訳ではなく、湧き上がってきた感情のままにぽつりと呟かれたその声は、発言した本人が痛みを感じているかのように掠れていた。押し当てられた手の平には余計な力を加えないよう細心の注意が払われているのがまざまざと分かる。そんなに丁寧に扱わなくとも痛みなど一切感じないのだが、と思ったクロウだったが、言葉に出すことはしなかった。そんな事は二人ともよく分かっている。リィンが感じている痛みは現在のものではなく、とっくに乗り越え過ぎ去ったかつての記憶の残滓に過ぎないのだ。
そう、かつて。クロウがこの胸に致命傷を負い、儚く命を散らした過去。一度は風穴が空いたそこから、様々な運命と奇跡が重なって現世に戻ってこれた今でも刻み込まれた痕が消える事は無かった。確かにひどい痕が残ってしまったが、それでも痕は「痕」でしかない。今現在クロウはこうして生きて、名実ともにリィンの隣に立ち続けている。その「今」があれば痕など取るに足らない事であるし、実際普段のリィンも特に気にしたりすることはなかった。
しかし普段は服の下に隠されているそれが太陽の下に晒され、しっかりと目にしてしまった事で何やら感傷的になっているらしい。「あの頃」のようにふざけ合った直後だった事も関係しているのかもしれない。クロウは困った顔で笑うと、リィンと同じように手を伸ばし、リィンと同じように目の前の胸の上に手の平を置いた。対照的となったその姿に、はたと薄紫が瞬く。

「クロウ?」
「痛くもねえし痛ましくもねえよ。お前のココと同じように、な」
「え?……あ」

クロウの手の平の向こうには、クロウほどひどいものではないがリィンの痣がある。場所は胸の上、二人ともほぼ同じ位置に。ぽかんと口をあけたリィンは、次第にゆるゆると柔らかな笑みを浮かべた。

「……うん。そうだな」

噛み締めるように呟き、頷いたその表情にはもう陰はどこにもない。濡れて冷えていたはずの手の平から伝わる熱を感じているのは皮膚か、心か。どちらからともなく指先に力を込めれば、二対の腕は同じようにきゅっと痣の上で握り込む。髪の毛から滴り落ちる雫を頬に流しながら明るい太陽の下、二人は互いの心臓を、心を握りしめながら、ただ見つめ合った。
これから訪れる何かを待望するような静寂の中、そこに、ようやく第三者が現れる。

「リィンさん、クロウさん!そんなに濡れてしまって、一体どうしたんですか?」

先ほどから今まで、現在までも完全に二人だけの世界を作り上げていた騎士たちの支配する中庭に、割って入れる人物など限られた者しかいない。その中の一人が中庭への入口から顔を出して、丸く見開いた瞳で二人を見つめていた。出会った頃と比べれば随分と幼さが抜けたその青年に、我に返ったリィンが慌ててクロウを押しのける。

「せ、セドリック殿下!え、えっと、その、で、殿下はどうしてこちらへ?!」
「ちょっと書庫に用事がありまして。それでここを通りかかったら賑やかな声がこちらから聞こえたので、覗いてみた所だったんですが」

にこりと邪気の無いほほえみを浮かべるセドリックは、リィンとクロウが武官として守るべき皇族の一人である。特に二人を抜擢したオリヴァルトの要望で、セドリックとアルフィンにはよく護衛につく事が多い。だからだろうか、昼間から他に誰もいない中庭で、全身びしょ濡れの半裸姿で男同士手で胸を触れながら見つめ合うという異様な光景を目にしても一切驚かなかったのは。そう、最早慣れきっているのだった。
不躾に詳しく尋ねてくる事も無く、中庭に一歩だけ足を踏み入れて眩しそうに見回したセドリックは、ああと納得するように声を上げた。

「水を撒いていたのですね。本来なら庭師がやる仕事をお二人でやってしまうなんて、さすがです……!しかもお休みの日だったはずなのに!やっぱりお二人とも優しい人です!」

これぞ騎士様!と頭上の太陽に匹敵するほど瞳を輝かせてリィンとクロウを交互に見てくる純粋な好意に、二人は顔を合わせて苦い笑みを浮かべるしかない。どうやらこの次期皇帝陛下殿は帝国の守護神たる二対の騎士を高く評価してくださっているのだが、いささか過剰に信望している気がしてならない。かつて命を救った経緯や同じトールズ士官学校出身というのもあって、セドリックはリィンの事もクロウの事も大変素直に慕ってくれているのだった。

「もう水やりは終わらせた所だったのですか?まだ残っているようなら僕も何かお手伝いを、」
「いや、いい!さすがにそれはいいっての!」
「終わりましたから!だから脱がないでください殿下!」

張り切ったセドリックが腕まくりどころか二人に倣って上着を脱ごうと手を掛けた所を必死に留める、前に、はたとこちらに踏み出しかけていた体が止まった。驚いた表情を浮かべるセドリックの視線はある一点に固定されている。どうしたのかと尋ねる間もなく、その表情は見る見るうちに変わってしまった。見ているこちらが居た堪れなさを感じてしまうような、悲痛な顔へと。

「ででで殿下っ?!」
「どうした?!急に腹でも痛くなったか?!」

今の現場を他の誰かに見られれば、「騎士がセドリック殿下を泣かした」という噂が立ちかねない。慌てる二人に、セドリックは首を横に振った。

「違うんです。……いきなりすみません、本当に、」
「殿下が謝られる様な事は何もありませんから……!」
「いいえ。全てはかつての僕のせいで、ついてしまったものですから……クロウさんの、その傷は……」

顔を伏せてしまったセドリックのその言葉に二人は、一体彼が何に反応していたのかを知る。つまりは、リィンと同じだった。どうしても目立ってしまうクロウの傷痕を目にしてしまったのだ。しかもセドリックは自分を助け出すためにクロウがその傷を負ったのだと責任を感じてしまっている。以前から、そんなの気にすんなとクロウ自身の口で何度も言い聞かせてやってはいるのだが。
俯いてから一向に立ち直る気配のないセドリックの姿にリィンは困り果て、クロウは途方に暮れるように頭を掻く。が、すぐにその手を降ろし、ぽんと手の平を叩いた。何か明暗があるのかと見上げかけたリィンの肩に、逞しい腕が回される。

「うわ」
「でーんか。そんな気にすんなっていつも言ってるでしょーよ。俺は今むしろ、喜びに満ちているぐらいなんだぜ?」
「……喜び?」
「おお。なんてったって、」

右手にリィンを抱え込んだまま、クロウはセドリックの目の前で左腕を動かす。自分の胸の上と、リィンの胸の上、交互に。首を傾げた碧眼に、思いっ切り良い笑顔が向けられた。

「こいつとお揃い☆になれたんだからな!」
「……はあっ?!」

驚愕の声を上げたのはリィンだった。セドリックはいきなりの言葉に声も上げずに目を丸くしている。一人クロウだけが楽しそうに笑っている。茶目っ気たっぷりに言われた「お揃い」という響きがじわじわとリィンの中にも浸透してきて、まだ濡れたままの頬が赤らんでくる。

「ま、またくだらない事を……!」
「だって事実じゃね?お前だってさっき嬉しそうに俺の触ってたろ」
「さ、さっきの事は殿下の前ではっ」
「……お揃い……」

呆然と転がり落ちたセドリックの声。リィンとクロウが目を向ければ……リィンは見なければ良かったと失礼ながらも思った。こんな、明らかに羨望と憧れと愛しさとその他限りなく眩しいものでしか構成されていない皇太子殿下の笑顔を、向けられている対象が自分たちだなんて。

「さすが、さっすが蒼の騎士と灰色の騎士!エレボニア帝国が誇る二対の守護騎士!お二人が何もかもをお揃いにしてしまいたいぐらい仲良しだからこそ、あれほどまで息の合った動きが出来るのですね!」
「そうそう!」
「いや?!ち、違いますから!」
「普段から、言葉を交わさなくとも視線だけで意思の疎通をされたりしていてすごいなあと思っていたんです……双子である僕とアルフィンでさえ到達出来ない高みにお二人はいるのですね……こんな人たちに守って貰えるなんて、僕は本当に幸せ者ですっ……!」

拳を震わせて感動に打ち震えているセドリックには、狼狽するリィンの言葉は聞こえていないようだ。クロウなんかはあまりにも大げさな反応に腹を抱えて笑い始めたので、流石に失礼だと足の甲を踏んづけて黙らせる。
息を整えて目の端に滲んだ笑いによる涙を拭ってから、クロウはなおも一人で感動し続けるセドリックへと口を開いた。

「あーそうだ殿下、俺たちこの通り濡れまくりで室内に入れないんだわ。着替えと拭くもの持ってきてくれねえ?」
「クロウ?!いくらなんでも失礼だろ!」
「分かりました、今すぐ持ってきます!ちょっと待っててください!」
「殿下も素直に言う事聞かないでください!ちょっ、殿下ー?!」

リィンが止める前にセドリックは良い返事を残して走り去っていってしまった。皇太子とは思えない素直さだ。直前まで散々尊敬の目を向けていた騎士からの要望だったのもあるのだろう。リィンがいくらギッと睨んでも、クロウは素知らぬ顔で視線を逸らすだけだった。

「いいじゃねえかたまには。困ってたのは事実だろ?」
「誰のせいだよ、誰の……ああ、これがまた変な噂になったらどうしよう、ただでさえ最近の騎士の噂にろくなものはないってこの間ユーシスに小言を言われたばかりなのに……」
「んなのほっとけよ。確かにまあろくでもない噂を耳にしたりするけどよ、」

溜息を吐くリィンの顎が、おもむろに持ち上げられる。素直に上向いた唇にちゅっと軽く触れる唇。ここには誰もいない。誰もいないのは分かっているけれども。不意打ちのキスにリィンの顔が瞬時に沸騰する。濡れそぼった髪も一瞬で水分を蒸発させたように逆立った気がした。
大きく見開く薄紫を至近距離で見つめながら、色を乗せた紅色が笑った。

「割と事実だったりすんだろ?」
「〜〜〜っ」

はくはくと、反論を吐き出そうと開け閉めされた口から声が飛び出す事は無く。否定できなかった悔しそうな口元に、おかしそうに震える吐息が再び重なる。
息を弾ませた皇子が途中で出会った皇女も連れたって一緒に戻ってくるまであと数分。その間騎士たちの中庭には、秘密の静寂だけが満ちていた。








15/06/07


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