わんこアンサンブル
 
マキアス・レーグニッツは子犬を拾った



その日、立て込んでいた仕事がようやく終わり、数日間帰る事さえままならなかった我が家にお昼前ようやく戻れる事になったのは、果たして幸であったのか不幸であったのか。のちのマキアスにはさっぱり判断がつかなかった。
久しぶりに見る太陽の降り注ぐヴァンクール大通りを横切り、オスト地区へのトラムに乗り込んだ頃までは確かにマキアスの心は晴れやかだった。以前から親子揃ってほとんど戻っていなかった自宅だが、それでも家に帰るという行為には特別嬉しさを感じざるを得ない。未だ知事を務め続ける父はこの時間に戻っている訳がない。マキアスの数倍早く仕事をこなし数倍多くの案件を捌き、それでもマキアスより自宅に帰る頻度が数倍少ないのが働き者のカール・レーグニッツなのである。本日はそんな父であり上司でもあるレーグニッツ知事から直々に今日はもう休みなさいという命令が下り、まだまだろくに手助けする域にも至らない己の力不足さに申し訳なく思いながらも、都庁から帰路につく足取りはどうしても軽くなってしまうのだった。例え出迎える者が誰もいなかったとしても、我が家に帰られる事は嬉しいものなのである。
例え気分が高揚し鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌であっても、集中して机に齧りついていた期間の疲れは簡単に取れる訳がない。つまりマキアスは疲労していた。このまま真っ直ぐ家に帰り、とりあえずベッドにダイブしひと眠りするか。どこか適当な店に寄って腹ごしらえをしてからゆっくり休むか。この後の予定を、マキアスにしては珍しくぼんやりとしながら考えつつ、止まった駅でトラムを降りる。場所はもちろんオスト地区。生まれた頃から馴染んでいる近所は、多少上の空状態でも足がしっかりと自宅まで歩いてくれる。そういう油断があった。
珍しい時間での帰宅、珍しいぼやっとした状態、おまけに相手は今日初めてこのオスト地区、どころか帝都にやって来たばかり。そんな偶然と偶然が重なり合った、良い意味でも悪い意味でも奇跡のようなタイミングで、マキアスは道端で小柄な身体とぶつかったのである。

「うわっ」
「ぐっ?!」

大人と言えど若干おぼつかない足取りと、駆けてきた体重の軽い子供。高いマンションとマンションの間にぐねぐねと続く路地の曲がり角で勢いよくぶつかった結果、両者ともその場から弾かれて尻餅をついてしまっていた。長時間椅子に座り続けた後の衝撃に情けなく呻き声を上げたマキアスは、目を開いた途端すぐに大事なものを落としてしまった事に気付く。今まではっきりくっきり見えていたはずの世界が、水がたっぷり入った水槽越しに覗き見ているようにぼやけてしまった視界。決して伊達ではない眼鏡が、尻餅をついた拍子に弾き飛ばされてしまったらしい。予備の眼鏡もコンタクトレンズも職場に置いたままというタイミングで愛用のこれさえ失くしてしまえば、年々視力が下がっている感のあるマキアスにとっては死活問題だ。地べたに座り込んだまま慌てて周囲を両手で探れば、幸い覚えのある眼鏡を掴みとる事が出来た。とりあえずホッと一息つく。
そこでようやくマキアスは、目の前に自分と同じようにぺたんと座り込んだ子供の存在に気付いたのだった。

「し、しまった!すまない、君、大丈夫か?」

子供の心配をする前に自分の事に気を取られてしまった。胸の内で反省しながらマキアスは腰を上げて子供の前に座り込み、眼鏡を握っていない方の手を差し出す。立ち上がらなかったのは、そうして目線を合わせて近づかなければ相手が見えなかったからだ。眼鏡を掛ければよかったのだが、まずは子供が怪我をしていないか確認して、助け起こさなければと気が急いた結果の行動だった。おかげでマキアスは、至近距離から子供の姿を認める事となる。心配と申し訳なさに染まっていた瞳が、途端に驚愕に見開かれた。
空から降ってきた真新しい雪をそのまま髪色に溶かし込んだようなくせっ毛の白髪頭と、建物の影の中でも大きく輝く宝石のような赤の瞳。どこかで見た事のあるような色合いは、座り込んだままこちらをじっと見上げるその顔によって加速度的に既視感を生み出す。見た事がある。この子供の顔を、見た事がある。いや、直接こんな幼い頃の顔を見た事は無かったが、とてもよく似たマキアスと同い年の友人を、確かに知っているのだ。ああ、あの友人が5歳の頃にはちょうどこういうふくふくとした可愛らしい顔をしていたんだろうなと容易に想像できる、そんな子供が目の前にいる。心当たりのある友人の普段の色は黒に青の混じる薄紫という出で立ちだが、時にこの子供とそっくりそのまま同じ色へ変化する事があるのだった。
そして子供の色は次にまた、別な人物も彷彿とさせる。件の友人を思い浮かべれば、すぐにその隣にやってくる最早セット扱いのその人。白というより若干の灰を混ぜたような銀色の髪に、夕暮れの紫を少し足したような赤目という少々違う色を持つ彼の事を、どうして同時に思い浮かべてしまうのだろうか。どこか不思議だった。しかしそんな些細な不可思議は、マキアスの目前に突き付けられた常識とはかけ離れた光景にどうでも良くなるのである。

「……なっ……?!」

意味のある言葉を発することが出来ない。はくはくと口を開け閉めして絶句するマキアスの見つめる先には、ぴょこんと尖がる犬のようなふさふさな耳があった。ぴくぴく動いては周囲とマキアスに向けられるそれは、興味津々といった様子で辺りの音を拾い上げている。触り心地のよさそうな白い耳だった。ほんの少し下には活発な犬の耳に呼応するかのようにぱたぱたと地面を打つふさふさの尻尾まである。毛先だけを一定間隔でぱたりぱたりと動かして、不機嫌で無い事をこちらに伝えていた。耳と同じように純白のふさふさ尻尾は思わず頬擦りしたくなるほどの見事な毛並みだった。
耳と、尻尾。これだけを見れば愛らしい白い犬でしかない。マキアスとて犬は嫌いではない。状況が許せば柔らかそうなそれらを優しく撫でてやりたいぐらいだった。但しそれが、人間の子供から生えているものでなければ、だ。

「な、なななな……?!き、君は、一体……?!」

犬の耳と尻尾を生やした、知り合いによく似た子供。動物の耳尻尾が生えているという異常事態に見た事のある顔が重なって、マキアスを余計混乱の渦へ陥れた。ほとんど意味を持たないマキアスの驚愕の言葉にぴくりと耳を動かした子供は、数回瞬きしてからようやく動きを見せる。座り込んだまま地面につけていた両手を持ち上げて、ポン、と。手を打ってみせたのだった。
そうして、子供特有の聞き心地良い高い声で、正面から真っ直ぐマキアスを貫く。

「マキアスだ!」

まるで旧友をようやく思い出したかのような仕草にぎょっと仰け反る。名前を、呼ばれるとは思わなかった。しかも正解だ。子供は目の前の大人が「マキアス」だと信じて疑っていないような瞳で、ただじっと見上げてくる。何か言わなければ、答えなければ。焦りの中で開いた口は、からからに乾いていた。

「い、かにも、僕はマキアスだが、何故僕の名前を?君は、何者だ?」

思ったよりもまともにまとまって飛び出してくれた問い。震えそうな体を必死に押さえつけるマキアスに首を傾げた子供は、すぐに合点が行ったように答えた。

「チィ」
「ち?あ、そ、そうか、もしかしてそれが君の名前か。ありがとう。でもそうじゃなくて……ああ、君、両親は?誰か一緒じゃないのか?」
「りょうしん?」

質問の意味が分からないと訴えるように伏せられた耳に、何と尋ねたらいいか考えあぐねながらマキアスは頭を掻いた。

「そう、君のお父さんとお母さんだ。一緒じゃないのか」
「おとうさん、おかあさん?」
「まさか、お父さんとお母さんの意味が分からないと言うんじゃないよな?ええと……君と一緒に暮らしている大人の人の事だよ」

両親なんて一体子供にどう説明すればいいのか。必死に頭を悩ませるマキアスに、子供も子供なりに腕を組んで考えてくれているようだった。ぱたぱたと、思考を邪魔しない程度に尻尾が揺れている。

「いっしょにくらしてるの、二人いる。おとうさんは、どっち?」
「ど、どっちと聞かれても。そうだな……一緒に暮らしている二人は一体どんな人なんだ?」
「大きいほうと、おれを産んでくれたほう」

すごく大雑把な説明だったが、まだ何とか理解できた。内容に少々不自然さも感じたが、今の必死なマキアスには深く考える事が出来なかった。

「それならきっと、大きい方が君のお父さんだろう」
「!そっか。それなら、クロウ!」
「っ?!」

突然飛び出してきた馴染みのある名前に思わず目を剥く。え、クロウって、もしかしてあのクロウ?マキアスの知り合いにクロウは一人存在する。片目を瞑って親指を立てるお調子者の姿が脳裏に浮かんだ。まさかあの先輩が、本当に父親?まあ確かに年齢だけを考えれば有り得ない事も無いが、いやいやその他の様々な要因でやっぱり有り得ない、はずだ。子供がいるだなんて聞いたこともないし、まさか隠し子なんて……いない、と言い切れないのは何故だろう。
そもそもこの子供が瓜二つなのは、クロウの方ではなく……。
マキアスは汗を流しながら一瞬のうちに色んなことを考えた。胸の内に去来したのは恐れだ。この先を聞いてはいけないような、真実を明らかにしてはいけないような、ピリリとした予感だった。それらを頭を振る事で散らし、ごくりと喉を鳴らし、覚悟を決めて口を開く。

「そ、それじゃあ……お母さんは?」

尋ねながら頭に思い浮かべるのは、一番当たって欲しくない名前と顔。いやまさか。まさかそんな訳が。だって彼はもちろん男で、母親などという立場には決して立てない性別の壁というものが。さっきはっきり産んでくれた方とか言ってたし。それにそうなると父親と母親があの二人という事に。いやそういう仲なのは知ってるけどだからと言ってそんな訳が。
子供はぐるぐると考え続けるマキアスの目の前で、ぴっと真っ直ぐ手を挙げて、はっきりと答えた。

「リィン!」

バキッ。
真っ白になる頭の中に響く、何かが握り壊された音。反射的にそちらに目を向けてみれば、己の腕があった。あまりの衝撃に思わず力が入ってしまった拳。その手が握りしめている、バキバキに壊れてしまったそれは。先ほど地面から拾い上げたはずの、大事な大事な馴染みの眼鏡で。

「……ああああーっ!!!」

驚愕と悲痛に染まるマキアスの大きな悲鳴は、オスト地区全体に響き渡ったのだった。





「おいしい!」
「……そうか、それはよかった……」

あつあつのフィッシュフライを頭から頬張って大きく尻尾を揺らす子供、チィに、マキアスはテーブルの向かいに座ったままどこか力の無い声を返した。自ら眼鏡を粉砕してしまったあの後、地面にがっくりと膝をついてしまったマキアスの袖を引っ張ってチィが発言した「おなかすいた」の一言によって、この馴染みの居酒屋《ギャムジー》までやってきた所であった。ちょうど近くにこの店があった事と、ここぐらいしか眼鏡なしの状態で安全にたどり着けそうになかったからという理由だ。あれだけお腹が空いていたはずなのに色んな衝撃で食欲もどこかへ吹っ飛んでしまったらしく、同じ料理の乗った二つの皿のうちマキアスの分は先ほどから一向に量が減らない。
机の上に乗せた、見事に折れてしまった眼鏡の残骸を見つめて、はあと大きなため息。すると向かいから不思議そうな声を掛けられる。

「マキアス、どうしたんだ」
「……いいや、何でもないさ。ところでチィ、君の両親は、その、本当に……「クロウ」と、「リィン」なのか?」

声変わりなど一切していない綺麗な子供の声色は、それでもそっくりな顔が相まってちょっとだけリィンの声にも聞こえる。似たような口調だとなおさらだ。それでもまだまだ信じ切る事が出来なくて、マキアスは付け合せのポテトをちびちびと齧りながら再び尋ねていた。ぼやける視界の中、それでも判別できるほどチィは大きく頷く。

「うん、クロウとリィン」
「それは、その人たちは……僕の知っているクロウとリィン、なんだろうか……」
「クロウとリィンはマキアスのことしってる。だからおれもマキアスのことしってた」
「……そうか……」

ぺろぺろと犬のように指の先を舐めながらのチィの言葉に、マキアスは項垂れた。クロウもリィンもマキアスの知り合いには一人ずつしか存在しない。つまりはもうほぼ確定したと言っていいだろう。このチィという子供は、今は二人で遊撃士として活躍しているはずのマキアスの友人、リィン・シュバルツァーとクロウ・アームブラスト二人に関係する人物なのだ。実際どういう関係なのかは、まだちょっと見えては来ないが。
そこでふと、疑問が沸いてくる。チィはマキアスの顔を見て割とすぐに名前を言い当ててみせた。一度も会った事が無いのに、クロウとリィンの知り合いと言うだけでどうして一発でマキアスだと分かったのだろうか。

「僕の事は、二人から話でも聞いていたのか?」
「んーん、リィンから、思い出わけてもらった。だからマキアスとか、ななくみのみんなもしってるんだ」
「お、思い出?分けてもらった……?」

尋ねればチィは素直に答えてくれるが、与えられた答えはさらに難解でマキアスの謎が深まるばかりだ。眼鏡を押し上げようと指を眉間に伸ばし、そこに押し上げるべき硬質な感触が無い事にようやく気付いて気分が沈んだ。

「あー、そういえばチィ、そのクロウとリィンは今どこにいるんだ?一緒じゃないのか」

ここまで来る途中にちらと聞いたが、チィは今日初めてこの帝都に来たばかりらしい。リィンもクロウも例えどんな関係の子であろうと、初めての土地でこんな小さな子供を一人でうろつかせるような事をするとは思えなかった。チィは少しだけ間をあけた。心なしか、ぴくぴく動いていた耳が若干伏せられ、振られる尻尾の元気も落ちたように見えた。

「いっしょにきたけど、どこかにいっちゃった」
「……どこかに行ってしまったのは君の方じゃないのか。つまりは、迷子という訳だな」

ゴールドミックスの入ったコップを持ち、チィは無言でごくごく飲んだ。多分肯定しているのだろう。恥ずかしい気持ちを誤魔化すような子供らしい態度に、マキアスの疲れ切った心が少し癒される。
しかし、迷子。一人でいる理由として納得は出来るが、あまり歓迎したくない事態だ。何せ今いるこの場所は、帝国一の広さを誇る緋の帝都ヘイムダル。人探しをするのにここまで難易度の高い街もそうないだろう。

「このオスト地区ではぐれたのか?」
「たぶん、ちがう。ガタガタゆれるおもしろいのりものにのって、ここまできた」
「トラムに乗って、一人で……?それじゃあ見当のつけようがないな……」

軽く絶望してしまったマキアスだった。普段であったらここまで希望を見失うことは無い。マキアスの今のコンディションが絶不調だからだ。疲れ切った心と体もそうだが、何より眼鏡が無い。眼鏡が無いと家にたどり着く事さえ至難の業だ。職場に帰れば予備はあるが、そこまで無事に戻れる気がしない。詰んでいる。何で眼鏡の予備を一つでも持ち歩いていなかったのかとただひたすら後悔した。
眼鏡を失った事で全ての自信や希望を奪われたような心地になったマキアスが暗い顔で俯いていると、頭に何かがぽんぽんと触れる気配があった。視線を上げてみれば、至近距離に紅色に輝く瞳がある。どうやら身を乗り出したチィが、マキアスの頭を撫でてくれているようだ。慰めてくれているのか。あっけに取られるマキアスの目の前で、まるで笑うように緋の瞳が緩くたわんだ。

「チィ……?」
「だいじょうぶだ、マキアス。あんしんしてくれ」

たどたどしい子供の言葉でも、ふくふくと小さな子供の手の平でも、不思議とチィにリィンが重なった。未だに信じられない事ばかりだが、この時だけは素直に思えた。本人の言う通り、きっとチィはリィンから産まれたのだろう、と。その方法はとりあえず置いといて。

「おれには、何となくだけど、リィンのいばしょが分かる。だからかえれる」
「……な、何っ?」
「おなかがすいて今まで力がでなかったけど、おなかいっぱいになったから。マキアスのおかげだ、ありがとう」

ぺこっと頭を下げると同時に揺れるふさふさの耳。急に突きつけられた大人びた対応に、マキアスが目を白黒させている内に。真っ白な頭はトンと大きい椅子から飛び降りていた。そのままどこかへ歩き出そうとする腕を慌てて掴んで引き留めようとする。が、視界がぼやけているせいで腕をつかみ損ねた。代わりに掴んだふさっとしたものを、マキアスは必死に握りしめた。

「ま、待ってくれ!このまま一人で戻るつもりか!」
「うん」
「でも、何となくの場所が分かったとしても、帝都の地理はさっぱり分からないんだろう?」
「……うん」

あ、ものすごく触り心地が良い。頭の片隅で感動している目の前で、くせのある白髪が躊躇うように頷く。マキアスは意を決して拳を握りしめた。

「……君を一人で行かせる訳にはいかない。子供が一人で出歩くのは危険すぎる。だから僕も行こう!」
「え、でも、マキアス目が、」
「だから!僕の手を引っ張っていってくれ、チィ!」

眼鏡が無くとも、ぱちくりと赤い目が瞬かれたのがよく分かった。自分でも割とおかしい事を言っている自覚はある。しかし目が見えない、眼鏡の予備は無い、しかしチィを、友人たちを両親だと名乗る子供を一人で放り出す事も出来ないとくれば、こうするしかないのだ。
幸い、どんなに広くとも生まれ育った街だ、地理自体は頭に叩き込んでいる。チィが目となり足となり連れ歩いてくれれば、人間地図として道案内ぐらいは出来るだろう。それに子供が一人で歩いているよりは大人の手を引いている方がずっと良いはずだ。大人の方が手を引かれている、という大変情けない状態にはなるが、眼鏡が無くては生活が出来ないのもその眼鏡をぶっ壊したのもマキアスなのだから、この程度の辱めなど耐え忍ばねば。

「マキアスを、つれていけばいい?」
「ああ。ここで会ったのも何かの縁だ、君が両親と会えるまで付き合おう。もしその両親が本当に僕の知っている「クロウ」と「リィン」ならば、僕にとって君も他人では無いからな」
「そうなの?」
「そうなるんだ、大事な友人の子供なんだからな。」

そっとマキアスが手を差し出せば、少しの間が生まれた。ぼんやりと色が滲むマキアスの視界に、やがて近づきはっきりとした輪郭を浮かび上がらせる子供の顔。マキアスの片手をぎゅっと、両手で握りしめたその表情は。

「……うん!」

かつて共に学び同じ時を過ごしたお人よしの友人を彷彿とさせる、その日初めて見た、花の綻ぶような笑顔だった。





知り合いに声を掛けられながらオスト地区を逆戻りし、混雑するトラムに乗り込み、この辺りにいる気がするとチィが指差したガルニエ地区で降りるまで、大きな手と小さな手はずっと繋がれたままだった。《ギャムジー》から出る際最初にとっさに掴んだものを握りしめたまま外へ向かいかけたマキアスだったが、手の平の中のふさふさを取り上げられてこっちにして欲しいとぷくぷくした子供の手を代わりに置かれ、その時ようやく自分がチィの尻尾を掴んでしまっていたのだと気付いたのである。前を歩くのはまるで犬のようにくんくんと辺りの匂いや気配を探っているらしいチィで、その手にただただ引かれているのがマキアスだ。マキアスはとりあえずこけてしまわないように足元と、視界にちらちら入る真っ白な尻尾を見つめ続けている。学生の頃は何とか一人でも裸眼で歩けていたのになあと残念な気持ちになった。今だって何とか歩く事は出来るだろうが、十中八九チィを見失ってしまうだろうからやはり手は繋いでもらうしかない。
子供特有の暖かなぷくぷくした手と、歩くたびにふさふさと楽しげに揺れる尻尾だけを感じていれば、マキアスの心に平穏が訪れる。しかし和んでいる場合ではないのだ。ホテルや劇場が立ち並ぶガルニエ地区はマキアスにとってそれほど馴染みのある場所ではなく、チィの嗅覚?だけが頼りな状態なのだ。

「チィ、君はもしかしてそこのホテルに宿泊しているのか?それならフロントで二人の名前を尋ねれば分かると思うんだが」
「ホテルもここも、きたことない。てーとにきて、すぐに一人になったから」
「君はどれだけ早い段階で迷子になったんだ……」

しかしそれならチィがはぐれてからとりあえずチェックインしている可能性もある。一か八か尋ねてみようか、それより遊撃士協会へ行ってみた方が早いか、いやこの地区に支部は無かったか、といろんなことを考えていたマキアスだったが。ハッと何かに気付いて思考を止めていた。視界に常に入っていた揺れ続けていた尻尾の動きが遅くなった気がしたのだった。

「チィ?何かあったのか、急に元気が無くなったようだが」
「うん……」

声を掛けられてチィは足を止めた。手を繋いだ距離にいるので、振り返ってきた顔が悲しみに沈んでいるのも、しゅんと耳が伏せられている様子もきちんと目で確認することが出来る。しょぼくれた顔で開いていたチィの手がギュッと押さえたのは……自分の、お腹だった。

「おなかすいた」
「もう?!」

思わず大声を上げるマキアス。近くを通りすがった何人かが振り返ったが、見えないマキアスは気付かない。

「さっきあれほど食べていただろう!子供というのはそんなに燃費が悪いものなのか……?!」
「ちがうの。おなかはいっぱいだけど、おなかがすいたんだ」
「は……?」

近くにあったはずの屋台で何か買うか、と考え始めていたマキアスは訳が分からな過ぎて首を傾げるしかない。お腹はいっぱいだけどお腹が空いたとは、一体どういう意味なのか。チィも何と説明すればいいか考えあぐねているようで、難しい顔で黙り込んでから見上げてきた。

「リィンがたりない」
「……んん?」

やっぱり、分からない。どれだけ切ない顔で言われてもさっぱり意味が分からない。自覚したらさらに空腹感が増したのか、チィは震えているようだ。繋いだ手から振動が伝わってきて、マキアスを余計に慌てさせる。

「も、もしかしてそれはリィンがいないといけないやつなのか?」
「うん。リィンじゃなきゃだめ」
「そっそうか……それは困ったな……」

マキアスの手がギュッと握りしめられる。さっきまであんなに元気良く振られていた尻尾も、今は自身を守るように体に巻き付いていた。そうしてお腹を押さえてじっと耐え忍ぶ様子が可哀想で、思わずマキアスはしゃがみ込んで小さな体を抱きしめていた。

「大丈夫、きっとすぐに見つかるさ。それまでもう少しだけ我慢していてくれないか、チィ」
「……うん、がんばる」
「よし、良い子だ」

ぽんぽんと頭を撫でれば、肩口にすり、と顔を寄せられた。まるで本当に犬のようだ。微笑ましい気持ちと、こんなにも寂しがる子供を早く探し求める両親に会わせてやりたいという想い、それまで自分が守ってやらなければというかつてないほどの庇護欲が同時に沸き起こる。チィがお腹が空いて動けないようならば全神経を集中させて自分が歩かなければとマキアスが決意を固めかけた、その時だった。

「……チィ!」

その声はチィとマキアス同時に聞こえた。寝ていた耳が一気にぴんと立ち、チィが顔を上げる。マキアスも抱き締めていた手を離しながら顔を上げた。人ごみをかき分けてこちらへ近づく黒髪頭が見える。ふさりとマキアスの手に何かが触れた。喜びに動いたチィの尻尾だった。

「リィン!」

チィがマキアスから離れたのと、マキアスの友人であるリィン・シュバルツァーが息を切らして目の前に現れ、両手を差し出したのはほぼ同時であった。

「チィ!よかった、やっと見つけた……!」
「リィンー!」
「っとと……。大丈夫か?どこか怪我は?ヘイムダルについた途端にいなくなるからびっくりしたんだぞ、まったく……!」
「ごめんなさい」

勢いよく抱きついてきたチィを受け止め、両手で抱き締め返すリィン。素直に謝りながらチィは千切れれんばかりに尻尾を振って、リィンに頬を寄せていた。その顔ははっきり見えなくても、安堵に満たされているのがよく分かった。
マキアスが声を発する事無く感動の再会場面を見つめていれば、おもむろにチィが抱きついたまま顔を上げてリィンを見上げた。

「リィン、おなかすいた」
「……えっ!」

その言葉に含まれる、通常の意味とは違う空腹の訴えにすぐさま気付いたのだろう、リィンの体があからさまにギクリと固まる。何故か恥ずかしそうに頬が赤く染まった。

「いっ今、ここで?!だ、駄目だ、外では駄目だって言っただろう?」
「でも、ずっとはなれてたから、おなかすいた。リィン、ほしい」

ぎゅっと抱きついてチィが見上げる視線が、リィンの胸あたりに一心に注がれている気がするのは気のせいだろうか。

「駄目だって、……あ、後でいっぱいあげるから、今は我慢しなさい」
「いっぱい?いっぱいちゅーちゅーしていい?」
「いいから、な?」
「わかった。それまでくっついとく」

尻尾がさらに激しく振られる。ようやく素直に聞き分けたチィはぴったりとリィンにくっついて動かなくなった。リィンはほっと息をついているが、見守っていたマキアスの心情は反比例するように激しく動揺している。
え、ちゅーちゅーってどういう事だ。何をあとでいっぱいあげるんだ。産んでくれた人って、え、本当に、そういう意味で?
もし今眼鏡を握っていればまたしても握りつぶしていただろう。それほどに汗を流して動揺するマキアスが、真相を聞き出すために声を上げる、その前に。慌てた第三者の声が後方から割り込んできた。

「おーい、リィン!チィいたかー?!」
「クロウ!いた、ここにいたぞ!こっちだ!」
「クロウー!」
「ったく、やーっと見つかったかー」

しゃがみ込んだまま呆然と動けないマキアスの隣を通り過ぎ、リィンとチィへ駆け寄る銀髪の長身。後ろ姿でもよく分かる、こちらもマキアスの友人、元先輩のクロウ・アームブラストその人であった。クロウは両手を広げると、リィンごとチィをその手の中に抱き込んだ。

「心配かけさせやがって!あれほど離れんなって事前に言ってただろうがこのー!」
「うーごめんなさいー」
「うぐっ!く、クロウ、何で俺まで……?!」
「んなのついでだ、ついで!」

ぎゅうぎゅうと半ば罰のように力を込めて抱き締めているらしく、少々苦しそうな声が聞こえる。しかしチィの尻尾はぱたぱたと嬉しそうな動きを止めないし、リィンも巻き込まれながらまんざらでもなさそうだった。咎めるような言葉を吐いておいてクロウも嬉しさが滲む声色を隠そうともしていない。結局三人とも、最終的にくすくすと笑い声を上げていた。

「っはは、でも本当によかった、チィが無事に見つかって。何かしでかしてないか、何かに巻き込まれていないか、気が気じゃなかったんだからな」
「チィ、お前にも見せてやりたかったなあ、いなくなった事に気付いた時のリィンの焦り様。顔真っ青にして見ている方が気の毒になるぐらいだったんだぜ」
「そ、そんな事ない!クロウだっていつになく慌てまくってたじゃないか!」
「まあそりゃ、我が子がいなくなりゃ親としては心配で慌てまくるもんだろ?」
「だから別にチィは俺たちの子供って訳じゃ……はあ、まあいいか……」

からかい半分なクロウも、仕方なさそうに溜息を吐くリィンも、顔を寄せ合ってチィを見下ろすその瞳は、まるで。愛おしむように細められたそれは、まさしく。男同士だとか、年齢だとか、そういった全ての障壁を越えた先から溢れ出す、ただ一つの暖かな感情によって、事実など置き去った姿へと見せる。
ああ、あれは、親子だ。両親を慕う子と、子を慈しむ父と母。あれは紛れもない親子の姿だ。
眩しいほどの仲睦ましい様子に圧倒されながら、マキアスは認めるしかなかった。

「しっかし、色んな地区を探し回ったんだが、こんな所にいるとはなあ。一人で一体どれぐらい動き回ってたんだ?」
「一人じゃなかった」
「え?それじゃ、誰かに連れ回されて……?だ、駄目じゃないか、知らない人についていっちゃ!いつも言ってるだろう!」
「だいじょうぶ、しらない人じゃなかった」

安心させるようにピースしたチィが、ようやくクロウとリィンから視線を外した。抱きつく姿勢はそのままに首を巡らせて、チィが離れた時から変わらない姿勢のマキアスをしっかりと見つめる。ぱたり、と尻尾が揺れた。

「マキアスといっしょだったから」
「えっ」
「えっ」

同時に声を上げて、同時に向けられる紅と薄紫の視線。あの二人が本当にこちらに気付いていなかったのか、と頭の片隅で意外に思いながら、ゆっくりと立ち上がったマキアスは片手を挙げていた。

「……やあ、リィン、クロウ先輩、久しぶりだな。まさかこんな形で再会するとは思いもしていなかったが」

第一声は何とか平常心を保ったままでいることが出来たが、次第に震える声を止める事は出来なかった。今の三人身を寄せ合う光景が、もう少しだけ離れていればよかったのに。眼鏡を失っていたマキアスの、狭い狭い視界にわざわざ入り込んでくるものだから、見なかったふりも出来ないではないか。
きょとんとしたチィも、あちゃーという顔をしたクロウも、マキアスと大体同じような顔色をしたリィンも、そりゃもうばっちり、見えてしまっているのだ。

「いやしかしまさか、二人がそういう仲だとは知っていたが、まさか本当にそんなに大きな子供が……ハハハ、水臭いじゃないかリィン、その子は推定5歳、か?そんな長い期間黙っていたなんて」
「ま、ままマキアス、違うんだ、今マキアスは大変な思い違いをしている。ひとまず落ち着いて俺の話を聞いてくれ」
「安心してくれ、詳しい方法は聞かないさ、僕には到底理解できないような摩訶不思議な力のおかげなんだろう?うん、そうとしか思えないな、男である身で子供を作れるなんて……下世話な事を聞くが、やっぱりリィンが?」
「違うから!いや、厳密に言えば確かにそうだけど違うんだ、マキアス!」
「やっぱりか!生命の神秘とはこの事か……僕には想像もつかないような葛藤や苦しみがあったんだろう。それでも二人の友人として、今更ではあるが言わせてくれ、リィン、先輩……おめでとう、ございます……!」
「マキアスー!本当に違うんだ、別に俺が腹を痛めて産んだ訳じゃないから!ましてやクロウとの間の子でもないから!だからこっちを見てくれマキアス、マキアスー!!」

遠い目をして自らが辿り着いた結論を受け入れようとしているマキアスを、リィンが必死に肩を持って揺さぶってこちらの世界に戻そうとしている。周りでは突然の再会の場面から人々がざわつきながら注目していて、ちょっとした人垣が出来上がってきた。せめてここが一番人通りの多いバンクール大通り辺りでは無かった事だけがせめてもの救いだ。そうして不幸中の幸いを噛み締める事が出来たのは、ひょいとチィを抱えて一人冷静に周りを警戒して成り行きを見守るクロウだけであった。

「さーて、この騒ぎのまま帝国軍にでも見つかればバルフレイム宮まで話がいきそうなレベルだが、どうすっかねえ……」
「クロウ。マキアスはどうしておめでとうって言ったの」
「んー?」

不思議そうなチィの質問に、少しだけ考え込んだクロウは。間近にある額に普段リィンにしているように己の額を合わせ、にいと笑ってみせた。

「お前が俺とリィンの間に生まれてきたことを祝福してくれてんだよ」
「クロウとリィンのあいだ?」
「おお。その通りだったろ?」
「たしかに」

チィが目覚めたのは確かにベッドに並んで寝ていたクロウとリィンの間だったので、こくりと頷く。

「ほら見ろリィン、君と先輩の間の子だって本人も認めているじゃないか!無駄に誤魔化そうとするのはやめたまえ!」
「あああそれも合っているけど間違ってるからあああ!クロウ、お前わざとやっているだろ!」

運良く……いや運悪く今のが聞こえてしまったマキアスがさらに勘違いし、リィンが憤慨している。そんな大混乱の様子にクロウは心底おかしそうに笑った。チィも真似して笑った。

この後、マキアスの誤解を解いて複雑すぎる事情を説明しきるのに、丸一日を要した。








15/05/24


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