わんこアンサンブル おそろい



細かく器用に動く指先を注視する緋色の大きな目。何がそんなに楽しいのか、ちょいちょいと動く針と糸を先ほどからずっと隣に座って眺めているチィの尻尾は、落ち着き無くゆらゆらと揺れていた。あっちにふさり、こっちにふさりと揺れる白銀の尻尾を後ろから眺めながら、思わずリィンはくすりと笑う。飽きないのだろうかと思うが、自分もこうして尻尾が動く様を先ほどから飽く事無く眺めているのだから似たようなものだ。……同一人物なのだから当たり前だ、とは、まだ考えられそうにない。この、自分によく似た耳と尻尾の生えた子供と出会ってから、まだ半日も経っていないのだ。
そんな熱心なチィの視線を手元に一身に受けながらクロウは、ソファに座ったまま鼻歌でも歌い出しそうな気軽さで指を動かし、とうとうパチンと鋏を使って一連の作業を終わらせた。

「おっし、完了!どうよオレ様の仕事っぷり」
「おおー」
「お疲れ様クロウ。さっそく履いてみようか」

ぱちぱちと拍手するチィの頭に手を置いて、リィンがクロウを労った。クロウが誇らしげに掲げるそれは……子供用のズボンだ。買ったばかりの新品で、今までクロウが針と糸を使って弄っていたものだった。サイズはちょうどチィにぴったり。近所のブティックで買ったもので、素材も良く粗悪品では決して無い。それなのにどうしてわざわざ素人の手を加える必要があったのかというと……。

「ほら、ここに足を入れて……」
「ちゃんと立ってろよ?よし、こうしてひっぱって……おら、ぴったりだろうが!」
「うわ、本当だ、すごいな……きつくはないか?チィ」
「うん」

二人がかりでチィを支え、今出来上がったばかりのズボンを履かせる。背後に回ったクロウが手を伸ばして掴み取ったのは、さっき忙しなく動いていた白いふさふさの尻尾だ。それを、クロウがわざわざズボンに開けて整えた穴に通して……とうとう、しっかりと。チィがズボンを履く事が出来た。
そう、この尻尾のせいでチィは普通のズボンを履く事が出来なかったのだ。それに気付いたのはとりあえず外に出たクロウが適当な服を買ってきてチィに着せようとしてからで、どうしようかと少し悩んでからこの「既製品に穴を開ける作戦」が実行された訳である。初めて身に着けた己にぴったりなサイズの服を物珍しそうに見下ろしながら、チィはぱたりと尻尾を動かしてみせる。それが返事のつもりだったのか、具合を確かめただけなのか、はたまた服を与えられた事で嬉しかったからなのか、きょとんとしているその表情から垣間見ることは出来なかったが。脱ぎだそうとはしないのでとりあえず気に入ってはいるようだ。

「ったくひと手間かけやがって。何だってこんな耳と尻尾がついてやがんだろうなー」

文句を言うクロウの声色は存外やわらかい。ピクリと動く耳の端っこを摘まむ指も優しい力しか入れられていないようだ。質問の内容はリィン自身が一番誰かに尋ねたい事であったので答えられなかったが、代わりにずっと思っていた事を口にしていた。

「クロウって、裁縫も出来たんだな……」
「あ?何を今更。まあ必要に駆られて身についたもんだ、針を刺してこうやって適当に縫うっていう単純作業しか出来ねえし」
「……俺はその単純作業ですらまともに出来ないからな……」

とても複雑そうな表情でリィンは呟いた。経験がほとんどないから、という理由もある。何せ故郷ではこういった細かな作業はほとんどすべて母のルシアがやってくれていた。家を出てからはさすがに自分で服のほつれやボタンが取れた際など直してみせようと試みてきたのだが……結果は、芳しくない。

「あ、そういやお前裁縫苦手だったっけ?ちょっと前に指を刺し傷だらけの血まみれにしてたの見た時はさすがに驚いたが、まさかボタンのつけ直しにあそこまで流血させるたあなあ」
「ううっうるさい!そもそもどうしてクロウはそんなに器用に指が動くんだよ!ずるい!」
「ずるいって言われてもなー」

いくら悔しそうに睨み付けても、にやにやと笑う顔には効きやしない。むしろますます楽しそうに笑顔を広げるので、口では多分一生勝てないんだろうなとリィンは半ば諦めているぐらいだ。

「本当にクロウはずるい……俺より大きな手をしているのに、指は綺麗で長いし。それなのに思った以上に繊細に動くしさ……だからかな、クロウが銃の手入れとか細かい作業をしている時は、どうしても魅入ってしまう。とんでもなく強い力を入れられる癖に、優しい時はびっくりするぐらい柔らかく触れてくるし……クロウ、ずるすぎるだろ」
「………」

ぶつぶつとリィンが文句を述べれば、沈黙で返された。てっきりまたからかわれるかなと思っていたので不思議そうに顔を上げる。クロウの視線は逸らされていた。二人の間から見上げてくるチィの視線は、さっきと変わらずに無表情であるのだが……何故かその瞳が、呆れているように思えるのは気のせいだろうか。

「ふ、二人して何だよ、どうしたんだよ……?」
「リィン、てんねん」
「何が?!」
「お、チィ、お前チビなリィンの癖に分かってんじゃねーか。ちょっと油断したらこれだもんなーいつ来るか分かんねえから心臓に悪いのなんの」
「クロウも、がくしゅうしないな?」
「ぐっ。言うじゃねえの」

突然意気投合し始めたクロウとチィにリィンは首を傾げるだけだった。まあ、仲が良い事はいい事だ。何かが引っ掛かるけど。

「さーて、服も着せる事が出来たし、そろそろ行くか」

そうこうしているうちにクロウがチィの手を引っ張って歩き出した。向かう先は玄関だ。この地で一時的に遊撃士として活動するために借りている安アパートは狭く、すぐに外へとつながるドアの前へ辿り着いてしまう。服と一緒に買ってきた靴をチィに履かせようとしているクロウに、リィンは慌てて歩み寄った。

「ちょっと待てクロウ、本当にこのままチィを連れて外に出るのか?」
「ああ。最初からその予定だったろ」
「いや、確かにそうだけど……でも、この姿で?」

そう言いながら、目の前にあった二つのふさふさの耳に軽く触れる。髪と同じ白色の、しかし手触りは髪とは違う手触りの良い動物の毛並み。同じふさふさで、耳よりも目立つ尻尾ももちろん外から丸見えだ、そうやって外に出すためにズボンに穴を開けたので当たり前の事だ。ぱちぱちと瞬いてリィンを見上げる顔は幼い無垢な子供そのものだったが、やはりこの耳と尻尾は異質だった。こんなに目立つ姿を公衆の面前で連れ歩く事に、やはりリィンは躊躇いがあった。心無い言葉を投げつけられる可能性だってあるし、余計なトラブルに巻き込まれることになるかもしれない。何より……子供とはいえ自分と同じ顔でこんな犬の耳と尻尾がついている姿を見せびらかすのが、少々恥ずかしかったのだ。
しかしクロウはそんなリィンの心配顔を、はんと軽く笑う事で一蹴した。

「じゃあお前、こいつがいつお前の中に戻るか分かんねえのにずっと部屋の中に閉じ込めておくつもりか?そもそもお前から出てきたって確証も一応まだねえのに、何も手を打たずにただ何か奇跡が起こるのを待つか?」
「そ、れは……」

言葉に詰まる。そう、このままじっと閉じこもるよりは、何かしら行動を起こすべきだと少し前に決めたのはリィンとクロウの二人だ。チィの事を放置して見て見ぬふりをするべきではないと今でも分かっているが、どうしても躊躇いは消えない。眉を寄せて黙り込んでしまったリィンに、クロウは安心させるようにへにゃと笑ってみせた。

「安心しろって、大の大人がこんな耳と尻尾つけてりゃそりゃ目立つだろうけどな、子供がおもちゃ身に着けてる姿なんて微笑ましく見られるだけだろうよ。お前が思ってるほど騒ぎにならねえよ」
「いや、おもちゃと言い張るにはリアルすぎるし耳も尻尾も動きまくっていると思うんだが……」
「前に流行ったアレ、にゃんにゃんセットだっけか?あれの類もどういう訳か作り物の癖に動いてたじゃねーか、あれの進化版って言っときゃいいんだよ」
「そうか……それなら誤魔化せ、る、かなあ……?」
「それに、だ」

不安が拭えない黒髪頭に、クロウの手が伸ばされる。そのまま元気づけるように少々力を入れてがしがしと撫でられ、リィンは思わずたたらを踏んだ。

「う、っわ!」
「何かあったとしても俺たちが守ってやりゃいいだろ?これぐらいのトラブル、散々慣れてきているだろーが」
「確かに、今まで色々あったけど……もう、やめろってばそれ……!」

明らかにぐずる子供をあやすような撫で方に、頭の上から無理矢理クロウの手を退ける。頭を撫でてもらうのは嫌いではない。しかし、あからさまな年下扱いはさすがに遠慮したかった。確かに年齢も違うし先輩後輩だったのは確かだが、クロウとはそれ以上に「相棒」として共に今まで生きてきた自負がある。いつまでも、どんな時でも対等な関係でありたいと思っているからこそ、一方的に甘やかされるのは嫌なのだ。これをクロウに伝えれば「お前だって普段から俺の事甘やかしまくってるけどなー」と反論が貰えるだろうが。
退けられた手をひらひら振りながら、そんなリィンの反応こそが可愛いのだと語るような表情で笑うクロウ。しかし次の瞬間にはそれも、にやりとした意地悪そうな笑みに代わっていた。

「心配しなくても、わんこの耳と尻尾を付けた姿、可愛らしいぜ?リィン坊ちゃん」
「……っ?!クロウっ!」

リィンが恥ずかしく思っていた心境を的確に突いて面白がる憎たらしい男へ、怒鳴ったリィンが掴みかかる前に。二人の足元からちょんと、短い腕が伸ばされた。リィンとクロウの服の裾をそれぞれ両手で掴んだチィが、ちょっとだけキリリとした顔で交互に見上げてくる。

「けんかはだめ」
「!チィ……」

しまった、子供の前で怒鳴るなんて嫌な思いをさせてしまった、と、自分と同じ顔なのは考えないようにしているリィンがとっさに反省する。その思考をクロウが読み取っていれば、「お前は母親か」とつっこまれていただろう。チィは口元をほんの少しだけ引き結びながら、こっくりと頷いて言った。

「ふうふげんかは、いぬもくわない」
「「えっ」」

リィンと、クロウまで不意を突かれてチィの言葉に声を漏らす。いつの間にかしっかりと靴を履かせてもらっていたらしいチィは、そのまま二人の服を放して玄関のドアに向かい、ドアノブに手を掛けながら振り返った。

「じかんをむだにしてはいけない。はやくいこう」

舌足らずながらもしっかりとした口調で急かしてくるチィに、最初に硬直が解けたのはクロウの方だった。呆けたような小さな声で呟く。

「……さすがうちの子、しっかりしてやがるぜ」
「いやだから、俺たちの子って訳ではないから……多分」

すかさずつっこんだリィンの声も、どことなく力は無かった。チィのつっこみどころばかりの言葉には、とうとう何も言えなかった。





今二人が滞在している町は、比較的帝都にほど近い場所にあるのでそれなりに人の往来が激しい。特にメインストリートに立ち並ぶ屋台やショップは連日賑わっていて、今は復興を果たしたケルディックの大市を思い起こさせた。あそこの活気には及ばないが、それでも子供の心を浮き立たせるには十分な賑わいに、チィは忙しなく辺りを見回しながら歩いている。クロウがしっかりと手を引いてやっていなければすぐさまはぐれてしまっていたに違いない。あちらこちらの音を拾うためにしきりにぴくぴく動く耳と、高揚が抑えきれない揺れる尻尾を隣から眺めながら、リィンは思わず吹き出していた。

「そんなに街の様子が物珍しいか?」
「めずらしくはない、リィンのなかから見てたから」
「……そ、そうか……」

リィンがそっと自分の胸に手を当ててしまったのも仕方がないだろう。一体どうやって「見ていた」というのか。実感はやはり無いが、己から生まれた存在であると言外からつきつけられる事実に返事もしどろもどろになる。そんなリィンとは対照的に始終楽しそうに笑っているのがクロウだった。

「悪いなーチィ、ウインドウショッピングはまた今度な。今はとりあえず遊撃士協会にいかねえと」
「きょーかい?」
「大人はどんな異常事態でもお仕事サボっちゃいけねえからなー。今日が午後からの依頼ばかりで助かったよな、マジで」
「ああ……午前中から何か依頼が入っていたら確実に遅刻していただろうからな……緊急の要請も来なくてよかった」

チィという存在をわざわざ連れ出してでも外に出なければならなかった大体の理由がこれだ。頭の上でリィンとクロウが溜息を吐いている姿を、チィがきょとんと見上げる。純粋無垢なその表情に文句も言えない。お前のせいなんだけどな、とリィンが心の中だけでつっこんでいる間に、ここ最近通い詰めて慣れ親しんだ建物が見えてきた。遠くからでも確認できる支える篭手の紋章、この町の遊撃士協会支部だ。
そのままチィを連れて中に入ろうとしたクロウ、を一歩手前でリィンが押し留めた。

「俺が今日は依頼を受けてくる。クロウはここでチィと待っていてくれ」
「ん?こいつの説明はしなくていいのか?」
「いや……今日はまだ、ちょっと、上手く説明できる自信が、ない」

視線を明後日の方向へ逸らすリィンに、仕方がないとクロウも了承してくれた。表面上は落ち着いているがまだまだ頭の中は混乱の真っ只中にあるのだった。せめてもう一晩状況の整理と心の準備をさせてほしい。
そうしてリィンが受付に声を掛け、クロウの姿が無い事を何とか誤魔化しながら数件の依頼を受けた。この町に来たばかりの頃はそれこそ山のような依頼が押し寄せていて、手分けしたり協力したりで必死に働いて最近ようやく落ち着きを見せてきたばかりだ。本日の午前中がお休みだったのも午後からの依頼が簡単な数件だけだったのもあの時頑張ったからだと思うと感慨深い。この地の他の遊撃士たちだけで回せるようになってきたのならば、各地を転々とまわりながら遊撃士として高みを目指している二人なので、そろそろ別な地区へ移るのもいいかもしれないと考え始めていた所である。とりあえずは今日の依頼だ。
リィンが協会の建物から外へ出ると、そこにはクロウもチィもどちらの姿も見えなかった。慌てて探してみれば、すぐ傍の屋台に二人を見つける。長身の銀髪はいつも良い目印になるのだが、低い背にも拘らずふわふわとした耳と尻尾が人ごみの間でもチラチラと見えてとても分かりやすかった。

「二人とも、何してるんだ……何かあったのかと焦っただろう」
「お、早かったな。こいつがさあ、美味そうな匂いを漂わせてたんだよ。なあチィ」
「うん、おいしい」

こいつ、とクロウが見せてきたのは屋台で今ジュウジュウと良い音を響かせているフランクフルトだった。確かに食欲をそそる香ばしい香りが鼻をひっきりなしに刺激してくるが。さっそく一本ずつ齧りついているクロウとチィへ、リィンは呆れた目を向けた。

「ちゃんとご飯を食べた後じゃないか、もうそんなにお腹が空いたのか?」
「ほらよく言うじゃねえか、別腹って奴だよ」
「そんなデザートとは程遠いお肉を別腹とは言わないと思うんだが……」
「リィン、はい」

もしかしたら羨ましがっていると思われたのかもしれない。チィが下から食べかけのフランクフルトを差し出してきた。今は腹も程よく満たされているしそこまで食べたい訳でもなかったが、せっかく分け与えてくれようとする好意を無下には出来なかった。結局リィンは身をかがめて、チィの手ずから一口だけ頂く事にする。中腰になって垂れてくる邪魔な髪を掻き上げ、あつあつのそれをはくりと咥える。まだ痛いほどの熱を持っていたのですぐに噛み千切る事が出来なくて、少しの間もごもごと咥えたままでいるしかなかった。

「あちち、こんな熱いの、よく食べられるな」
「なれたら、へいきだ」

お行儀悪く咥えたまま喋るリィンは、伏し目がちのその顔に降り注ぐ一人分の視線には気付かない。熱く紅い視線は特にフランクフルトを咥える口元に集中している。リィンがそれに気づいたのは、熱さを我慢して一思いに噛み千切った後であった。

「ん、熱いけど確かに美味し」
「ぐっ!!」
「……クロウ?いきなり悲鳴みたいな声を上げてどうしたんだ」

顔をそむけるその頬には何故か脂汗が浮かんでいる。もぐもぐとジューシーなお肉を咀嚼して飲み込んだリィンは首を傾げた。チィはクロウの様子など気にする事無く再びフランクフルトに齧り付いている。

「フ、フフ……このオレ様の類稀なる妄想力は時として己の身をも切り刻む諸刃の刃、という事だ」
「………。訳が分からないけど、お前のフランクフルトもさっきみたいに噛み千切ってやろうか」
「どっちを?!あっいや、ナンデモナイデス」

据わった薄紫の瞳から逃げるように背を向けて、自分の分のフランクフルトを一気に食べるクロウの姿に大きなため息がこぼれる。もぐもぐと頬を膨らませて夢中で食べるチィの背を押して、リィンは歩き出した。

「はいはい、変な人は放っておいてさっそく行こうか。今日は幸い難しい依頼も無いから早く終わらせるぞ」
「おー」
「あっこら待て、俺がナニを妄想してたかまだ言ってねえだろ!」
「言わなくていい!馬鹿!」

駆け寄った銀髪をどついたりして騒ぎながら歩く二人と一人の姿を、通りすがった者たちはとても温かい目で見送る。街のために奔走する若き遊撃士たちの仲睦ましげな言い合いなどここ最近での日常的な光景で、例え見知らぬ子どもが一人増えたとしても「今日もやってるなあ」と見る者を和ませる微笑ましい姿でしかないのである。




「ねこ!」

とある路地裏の一角で、これからの依頼を簡単に説明してもらったチィがどこか嬉しそうな声を上げる。本日の最初の依頼は猫探しという、遊撃士あるあるで挙げられそうなお馴染みのものだった。手帳に書き写した依頼内容を目で追いながら、リィンは頷いた。

「そう、飼い猫がこの路地の中に入り込んで帰ってこないらしい。飼い主の方も探しているらしいんだが、一人ではなかなか追いつけないし逃げられるしで限界があるという事で俺達を頼ってきたんだそうだ」
「こういう地味な依頼がまた骨が折れるんだよなあ。んで、その猫の特徴は?」
「ええと、全身真っ白な猫らしい。赤い首輪をつけていて、鈴もついているそうだから何とか音を辿っていけたらいいんだが」

一度全員で口を閉じて、耳を澄ませてみる。家と家の間に空いた隙間はそうすれば遠くの音も壁に反響しよく聞こえたが、残念ながら鈴のような音は聞こえてこなかった。風の音と通りの喧騒がかすかに聞こえる暗がりで、注意深く辺りを見回すクロウが頭を掻く。

「こりゃ足で探すしかねえか」
「そうだな……それじゃあ手分けして、」
「お!待て待て、名案を思い付いた」

さっそくリィンが動き出そうとしたがすぐさま止められる。疑問に思いながらクロウを見上げれば、楽しそうな笑みが返された。こういう時の嫌な予感というものほど当たるものは無い。胡乱な目で見つめられながらも、怯んだ様子もなくクロウが手の平を差し出してきた。

「リィン、その猫の私物とか預かってねえの?特に匂いがついてそうなもの」
「は?匂い……?」
「チィ、お前鼻は利くか?」
「?」

リィンとチィ、交互に尋ねるその内容にピンときてしまった。思わず何かを企む襟首を掴んで抗議の気持ちを込めて揺さぶる。

「クロウお前!今チィを完全に犬扱いしただろう!匂いを辿って追いかけさせようとしたんだな!」
「違う違う、ただの純粋な興味だっての。こいつに生えてるのどう見たって犬の耳と尻尾だし、それなら犬みたいな能力も持ってんのかなーってよ」
「確かにそれは、気にならない訳じゃないけど……!俺じゃないけど俺みたいな存在を犬と断定してしまうのはさすがに抵抗があるというか……!」
「あっ」

リィンとクロウが揉める間を、澄んだ子供の声が遮った。もちろんチィのものだ。はっと二人で白い頭を見つめれば、忙しなく耳と尻尾を動かしながら路地の奥へと視線を向ける姿がある。太陽に遮られた狭い路地裏の中でも、その緋色の瞳は爛々と輝いていた。

「きこえた」
「き、聞こえた?」
「すずのおと。あと、にゃーってきこえた」

にゃー、と緩く拳を握って掲げるそのポーズはまさしく猫を表したもの。わんこの尻尾を振りながらの猫のポーズというあべこべな姿であったがうっかり二人は和みかけた。いや、クロウが完全に和みきって頭を撫で始める中、リィンは何とか正気を取り戻す事が出来た。

「猫?猫の鳴き声が聞こえたのか?鈴の音も?」
「うん、むこうのほうから」
「そうか……その大きな耳のおかげで少なくとも聴力は普通の人間より優れているのかもしれないな。賭けてみよう、音の聞こえた方へ案内してくれ。上手くいけば……クロウ、いつまで撫でてるんだ、いくぞ!」
「ハッ!今無心で撫でてたぜ……この和ませ爆弾もチィ特有の能力なのか検証する必要があるな。リィン、ちょっくらお前もポーズつけてにゃーって言ってみ」
「言・い・ま・せ・ん!」

クロウとチィを引っ張ってリィンが猫捜索に乗り出す。一つの角を曲がってもすぐに十字路やT字路にぶつかり続ける入り組んだ路地裏を、あっちから聞こえる、と指差すチィが誘導するまま先へ先へ、奥へ奥へと進む。どんなに歩いてもリィンの耳にもクロウの耳にも猫の鳴き声や鈴の鳴る音は聞こえてこなかったが、チィには断続的に聞こえているらしい。どんな構造になってんだと尖がった耳の先を摘まみ上げようとする悪戯な指を、リィンがしょっちゅう追い払わなければならなかった。
やがてどれほど歩き回った頃だろうか。同じ所をぐるぐる回ってはいないだろうかと不安になりかけたその時、二人の耳にもチリンと軽く涼やかな音が転がり込んできた。ハッと足を止めるのと、チィが指を差すのはほぼ同時であった。

「ねこ!」

ふさ、と興味深げに揺れる白い犬の尻尾の向こう側、警戒も露わにぱたりと揺れた白く長い尻尾がある。ちょうど目の前の角からこちらへ姿を見せたその体は尾と同じように真っ白で、首元には鮮やかな赤い首輪が付けられている。チリンと最初に聞こえたものと同じ音は、間違いなく首輪についた鈴から鳴り響いていた。聞いていた通りの猫がそこにいた。

「いた、本当にいた!」
「ふぃー!やっと発見かよ。ま、闇雲に探すより確実に早かったわな。でかしたぞーチィ」
「やった」

クロウががしがし撫でてやれば尻尾がぶんぶん揺れる。その動きに驚いたのかびくりと飛び上がった猫は、一目散に今来た角の向こうへと逃げていってしまった。あ、と思わずリィンの口から声が漏れていた。

「しまった、逃げた!」
「何!ここまで来て逃がすかよ!」

速さには自信のあるリィンが一番に飛び出し、その後ろにチィを抱えたクロウが続く。猫は次々と曲がり角を曲がってこちらを翻弄するが、一度見つけたターゲットをそのまま逃がすつもりはリィンになかった。しかし差はなかなか縮まる事が無く、舌打ちしたい気分の所を無理矢理抑え込んでとある覚悟を固めた。

「くそ、こうなったら一瞬だけでも「あの」力を使って……!」
「おいこら、リィン!こんな所で無駄にリスク負うんじゃねえぞ!」

リィンが何を考えているのか敏感に察したクロウが後ろから慌てて声を掛けてくる。リィンの奥底に眠る、獣じみた「鬼」のような力。今では随分と自由に扱えるようになったそれは、無理して使い続けると体に負担が掛かるが少しぐらいなら支障はない、とリィンは自負している。一瞬だけでいいのだ。一瞬だけあの力を解放すればあの猫に追い付いて捕まえる事が出来る。心配そうなクロウの声を無視して、いつものようにあの禍々しい力を……。
解放できなかった。

「……あ、れ?出来ない……?!」

胸の奥底から引き出される力が、まるごと無くなったかのようだった。いくら呼んでも沸き上がって来ない力に呆然となる。明らかにスピードが落ちたリィンにクロウが声を掛ける、前に。その背中に背負われていた小さな影がひょいと肩の上によじ登った。

「っ?!おい、チィ!」
「おれがいく」
「は?!何言っ……あだっ!」

クロウの頭を踏み台にして、チィが跳んだ。今までのまったりした様子が嘘のような勢いで、弾丸の如く真っ直ぐ前へ飛び出していく。前を走る真っ白目掛けて伸ばされた腕は、ビビった猫がひょいと避けた事で残念ながら宙を掻いた。両手両足をつけて地面に着地したチィは、そのまま逃げる猫を追いかけていってしまう。ぽかんと呆けたリィンはあまりの衝撃に立ち止まってしまっていて、クロウも同じように隣に並んで一人と一匹を見送るしかなかった。

「いててて……あいつ、俺を踏み台にしやがって。にしても、今の勢いは見た事あんなあ」
「ああ……今の瞬発力、まるで、「あの」力のようだった……」

考えてもいなかった事態にショックを受けている訳では無い。むしろ状況的にそうとしか考えられなかった。分かっていた事だが、考えないようにしていた事を、目の前につきつけられて戸惑ってしまっただけなのだった。

「お前があの力を引き出せなくなった上にチィのあの見た目、こりゃもう確定だろうな」
「……そう、だな……」
「ああ。お前の中に眠っていた力はチィそのもの。まさしく獣じみた、わんこな力だったって事だな!」
「わ、わんこって言うなー!!!それだけは、きっとそれだけは何かの間違いなんだー!」

認められない事実に顔を赤くしてぽかぽか叩いてくるリィンをクロウは笑いながら受け止めた。リィンの事だから妙に似合う事実に笑顔でいられるが、もしこれが自分だったらと考えると複雑な思いを抱く事は確実だったので、頭を撫でて慰めるに留める。大きな手の平と心地よい感触に少しだけ落ち着いたリィンは、それでも納得しきれなくて広い胸に体を預けてうーうー唸った。やっぱりまだまだ立ち直りきれそうにない。
そのまましばらく足を止めた地点で立ち尽くしていると、やがてとぼとぼとした足取りでチィが戻ってきた。さっきまでの元気な姿はどこへ行ったのか、耳は垂れ下がり尻尾はぶらりと引きずるようにしょぼくれた姿で歩いてくる。リィンもクロウも驚いて慌てて傍へ駆け寄った。

「チィ?!一体どうしたんだ!」
「こけでもしたのか?!あー、見た所怪我はしてねえな」

ぺたぺたぽんぽんとひとまず全身を確かめてホッと息をつく。チィはふさりと元気なく尻尾を一度だけ動かしてから、悲しげな瞳で二人を見上げた。

「ごめんなさい。ねこ、にがしちゃった」
「猫?あー、それでしょぼくれてんのかよ。やっぱお前もリィンだなあ無駄に責任感じやがって」
「どういう意味だ。……チィ、俺たちは別に怒っていないさ、追い付けなくて立ち止まってたのは俺たちの方だし。猫は一体どっちに逃げたんだ?」

頭を撫ぜて優しくリィンが問いかければ、チィは上を指差した。上?と揃って見上げてみれば、高い高い塀の上に丸まった白猫の姿があって、こちらを見下ろして大あくびをしている。完全に舐められている。
油断しきっている今がチャンスではあるが、さすがに駆け上るには塀が高すぎる。下手によじ登っても身軽な猫はすぐにするりと逃げていってしまうだろう。あの猫が逃げる暇を失くす速さで近づくしかない。その術は今の所、一つだけここにある。

「あんな高い所、チィにいかせるのは怖いな……俺が力を使えればよかったのに」

悔しそうにリィンが呟く。申し訳なさそうにチィが俯く。二つのくせ毛頭を交互に見比べて、クロウがぽんと手を打った。

「それじゃ、試してみようぜ。お前がチィの力を使えるかどうか!」
「えっ?」
「ほら、これでこうやってこうしてみてだな……」

上着を脱いだクロウが、ひょいとチィを抱えてリィンに持たせる。そのまま正面からしがみつかせた状態で落ちないように上着で縛り付ければ、少し暴れたぐらいでは離れられなくなった。上着は言わば即興の抱っこ紐の代わりだ。チィがしっかりと安定してしがみついているおかげでリィンも両手を離す事が出来るが、突然の抱っこ強要に疑問しか浮かばなかった。

「く、クロウ?これは一体?」
「いや、胸の痣んところにチィがくっついていればお前も痣通して力使えねえかなーと思って」
「なるほど……でもこの体勢はちょっと、無理があるんじゃ……」
「ま、確かに身動きは取り辛いだろうな。けど人生何事もチャレンジあるのみ、だろ?一回やってみろって」
「う、うん……」

やれるだけやってみるか、とリィンは頷いた。胸元にくっついたチィを見下ろせば、丸い緋色の瞳がじっと見つめてくる。言葉は無かったが、全てをリィンに委ねる信頼が純粋な赤から読み取ることが出来た。感謝の気持ちと返事も込めて白髪を撫でてから、頭上を見上げる。猫はだらんと白い尻尾を垂らしたまま変わらず座り込んでいて、油断し続けていた。今だ。
目を閉じて、己の奥深くから暴力的な力を引き出す。先ほどは何も掴めなかった心の内に、確かに覚えのある焔が送り込まれた。いつもの場所からではない、今己は炎を抱いているのではないかと一瞬錯覚しかけたほどの力が、正面から、痣の向こうからやってくる。リィンはその熱を拒まなかった。いつもやっているように力を全身に行き渡らせ、躊躇う事無く表面化させた。
途端に体に纏わりつく凶暴なオーラ。次々と腕に足に全身に沸いてくる力に、今自分の姿がチィと同じカラーに変貌している事を確信する。途端にリィンは、地面を蹴っていた。懐の身体はぎゅっと抱きついてくれている。小さな子供の腕ながら、長年付き合ってきた獣の力への揺るぎない安心感。だから思いきり跳ぶことが出来た。目指すのはもちろん、だらりと脱力しきった赤い首輪の白猫だ。急に眼下から目の前にやってきたリィンの姿に驚いて飛び上がる暇も無いほどのスピードで、力強く優しく、毛並みの良い胴体を捕まえた。

「っよし!捕まえた!」
「でかした!」
「でかした」

登った塀の上からすぐに飛び降りて、きょとんとしている猫を掲げたリィンにクロウが親指を立てれば、チィも真似してぐっと腕を上げてくる。可愛らしい祝福にリィンは笑った。ふさ、とふくらはぎを何か柔らかいものが掠めたが、猫の捕獲と「鬼」化が見事に成功した事への高揚感で些細なことは気にならなかった。

「クロウの言った通りだったな、チィにこうやってくっついてもらっていればいつものようにこの姿になれる!ありがとう、クロウ!」
「んー……」

興奮のままに礼を述べたリィンだったが、受け取ったクロウは曖昧な笑みを浮かべていた。リィンの正面に立って、じっくりと頭の天辺から爪先を順番に眺めて、また頭に視線が戻る。じろじろとしきりに紅い瞳が行ったり来たりしているのは、頭の上と腰の部分のようだ。リィンは猫とチィを抱えたまま首を傾げた。

「どうしたんだ?」
「いやー、実はお前、いつもの姿とは若干違ってて、さすがの俺もちょいとびっくりしたんだが」
「えっ……?」

いつもの姿と、違う?驚いて固まるが、生憎この場に鏡は無く、持ち歩いている訳もない。どういう事だと問い詰める前に、胸元から幼い声が答えをくれた。

「おそろい!」

どこか喜色の混じる声。戸惑うリィンの目の前で、チィは順番に指を差した。自分、猫、そしてリィン。尻尾がふさふさ揺れている。そんな揺れている自分の尻尾と、自分の耳を交互に掴んで、もう一度チィは言った。

「おそろい!」

チィと白猫とリィンの「お揃い」。チィがふさふさの耳と尻尾を触りながら教えてくれた「お揃い」。しばらく呆けるようにぼんやりとそれらを眺めて考え込んだリィンは、ピーンときた。きてしまった。

「……はっ?!」

リィンは気付いていなかったが、呆然としている間にクロウが腕の中の猫を受け取って退避させてくれていた。だからこそ慌てて、まずは自分の頭に両手を当てる事が出来た。全力で浮かんだ予感を拭い去ってくれる何の変哲もない頭がそこにある事を期待したのだが。現実というものはいつも非情である。
ふさっ。今日何度も触った覚えのあるとんがったふさふさの何かに指が触れた。おまけに自分の指が触れた感触が頭から届く。数秒間固まった後、両手を今度は尻へ。同じようにふっさりした何かを掴む。掴んだ途端、意識していなかった背筋がびくりと跳ねた。手の中に感じた滑らかな毛並みのふわふわと、急所をおもむろに掴まれたようなぞくりとした怖気が同時に襲い掛かり、慌てて息を飲みこんで口を閉じた。そうしなければ変な声が出てしまいそうだったからだ。

「あ……え……?まさか、これって、」
「間違いなく、お前から生えてんだよなあ。チィと同じ耳と尻尾が」

ぽんぽんと宥めるように猫片手のクロウから頭に触れられる。ついでに尖がったふさふさも撫でられてぺたりと伏せた。自由に動かせる。以前身に着けた事のあるアタッチメントの猫耳やうさぎの耳なんかとは比べ物にならないリアルな感触。リィンが改めてクロウを見れば、曖昧な笑みを浮かべたまま。そこでようやく理解した。クロウが表現しきれないような曖昧な笑みを浮かべているのは、必死に際限なく吊り上る口元を抑えているからだ、と。

「く……ックク……!に、似合ってる……想像以上に似合ってるぜ、お前……!」
「っっ!!!」

とうとう取り繕っていた仮面が決壊し、吹き出すクロウ。その瞳には意外にもからかう気持ちは見当たらない。ただひたすら、チィとお揃いの犬の耳と尻尾を生やしてしまった、白髪赤目のリィンが可愛くて可愛くて仕方がないと語っていた。とんでもないものが己から生えているという事実と、その温かすぎる視線にリィンは一気に赤面した。

「よかったな、リィン。おそろい」

チィはチィで嬉しそうにしがみついたまま服を引っ張ってくる。そもそもが同じ顔なのだから今更お揃いも何もないのだが、髪と共に頭の中も真っ白になってしまったリィンにはつっこめない。顔面を赤く沸騰させながら、はくはくと口を開け閉めするので精一杯だった。
クロウに頭や耳やついでに尻尾まで撫でられ、チィに嬉しそうに見上げられながら。やがて僅かに自分を取り戻したリィンが発することが出来たのは、弱々しいこの一言だけであった。

「……誰か、この状況を説明してくれ……」

もちろん、異常事態の中心に立つリィンに分からない事を説明してくれる者が、ここにいるはずもなく。チィを通して覚醒出来たはいいがその弊害で一緒に犬の耳と尻尾も生えるようになってしまったリィンは、がっくりと己のふさふさを垂れ下げさせた。
人前では絶対にこの力を開放してなるものかと、悲壮な決意を固めながら。

ちなみにこの後、あれほど色んなものを食べてお腹を満たしていたはずのチィから「おなかすいた」と胸辺りをじっと見つめられながら発言されて、お腹の空腹とリィンの痣に吸い付く欲求は別物だという事実が判明し、リィンの気分をより一層どん底に突き落とす事になるのだった。








15/05/24


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