今年は雪こそ降らないものの、とても冷える夜となった。

ストーブの上に置いたヤカンが立てるシューシューという沸騰した音。テレビから漏れ聞こえる笑い声。すぐ外を通り過ぎるバイクのエンジン音。そして、台所から聞こえる誰かが何かを料理する音。耳に自然と入ってくるそれらの音を漠然と聞きながら、リィンはこたつに両手両足を入れてテーブルに顎を乗せ、ぼんやりと一点を見つめていた。座り込んでいるここから真っ直ぐ見える、鼻歌を歌いながら台所に立つ背中だった。付けっぱなしのテレビの方は大分前から見ていない。手伝う、と何度言っても今日はお前は座ってろと押し留められ、仕方がないのでこうして大人しく待っている所なのである。
ストーブのおかげで十分に温まった部屋の中、こたつの中でゆらゆらと足先を揺らしながら、リィンは今見つめたままの青い背中が振り返るのを今か今かと待ち続けている。居間から見える台所は一部だけなので、流し台やコンロへとふらふら動く消えたり現れたりする背中を、いちいち目で追っているのだ。さっきからずっとこの調子だ。随分と暇な奴だと思われるかもしれないが、事実そうなので反論する気も無い。一人でぬくぬくしたままぼんやりとテレビを眺めていたって、つまらないのだから仕方がなかった。悪いのは手伝いを拒否した台所に立つあの男なのだ。
赤いはんてんを着た背中を丸めたまま、リィンがじいっと睨み付けるように見つめ続けて何分経っただろうか。やがて食欲をそそる良い匂いを纏わりつかせながら、どんぶりを両手に一つずつ持ったクロウが意気揚々と現れた。リィンとお揃いの青いはんてんを着たその顔は、満足感に輝いている。

「待たせたなー、クロウ様特製年越しソバの完成だぜー、って」

居間に踏み込んでから、一度立ち止まってぱちりと瞬きをするクロウ。リィンを見つめたその顔にすぐに苦笑を乗せて、のしのしとこたつに歩み寄った。

「なーに拗ねた顔してんだよお前は」
「別に拗ねてないし」
「顔だけじゃなくて声まで拗ねてんじゃねえか。ったく、割とすぐに出来上がったろーが」

仕方ねえなーと呟きながら、どんとテーブルの上に乗せられる色違いのどんぶり。湯気が立つその中身を、のそりと背中を伸ばして覗き込んだ。途端に顔面に受ける美味しそうな匂い、視界に入る琥珀色の液体と中に沈む独特な形の麺。クロウが今しがた作ってくれたソバだった。いわゆる年越しソバだ。いつもの夕飯の時間には軽く食べていて、年が変わる目前の夜中にこうしてソバをつつこうとしている所だった。
ふわりと吸い込んだソバの香りに、今まで自分がどんな気持ちを持て余していたのかも忘れて思わず顔を綻ばせる。向かいから笑いを耐える声が聞こえると同時に、わしわしと頭を撫でられた。

「よしよし、とりあえず食えよ。これ完成したからもう席を立ったりしねえし」
「だ、だから別に一人にされたのを拗ねてるって訳じゃないから」
「そういう事にしといてやろうじゃねえの」
「大体、クロウが手伝いを断ったりしたからだな……」
「へいへい」

なおもブツブツ文句を言うリィンに適当に相槌を打ちながら、互いのどんぶりに箸を乗せるクロウ。用意が整えば後はこたつを挟んだリィンの向かい側にどかりと腰を下ろし、ぱんと音を立てて手を合わせた。

「おっし、それではいただきますっと!」
「……いただきます」

満面の笑みで箸を取る相手にこれ以上小言を言うのもどうかと思い、リィンも手を揃えた。箸を右手に持ってさっそく麺を掬い上げ、ずるずると一口。予想はしていたけど、大変美味しい。具はネギとかまぼこだけというシンプルなものであるが、それがまた素朴な味にとても合っていてリィンは好きだった。何よりもクロウが作ってくれたソバなのだと心から感じることが出来る。日によってはここにえび天が乗っかったり、玉子が足されたりもするが、夜も遅いという事で今回はこれだけの具にしたのだろう。ネギを絡めてもう一口、かまぼこと一緒にもう一口、器を持って汁を飲んでからもう一口、と、食べ始めれば止まらなくなった。それほど美味しかった。
ふーふーとあつあつのソバに息を吹きかけながらどんぶりを抱えるように食べ続けるリィン。途中でふと正面からの視線を感じて顔を上げれば、自分の食べる手は止めてひたすらこちらを見つめるクロウの細められた赤い目と出会った。
……別に極度の猫舌とかでは無かったはずだ、冷めるのを待つ必要はない。では何故今、こんなにも見られているのか。

「クロウ?」
「んー。このためなんだよなあ、お前の手伝いいらねえってのは」
「は?」
「お前がほんと、美味そうに食うから料理人としては作り甲斐があるっつー事だよ」

どこか充足感に満たされた笑顔でこちらを見つめ続けるクロウに、言葉の意味が分からなくとも何だか恥ずかしくなってくる。リィンはクロウの瞳に弱い。あの明るめの紅色に見つめられると自然と鼓動が早くなってしまう。しかも今のこの視線はあまりにも柔らかすぎる。心ごと包み込まれてしまう。このままでは食べるどころではなくなってしまうので、リィンは慌てて首を振って頬に集まりかけた熱を散らした。

「な、何でもいいから、俺を見てないで早くクロウも食べろよ!せっかくの出来たてが伸びちゃうだろっ」
「分かってるって」

ご機嫌な様子で箸を取り、ようやく自身もソバを啜り始めるクロウ。まったく、と息を吐いてから、リィンも目の前の御馳走を片づける作業に取り掛かる。もはや誰も注目せずにただ流れるだけのテレビの音をBGMに、向かい合った二人はぽつぽつと言葉を交わしながらソバを食べた。夜食という事でそんなに量が入ってなかったどんぶりの中身は、瞬く間に胃袋の中へ収まっていく。やがて両手でどんぶりを持ち上げ、音を立ててごくりと最後の汁を飲み干し、リィンは年越しソバを完食した。

「っはー、美味しかった。ご馳走様でした」
「お粗末様でした」

律義に頭を下げるリィンにこれまた律義にお辞儀を返すクロウ。彼はリィンから遅れて食べ始めたはずなのに、すでにどんぶりを空にしていた。早く食べきってしまえばずっと見ていても文句を言われる筋合いはあるまい、というのが言い分だった。反論が出来なかったので結局最後はずっと食べる姿を見つめられていた事になる。しかも満面の笑みで。どんな羞恥プレイだと思った。

「さーて、片づけて時間までだらだらとしますか」
「ああ、そうしよう」

クロウがよっこいせと立ち上がる、前にしゃきっと立ち、どんぶりを二つ掴んでずかずかと台所へ移動する。もちろん、今度こそは共に台所へ立つことを断られまいとする意志の元の行動だった。背後で笑ったクロウは、リィンを止める事無く隣に並んで、皿洗いを手伝ってくれた。

さて、全ての雑事を済ませた後の、来るべき時までの間の緩やかな時間。落ち着いてこたつにでも入って、あとわずかな時間を二人で静かに過ごそうとしていた、リィンだったのだが。

「……クロウ」
「ん?」
「これは一体何なんだ」

リィンはちゃんとこたつに入っていた。さっきと違う所と言えば、横にあったテレビが正面に見える位置に座り直した事と、その体をぐるりと囲うように後ろから伸ばされた腕と足がある事だ。胴体にぎゅっと巻き付いた腕が、背後にある胸板と自分の背中をぴったり隙間なくくっつけさせている。相手の鼓動まで直接響いてくる限りなく密接した体勢に、リィンはこたつの中で隣に伸びる足を蹴り上げた。

「いって。これは気にすんなって、ただの座椅子だから」
「はあ?座椅子?」
「去年お前言ってただろ、時間までちゃんと起きてたいって」

クロウが右肩に顎を乗せたまま喋るので口を開け閉めする振動が伝わってくる。そもそも距離が近すぎて、さらりとした銀糸が米神に当たってくすぐったい。完全に抱き込まれた状態のまま、何とかリィンは思い出してみた。クロウの言う去年、一体どんな大晦日だったか。
確か、そう、今日みたいに一緒の部屋で一緒に過ごして、同じように日付が変わる瞬間を待っていたはずだった。しかし普段早起きのために基本的に早寝をしているリィンは、程よい満腹感と部屋の暖かさとクロウと共にいるという安心感にすっかり微睡んでしまい、直前に起こされてしどろもどろの挨拶しか出来なかったのだった。その事が悔しくて確かに、そうやって泣き言を言ったような気もするが。そんな去年の自分の発言とこの体勢が、一体どう繋がるのだろうか。

「という訳でテテーン、リィン君専用座椅子の登場っつー訳だ!」

わざとらしい効果音を口で言いながら、すぐ横でにやりと笑う顔。振り向く事すら躊躇われる距離で、リィンはしばらく考えて、驚愕した。

「俺専用……って、これが?!」
「そう、これ。何とご主人様がうとうとし始めたらちょっかい出して無事に起こしてくれるという優れものだ。まあ便利。ひと肌程度の温もりを与える機能付き。おまけにイケメンときた。まさに、一家に一台の必需品!」
「俺専用なのに?!」
「そこにつっこむか?!」

これ、と横の銀髪頭を掴んで驚くリィンだったが、つまりはこちらが寝ないように監視も兼ねて抱え込んでくれているらしい。それだけ聞けばありがたいが、リィンはもぞもぞと体を動かした。もちろんクロウは簡単には離してくれない。

「その、これだと落ち着かないんだが」
「んな訳ねえだろー、この上なく落ち着く自慢の一品だぜ?」
「何を根拠に……!」

無駄に自信満々な態度にも腹が立って、ますますじたばたもがくリィンだったが。お腹に触れていた指がとんとんとリズムよく叩いてくれれば、次第に跳ね回っていた心臓も落ち着きを取り戻してくる。唯でさえ温まっていた部屋の中で、さらなる温もりに包まれた状態。程よくお腹も満たされた深夜にそんな状態でいれば……何より他の誰よりも心を許している相手の腕の中に居続ければ、だんだんと幸福に満たされたまま瞼が落ちてくるのが自然の摂理というもので……。

「おりゃ」
「っ?!ひゃっ、あっ、あははっ!」

突然脇腹に襲い掛かってきたくすぐったさに、夢の縁にギリギリ立っていたリィンは一発で飛び起きていた。リィンが完全に目を覚ましてもしばらく脇腹をくすぐる長い指は止まってくれず、ひーひー言いながらこたつの中で足をばたつかせること数秒。とっさに渾身の肘鉄を背後の腹に決める事で、ようやくクロウのくすぐり攻撃は止んだ。

「ぐふっ!な、なかなかやるじゃねーか……」
「はーっはーっ……い、いいいきなり何するんだ、びっくりしたしくすぐったいし!」
「んだよ、最初に言ったろーが。うとうとし始めたらちょっかい出して起こしてやるって」
「……あ。い、今のがそれ?!」

確かに言っていた。覚えている。なるほどこれならクロウの言うとおり寝る事は無い。しかしリィンは納得すると同時にそれ以上の理不尽さを感じて、腕を振り上げていた。

「そもそもクロウがこの体勢に持ち込まなきゃ俺は寝なかったんだっ!」
「あ、こら暴れんな湯たんぽ。寒いだろうが」
「自分が座椅子だってさっき言ってなかったか?!」
「細かい事はいいから大人しく抱かれてろって。ほーらこしょこしょ」
「ひえっははっそっそれっやめろってっ……!」

男二人で無駄にくっつきあってじたじたもがく様子はしばらく続いた。こうなったらやり返してやると必死に伸ばすリィンの腕をクロウが難なく捕まえて押し問答になったり、やがて何をこんなに必死になっているんだろうと我に返って馬鹿馬鹿しくなって笑いがこみあげてきたり、リィンが笑い出せばクロウもつられて笑い出し収拾がつかなくなったり。そんな事をしている内に、テレビからひときわ大きな歓声が上がった。

「ん?」
「おっ、始まったか?」

はたと正面を見れば、何かのカウントダウンが画面いっぱいに始まっている。何か、なんて今日の日付と時間を考えれば一目瞭然だ。むしろこの時のためにこうして起きていたのだ。クロウと顔を見合わせたリィンは、慌ててクロウの腕の中から抜け出した。今度は邪魔される事は無く、無事隣に座ることが出来た。
何となく正座でかしこまれば、クロウも倣って正座で座り直す。今ようやく聞く者を得たテレビから流れる声たちが、だんだんと小さくなる数字を読み上げる。部屋の壁に掛かっている時計も同じ時間進む。時は目前だった。
10。盛り上がり続けるテレビの向こう。
9。
8。変わらず湯気を噴き上げるヤカンの音。
7。
6。リィンは向かいの紅色を見た。
5。クロウも正面の薄紫を見た。
4。
3。重なり合う視線が。
2。
1。互いに、微笑んで。
0。


「「あけまして、おめでとうございます」」


盛大に新年を祝う遠い声をBGMに、二人そろって頭を下げて。顔を上げて視線を合わせて、笑い合って近づいて。

「……今年も、よろしくな」
「こちらこそ、だ」

去年と同じように言葉を交わして、そっと。触れるだけの口付けを。
来年も、再来年も、その次も。ずっとずっと、今日と同じように二人で年を越せますようにと、願いながら。誓いながら。

これからも、共に。




大晦日





14/12/31


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