暑い。何故だかとてつもなく暑い。確か今はれっきとした冬の季節で、眠る前もちらほら窓の外で雪が舞っていたのを覚えている。この地で依頼をこなす間に借りている安宿の壁は薄く、ベッドに潜り込んでもなかなかここまでの熱を感じる事は無い、はずだった。それなのに現在リィンは、特に左を向いて寝転がっている前面に強烈な暑さを感じていた。寝苦しくて仕方がない。体感時間的に、いつも起きる時間よりも少し早い頃だろう。中途半端な時間に目を覚ましてしまった事を、目を瞑ったまま惜しく思う。
寝返りを打とうとして、リィンはこの身に感じる暑さの理由の半分を知った。体が動かない。正面から両腕を回しリィンをしっかりと抱き込んでいる人物のせいだ。寒い日は大体、今と同じ体勢で朝を迎える。暖かいし嫌ではないしむしろ(本人には言わないが)嬉しいし、これは別にいい。では今まで感じた事のないこの暑さの理由のもう半分は、一体何なのか。
そっと瞼を持ち上げたリィンの目の前には予想通り、閉じられた銀色の睫毛が至近距離にあった。抱き締められているのだから当たり前だ。目が覚めたすぐに拝むには整いすぎてドキドキするその顔は、どうやらまだ夢の世界にいるらしい。未だ目覚めぬ様子に、リィンはいつもほっと安心すると同時にどうしようもない喜びを感じる。今まで生きてきた境遇のために大変気配に敏いこの男が、自分と一緒にいる時はこんなにも安心しきった寝顔を見せてくれる。その事が何よりも嬉しかった。
(……って、クロウの寝顔を見つめている場合じゃないっ)
やがてハッと我に返ったリィンは腕の拘束から逃れ、身を起こそうとした。さすがに起こしてしまうかもしれないが、この暑さの原因を突き止めなければここから安眠は出来ない。心を鬼にして動かしかけた腕は、しかしその前にぴたりと止まってしまう。
もふっとした、予想外のものに毛布の中で触れてしまったためだ。
「……えっ?」
思わず声が漏れ出てしまったのも仕方がない。一切予想だにしていなかった感触に思考が止まる。人間が持ち得るはずのない、毛の長いふさふさの何か。狭いベッドをわざわざ二つくっつけて共に寝ている二人の間、わずかにあいた隙間にこのふさふさの何かが挟まれている。青ざめながらリィンはようやくいつもと違う暑さの原因を全て察した。この手に触れるふさふさからの、生きた熱に違いなかった。そう、これは生き物だった。
そんな、まさか。いくら何でもこんなしっかり抱き締めあう間に潜り込まれて、どちらも気づかない訳が。というか本当に何なんだこれは。
混乱しながらもリィンの手はふわふわの輪郭を恐る恐る辿る。なんだかふさっとしたものを通り過ぎて上へ辿っていくと、つるりと柔らかい部分に行きつく。覚えのある感触だ。指先で触れるだけだった所を、勇気を出して手の平でぺたぺた触れば予想は確信に変わる。ああこれは人の肌だ。しかももちもちと気持ちが良いこの肌触りは、幼い子供のものに違いない。そっと撫でてみれば、触れている肌が小さな肩であると否応なしに分かる。さらに腕を上へ持っていけば、もっとふくふくとした気持ち良いほど柔らかな肌に触れた。これは頬だろう。一瞬訪れた摘まんでみたい衝動をやり過ごして、確認のためにさらに上へ。最初のふさふさには敵わないがそれでも常人よりは柔らかい髪の質感。どうしてかやけに馴染みのあるその跳ね具合に感じ入りながら最終的に辿り着いたのは、ぴんと尖った二つの何かだった。
あっこの感触覚えがある。リィンの思考は一時だけ故郷へ飛んだ。冷たい雪の中でも毛布のように暖かかった、シュバルツァー家自慢の番犬が思い出の中こちらへ駆けてくる。子供が戯れに軽く耳を引っ張っても、首を振るだけで吠える事はなかった利口で優しい猟犬だ。そんなバドの耳とこれは良く似ていた。とても懐かしい。思えば最初のふさふさも、まるで動物の尻尾のような形状をしていた……。
……つまり。人と、犬の感触が、同時にする?
「え、ええええっ?!」
「うおっ?!何だ!」
思わず上げてしまった大声にクロウがびくっと目を覚ます。耳元で叫ばれて起きないはずがない。目覚めたばかりの頭はしかしすぐにフル回転し始めたようで、目の前で身動きとる事も出来ずにあわあわと大混乱な様子のリィンと手元の見知らぬ温度とを瞬時に認識し、
「何だ、これ」
何の躊躇もなくがばりと毛布をめくった。度胸あるなとリィンが感心する暇も無かった。
冷たい夜が過ぎ空がようやく白んできた時間、薄暗い室内でそれでも淡く輝く生き物がそこにいた。リィンとクロウのちょうど腹のあたりに、窮屈そうに体を丸めてくうくう眠る、推定五歳ぐらいの男の子。きっと先ほどリィンが触ったせいで余計にぴょんぴょん跳ねている髪のその色が、眠る子供をどこか神聖な生き物のように見せていた。闇の中でもはっきりと分かるそれは、白銀。月でも出ていれば、その光を一心に集めて染め上がった色だと言われて信じてしまいそうな、純粋無垢な白だった。リィンは思わず息を飲む。例えば男の子の特徴がこの白だけだったならばここまで驚かなかった。リィン的には負けないぐらい美しい銀色を毎日間近で見ているお蔭で、多分普通に綺麗だなとしか思わなかったはずだ。言葉を失うほどびっくりしたのは、主に別な二点によるものだった。
一つは、子供の持つ白がその髪だけでは無かった点。さっき思い浮かべたバドの幻影がある意味間違っていなかった証拠だった。たまにぴくぴくと動いている、男の子の頭部からぴょんと生えた二つの犬耳。身を守るように小さな裸の体に巻き付いた、真っ直ぐふさふさな犬の尻尾。どちらも髪の色と同じ白だった。いいやいっそ色など関係ない。人間の子供からそれらがどう見ても直に生えている事こそが何よりも異常だった。
そして残るもう一点は、突然ぬくもりを奪われてむむむと小さく唸る子供の、その顔である。目を閉じたままのとても幼い顔だったが、これは。
「……何だ、これ」
さっきと同じ言葉を呟いて、上半身を起こしたクロウが男の子をじっと見下ろす。その間もリィンは横たわったまま動けない。じわじわと心を侵食してくる嫌な予感に、今からでもまた眠り込んでしまいたかった。
じっくりと眺めまわす時間が過ぎた後、おもむろにクロウの声が飛んでくる。
「なあリィン」
「……何だ」
「こいつ、お前に良く似て」
「似てないっ!」
反射的に叫んだ言葉が嘘であることは誰よりもリィン自身がよく分かっていた。それでも否定したかった。いつの間にか現れた犬耳と犬尻尾をもつ真っ白な子供が自分にそっくりだなんて、悪夢以外の何ものでもない。しかしそんなリィンの心を知ってか知らずか、多分知っててクロウは男の子の頬をつつきながらリィンを見た。
「んな事ねえって、見ろよ。髪の色は正反対だし意味不明なもんが生えてっけど、同じ歳ぐらいのお前と生き写しのレベルだろ、こいつ」
「そ、そんな事ない。そもそもクロウはその子ぐらいの歳だった俺の姿なんて知らないじゃないか」
「いや?前に写真で見た事あるが」
「えっ何で?!」
「ユミルに何回か行ってるだろ?その時お前の親父さんから昔話と共に何度か見せられてよ、いやー、可愛らしいエピソード満載で熱く語られてな、あの時は徹夜を覚悟したほどだったぜ」
「父さんっ……!」
知らない間に何息子自慢なんてしてるんだあの人は。今すぐユミルに飛んで帰って問い詰めたい気分だったが、そんな事をしている場合ではない。リィンもそろそろと起き上がって、間近で男の子を観察してみた。
……うん、よく見れば見るほど幼い頃の自分と瓜二つだ。絶望と共にリィンは認めた。認めた所でこの子供の正体はさっぱり分からないのだが。
「まあ、姿かたちはとりあえず置いといて、いつの間にこいつは現れたんだ?昨日の夜は確かにいなかったはずだよな」
「いる訳ないだろ……。俺がさっき目を覚ました時にはすでにこの状態だったから、俺たちが眠っている間に潜り込んできたとしか思えないんだが」
「眠っている間に、ねえ」
クロウが非常に納得がいかない様子で顔をしかめる。心を許せる相方と共に眠っていた状態とはいえ、こんな子供に懐へ忍び込まれたことがよほど悔しいのだろう。リィンもほぼ同じ気持ちを抱いていたので、似たような表情でじっと男の子を見下ろす。
とその時、穏やかに閉じられていた男の子の瞼がふるりと震えた。ハッと見守っていれば、寝息を止めた男の子がゆるゆると覚醒する。ようやく覗いた瞳の色に、思わずリィンはクロウと顔を見合わせていた。それはまるで純粋なルビーのように輝く、深い真紅の色をしていたのだ。
白銀の髪に、赤の瞳。二人の脳裏には同じ色を持つ人物の姿が自然と浮かび上がっていた。
「この子の、この色……」
「ああ、こいつは……」
「クロウと同じだな」
「そうそう俺と同じ、ってそっちかよ!」
何故かつっこまれてリィンは目を瞬かせる。分かっていない様子に、クロウは頭を押さえながら仕方なさそうに話してくれた。
「や、まあ確かに俺の色とも似てるけどよ。どっちかってーとお前が覚醒した色とそっくりそのまま同じだろうが、容姿的に考えても」
「え?……あ、ああ、そっか」
言われてみれば確かにそうだ。リィン自身が自分の色を見る機会はあまり無いが、確かに己の身に眠る力を解放した際変貌する色とこの子供はそのまま同じだ。顔がリィンそっくりなのだからまずそちらを想像したクロウの方がおそらく正しい。リィンは少しだけ恥ずかしくなりながらも反論した。
「しっ仕方ないだろ!俺自身はクロウの方が見慣れているんだから、そっちを想像してしまっても!」
「それにしてもなあ」
「だって、この子があまりにも綺麗な白と紅を持っているから……。暗闇の中でもこれほど美しく見える色を持つ人物なんて、俺はクロウ以外に知らないし。目を覚ましてからこの子に気付くまでずっとクロウの顔を綺麗だなって考えながら見ていたから、もうそれしか思い浮かばなくて……」
「………」
にやにや笑っていたはずのクロウがいきなり黙り込んだ。あれっと思って見てみると、胡坐の上に肘を立てて顎を乗せ、口元を隠しながら明後日の方向を向いている。突然そっぽを向かれて、リィンは困惑した。
「クロウ?」
「はあ……さすがに慣れたつっても起き抜けの天然惚気はこう、心臓に悪いっての……」
「は?のろ……?」
「何でもねえよ。今はほら、こいつだこいつ」
露骨に話を逸らされた。いつの間にか両手をついて起き上がっていた男の子は、座り込んだまま眠そうな瞳でぼーっと二人を見ている。クロウが頭を軽くぽんぽん叩いても、ほぼ無反応だった。まだ寝ぼけているのか。身をかがめて視線を合わせ、試しに呼びかけてみる。
「え、えーっと、起きてるかー……?」
ぱたりと尻尾を一振りし、ぱちりと瞬きをして視線を合わせてくるが、男の子からの返事は無い。そのすぐ横からクロウも覗きこんで、目の前でひらひらと手を振ってみせた。
「おいこら、こっち見ろー。この美男子が何者か答えられっか?」
「いや、そこは初対面だからムリだろ……」
ぱちんとウインクをして己を指さしてみせるクロウにリィンは呆れた。どうせならこの子供の名前を答えさせるのが筋だろう。今度はクロウにゆっくり視線を向けた男の子は、しばらく見つめた後ぱくっと口を開けた。リィンとクロウが顔を並べて目を見張る中、注目の第一声が放たれる。
「くろう」
「へっ?」
「えっ?」
同時に上がるあっけにとられた声。ぱたんとまた一つ尻尾を揺らした男の子が、今度は右腕を持ち上げてクロウを指さし、もう一度はっきりと口にする。
「くろう」
間違いない。男の子はクロウの問いに答えたのだ。正解!と茶化すような言葉さえ飲み込んで、クロウは自身の頭に手をやった。リィンはクロウへ視線を移して、無いとは思うが確認してみる。
「この子、クロウの知り合いだった?」
「んな訳ねー、けど名前は合ってんだよなあ。おいチビ、それじゃこっちは誰だよ」
クロウがリィンを指さすと、素直に視線を移動させた男の子が事も無げに答える。
「りぃん」
もちろんこちらも正解だ。訳が分からなくなってリィンは頭を抱える。
「な、何で……?!」
「まあまあ落ち着け。そんじゃ聞くが、お前さんの名前は?」
クロウが尋ねれば、男の子は自分を指さしてかくりと首を傾げた。そうそうと頷いてやれば、やはり表情は変わらぬまま耳をぴくりと動かして、当然のように答えた。
「りぃん」
「「………」」
あ、やっぱりそうくるんだな。心でつぶやいて、しかしやっぱり認めたくない気持ちが強くてリィンの頭は真っ白になる。髪ではない思考の事だ。さすがのクロウも何と言っていいのか分からない様子で、がりがりと頭を掻いた。だんだんと明るくなってくる窓の外とは対照的に、部屋の中には途方に暮れた暗い気配が漂う。
「……なあ、そういやお前、胸の所の痣はあんのか?」
ふと、クロウが尋ねてきた。突然の質問に意図がつかめないまま、とりあえずリィンは寝間着の襟首を引っ張って自らの胸を確認する。いつもと変わらない形でそこにある事を確認して、頷いた。
「あるけど」
「そうか。いや、こいつがもし想像通りの存在だったらもしかしたら痣も消えてんじゃねーかなって思っただけだ」
「ああ……そう、だな。確かにもしそうだったら……そう、だったらどうしよう。認めたくないんだけどもしそうだったら……俺は一体どうしたら……」
「ま、まあそんな深刻に考えんなよ。いや本当は考えた方がいいのかもしれねえけどよ、とりあえず腹減ったし飯でも食って落ち着いてから考えて」
「ごはん」
思い出したかのように零れ落ちた幼い声が、二人の会話を止めた。ぱたぱたと白銀の尻尾が揺れている。先ほどまでぼうっとして感情を表にほとんど出していなかった顔が、色を乗せてじっと一点を見つめていた。その表情に名前を付けるとするなら……期待、だろうか。男の子の視線を追ったクロウの目が、リィンの目とバッチリ合う。
「……え?」
「おなかすいた。りぃん、ごはん」
自分が見られている事にリィンが気付いた時には、すでに子供は動き出していた。元々狭いベッドの上、離れた距離に座り込んでいた訳ではない。むしろ限りなく近い場所で話し込んでいたので、僅かに寄ってきた男の子に寝間着の裾を掴まれて捲られるのは時間にしてほぼ一瞬の出来事であった。気付いた時には白い頭が、リィンの胸元に潜り込んでいた。
「はっ?!え、ちょっと何やって……ひっ?!」
慌てて子供の頭を押し返そうとしたリィンの動きがギクリと止まった。加勢に入ろうとしたクロウも何事かと手を止めてしまう。
「ど、どうした?」
「や、この子が、いきなり胸元に、吸い付いて、っん」
「……は?」
胸元に、吸い付いて?
思考を停止させながらクロウの視線はしっかり男の子とリィンに向けられる。半分捲り上げた寝間着に隠れながらも男の子が唇を寄せているのは、最初にぱっと思い浮かんだ場所とは少し違った。胸元で間違いはない。小さな口をすぼめて、まるで赤子が母親を求めるようにちゅうちゅう吸い付いていたのは、まさに先ほど話題にしていたリィンの痣の上であった。
「な、んでそんな、ところにっ、ふぁっ」
震える腕を持ち上げて男の子を押しのけようとするリィンだったが、突然の事に上手く力が入らないうえ子供の力は想像以上に強かった。抱き着いた腕は離すものかとしっかりがっちり胴に巻き付いていて、肩を持って押しのけようとしてもびくともしない。軽く見下ろせばご機嫌にゆらゆら揺れる尻尾と、気持ちよさそうにぴくぴく動く耳が見えた。ごはん、とこの子は言っていた。ただ痣に口付けているだけなのに、まるで本当に美味しいご飯にありついているかのような喜びようだった。
いや、この子供には今、自分の中の何かを本当に食べられているのかもしれない、とすぐにリィンは思い直す。男の子にちゅうと吸われる度に、何も出るものは無いはずの痣から目に見えない力のようなものが少しずつ抜き取られている、そんな得体のしれない感覚が絶えず襲い掛かってきていた。初めて味わう、逃れることが出来ない未知の感覚に自然と息が上がる。
「んやっ、も、やめっ、ひぅ」
「……リィン」
「く、くろ……?」
ただひたすら男の子から与えられる刺激に耐えるしかなかったリィンの耳に、静かな声が届く。キャパシティを超えた展開に涙目になっていた瞳をはたりと向ければ、じっと注がれる紅色の視線と出会った。何だか複雑そうな顔で黙り込んでいたクロウが、腕を伸ばしてガッシと男の子の頭を掴む。ああ、助けてくれるのかと、乱れた呼吸の中でほっと息をついた。
「クロウ……助け、」
「おいこらチビ、てめえ……こいつの痣を弄って乱れさせるのはオレ様だけの特権なんだよ!そこをどけ!」
「っ?!?!あっ朝っぱらから何言ってんだこの馬鹿ー!」
「ぐふっ?!」
八葉一刀流八の型、無手。すなわち掌底。座り込んで力の抜けていた状況だったにも拘わらず、今の状況の全てを頭の中から吹っ飛ばして恐ろしい速度で繰り出されたそれを、思いっ切り腹に受けたクロウがベッドから転げ落ちる。バタンドタンと豪快に響いた音にびくりと反応した男の子が顔を上げ、胸元から苛まれていた感覚から解放されたリィンが安堵の息を吐き出す。同時にこの隙を見逃さず、すぐさま立ち上がって男の子から距離を置いた。
「あ……ごはん」
「ご、ごはんじゃない!そもそも、人にいきなり吸い付くものじゃありません!」
「だって、おなかすいた」
きゅうん、と鳴き声が聞こえてきそうな勢いで眉を下げ、耳を伏せ、尻尾を垂れさせる男の子にリィンがぐっと呻く。顔はそのまま自分のものであるが、だからと言ってこの子供が自分そのものだとは思えない。つまりは見ず知らずの子供をいじめているような気分になって、とても困った。
「ごはん、ちょうだい」
両手を伸ばして、懇願するように瞳をきらきら輝かせながら訴えてくる幼い顔。ベッドの上に立ったままじりじりと後ずさりながら、リィンは途方に暮れた。そんな事言っても、もうあの奇妙な気分に浸りたくはないし、でもお腹を空かせている子供も不憫だし。ぐるぐると葛藤が頭の中で渦巻いて、身動きが取れなくなる。そんなリィンへの助け舟は、ベッドの下からやってきた。
「よし、朝飯食うぞチビリィン」
「う?」
男の子がリィンに迫る前に、後ろから伸びてきた腕に頭を固定される。どうやら復活してきたらしいクロウが、床から這い出てきて男の子に笑いかけた。
「と、その前に。その格好何とかしねえとな。お前部屋の中とはいえ真冬の季節によくそんな恰好でいられたなあ」
感心するその口ぶりに、改めて男の子を見下ろしたリィンも納得して頷く。そういえばそうだ、今まで必死だったから忘れていたが、男の子は何故か裸でここに現れたのだ。まるで生まれたての赤子のように。……いや、あまり考えない考えない。
頭を掴まれてクロウを振り返った男の子は、きょとんと瞬きをした後、思い出したかのようにくしゅんと可愛らしいくしゃみを落とす。
「……さむい」
今更呟かれたその言葉に、顔を見合わせたリィンとクロウは思わず気が抜けて笑ってしまった。窓からはいつの間にか昇りきっていた太陽が、部屋の中に優しい光を差し込ませている。
そうだ、まずは着替えて、朝ご飯にしよう。
「!おいしい」
「そうかそうか、良かったな」
クロウお手製のフレンチトーストを頬張った男の子が、もぐもぐ咀嚼して飲み込んだ後の一言感想がそれだった。腰掛けた椅子からはみ出る尻尾がぱたぱたと嬉しそうに揺れているので美味しいのは確かなのだろう。コーヒーの入ったマグカップを手にやや緊張して男の子の様子を見守っていたリィンの肩から、ほっと力が抜けた。
「良かった……普通の食べ物を食べる事も出来るみたいだな」
「おう。ま、これでお前の痣にかぶりつく欲求が満たされるのかはまだ分かんねえけどな」
「ううっ……」
がくりと頭がテーブルに落ちる。クロウの言う通りなので反論は出来ない。今の所男の子は一心不乱にフレンチトーストを食べ続けているので、今はただ淡い期待を抱いておくしかない。
ほら、とクロウから皿を渡される。自分の分のフレンチトーストを受け取って、とりあえず食べることにした。二つに切られた片方に、鬱憤が溜まっていた分思い切ってかぶりつけば途端に卵の優しく甘い味が口いっぱいに広がる。美味しい。無理矢理着替えさせられて若干不機嫌な様子だった男の子が、一発で機嫌よく尻尾を振り始めた気持ちがよく分かる。
今の男の子の恰好は、お世辞にも良いものとは言えない。何せ五歳頃の子供の服など、リィンもクロウも持ち合わせている訳が無かったのだ。仕方がないので二人のシャツや上着を腕まくったり結んだりで何とか丈を調整し着せて、下は靴下を何枚か履かせて妥協した。そもそも尻尾の存在のせいでまともなズボンは履かせられないだろう。
「さーて、これからどうすっかねえ」
席について大きな一口を飲み込んでから、クロウが男の子を見やった。半分食べ終わった白銀の頭はミルクの入ったマグカップを両手で持ち、こくこくと美味しそうに飲んでいる。どうやらちゃんと飲める温かさにして出したらしい、面倒見が良い男をリィンは不安げな表情で見つめた。
「なあ。この子は……俺の力に当たる存在だと思うか?」
あえて言葉にしてこなかった予想を、ついに口にする。事実それしか考えられなかった。人一倍気配に敏い二人の間にいつの間にか存在し、幼い頃のリィンそっくりの風貌で、普通の人間には持ち得ない動物の耳と尻尾がある。……いや、耳と尻尾は正直この力とあまり関連付けたくはないのだが。どう見ても犬だし。
食事の手を止めたクロウは、男の子に向けていた微笑ましげな顔を真剣なものに変えた。
「まあ、そうとしか考えられねえよな。どんな力が働いてるか知らねえけど。何か予兆とか無かったのか?」
「いやそれが全然……夢でも見ていたのかもしれないけど、今となっては覚えていないし」
「そうか。……そういや本人には聞いてなかったな。おいチビリィン、お前一体何なんだよ」
クロウがおもむろに直球で尋ねる。男の子はマグカップから顔を上げて、口の周りについたミルクをぺろりと舐めとってからこてっと首を傾げた。さっきも答えただろうと顔に書いてある。
「りぃん」
「……いや、名前は分かったから。お前はリィンの何なんだっつー事」
「おれは、りぃん。それいがいのなにものでもない」
おお、何か小難しい事も喋るんだ。リィンは他人事のように感心した。頭がマヒしているともいう。困ったように黙ったクロウは、さらに質問を続けた。
「じゃあお前、何のために出てきたんだよ」
「?」
「んでもって、いつ帰るんだ?」
「??」
どこから来た、という質問にはリィンを指差されて終了しそうだったので、あえて避けて尋ねてみたのだが。ことごとく首を傾げられて終わってしまった。はあ、と二人揃って重い溜息。一人分かっていない男の子が気にする事無く残っていたフレンチトーストを頬張る作業に戻る。こうして眺めている分には可愛らしい、ただの子供なのだが。
「……まあ今は、様子を見てみるしかねえか?」
元気よくぴんと立つ男の子の耳を摘まみながら、クロウが諦めたように言う。迷ったリィンも結局は頷くしかなかった。解決策が一切分からないのだから仕方がない。まさか得体が知れないからと放り出すわけにはいかないのだ。
「ごめん、クロウ。変なことに巻き込んでしまって……」
「何でお前が謝るんだよ」
「だってこの子はどう見ても、俺が原因でここにいるとしか思えないし……」
「んな決めつけんなって。もしかしたらお前だけじゃなく俺だって何かしら関連してるかもしれねえじゃん」
「どこが?」
尋ねれば、にやりと笑われた。この笑顔を浮かべる時のクロウには注意しなければならない。こちらを全力でからかってやろうとしている時の笑みだ。一気に警戒心をあらわにするリィンに、頬杖をついたクロウは片目を瞑った。
「俺色なんだろ?こいつ」
「……へ?」
「俺によく似た髪と目の色に、お前によく似た顔。もしかするともしかするんじゃね?」
「それは一体、どういう……、?……!!」
クロウの言いたい事に気付いてしまったリィンの顔が、一気に真っ赤に染まる。がたっとわざとらしく音を立てて立ち上がったクロウが、かちこちに固まっていたその手をテーブル越しに掴んで作ったような声で訴えた。
「何でもっと早く言わなかったんだリィン!ちゃんと言っといてくれりゃあ俺はいくらでもこいつを認知して責任とってやるってのに!むしろ今からでも」
「業炎撃っ!」
「おっとお!」
素手でクラフトを繰り出した拳を、クロウがけらけら笑いながら避ける。怒りと恥ずかしさに湯気が立つほど頬を染めたリィンが殺意さえも込めて睨むが、もちろん目の前で飄々としている男に効いているはずが無い。
「どうして!俺が!産んだ事になってるんだ!」
「いやだってよ、役割的にお前のが」
「龍炎撃!!」
「うおっ自分で話題振ったくせに!なあチィ、母ちゃん怖いからこっち避難しとくぞ」
「母ちゃん言うなっ!」
揉めている内にぺろりと皿を綺麗にしていた男の子を抱き上げて、クロウが狭い部屋の中を逃げ回る。最初はびっくりしていた男の子もクロウに抱き上げられて移動するのが面白かったのか、尻尾を振って楽しそうにしがみついている。少しだけ後を追いかけたリィンだったが、次第に馬鹿馬鹿しくなってぐったりとテーブルに突っ伏した。さっきまで深刻に悩んでいたのが嘘のようだ。
「ククッ、ま、何もせずに現れたんだからある日何もなくとも帰るだろうよこいつも。なあチィ」
「うん」
「ホントに分かってんのか?しかしとりあえずは服だな、服。片づけたらさっそくチィの服買いに行くぞ」
「おー」
何故か意気投合した様子のクロウと男の子が仲良く会話している姿を、リィンはテーブルに顎だけ乗っけて見つめた。最早何も言う気力が沸かなくなっていたが、一つだけ気になった事を聞いてみる。
「……なあ、そのチィって何だ?」
いつの間にか肩車をしていた二人分の緋色の目の、片方から回答は返ってきた。
「こいつの名前。チビのリィンで略してチィ。愛嬌あっだろーどうよ、チィ」
「うん」
クロウが下から呼びかければ、勝手に愛称をつけられた男の子チィからはまんざらでもない返事が返る。今まで寝起きだからか何なのかほとんど表情を出さなかったその顔が、まるで笑ったかのように柔らかくて。
お前の尻尾くすぐってーと呑気に笑う相方と、楽しそうにぎゅっと銀の頭にくっつく自分そっくりの子供の微笑ましい姿に、まあいいか、とリィンも現状をとうとう諦めた。
こうして二人と一人?の奇妙な共同生活は、幕を開けたのだった。
わんこアンサンブル
14/12/17
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